幼稚園の頃から通いはじめたピアノ教室に、憧れのお兄ちゃんが居た。名前は森田聖人(まさと)くん。名前の通り『聖人(せいじん)』のような人。
 いつも隅々までアイロンの掛かったシャツのボタンを一番上まで留めて、とても難しい曲をスラスラと弾くその姿に、私の小さな心臓は鷲掴みされて、レッスンで顔を合わせる度に頬が真っ赤に染まったのを覚えてる。

 初めてお父さん以外にあげたバレンタインデーのチョコレートの宛先は聖人くんだったし、発表会の時のお花も聖人くんにしか渡さなかった。彼がピアノ教室を辞める日は大泣き。それぐらい大好きだったの。
 だけど、
 

(……この人は誰だろう)

 深夜のファミレス。ドリンクバーで用意した薄いオレンジジュースをストローでずるずる啜りながら、私は目の前でハンバーグ定食を頬張る『不良』にチラリと目をやった。
 ハチミツ色に脱色された頭髪。カチューシャで無造作に後ろに流している前髪から、ぴょこんと一房だけ額にかかってる。その先端が、『不良』が顔を動かすたびにひょこひょこと(うごめ)いていて、まるで別の生き物のようだなって。そんな風に観察してたら、鋭い三白眼が私を見上げて首を傾げる。

「ひゃんひゃよ」
「……聖人くん、食べながら喋るのは汚いよ」
「……食べねぇの?」

私の指摘に、聖人くんは口の中の挽肉をゴクンと飲み込んで、改めて問うた。
 遠い昔、鍵盤を叩いていたその綺麗な指先は私の目の前のパンケーキを指す。放置されてバニラアイスがドロドロに溶けてふやけて吐瀉物みたいになったそれ。
 自分で頼んでおきながら、もはや口に含む気にはなれなかった。だけどそれを悟られたくなくて「食べるよ」って言って皿を手繰り寄せ、ナイフとフォークで手術するみたいに切り刻んだ。
 気分は外科医か、もしくはシザーハンズ。

「おばちゃん、心配してたぞ」
「……いいんだよ、心配させとけば」

 急に親の存在を記憶の片隅から引っ張り出されて、思わず出た言葉は素っ気ない。自分の口からこんなに無機物みたいな冷たいものが産み出されるなんて、少し驚いた。自分でいうのもなんだけど、私はどちらかというと『優等生』に分類される方だと思う。だから聖人くんも、少し驚いたように目を開いていた。だけどすぐに口端を上げて、笑う。尖った犬歯がチラリと見えた。
 
「おーおー、言うじゃねぇか」
「あのね、だいたい、おじさんとおばさんに散々苦労かけた聖人くんに言われたくない」

 私が唇を尖らせてそう言えば、聖人くんは笑顔から一転、ちょっと困ったような表情になった。思いっきり図星だからだ。だからそれきり口を閉じて、彼は箸を動かすことに集中することにしたらしい。カチャカチャと食器と箸、そして私が操縦するカトラリーの音があたりに響いた。

 私の五才年上の聖人くんが、中学生の時に『ちょっと荒れた』のはご近所さんだったら誰でも知ってる話だ。髪を染めて(その頃はなんとピーマンみたいな緑色だった)コンビニの前でよく屯してた。
 私のお母さんとお父さんが「森田さんのところ、大変みたいねぇ」なんてコソコソと夜中に話してたのを覚えている。なにが大変だったのか、それは今でも私の知る話ではない。だってあの当時私は小学校三年生だったのだ。そんな子供に親が仔細を話すわけない。
 それにそんな子は周りにありふれて存在していた。私たちが住んでた街は決して治安がいいとは今も言えないし、それが『普通』だった。

「……何で俺だったんだ?」
「……なんでだろ」

 聖人くんはお茶碗に残ったご飯粒をひとつひとつ丁寧に摘んで、お皿に残る付け合わせの野菜も全部綺麗に平らげた後、ようやく口を開いた。私はその質問に首を傾げて、もう一度ストローに口をつけてジュースをズルズルと啜る。
 
 自分でもよくわからない。なんで聖人くんだったんだろう。だけど高校卒業後の進路のことで親と喧嘩して、家を飛び出して、行くあてもなく国道線沿いのファミレスに飛び込むように入店してからスマートフォンと睨めっこしてた時にーーふと、聖人くんと会いたくなったのだ。
 
 だから、ピアノの先生に連絡をとって、森田家の電話番号を聞き出し、躊躇うことなく教えてもらった番号に電話をかけていた。対応したのは聖人くんのお母さん。私が名前を名乗れば、驚いたらしいことがわかった。少しだけ間があったから。当然だ。小学校卒業を機に聖人くんがピアノ教室を辞めて以来、私と聖人くんに10年近く接点はなかった。

