長い指が綺麗だと思った。
固い手の甲が、手首の筋が、夕暮れの影のような細長いシルエットが、好きだと思った。
子どもたちが来る前の冷えた教室で、調律を終えたばかりのピアノの鍵盤を叩く姿に、心を奪われた。
静かな教室に水を打つように広がる音色。
座りもせずに鍵盤に落とされる、切れ長の視線。
ピアノになりたいと思った。
「……指輪、外さないんですか?」
でも、許されない思いだと感じた。
一回り以上も年上のピアノ講師。私は事務の学生アルバイト。
年の差よりも、薬指の存在が私の思いを阻む。
「僕はある方が弾きやすいタイプだから」
私の方を見向きもしないで、ピアノの鍵盤に柔らかい声を降らせている。
どうしたら、あんな動きが出来るんだろう。
なめらかに鍵盤を鳴かせる軽やかな指先に、満足そうに微笑む唇。
愛しそうにピアノに注ぐ視線を、あの指輪のつがいの持ち主にも、注いでいるんだろうか。
嫉妬で胸が焦げる。
横恋慕なんて、口にしなければないのと同じ。ただ胸のなかに秘めて、彼の一挙手一投足に心を奪われる。
そんな恋をして、もう二年以上が過ぎた。
別の恋をしようと思っても、どうにも上手くいかなかった。
同じ大学生は子どもっぽく思えてしまうし、社会人も来るっていう合コンも面白くはなかった。
望んではいけない、許されない恋。ただ眺めるだけの恋も、もう終わらせないと。
就職活動に集中するためっていう理由だったけど、この恋を振り切るためでもあった。
「え。ご結婚……されてないんですか?」
そんな私の送別会で、私は衝撃の真実を知らされた。
「あ、やっぱり勘違いしてたんだー。そうだよ、コイツ結婚してないのに結婚指輪つけてんの。婚約指輪っていうオチでもないよ。彼女さえいないし、完全フリー。笑っちゃうでしょー」
アルコールの香る席で、彼の首に腕を回しながら暴露してきたのは彼と同期だっていう若い講師だった。
「私も一年ぐらい騙されてたんだよねー」
へらへらと笑う講師と、困ったような彼。事務の先輩も加わってきて、その場にいた皆んながうんうん頷いて、知らなかったのは私だけみたい。
手が震えそうで、持っていたグラスをテーブルに置く。
「女性除け、とかですか?」
「除けるもなにも、そもそも寄ってこないから」
彼もハイボールのジョッキをテーブルに置いて、手をナイナイと振って否定してくる。
照れくさそうにくしゃっと目を細める姿も愛嬌があって素敵だなって、この期に及んで思ってしまう。
私はずっと彼に思いを寄せてきた。
そんな意図はなくても、私はずっと除けられてきた。口に出すことさえ許されない恋だと、ただ彼の仕事仲間としてそばにいれるだけで満足しなきゃって、枕を濡らした夜も数えきれない。
そんな私の思いは、全部無駄だった。
諦めなくて良いんだという希望と、今までの時間はなんだったんだろうっていう絶望に、頭がぼうっとする。
「ほら、やっぱり薬指って一番動かしにくいでしょ。僕って右利きだから、左は余計に。指輪つけとくと意識が向いて、弾きやすくなるんだよね」
お酒のせいかいつも以上に柔らかい声で話しながら、指輪を嵌めた手を握ったり開いたりする。
手の筋が動くのが見えて、体が熱くなる。この手が、好きだった。
嵌められていたのは、ピアノを弾くための指輪。
彼に心を奪われたあの日に聞いた言葉以上の意味はない指輪。
ずっと彼のピアノになりたかった。そしたら、彼の妻じゃなくても彼に触れてもらえると思ったから。
でも今は、その両方を望んでも許される。
喉が鳴って、テーブルに置いたグラスをつかむと一気に流し込んだ。
「お、いい飲みっぷり! 今日は全部オレらが出すから、好きなだけのんじゃってよ」
アルバイトを始めた頃はまだお酒は飲めなかった。初めてお酒を飲んだのも、今と同じピアノ教室の飲みの席でのことだった。
講師はちょっとぐらい良いんじゃないって誕生日前に唆してきたけど、それを止めるのはいつも彼だった。
もしかしたらお子さんもいるのかなって、ピシャリとした彼の言葉に考えたりもしていた。
でも、違った。騙されていた。
