カーテンの隙間から眩しい光が入ってきて、目が覚めた。正確には覚めてしまったのだが。

真夏の日の出は早い。

夜に少しの隙間に気づかなかった自分を責めつつ、もう一度枕に顔を埋めて眠ろうと目を閉じた。
しかし。

今日は眠れなさそうで、ベッドサイドのスマホを見るともう少しで五時半だった。
「起きるか……」
エアコンが直に当たっていたのか、少し重たい身体を起こして小さく息を吐いた。

静かに廊下に出て洗面所で顔を洗ってから、キッチンへ向かう。

一般的な広くないキッチンに無機質に置かれている白い冷蔵庫の中は、自炊しているのか問われそうなほど、大したものは入っていない。
なにもできないと判断して、私は冷蔵庫をため息交じりに閉じた。

せめてもと、きちんとお湯を沸かして丁寧にコーヒーを入れる。
リビングに芳醇な香りが漂ってきて、私はそれを吸い込んだ。

その時、廊下で物音がして、トイレの水が流れる音がした。

ーー今日はいたんだ。

なんとなく、昨夜、気配を感じているような気がしていた。しかし、もちろん声をかけらることも、アイツが私の部屋に来ることなどなかった。

久し振りにゆっくりとコーヒーを飲み、支度をして仕事へ行こうと玄関へ向かう途中、ひとつの部屋の前で足を止めた。

「ねえ、今日の夜ごはんいる?」
新しくはない一般的な2LDKのマンションは、広くない上に私とアイツ以外誰も住んでいない。自分に声をかけられていることはわかっているだろう。

白いドアにゴールドのノブ。住み始めたころはここは私の寝室でもあった。しかし今は違う。

もう、何日間、彼の顔を見てないかわからない。記憶があるのは出かけていく彼の背中か、俯いているため後頭部のみ。

就職のために地方から東京にでてきて半年後から付き合ったはずなので、たぶん六年ぐらいだろうか。
しかし、そのうち半分は寝室は別だ。そしていつからレスだっけ……。
考えてもむなしくなるだけで、私は一応礼儀だからとノックをして、扉に手をかける。

「返事ぐらいして? 開けるよ?」

え?

嘘でしょ?ガチャガチャと音を立ててノブを回して唖然とする。

この部屋は鍵などついていなかったはずだ。
とうとう鍵を自分でつけたのか……。

その事実に、自分の感情がどんなものかわからない。悲しい気もするが、どうでもいいかと問われたらそれも嘘ではない。

複雑な気持ちのままな、私は玄関で靴を履くと無言で家を出た。


進藤朱莉、今年で28歳になる。肩より少し長い髪に、一応二重の瞳。
特に際立ったところはないが、卑下するようなところもない。濃いブラウンの背中までの髪は熱いので、アップにしている。
そして、たぶんまだ別れていない彼氏は、前田浩二という。海外との取引も多い商社の勤務で、生活スタイルが違うから一緒に住み始めたはずだが、すっかりすれ違って数年。
一緒に住まなかった方が、長続きしていたのだろうか。お互い嫌なところや、価値観の違いを知っただけのような気もする。
エレベーターを降り、目に入った集合ポストの中を確認しようと扉を開たが何も取らずに閉める。
ゴールドの縁取りがされた少し厚めの白い封筒には、きちんと筆で書かれた宛名が書かれていた。
ここ最近、見覚えがありすぎるものだ。

「またか……。今度は誰だろ……ね」
ここ最近、かなりの頻度で結婚式の招待状や、”子供が産まれました”そんな封書を見ることが増えた。
一緒に住み始めたころは、二十八になる前にはとっくに自分もその仲間になっていると思っていた。
しかし、現実は……

「あっつ」
マンションから外に出ると、ついその言葉が漏れる。まだ八時前というのに、太陽がジリジリとアスファルトを照りつけ、マンションから駅に向かうだけでも汗が滲む。
別に今すぐ結婚をしたいわけでもないし、仕事も楽しい。ITデザインの会社に就職して六年目、営業という仕事はやりがいもあるし、責任ある仕事も任せられるようになり、後輩もたくさんできた。

だから、このまま冷めた彼氏との現状を見て見ぬふりをして、この関係を継続すれば結婚という未来の可能性はまだあるはずだ。
お互い自由にしながらも、とりあえず配偶者を得られる。
実家は田舎で、母からはしつこいほどの結婚の催促があり、まだと答えれば、そんな人とは別れて見合いをしろ。
最近の母からの電話は、野菜を送った、もしくはその話以外にないため、電話に出るのも億劫になっている。

