仕事終わりの帰り道、電車に乗る。夏は冷房で寒く、冬は暖房で暑いこの電車も、秋は適温だ。混んでいても暑いとは感じない。わたしは立って吊り革に掴まりながら、自分が降りる駅に着くのをぼんやりと待っていた。
 社会人二年目の秋。いろいろと会社の中も外も見えてきて、一年目では想像もできなかった仕事を任されるようになってくる頃。わたしは日々のストレスに耐えながら、なんとか仕事に食らいついていけていた。難しいと思うこともあるし、上司に叱責されることもあるけれど、この仕事にはやりがいを感じていた。だから、疲れていながらも充実感があった。
 そうはいっても、一日の終わりには疲れのほうが目立つ。特に金曜日はそうだ。早く部屋に帰って、ご褒美のビールの缶を開けたい。風呂上がりに飲むビールは最高だ。
 どこかの駅に着いて、ドアが開く。人が出ていって、同じくらいの人が入ってくる。あれ、今どの駅だっけ。わたしは現在地を把握しようとして、背伸びをした。まだわたしの最寄り駅ではないことに安堵する。
 そこで、スーツ姿の男性と目が合ってしまった。会社員だろう。わたしと同じか、それより少し上くらいの年齢だ。ぴしっとしたスーツ姿が格好良く見えた。
 彼はわたしに近づいてきた。なんだこの人。ただ電車に乗っていただけにしては、わたしを凝視している。わたしが目を逸らすと、彼はわたしに尋ねた。
「水島さん?」
 わたしの名前を呼ばれて、訝しむように彼を見る。誰だろう。わたしの知り合いだろうか。しかし、わたしに思い当たる人はいない。仕事先で一度会っただけの人がわたしを覚えていたのだろうか。
 彼は旧友を見つけたかのように顔を輝かせて、自分の胸に手を当てて言った。
「中谷だよ、ほら、高校の頃同じクラスだっただろ」
「え? 中谷くん?」
 急に知っている名前が出てきて驚く。言われてみれば、高校の頃の面影が目元あたりにあるような気がしないでもない。わたしの記憶とはだいぶ違っているが。
 高校の頃の中谷くんといえば、とてもモテる王子様だった。成績は優秀で、スポーツも万能で、性格は穏やか。どんな女子だろうと、彼と話せば好きになる。彼に告白して玉砕した女子は数え切れないほどいるのだと噂されていた。彼自身はその噂を否定していたけれど、きっと噂のほうが事実だろう。卒業式が近づくにつれて、毎日のように中谷くんが呼び出されていたのをわたしも知っている。
 かく言うわたしも、中谷くんのことが好きだった。中谷くんとは奇跡的にも三年間同じクラスで、なぜかよく話す機会があった。中谷くんにとっては、わたしとの関係は清らかな友情だっただろう。わたしが裏でどれだけ葛藤していたか、彼は知らない。わたしは今の関係を取るか、賭けに出て彼女になるか、ずっと悩まされたのだ。結局、わたしは告白することもなく、高校を卒業して中谷くんとは離れ離れになることになる。
 大学に入れば、そりゃあ他にも良い人はいる。わたしだって付き合った人は何人かいるし、結婚を意識した人もいた。けれど、誰も続かなかった。おかげで今は彼氏なしだ。彼氏を探しに出かける余裕もない。今は仕事一筋で頑張る時期なのだと自分を納得させていた。
 そんな折に、まさか中谷くんと再会するなんて。人生は何があるかわからないものだ。
「水島さん、東京で働いてたんだな」
 わたしも中谷くんも、出身地は地方だ。それが偶然、二人とも東京に就職して、同じ路線の電車に乗って、再会する。
 こんな偶然、ある? もしかして、これは運命なんじゃない?