私が勝手に勘違いしていただけだってわかっていても、この憤りのやり場が彼に向きそうになる。
若い講師に煽られて、いつも以上にあれこれ注文してしまう。
私につられてか、他の皆もいつも以上にハイペースな気がした。
最近持たれるようになってきたと言っていた彼も、いつもの軟骨唐揚げとハイボールをハイペースで口に運んでいる。
宴もたけなわ。
私はみんなに贈られた花束を手に頭を下げて、最後の挨拶をする。そして、解散。
「じゃあ、行こうか」
彼が駅の方を指さして、私を誘う。
ピアノ教室での集まりでよく利用するこの居酒屋から、私と同じ私鉄で帰るのは彼だけだった。
いつもと同じ調子で、彼と二人夜を行く。
今までは、奥さんのいる人だからと遠慮して距離を取っていた。でも、もうそれは必要ない。
「大丈夫? 結構飲んでたみたいだけど……」
彼の優しい声が頭上から降ってくる。
見上げると、目が合った。
一回り以上も年上の彼は、決してカッコイイわけじゃない。どこにでもいそうな、おじさん。
でも、好きだった。
彼に見つめられたい。彼の声を聞きたい。触れたいし、触れてほしい。
「あんまり、大丈夫じゃないです……」
彼から目を逸らして、ふらついたフリをして彼の腕にしがみつく。
恋の駆け引きなんて、そんなテクニック持っていない。
あまりにもベタ過ぎて、自分でも笑ってしまいそうになる。
気づかないふりをして、彼の腕に胸を押し付ける。彼も気づかないふりをして、私から目を逸らす。
ずっと触れたいと思っていた、彼の指先に指を絡める。
「えっと……」
絵にかいたようなベタさだからこそ、彼にも伝わると思った。
「少し、休む?」
何度も彼と通ったこの道。この道を一本入ったところに、そういうホテルがあるのは知っていた。
たぶん、自分で思う以上に私は酔っているんだと思う。そうじゃなかったら、ここまで大胆なことは出来なかった。
一緒に仕事をして、飲み会とか集まりとかも彼がいる限り積極的に参加して、でも仕事を介した付き合いしかなかった。
だって私は彼を既婚者だと勘違いしていて――でも、彼は? もちろん彼は自分が既婚者じゃないことはわかっていて、私も彼氏がいないっている話はしていた。
思いが通じ合っているんじゃ? そんな幻想を抱きながら、彼と二人。しけ込んだ密室で、唇を交わした。
腰を抱き寄せられ、柔らかなシーツの上に優しく横たえられ、アルコールの香る吐息を吸い込みながら、私の体を撫でる彼の指から指輪を抜いた。
そう多く言葉は交わさなかった。
彼の指先に奏でられて声を上げるだけの、私はピアノ。
ずっと、彼のピアノになりたかった。その夢が叶ったはずだった。
情熱的な夜が明けて、私はホテルのごわついたバスローブを身にまといながら、窓の隙間から差し込む明かりを見下ろしていた。
ベッドに腰掛けて足を組んで、その上で頬杖をつきながら見た白い光の先には、白い背中がある。
昨晩、私が引っ搔いてしまったらしい赤い筋が肩甲骨に沿って伸びている。そんな背中を見ながら、ため息を一つ。
昨日抱いたときに感じたまま、丸まった彼の細い背中には背骨が浮いて見えていた。
肋骨の数が数えられそうだなって考えながら背筋をくすぐると、堪えるようなくぐもった声が降ってきて、私の中の熱が増した。その熱は今も私のなかでくすぶっているのに、彼は私を見ない。
古めかしいホテルの絨毯の上に膝をついて、頭を下げている。
「本当に、申し訳ない」
私が思った以上に、彼は泥酔していたらしい。
幸福な夢心地のまま彼の腕のなかで眠りについて、彼の困惑した声で目を覚ました。
合意の上とはいえ、酒の勢いで若い学生に手を出したことは、彼にとって土下座するにふさわしい出来事だったらしい。
今もシーツを腰に巻いただけの簡素な格好で、大事な娘さんにとか親御さんにも申し訳ないとかなんとか言っている。
彼にこういう生真面目なところがあるのは知っていた。
そういうところも好きだった。
もし私が誘うような真似をしないで、もっと段階を踏んで慎重に事を運んでいればまた違う未来があったのかな。
そもそも私が勘違いしなければ、彼が指輪なんて嵌めていなければ……そんなことを悔いても、もう手遅れだった。