若いころの恋ならば、あんな彼氏の態度を見たら、すぐに別れを切り出していたはず。
でも、この年になり、次の恋をするのも面倒で、一から新しい関係を構築するのはそれなりに体力も気力もいる。だからと言って、結婚を諦めることもしたくはない。

そんなことを考えながら、いつも通り電車に乗り込んだ。朝のラッシュと節電で、車内は冷房が入っているかわからないほど暑い。朝から一日が終わったと思うほど疲れた気がする。

私の勤めるMEシステムは、主に大手企業のHPのデザインや、アプリの開発などを手掛けている会社だ。明るいオフィスは、各々一人一人のブースがあり、半個室のような感じで仕事ができる。

「おはよう、朱莉さん。あれ元気ないです?」
机にバッグを置いて、PCを開いていると声が聞こえて振り返った。
同じ部署の水野優希は、私の営業アシスタントをしてくれている一つ年下の後輩だ。付き合いも長いこともあり、デスクに着くや否や私の顔を見て問いかける。152㎝という小さな身長で、かわいらしい優希ちゃんだが、性格はサバサバとしていて裏表がない性格は付き合いやすい。

「おはよう、まあ。うん」

「その言い方、またあの彼氏何がなにかしたんですか? いい加減に別れた方がいいですってば」
なにもしないからとは言えず、適当に笑って見せる。レスにもなり会話もなくなったころから、優希ちゃんは別れた方がいいと言ってくれていた。

「まあ、ね。でもまだ可能性はあるかもしれないしね」

「可能性ってなんですか? あろうがなかろうが一緒にいても時間の無駄ですよ」
呆れたように言う優希ちゃんの言いたいことは百も承知だ。本当は自分でもわかっている。このまま付き合って万が一結婚したところで、本当にそれが幸せになれる確率なんて本当に低いだろう。でも……。
その一緒に住んでしまった今、お互い家を出るのも、新しい生活もするにもつき合う時よりパワーがいるのも事実だ。

「それより、資料できてる?」
ごまかすようにそう聞くと、優希ちゃんは「できてますけど……」とまだ言い足りないのか不満顔だ。

「おい」
そこに低い声がして、私は声の方へと顔を向けた。

「真木、なに?」
現れたのは、私の同期でありエンジニアの真木廉也。才能の塊と言われ、賞などもこの若さで取っている我社の稼ぎ頭だ。百八十㎝はあり、均整のとれたバランスの良い体形をしているが、仕事に神経を全部使っているのか、眼鏡にひげをはやし、足元はワンコインショップのサンダル。

「S社のこれ、なんだよ。納期を予定より二週間も早めるとか無理に決まってるだろ?」
バサっと企画書を私のデスクに置くと、真木は冷たい視線を向けた。
「そんなことわかってるから、頼んでるんでしょう?」
「は? いつお前に頼まれたよ」
「だから、今よ!」
私も負けじと言い返す。

「ストップ!!」
私たちの言い合いを、割り込むように優希ちゃんが手で、真木と私の物理的な距離を広げる。

「ふたりともやめてください!」
後輩の怒りに満ちた声に、私と真木は睨み合っていた視線を逸らすとお互いこれ見よがしにため息を吐く。

「一週間だ。それ以上は無理」
「わかった」
私だって無理を言っているのはわかっているが、こっちだって仕事なのだ。
すぐに戻って行く真木の背中を睨みつける。

「本当に朱莉さんと真木さんていつも喧嘩してますよね」
置いて行った真木の資料を手に取りつつ、優希ちゃんはぼやくようにそう言う。
「まあね、昔から」

同期で入社したてのころは、それほど接点はなかった。飲み会に行っても、真木はどちらかというと理系で固まり、いつも仕事の話をしていたし、私は営業の人たちと固まっていた。しかし、真木がすぐに仕事で頭角を現しだし、エンジニアの中でも中心人物になってからはこんな関係だ。

「ふーん、真木さんて人気あるのに」

「え? 真木が人気あるの? 確かに仕事はできるけど」

「ありますよ。かなり」

かなり??