「中谷くんこそ。東京に出てきてるなんて知らなかった」
「すごい偶然だよな。まさか、水島さんにまた会えるなんて思ってなかった」
 他の乗客が乗ってくるから、中谷くんがわたしとの距離を詰めてくる。高校生だった頃では考えられない、すぐ手が触れる距離に中谷くんがいる。中谷くんは全く気にしていないようだった。
 わたしにまた会えるなんて思っていなかった。それは、どういう意味だろう。単に、昔別れた友人への言葉なのだろうか。それとも、何か期待してもよいのだろうか。
 中谷くんはちらりと腕時計を見た。大ぶりな銀色の時計だった。
「水島さん、この後予定ある?」
「ないけど、どうして?」
「ちょっと飲みに行かないか? 金曜日だし、久々に会えたんだしさ」
 中谷くんは笑いながらわたしを誘った。高校生の頃の面影がそこにはあった。
 今週もよく働いたわたしに、神様がご褒美をくれたのかもしれない。昔好きだった人との短い逢瀬を楽しんでこいということなのかもしれない。
 わたしには、断る理由なんてなかった。
「いいよ、行こっか」
 タイミングを見計らったかのように、電車のドアが開いた。この駅は歓楽街に近い駅で、飲む店には困らないだろう。金曜日だし、人は多いかもしれないけれど、この駅の付近ならその人だかりを受け入れるくらいの店がある。
 わたしと中谷くんは電車を降りて、歓楽街に向かう。存在は知っていたけれど、実際にこの駅で降りるのは初めてだ。右も左もわからないわたしを、中谷くんが誘導してくれる。
「おいしい居酒屋があるんだ。ちょっと狭いけど、そこでもいい?」
「ん、大丈夫。中谷くんはこの辺来たことあるの?」
「ああ、会社の先輩と飲む時はここだよ。店がたくさんあるし、安いんだ」
 中谷くんに連れられるようにして、人の波に乗る。客を呼び込む人の声が街に響いている。うわあ、これが飲み屋街かあ。初めて来るわたしは、ついきょろきょろと見回してしまう。
 そんな様子を見ていたからか、中谷くんは面白そうに笑った。
「水島さんは来るの初めてなんだな」
「うん。会社の人と飲むときも、会社の近くだから」
「この辺りを知らないなんてもったいないよ。今日はいいところ案内するからさ」
 そう言って中谷くんが連れてきてくれたのは、少し小さめの居酒屋だった。チェーン店ではなく、個人でやっている店のようだ。がらがらと引き戸を開けると、中にはたくさんの客がいた。ほとんどがスーツ姿のおじさんだ。
 ちょうど開いている席があって、わたしたちはカウンター席に通される。隣に中谷くんが座ると、高校の頃の思い出が蘇ってくる。席替えした時に中谷くんの隣になって、喜んだことを思い出してしまった。今は、高校生の頃に憧れていた二人きりというシチュエーションだ。わたしの頭の中だけでは、これをデートだと思わせておいてもよいのではないだろうか。ちょっと雰囲気は大衆的だけど、別にいいじゃないか、二人きりなのは変わらないのだから。
「ああ、お腹空いた。水島さん、お酒は飲める?」
「うん、大丈夫。わたしね、強いよ」
 自信を持って言える。中谷くんは快活に笑った。
「確かに強そう。やばいな、俺が潰されそう」
「そんなに飲まないでよ。介抱するのはやだよ」
「はは、飲みすぎないようにしないとな。適当に食べ物と、ビール頼むよ」
 中谷くんは手際よく注文を済ませる。このスマートさは高校の頃から変わっていない。きっと今もこんな感じで優秀に仕事をこなしているんだろうな。
 待ち構えていたかのようにビールのジョッキが運ばれてくる。わたしと中谷くんはジョッキを手に持って、かきんと合わせた。
「乾杯」「乾杯」
 そう言って、わたしはビールを喉に流し込む。仕事終わりのビールは格別においしい。一気にジョッキの半分くらいまでを飲みきってしまう。
 それを見た中谷くんは目を丸くしていた。何かおかしなことがあっただろうか。
「はは、水島さんはほんとに酒に強いんだな」
「言ったでしょ、強いって。自覚あるよ」
「俺はペース乱されないようにしないといけないな。水島さんのペースで飲んでたら絶対に潰れる自信がある」
 料理が運ばれてくる。どれも酒のおつまみには適しているものばかりだ。そして、わたしが苦手なものがない。中谷くんはわたしの好みを知らないだろうけれど、よいものばかり頼んでくれたものだ。