彼が出ていくまで、意地でも涙は出さなかった。
ただ合意の上の行為で罪ではないことだけは強調して、悦んで抱かれた私の気持ちだけは知っておいて欲しかった。
でも、去り際の彼が残した言葉も「ごめんね……」だった。
着替えた彼がホテル代を置いて出て行く時、私を振り返った気配がしたけど、涙を堪えるのに必死だった私は彼の顔を見れなかった。
扉が閉まる音がして、涙が一粒転げ落ちた。
失恋だった。
結局「好き」の一言さえはっきり伝えられないまま、私は私の恋を失った。
ピアノを弾く姿に一目惚れしました。
子どもたちに優しく笑いかけながら、ピアノを教える姿が好きでした。
生真面目な性格が、柔らかい声が、目を細めて笑う姿が、全部全部好きでした。
涙が次から次へと溢れて止まらない。
それをただ流れるがままにして、私は私の恋を終わらせる。
既婚者だと勘違いして、最初からダメだと諦めて、誤解が解けて、アルコールで先走って、私だけが残った。
サイドテーブルには、彼が残したホテル代。
明らかに多いそれが手切れ金のようで、一夜の過ちだ忘れろと言っているようだった。
彼にしてみれば、子どもに手を出したような汚点なのかもしれない。
確かに私は学費も親に出してもらって、就活のためにアルバイトを辞める選択ができるぐらい生活費も仕送りでまかなっていた。
お酒を飲んで大人のふりをしてみても、私はまだまだ子どもだった。
今日は説明会の日だった。
幸いまだ時間は十分ある。きちんと準備をして、行かないと……
悲しくたって日常は続くし、お腹だって減る。
どこか近くで美味しいモーニングをやっているカフェはないだろうかとか、流れる涙を止めるためにそんなことを考えてみる。
大きく息を吐いて涙をぬぐうと、私はベッドから立ち上がった。
勘違いをした。言葉にしなかった。手順を誤った。それでも私は精一杯だった。
踏み出した足元に、彼の指輪が触れて転がる。
指輪は軽やかな音を奏でて、壁にぶつかり止まった。
「薬指のピアニスト」完
固い手の甲が、手首の筋が、夕暮れの影のような細長いシルエットが、好きだと思った。
子どもたちが来る前の冷えた教室で、調律を終えたばかりのピアノの鍵盤を叩く姿に、心を奪われた。
静かな教室に水を打つように広がる音色。
座りもせずに鍵盤に落とされる、切れ長の視線。
ピアノになりたいと思った。
「……指輪、外さないんですか?」
でも、許されない思いだと感じた。
一回り以上も年上のピアノ講師。私は事務の学生アルバイト。
年の差よりも、薬指の存在が私の思いを阻む。
「僕はある方が弾きやすいタイプだから」
私の方を見向きもしないで、ピアノの鍵盤に柔らかい声を降らせている。
どうしたら、あんな動きが出来るんだろう。
なめらかに鍵盤を鳴かせる軽やかな指先に、満足そうに微笑む唇。
愛しそうにピアノに注ぐ視線を、あの指輪のつがいの持ち主にも、注いでいるんだろうか。
嫉妬で胸が焦げる。
横恋慕なんて、口にしなければないのと同じ。ただ胸のなかに秘めて、彼の一挙手一投足に心を奪われる。
そんな恋をして、もう二年以上が過ぎた。
別の恋をしようと思っても、どうにも上手くいかなかった。
同じ大学生は子どもっぽく思えてしまうし、社会人も来るっていう合コンも面白くはなかった。
望んではいけない、許されない恋。ただ眺めるだけの恋も、もう終わらせないと。
就職活動に集中するためっていう理由だったけど、この恋を振り切るためでもあった。
「え。ご結婚……されてないんですか?」
そんな私の送別会で、私は衝撃の真実を知らされた。
「あ、やっぱり勘違いしてたんだー。そうだよ、コイツ結婚してないのに結婚指輪つけてんの。婚約指輪っていうオチでもないよ。彼女さえいないし、完全フリー。笑っちゃうでしょー」
アルコールの香る席で、彼の首に腕を回しながら暴露してきたのは彼と同期だっていう若い講師だった。
「私も一年ぐらい騙されてたんだよねー」
へらへらと笑う講師と、困ったような彼。事務の先輩も加わってきて、その場にいた皆んながうんうん頷いて、知らなかったのは私だけみたい。