「あの服装にで、自分にも他人にも興味がない真木が女の子から人気があるの?」

意外すぎて目を丸くして優希ちゃんに尋ねると、彼女は信じられないような表情を浮かべた。

「本当に朱莉さん、彼氏しか見てなかったんですね。真木さん、いつもはあんなんですけど、めちゃくちゃ有望株じゃないですか。エリートだし、身長も高いし、めっちゃイケメンだし。優しいし」

「イケメン……なの? それに優しい?」

信じられない言葉を聞いた気がして、支離滅裂に問うと、優希ちゃんは呆れたように私を見た。

「顔は好みがあるかもしれないですけど、真木さん優しいですよ。朱莉さんはもう少し他の男にも興味持った方がいいですよ! 仕事しますね」

そう言い捨てると、優希ちゃんは自分のデスクへと戻って行った。

あの真木が? 

イケメンかどうかと聞かれたら好みの問題だろうから否定はしない。でも優しい? 優希ちゃんはどこを優しいといっているのだろうか。

真木と直接仕事をするようになったのは、この三年。それまでは同期という意識程度だった。
もちろん、顔を合わせれば多少話もするし、同期で飲みに行く席で姿をみることはあったが、それ以上でもそれ以下でもなかった。
そしてチーフエンジニアとなった真木と仕事をするようになってからは、戦友のような感じだったし、男と意識したこともなかったと思う。

いや、真木だけではなく、優希ちゃんのいうように彼氏がいればいい、そんなことを思っていたのかもしれない。

真木のとなりに可愛らしい女の子を想像してみる。それは確かに意外とすぐに連想ができた。事務の女の子や、受付の女の子には確かに笑顔を向けているのを何度も見ていた。
結局、私だけ嫌われていて、ああいう態度になっているのだ。そんなことに気づかなくてもよかった気がする。ただでさえ、彼氏に女としての自信を木っ端微塵にされ続けているのに。

なんとなく憂鬱なまま、仕事をすすめてていたが、集中が足りなかったのかもしれない。

思った以上に仕事が残っていて、誰かに少し頼もうとして周りを見渡す。

「あっ、幸田さん」
二つ年下のスタッフを見つけて声をかけると、なにやら急いでいる気がして首をかしげる。

「あっ、何か急ぎありました? 子供が熱出したみたいで……」
そうだ、彼女は結婚をして、まだ小さい子供がいる。そして周りを見渡しても、残れるようなメンバーはいない。

「うんん、大丈夫。大したことないといいね」
「はい、ありがとうございます」
ペコリと頭を下げて帰っていく彼女に張り付けた笑顔を向けて見送った後、机に顔を埋めた。

その時、首筋に冷たいものが当てられて、「ひゃ!」と声が出てしまう。

「なに、その声」

その声と笑い方に聞き覚えがありすぎて、私は勢いよく振り返った。

「真木! ちょっとなにするの? 冷たいじゃない」
またもや文句を言いに来たのかと、臨戦態勢で臨んだ私だったが、何も言い返してこない真木を見上げた。

「ほら。これ飲め。顔色悪いぞ」
え? 渡されたのは私の好きな甘いミルクティー。拍子抜けというのはこのことかもしれない。
目の前に出されたそれを、「ありがとう」と恐る恐る受け取る。

ペットボトルの蓋を開けようとしたが、ずっとパソコンを打っていたせいか、力が入らずになかなか開かない。
そんな私を見て何も言わずもう一度ペットボトルを私の手から取ると、少しだけ緩めて戻してくれた。

「真木どうしたの? 何か企んでる?」
「いいから飲めよ」
ため息交じりに言われて、私は開けてもらった蓋を開けて、一口飲むと甘さが体中に染み渡る。

「お前、今日も昼まともに食べてないだろ? 早く帰れよ」
確かに、クライアントの打ち合わせが立て込んでいて、今日の昼はほとんど食べていない。

「でも、まだ仕事があるの。そんなこと言っても」
「仕事も大切だし、お前が努力をしていることも知ってるけど、身体が資本だぞ。手伝うから貸せ。俺ができるところあるだろ……」

そう言うと、私から資料を取り上げて、隣の席に自分のPCを広げた。
まさか真木からそんなことを言われると思っていなかった私は、なぜか泣きたくなる。

普段冷たい癖に、こんな時だけ優しくするなんてずるい。
「ごめん、ありがとう」
素直に謝った私に、かなり面食らった表情を真木はすると、ポンと私の頭を叩く。
「お前こそどうした?」
そう言って笑った真木に、私も自然と笑みがこぼれた。

「終わった……」

二時間後、ようやく終わって時計を見ると、もう二十一時になろうとしていた。真木もちょうど終わったようで、私にデータを送ってくれていた。
「真木、本当に助かった。ありがとう」
深々と頭を下げたと同時に私のお腹がグーっとなる。

