朝に弱い私でも、今日はすっきりと目覚めることができた。
やらなければならないことがある。
コートを着て、私は外に出る。がちゃりと鍵の音が朝に響く。

_冬の海で見る朝日は絶景だよ

彼がそう言い、朝早くから私を連出し海へ行った記憶が懐かしい。
1年前の話だ。時間は矢の如し、とはよく言ったものだとしみじみ感じる。

冬の海風は乾いて寒く、マフラーを付けてこなかった事を反省する。
でも取りに行くのは時間が掛かるし、彼が居たら絶対に止めるだろうな。

_朝の海は時間との勝負だからね!

真っ白な吐息が広がる。
潮風を感じる。冷たくて、乾いた風。
去年もマフラーを忘れてきて、寒いと騒ぐ私に、彼はマフラーを巻いてくれたっけ。

_あとちょっと、あとちょっと

まるで誕生日のカウントダウンをする子どものように、ワクワクとドキドキを混ぜた声を弾ませる。
その時は呆れてたけど、今となっては懐かしく胸が締め付けられた。

そして、そのときはやってくる。

道を曲がれば、一面の海。深い藍色。
日の出に間に合ったことに安堵する。

ぎゅ、ぎゅ、という砂浜の音を懐かしみながら、足元に波が来る場所まで来た。
時間を確認する。日の出までまだ20分ほどありそうだった。
波を感じながら、潮を感じながら、静かな海の夜に身を委ねた。


彼は海が好きだった。でも、私が彼と海を見たのは、1年前の今日。
それが、最初で最後だった。
海に連れて行かれた。綺麗な朝日を見た。とてもとても、美しかった。
一面が海と太陽に包まれる中、キラリと光った指輪の姿が目の裏に浮かぶ。
結婚しよう、と彼は言った。大好きな笑顔を少し緊張でぎこちなくさせながら、確かに言った。
それに私は頷いた。
幸せだった。海が、祝福してくれていた。

でも、海は綺麗だけど、残酷だった。



私は海をまっすぐ眺めた。濃い青は、水平線がわからないくらいだ。
深海のように暗く、圧倒的な孤独感を醸し出している。
でも去年は、彼が居たから、全然平気だった。

ねぇ。
君も見てるかな。

嵐の日、仕事帰りに海に襲われた君も。
大好きな海に殺された君も、見てるかな。

忘れたわけじゃないよ、忘れられないよ。
でも、進まなきゃいけないんだ。
本当にごめん、でも、心から愛してた。嘘じゃない。

空が夜明け色に染まる。優しい色味だった。
海が穏やかに波打った。あの、彼を飲み込んだ荒れ狂った海とは大違い。

ねぇ、大好きだった。
でも、私は君より全然強くないから、涙が溢れそうになってしまう。
_立ち止まったままじゃ、駄目なんだもんね。


「_ここにいた」

ふと後ろから声がかかる。
振り向けば、眉を下げた友人_今の彼氏、遥が居た。
そして、婚約者でもある。

「ごめん」
「謝らなくていいよ」

遥も並んで海を眺めた。

「…結婚、やめる?」

ぽつりと遥が言った。
目線は海に向いてるけど、意識は私の左手に向いてるのが分かる。
まだ外せないでいる、一年前の指輪。

忘れたくない。
でも、進まなければいけない。
こうやって大切に思ってくれる遥は、私には勿体ないけど。
どこかさみしいけど、私の心は気づかぬうちに、遥でいっぱいだった。

「ううん」

朝が始まろうとしていた。海の奥が、透明に輝き出す。
淡い桃色の水平線、深い薄紫の海。
す、と私は息を吸って、左手の薬指を目の前に掲げた。
そして、指輪を外して、海に向かって大きく投げる。

え、と彼の声が聞こえる。
指輪は大きく弧を描きながら、宝石が淡い空を映し出しながら、海に着地して、沈んでいった。


この想い出が涙に沈んで、抜け出せなくなる前に。

涙で立ち止まって動けなくなる前に。


「ありがとーー!」

私は叫ぶ。届くかわからないこの想いを、この夜で終わらせるために。

「指輪、嬉しかった!幸せだった!」

涙が零れる。眩い朝日が涙に滲んだ。情けない涙声だけど、力いっぱいに。

「でも…!でも!遥と生きてくよ!」

気づけば、遥と手を繋ぐ。
遥も、海に向かって叫んだ。

「俺が…あなたの分まで幸せにします!」

海が二人を優しく包んだ。

あたりは淡い黄色と水色で満たされる。
新しい朝、新しい世界。
ここで、私は生きると、そう強く思った。

一年越しの、夜が終わる。