手が震えそうで、持っていたグラスをテーブルに置く。
「女性除け、とかですか?」
「除けるもなにも、そもそも寄ってこないから」
彼もハイボールのジョッキをテーブルに置いて、手をナイナイと振って否定してくる。
照れくさそうにくしゃっと目を細める姿も愛嬌があって素敵だなって、この期に及んで思ってしまう。
私はずっと彼に思いを寄せてきた。
そんな意図はなくても、私はずっと除けられてきた。口に出すことさえ許されない恋だと、ただ彼の仕事仲間としてそばにいれるだけで満足しなきゃって、枕を濡らした夜も数えきれない。
そんな私の思いは、全部無駄だった。
諦めなくて良いんだという希望と、今までの時間はなんだったんだろうっていう絶望に、頭がぼうっとする。
「ほら、やっぱり薬指って一番動かしにくいでしょ。僕って右利きだから、左は余計に。指輪つけとくと意識が向いて、弾きやすくなるんだよね」
お酒のせいかいつも以上に柔らかい声で話しながら、指輪を嵌めた手を握ったり開いたりする。
手の筋が動くのが見えて、体が熱くなる。この手が、好きだった。
嵌められていたのは、ピアノを弾くための指輪。
彼に心を奪われたあの日に聞いた言葉以上の意味はない指輪。
ずっと彼のピアノになりたかった。そしたら、彼の妻じゃなくても彼に触れてもらえると思ったから。
でも今は、その両方を望んでも許される。
喉が鳴って、テーブルに置いたグラスをつかむと一気に流し込んだ。
「お、いい飲みっぷり! 今日は全部オレらが出すから、好きなだけのんじゃってよ」
アルバイトを始めた頃はまだお酒は飲めなかった。初めてお酒を飲んだのも、今と同じピアノ教室の飲みの席でのことだった。
講師はちょっとぐらい良いんじゃないって誕生日前に唆してきたけど、それを止めるのはいつも彼だった。
もしかしたらお子さんもいるのかなって、ピシャリとした彼の言葉に考えたりもしていた。
でも、違った。騙されていた。
私が勝手に勘違いしていただけだってわかっていても、この憤りのやり場が彼に向きそうになる。
若い講師に煽られて、いつも以上にあれこれ注文してしまう。
私につられてか、他の皆もいつも以上にハイペースな気がした。
最近持たれるようになってきたと言っていた彼も、いつもの軟骨唐揚げとハイボールをハイペースで口に運んでいる。
宴もたけなわ。
私はみんなに贈られた花束を手に頭を下げて、最後の挨拶をする。そして、解散。
「じゃあ、行こうか」
彼が駅の方を指さして、私を誘う。
ピアノ教室での集まりでよく利用するこの居酒屋から、私と同じ私鉄で帰るのは彼だけだった。
いつもと同じ調子で、彼と二人夜を行く。
今までは、奥さんのいる人だからと遠慮して距離を取っていた。でも、もうそれは必要ない。
「大丈夫? 結構飲んでたみたいだけど……」
彼の優しい声が頭上から降ってくる。
見上げると、目が合った。
一回り以上も年上の彼は、決してカッコイイわけじゃない。どこにでもいそうな、おじさん。
でも、好きだった。
彼に見つめられたい。彼の声を聞きたい。触れたいし、触れてほしい。
「あんまり、大丈夫じゃないです……」
彼から目を逸らして、ふらついたフリをして彼の腕にしがみつく。
恋の駆け引きなんて、そんなテクニック持っていない。
あまりにもベタ過ぎて、自分でも笑ってしまいそうになる。
気づかないふりをして、彼の腕に胸を押し付ける。彼も気づかないふりをして、私から目を逸らす。
ずっと触れたいと思っていた、彼の指先に指を絡める。
「えっと……」
絵にかいたようなベタさだからこそ、彼にも伝わると思った。
「少し、休む?」
何度も彼と通ったこの道。この道を一本入ったところに、そういうホテルがあるのは知っていた。
たぶん、自分で思う以上に私は酔っているんだと思う。そうじゃなかったら、ここまで大胆なことは出来なかった。
一緒に仕事をして、飲み会とか集まりとかも彼がいる限り積極的に参加して、でも仕事を介した付き合いしかなかった。