「あっ、水島さん、苦手なものとかなかった? ごめん、先に頼んじゃった」
「ううん、大丈夫、なんでも食べるよ。お腹空いてるしね」
「そうだよな。仕事終わりに飲みに来ると、ついつい頼みすぎちゃうんだよなあ」
 席に届いたシーザーサラダをわたしが取り分ける。これくらいはしないとね。中谷くんはその様子を横で見ていた。うぅん、中谷くんがこんなに近くにいるって、不思議でならない。
「中谷くんはよく飲みに来るの?」
「ああ、うん、会社の人とね。たまに一人でふらっと行くこともある」
「そうなんだ。一人で居酒屋ってハードル高くない?」
「入ってみればそんなことないよ。意外と一人で来てるおじさんとか多いし、たまに女の人もいるよ」
「へええ。憧れるなあ」
 わたしも一人で居酒屋に入れるような勇気ある女性になりたい。どうしても周りの目を気にしてしまって、一人で入ることができないのだ。だから、こうやって誰かが一緒にいてくれると、居酒屋を楽しむことができて嬉しい。
「今の彼女とも居酒屋で知り合ったんだ」
「えっ、そうなの?」
 中谷くんに彼女がいたことに驚いた。そりゃあ、いるよね、やっぱり。わたしはもしかしてと想像していた恋心を消火する。その作業は表情に出さない。神様がご褒美をくれたのかと思ったけれど、そのサイズは思ったより小さかったようだ。
 でも、中谷くんと二人きりなのは変わらないんだから。今この時を楽しめばいいんだよ、うん。
 中谷くんはわたしの落胆に気づかないまま、優しい微笑みを浮かべて言った。
「だから、水島さんだって一人で居酒屋に行っていいんだよ」
「ねえねえ、ナンパしたの? それとも声かけられたの?」
「はは、内緒」
 中谷くんは笑った。たぶん、隠したい何かがあるのだと思った。だからわたしはしつこく食い下がることをせず、ふぅん、とだけ返した。
 よし。今日は楽しもう。せっかく中谷くんに会えたんだから、この時間を堪能しよう。今週の疲れなんて吹き飛んでしまいそうだ。今日はただの友人として、楽しめばよいのだ。
 わたしはビールのお代わりを頼んで、料理を口に運んだ。濃いめの味がわたしの心に沁みた。


 わたしは居酒屋で別れて終わりかと思っていたが、中谷くんが飲み直そうと言うので、歓楽街の奥のほうにあるバーに連れてきてもらった。ここは中谷くんの行きつけのバーで、会社の人と飲み終わった後に来ることもあるそうだ。
 照明が暗めで、とても静かな雰囲気のバーだった。カウンター席が少しと、少人数向けのテーブル席が少し。きゃあきゃあと騒ぐよりは、しっとりと喋るようなところだった。こういうところに来たことがないわたしは、店の雰囲気だけで緊張してしまう。空いている席へ座ってよいということだったので、わたしたちはカウンターから少し離れたテーブル席に座った。
 緊張したのは最初だけで、中谷くんと話したり、中谷くんお勧めのカクテルを飲んだりしているうちに、わたしもこの静かな雰囲気に慣れてきていた。なんというか、大人だ。大人になった気分だ。
 こういうところに一人でいたらナンパされるのだろうか。中谷くんは居酒屋で今の彼女と出会ったと言っていたけれど、実はこの店でナンパしたのではないかと疑ってしまう。
「中谷くんはいろいろお店知っててすごいね」
「まあ、趣味みたいなものだよ。行きたいお店はたくさんあるけど、一人で入りにくい店もあるし、付き合ってくれる人がほしいかなあ」
「彼女と行けばいいじゃん?」
 わたしは至極当然な疑問を投げた。彼女がいるというのに、どうしていちばん誘いやすい人と行かないのだろうか。
 中谷くんはわたしの疑問に苦笑した。
「あまり居酒屋が好きじゃないみたいでさ。あの雑然とした雰囲気が嫌なんだって」
「そうなの? 居酒屋の独特の雰囲気、わたしは好きだけどなぁ」
「そうだろ。俺もあの雰囲気を楽しみたいのに、彼女は嫌だって言うんだよ」
 中谷くんが飲んでいるのはウイスキーのロックだ。琥珀色の液体が丸氷に反射してとても美しく見える。中谷くんはグラスを口につけた。
「彼女はもっと綺麗なところに行きたいらしい。フランス料理とか、イタリア料理とかのレストラン」