「聖人くんいますか」
「……ちょっと待っててね」

 淡々と事務的に彼の名前を紡いで、保留音を聞きながら彼の登場を待った。こんな時間に…と嗜められることも、聖人くんは居ないという言葉もなかったから、私は賭けに勝ったのだ、と陽気な音楽を聴きながら内心安堵していた。それから数秒後、「……どうした?」って私の名前を優しく呼んでくれた彼の声を聞いた瞬間、私の頬をポロリと小さな雫が流れ落ちたのは……聖人くんはきっと知らないだろう。

 通話を終えて三十分後、ファミレスにやってきた聖人くんは、派手なスカジャンを着てさっき形容したようにハチミツ色。やっぱり『不良』だ。でもピーマン色よりはいいか。心の中で呟いた。
 私の好きだった『聖人』の見る影もない。傍からみたら私たちどう見えるんだろう。……援交には見えない筈だ。多分。せめてカップルがいい。家出少女とは周囲に知られたくなかった。だって恥ずかしい。赤く腫れた瞼の原因を目の前に座る聖人くんになすりつけておきたかった。

「今日は帰りたくない」

我ながらとっても陳腐な台詞だ。だけど気づけば私はそれを口に出していた。
 聖人くんは気難しい顔をして私のことをジッと見つめている。どれぐらいそうしていただろう。聖人くんは私の意志が揺るがないことをようやく悟ったらしい。
 だからジャンパーのポケットからスマートフォンを取り出して、それを徐に操作し始めた。私は相変わらず皿の上のパンケーキを木っ端微塵に切り刻みながら、素知らぬふりをする。
 
 日付は「今日」から、「明日」へ。でも実感はない。地続きの境界線。店内には、気怠げにテーブルを片付ける店員。ネクタイを緩めてノートパソコンと睨めっこするサラリーマンに、おしゃべりに花を咲かせる大学生。ファミリーレストランなのに、時間が時間だからか家族連れの陰はない。みんな私と同じように、家に帰りたくないんだろうか。ファミレスは、ファミリーレスの略かもしれないな、なんて。窓越しに見えるテールランプの河をぼんやりと眺めながら、考えた。
 どれぐらいそうしていただろう。とても長い時間に思えた。沈黙は苦手だ。トイレにでも行こうかと席を立とうとしたその時、

「いいってよ」

 ずっとスマートフォンと睨めっこしていた聖人くんが、顔を上げた。
 
「……なにが?」

 問いただすのは当然だろう。
 脈略もない『許可』の言葉は、何に対してのものなのか検討がつかなかった。訝しげに、聞く。そこにはほんの少しの疑心感。だけど聖人くんは、そんな私の不安には気づいてません。とてもいいことを今から伝えますって顔で、言葉を続けた。
 
「お前のこと泊めてやるって」
「……聖人くんの家?」

 聖人くんの提案に、安堵する。
 この人が、無理やり家に帰れと諭す人じゃなくて本当に良かった。やっぱり優しい。私の『救世主』。
 だけど、その『救世主』は「俺ん家じゃなくて」と首を振る。そして少し照れるように、でも真っ直ぐと言葉を紡いだ。
 
「俺のカノジョん家」

 その言葉を聞いた瞬間、フォークを握る指先に力が入ったことをきっと目の前の『救世主』--もとい『不良』は知らないだろう。
 だって気づかれないように反射的に「やった」って私は満面の笑みを浮かべてたんだから。

「良かったな」

 そう言って、まるで幼稚園児を可愛がるみたいに私の頭を撫で回す大きな掌。その暖かさを感じながら、私は心の中で小さくある歌の歌詞を暗唱していた。それは、どこかに連れて行って欲しいって、『使者』を望む歌。

--どうやらこの男は私の望む存在(それ)ではないらしい。

 幼く淡い初恋も憧憬も、そして下心も、全部奪っていった『不良』は、綺麗さっぱりした皿を目の前にして「ご馳走さま」と手を合わしている。
 
 きっとこの人のカノジョ(そのひと)は、私が世間一般の目に同調している間に、この人の外見に惑わされることなく、彼の中に染み付いたこういう部分を見失うことも見捨てることもしなかった人なんだろう。だから見知らぬ初対面の女を家に招くって選択が出来るんだ。

「お似合いだね」

 口から不意に漏れたのは、心からの本音。
 
「なにが?」
「聖人くんとカノジョ」

 私の言葉に、聖人くんは照れ臭そうに頬を掻いて微笑む。その表情は、私が彼の弾く曲を小さな手で拍手して褒め称えた幼い日に見たものと同じだったからーー私はグラスの底に残ったほぼ水に近いオレンジジュースと共に、恋心を腹の底へと流し込んだ。

--いつか『今日』と『明日』の狭間で、身動きが取れない私を救い出してくれる存在は現れるんだろうか。

 祈りにも似た嘆願は、夜の闇に消えたのだった。