「お前……」
「だって仕方がないじゃない、朝もいろいろあって食べてなかったし、忙しかったし」
恥ずかしくなり顔が熱くなるのがわかる。言い訳を並べている私の横で、真木が立ち上がる。

「飯奢れ」
クスっと笑いながら言う真木に、私は「仕方がないな」と答えた。

「一度、俺自分のところ戻るから、十分後に下で」
「わかった」
憎まれ口ばかり言っているが、真木との話すときは、スラスラと言葉が出て気を使わなくてよくて助かる。
正直、家に帰ってひとりで空っぽの冷蔵庫を考えると、また食べたくなくなりそうだったし、それも身体に悪い気がしていた。

お礼という名目なら、男性と二人で食事に行っても問題ないだろうし……。
そこまで考えて私は小さく息を吐く。浩二は私が誰かと二人でどこに行こうが、もはや気にするわけはない。

やましいこともないのに、社内の男性ですら仕事以外は二人にならないようにとしていた自分がバカらしくなる。
バッグを持って化粧室に寄り、鏡を見ると確かに薄っすらクマもできていて、疲れた顔をしている気がする。

酷い顔……。
こんな女と一緒では真木に申し訳ない気がして、簡単にメイクを直して下へと向かう。

エレベーターで1Fに降りて、真木を探すが見当たらない。
私のほうが早かったかと、小さく息を吐いてエントランスにある椅子に座ろうと思った時だった。

「おい」
声をかけられた人を見て、驚いて一歩後ろに下がる。それほど驚いたのだ。
「だれ?」
「は? お前ふざけるなよ」
苛立った様子で言った声は、紛れもなく真木のものだったが、目の前に立っていた人は別人だ。

「だって、眼鏡ないし、髪だってボサボサじゃない」
「お前な。俺だって外に出るときはあのままなわけないだろ? それに今までだって見てただろ。お前どれだけ俺に興味がないんだよ」
少し不機嫌そうな真木だが、今は目の前の人が気になって仕方がない。
今更ながら優希ちゃんの言葉に納得してしまう。高い身長に、恐ろしく整ったパーツ。眼鏡を外した瞳は少し茶色ぽくも見えた。
確かに、飲み会の時などで見ていたのかもしれないが、興味がなかったのか……。

ポカンとしていたようで、立ち尽くして見上げる私に、少し困ったような表情を真木は浮かべると、行くぞそう言って歩き出した。

「ちょっと、待って!」
慌てて追いかけて彼の横に並ぶと、ビルの外に出た。

外に出ると一気にむわっとした空気が肌を撫でて、おくれ毛が首筋に張り付く。着ていた薄手のカーディガンを脱ごうと思ったが、なんとなくいつもと違う真木に、恥ずかしい気がして手を止めた。

「何食べたい?」
「うーん、なんでもいいけど」
本当に思いつかなくてそう言うと、真木は私を見下ろした。
「バカな進藤は朝も食べてないのか?」
「あー、うん。まあ、家の冷蔵庫が空っぽだったから」
それは嘘ではないが、本当でもない。冷蔵庫に何もないのはいつものことで、普段なら何かを買ったり、カフェで取ったりしている。

「じゃあ、あまり重くないものがいいな」
私を気遣ってくれる真木が、やはり別人のような気もしてしまう。いや、昔も気を使える人だった?
同期の集まりで一度だけ隣に座った時、酔っていた私を介抱して、彼氏の愚痴を聞いてくれたことを思い出す。
あの時も、私は彼氏の頭がいっぱいで、きちんと真木にお礼をしたのだろうか。