だって私は彼を既婚者だと勘違いしていて――でも、彼は? もちろん彼は自分が既婚者じゃないことはわかっていて、私も彼氏がいないっている話はしていた。
思いが通じ合っているんじゃ? そんな幻想を抱きながら、彼と二人。しけ込んだ密室で、唇を交わした。
腰を抱き寄せられ、柔らかなシーツの上に優しく横たえられ、アルコールの香る吐息を吸い込みながら、私の体を撫でる彼の指から指輪を抜いた。
そう多く言葉は交わさなかった。
彼の指先に奏でられて声を上げるだけの、私はピアノ。
ずっと、彼のピアノになりたかった。その夢が叶ったはずだった。
情熱的な夜が明けて、私はホテルのごわついたバスローブを身にまといながら、窓の隙間から差し込む明かりを見下ろしていた。
ベッドに腰掛けて足を組んで、その上で頬杖をつきながら見た白い光の先には、白い背中がある。
昨晩、私が引っ搔いてしまったらしい赤い筋が肩甲骨に沿って伸びている。そんな背中を見ながら、ため息を一つ。
昨日抱いたときに感じたまま、丸まった彼の細い背中には背骨が浮いて見えていた。
肋骨の数が数えられそうだなって考えながら背筋をくすぐると、堪えるようなくぐもった声が降ってきて、私の中の熱が増した。その熱は今も私のなかでくすぶっているのに、彼は私を見ない。
古めかしいホテルの絨毯の上に膝をついて、頭を下げている。
「本当に、申し訳ない」
私が思った以上に、彼は泥酔していたらしい。
幸福な夢心地のまま彼の腕のなかで眠りについて、彼の困惑した声で目を覚ました。
合意の上とはいえ、酒の勢いで若い学生に手を出したことは、彼にとって土下座するにふさわしい出来事だったらしい。
今もシーツを腰に巻いただけの簡素な格好で、大事な娘さんにとか親御さんにも申し訳ないとかなんとか言っている。
彼にこういう生真面目なところがあるのは知っていた。
そういうところも好きだった。
もし私が誘うような真似をしないで、もっと段階を踏んで慎重に事を運んでいればまた違う未来があったのかな。
そもそも私が勘違いしなければ、彼が指輪なんて嵌めていなければ……そんなことを悔いても、もう手遅れだった。
彼が出ていくまで、意地でも涙は出さなかった。
ただ合意の上の行為で罪ではないことだけは強調して、悦んで抱かれた私の気持ちだけは知っておいて欲しかった。
でも、去り際の彼が残した言葉も「ごめんね……」だった。
着替えた彼がホテル代を置いて出て行く時、私を振り返った気配がしたけど、涙を堪えるのに必死だった私は彼の顔を見れなかった。
扉が閉まる音がして、涙が一粒転げ落ちた。
失恋だった。
結局「好き」の一言さえはっきり伝えられないまま、私は私の恋を失った。
ピアノを弾く姿に一目惚れしました。
子どもたちに優しく笑いかけながら、ピアノを教える姿が好きでした。
生真面目な性格が、柔らかい声が、目を細めて笑う姿が、全部全部好きでした。
涙が次から次へと溢れて止まらない。
それをただ流れるがままにして、私は私の恋を終わらせる。
既婚者だと勘違いして、最初からダメだと諦めて、誤解が解けて、アルコールで先走って、私だけが残った。
サイドテーブルには、彼が残したホテル代。
明らかに多いそれが手切れ金のようで、一夜の過ちだ忘れろと言っているようだった。
彼にしてみれば、子どもに手を出したような汚点なのかもしれない。
確かに私は学費も親に出してもらって、就活のためにアルバイトを辞める選択ができるぐらい生活費も仕送りでまかなっていた。
お酒を飲んで大人のふりをしてみても、私はまだまだ子どもだった。
今日は説明会の日だった。
幸いまだ時間は十分ある。きちんと準備をして、行かないと……
悲しくたって日常は続くし、お腹だって減る。
どこか近くで美味しいモーニングをやっているカフェはないだろうかとか、流れる涙を止めるためにそんなことを考えてみる。
大きく息を吐いて涙をぬぐうと、私はベッドから立ち上がった。
勘違いをした。言葉にしなかった。手順を誤った。それでも私は精一杯だった。
踏み出した足元に、彼の指輪が触れて転がる。
指輪は軽やかな音を奏でて、壁にぶつかり止まった。
「薬指のピアニスト」完