「あぁ、わたし、苦手。イタリアンはまだ行けるけど、フランスは無理かも」
 わたしが正直な感想を言うと、中谷くんは大きめの声で賛同した。
「だろ? 俺もさあ、無理して行ってるんだけど」
「彼女に言えばよくない? そういうところ苦手だって」
「それで喧嘩になるのも嫌なんだよ。だからってお家デートばかりじゃつまらないしさ。最近の俺の悩みだよ」
 彼女がいない男からすれば贅沢な悩みなのだろうが、そういう不一致はなかなか大きなものではないだろうか。行きたいお店が違うと、デートの時にどちらかが必然的に我慢することになる。どうやら今は中谷くんが我慢しているようだけれど、それもいつまで続くか。
「明日も会う約束しててさ」
「うわあ、デートじゃん。こんなところでわたしと飲んでていいの?」
「いいよ、明日に残らなきゃいいんだろ。約束は明日の昼過ぎだし、大丈夫だよ」
 中谷くんは平然とそう言って、ウイスキーを口に運ぶ。からん、と丸氷がグラスに当たる音がする。それが聞こえるくらい、この店内は静かだった。
「ねえ、彼女の写真見せてよ」
 これだけ酔った状態ならば見せてくれるだろう。わたしは中谷くんにお願いした。
「いいよ。これ、可愛く撮れた写真」
 中谷くんはにやっと笑いながら、わたしにスマートフォンの画面を見せた。
 そこには、中谷くんのような美形に釣り合うような、綺麗な女性が写っていた。年齢はたぶんわたしたちと同じくらいだけれど、女のわたしが見ても美しいと思えるような女性だった。中谷くんでなければ、隣で歩く男は霞んで見えることだろう。これは、美男美女のカップルだ。
 わたしが声も上げられずにいると、中谷くんはスマートフォンをテーブルの上に置いた。
「可愛いだろ? 別のバーで飲んでた時俺からに声かけたんだよ」
「さっきは居酒屋で出会ったって言ってたくせに」
 居酒屋を嫌う彼女と居酒屋で出会ったという時点で、おかしいと思うべきだった。やはりこういう場所で、中谷くんから声をかけたのだ。
 中谷くんはばつが悪そうな顔で言った。
「ナンパしたって水島さんに言うのが恥ずかしかったんだよ。わかってくれよ」
「はいはい。でもほんとに綺麗な人だね」
「そうなんだよ。性格はちょっときついんだけどな」
 その言葉尻には、中谷くんの本音が隠れているような気がした。
 もしかして、中谷くんはこの彼女とうまくていっていないのではないだろうか。あるいは、無理をして付き合っているのではないだろうか。そんな気がしてしまう。
 いや、邪推だ。わたしは、二人がうまくいっているという前提で話すべきだ。
「明日のデートはどこに行くの?」
「彼女が服を買いたいんだってさ。だから、ショッピングについていく感じ」
「いいよね、何着ても似合いそうな人だし」
 先程の写真には全身が写っていたわけではないけれど、確実にプロポーションは抜群だ。モデルだと言われても納得できる。そういう人はかえって服選びが大変なのかもしれない。それで、彼氏の意見を聞きたい、ということなのだろうか。
「感想を言う立場にもなってほしいけどな。いいよ、可愛いよ、じゃあ納得してくれなくてさ、もっと具体的な言葉が要るんだよ」
 中谷くんは溜息を押し流すようにウイスキーを飲んだ。中谷くんも苦労しているらしい。
「水島さんは?」
「え?」
「水島さんは、彼氏いないの?」
 中谷くんは軽い話のように水を向けてきた。こういうセンシティブな話をさらりと訊けるのも、中谷くんのすごいところだ。
 わたしは苦笑いを浮かべて答える。
「いないよ。社会人になってからは出会いもないしね」
「同じ会社の人とか、いるだろ?」
「うぅん、そういう対象としては見てないかなぁ。先輩後輩、って感じだし、他部署の人ともそんなに仲良くなってないしね」
「そうなんだ。へえ」
 中谷くんはどこか得心していないようだった。中谷くんの会社では、社内恋愛も普通にあるのかもしれない。わたしの会社でもないことはないけれど、わたしは会社の中に気になる人はいない。社内恋愛というと、バレないように気を遣いそうだし、面倒臭そうだし、わたしは避けたかった。
「水島さん、可愛いのにな」
 中谷くんは動物を愛でるかのような口調で言った。カクテルに伸ばしたわたしの手が止まる。
 え? わたしが、可愛い?