連れてきてくれたのは、カウンター席だけの和食屋さんのようで、店に入ると割烹着姿の男性と、エプロン姿の女性がいた。
落ち着いた綺麗なお店で、カウンターの上にはおいしそうな総菜がいくつか並んでいる。
「まだいい?」
「あら、真木さん。いらっしゃい」
にこやかな女将さんがカウンターに座った私たちに、おしぼりを渡してくれる。
「なんでもうまいけど、朝から食べてないなら、初めからあまり重いもの入れない方がいいよな」
そう言いながらメニューを渡してくれる。小鉢から、卵焼きのようなシンプルな一品料理もあれば、唐揚げ定食やがっつりと食べられるものもあった。
「真木はよく来るの?」
女将さんも真木の名前を知っていたし、彼の雰囲気も柔らかい。
「ああ、仕事の合間に」
「エンジニアさんたち本当に忙しいもんね」
「誰かさんたちのせいでな」
私たち営業が無理難題をお願いしているから、忙しいのはよく理解している。
黙り込んだ私に、真木が苦笑しつつ口を開く。
「おい、やめろよ。それがお前の仕事だろ。いまさらブレるなよ」
そのきっぱりとした言い方に、なんとなくホッとして小さく頷いた。
「腹減りすぎて弱ってるんだな。ほら好きなの頼めよ。おすすめは出し巻きがうまいぞ」
結局、真木のオススメを頼んでもらい、それを口にするとお腹が空いていたことにようやく気付いた。
「おいしい」
心から零れ落ちたその単語に、真木も「よかったな」となぜか安堵した表情を浮かべた。
いつも仕事の場だけで言い合っているが、仕事がないとこれほど普通の会話になるのだと思った。
少しお腹に食べ物を入れたあと、真木がおいしそうにビールを飲んでいる姿を見て、私も一杯だけ飲むことにした。
グラスに注がれた黄金色の液体を少しだけ飲むと、久しぶりのアルコールに身体が驚いたような気がしたが、炭酸が喉を通るとその爽快感がたまらない。
一気に半分ほど飲み干した時、真木が私を見たのがわかった。
「何かあったのか?」
「え?」
「朝ごはん、冷蔵庫にないからって食べない理由にはならないだろ?」
確かにデスクで食べていたりしている姿も見られている。長い付き合いの真木にはお見通しだ。
「食べる気にならなかったんだよね」
私がそう呟くと、真木は何も言わずに続きを待ってくれているようだった。
「鍵がついてたの」
「は?」
さすがに意味がわからないようで、真木が怪訝そうな顔を浮かべた。
「彼氏の部屋。いつのまに付けたんだろう」
「別れないのか?」
「ね、優希ちゃんにもずっと言われてる。こんな関係で一緒にいる意味なんてないって」
本当にその通りだ。
「それだけ好きだったんだろ。その男のこと」
意外過ぎる言葉をかけられ、私は隣に座る真木を仰ぎ見た。伏目がちにグラスに口をつけている。
好きだった、そう、好きだった。だから、ずっと一緒にいたのだ。
「うん、好きだった」
「そうか」
過去形で答えた気持ちがしっくりきて私は、「そっか。好きだったのか」そう声にしていた。
もしかしたら、もう一度、好きになれるかもしれない。
そんな思いもあったのかもしれない。

私がゆっくりと食べるのを真木は、なにも言わずに付き合ってくれた。
「ごちそうさまでした」
優しい女将さんに笑顔で別れをつげて、店の外に出る。
時間を見ると23時を回ったところだった。
「電車まだあるから、行くね」
「駅まで送る」
「ええ? いいよ」
駅まで徒歩で二分ほどだ。真木の家は歩いて帰れるらしい。こんないい場所に住んでいるなんて羨ましい限りだ。仕事が不規則で電車がないこともザラにある彼には選択肢がないのかもしれないが。
断った私だったが、前を歩き出した真木を追いかける。
追いかけることが、なぜか楽しいと感じたことは初めてかもしれない。いつも置いていかれる気がして、悲しい気持ちばかりだった。

「進藤」
もう少しで追いつく、そう思った時、真木が私の名前を呼んで振り返った。
ドンと彼の胸にぶつかってしまい、私は慌てて彼と距離を取った。
「なに? 急に止まって」
二十センチは高い身長で、至近距離で見下ろされていることにドキッとしてしまう。

いつもの言い合っている時とも、さっきまでの柔らかな瞳とも違うまっすぐな視線。

ああ、この人も男なんだ。
なぜか急に、本当に本能レベルでそう思った。
無言で見下ろされ、心臓がバクバクと煩い。
真木なのに。あの真木なのに。

「気を付けて帰れよ」
その言葉と同時に真木は私のうなじに張り付いていた髪に触れた。
髪を触った時、一瞬首筋に触れた真木の指に、身体がビクっと揺れた。

「ッ」
漏れそうになった声を耐えて、そこを無意識に手で押さえていた。

「またな」
次の瞬間そこには、いつもの意地悪そうな瞳があった。
何かが変わったわけではない、何も変わっていない。

「うん、また明日」
真木の後姿にそう伝えると、何も言わずに真木は夜の街に消えて行った。

ーー別れよう。

私はそう決意して、駅へと歩き出した。