 硬直しているわたしの目を見て、中谷くんは笑った。
「水島さん、可愛いんだからもっと自分に自信持ったらいいよ。水島さんがアタックしたら大抵の男は付き合ってくれると思うよ」
「ふふ、ありがと」
「そうやって躱すのも上手いんだもんなあ」
 反応に困ったから笑っただけなのに、中谷くんは悔しそうだった。中谷くんの本音がわからなくて、わたしは困惑してしまう。わたしをからかっているだけなのか、それとも本心でわたしのことを可愛いと思っているのか。もし後者なのだとしたら、中谷くんにもアタックしたら付き合ってくれるということなのだろうか。
「今だから言うけど、俺さ、高校の頃水島さんのことが好きだったんだよ」
「ええ? そうなの?」
 中谷くんは恥ずかしそうに笑いながら、とんでもないことを言った。わたしは驚いてしまい、どう反応したらよいのかわからなくなってしまう。
 わたしのことが好きだった。じゃあ、今は? もしかして、今もわたしへの恋心は残っているの? わたしと同じように、恋心を抱えながらここにいるの?
 中谷くんの言葉に、わたしの恋心が強く燃え始める。今は彼女がいるみたいだけど、もし彼女がいなくなったとしたら、わたしにもチャンスがあるのではないか。今日の出会いは、いつか付き合うための布石だったのではないか。そんな声が心の中で反響する。
 テーブルの上に置きっぱなしになっていた中谷くんのスマートフォンが震える。わたしはその通知を見てしまった。
 明らかに彼女からの連絡だった。声が聞きたい、と言っているようだった。
 そうだよ、中谷くんには彼女がいる。待っている人がいる。わたしがここで引き止めていていいわけがないのだ。ひと時の甘い夢はここでおしまい。わたしは現実に引き戻されて、残念に思ってしまった。
 帰らなきゃいけない。もう、夢から覚める時間が来たのだ。
「彼女でしょ? 帰ろ、中谷くん」
「ああ、うん、そうだな」
 中谷くんはスマートフォンをスーツのポケットにしまって、席を立った。わたしもそれに続く。まだ終電にはぎりぎり間に合う時間だ。中谷くんの家がどこにあるかは知らないけれど、同じ路線なのだから終電の時間も似たようなものだろう。
 会計を済ませて、バーを出る。秋の爽やかなひんやりとした風が、酒で火照った頬を冷やしてくれて気持ちいい。
 わたしたちと同じように、終電近くまで飲み歩いていたサラリーマンたちが続々と駅に向かっている。わたしもその波に乗ろうとして、中谷くんがわたしの手を引いた。
「水島さん、こっちからのほうが近いよ」
「あ、そうなの? じゃあそっちからだね」
 中谷くんに言われるまま、まっすぐ駅に向かっているように見える道から逸れる。サラリーマンの数はどんどん少なくなって、代わりに朝まで飲む気満々の人の影が増える。
 あれ? これ、駅から遠ざかってるよね?
「中谷くん、駅から遠ざかってない?」
「ごめん。俺、どうしても水島さんともっと話したくて」
 時間を見たら、今から駅に走っても終電に間に合わない時刻になっていた。中谷くんはわざとわたしを終電に乗り遅れさせたのだ。
 でも怒りは湧いてこなかった。代わりに湧いてきたのは、まだ中谷くんと一緒にいられるのだという歓喜。
 それがわたしの表にも現れて、わたしは笑顔を浮かべた。
「仕方ないなぁ。どのお店に行く? 朝まで付き合うよ」
「ありがとう。じゃあ、こっち」
 中谷くんの顔は緊張しているように見えた。わたしは何の疑いもなく中谷くんについていく。
 朝まで営業しているお店は多いようだった。終電の時刻は過ぎているというのに、人の姿はたくさん見受けられる。
 その一角、ある建物の前で、中谷くんは足を止めた。
「ここで、ゆっくり話さないか?」
「ここ、って」
 わたしは言葉を失った。まさか、こんなことになるなんて。
 それはいわゆるラブホテルだった。数時間でいくらですよ、という表示がされている。ビジネスホテルよりひっそりと建っていて、それが建物に妖艶さを与えていた。
「だ、だめだよ中谷くん、彼女もいるのに」
 わたしはそう言いながら、心の中では期待を抱いていた。ここに行ったら中谷くんと結ばれるのではないか。このまま、中谷くんがわたしの彼氏になってくれるのではないか。そんな、邪な思いがわたしの心に生まれていた。
「大丈夫だよ。何もしなければいいんだ」
「何もしなければ、って」
 中谷くんはわたしの肩を優しく抱いた。混乱しているわたしは、その腕を振り払うことができなかった。
 いや、きっとこの時から、わたしの心はもう決まっていたのだ。
「さ、行こう。ここなら始発までゆっくり話せるし、休むこともできるから」
「……うん」
 わたしは抵抗することもなく、中谷くんの提案を受け入れてしまった。
 中谷くんが手慣れた様子で手続きを済ませて、部屋に入る。二人が楽に寝られそうなベッドがひとつだけ部屋に置かれていて、中はビジネスホテルとあまり変わらないようだった。
 部屋のドアが閉まる。わたしはもう、ここから出られない。この先に進めば、もう戻ってくることはできない。中谷くんはきっとその気だ。
「水島さん」
「わ……!」
 中谷くんはわたしを抱きしめて、唇を重ねてきた。荒々しいけれど、優しいキスだった。
 わたしは、抗うことができなかった。たぶん、最初から抗うつもりもなかったのだ。


 わたしは頭痛で目を覚ました。枕元のスマートフォンを見たら、始発が動き始めるくらいの時間帯だった。
 隣では中谷くんが眠っている。まだ起きる気配はなさそうだった。寝顔さえも整っていて、とても羨ましく感じると同時に、その寝顔を見ていることへの罪悪感がむくむくと湧き上がってきた。
 わたしは昨夜しっかりと情事に及んでしまった。中谷くんを浮気させてしまったのだ。起きて冷静になった頭で考えてみると、なんて大変なことをしてしまったんだという気持ちになる。
 わたしはそっとベッドから抜け出して、バスローブから昨日着ていた服に着替える。身支度が整った後に中谷くんを見たら、ぐっすりと眠っているようで、まだ起きなかった。
 そのほうが好都合だった。わたしはホテル代をテーブルの上に置いて、荷物を持って部屋を出た。わたしは中谷くんから、いや中谷くんの彼女から逃げたのだ。こうすることでしか、この酷い罪悪感から逃れる術を見つけられなかった。
 一人でホテルから出ると、まだほのかに明るいくらいの空がわたしを迎えた。空はわたしを責めることとなく、あたたかく広がっていた。
 ごめん、中谷くんの彼女さん。でも一回きりだから、どうか、許して。
 恋人がいる相手に恋心を抱くだなんて、ましてその相手とホテルに行くだなんて、昨夜はどうかしていたのだ。大人がやることではない。一度でも期待を抱いたわたしは大馬鹿者だ。
 早く家に帰ろう。帰って、自分のベッドで眠ろう。昨夜のことは忘れたほうがよい。
 わたしは家路を急いだ。昨夜、中谷くんに抱かれた時に燃えていた炎は、まだ燻っていた。