大学生であろうと、酒を飲まなければやっていられない時はある。酔って何もかも忘れて眠ってしまいたい夜は来る。それは社会人だけに起こり得るものではない。
ぼくは自分しかいないワンルームの部屋で、独りで酒を飲んでいた。そうでもしないとこの夜を越すことができなかった。居酒屋に行くことも考えたけれど、自分の部屋のほうが泥酔できるし、寝たいと思ったらいつでもベッドで寝ることができるから、ぼくは自分の部屋を選んだ。結果的に、この選択は間違っていなかったと思う。
スマートフォンが震えるたびに、ぼくは慌てて画面を見る。そして、待っていたものとは違う通知であることに落胆する。
いや、そもそも、ぼくが待っているものは来るはずがないのだ。何か約束しているわけでもない。ただ、ぼくが一方的に待っているだけなのだ。
もう何本目かわからない缶ビールを開けて、ぐいっと飲む。この苦味にも慣れてしまって、一本目の心地よさはもう感じられない。ただの酒だ。ぼくがこの夜を抜けて明日の朝を迎えるための道具でしかない。
ぼくはもう酔っていた。普段ならもう飲むのをやめて、ベッドに横になるところだ。でも、今日のぼくはまだ眠る気分ではなくて、心がざわついていた。このざわつきを鎮めなければ、ぼくはきっと眠れないだろう。あるいは、酔い潰れるのを待つしかない。
そこへ、聞き慣れない音が鳴った。ぼくは何の音かわからず、すぐには動けなかった。同じ音がもう一度鳴って、ようやくそれがインターホンの音であると認識した。
誰だ、こんな時間に。ぼくの友人だとしたら、スマートフォンに何か連絡してきそうなものだが、そんな連絡は来ていない。こんな夜更けに来るだなんて、いったい何者なのだろうか。
いつものぼくなら無視したことだろう。しかし、今日のぼくはやけに強気だった。酒を飲んで気が大きくなっていたのかもしれない。ぼくはふらつきながら玄関まで行って、ドアチェーンも掛けずにドアを開けた。
「よっ、元気にしてた?」
「……アリサ。どうして」
そこにいたのは見知った顔だった。コンビニのビニール袋を提げた彼女は、ぼくが何かを言う前にぼくの家に入ってくる。
アリサはぼくの大学の同級生だ。少し長めのショートヘアを茶色に染めて、大学生らしくピアスの穴もいくつか開けて、おしゃれにも気を遣う、可愛い女子大生だ。性格も快活で、友人も多い。ぼくみたいに物静かな人間とは対極にあるような、明るい女性だった。どうしてぼくと一緒にいてくれるのかわからないが、アリサとはよく一緒に行動している。
ぼくはアリサのことが好きだ。しかし、この気持ちを明かしたところで、アリサには届かないことくらい理解している。アリサにはもっと美しく、内面まで整っているような男性が相応しい。アリサ自身の好みは知らないが、とりあえずぼくは眼中にないことくらい、アリサの普段の態度を見ていればわかる。ぼくは仲の良い友人であって、それ以上の存在ではない。
そのはずなのに、アリサはどうしてこんな時間にぼくの家に来たのだろう。アリサは実家暮らしで、ぼくの家からは遠い。今からでは終電の時間に間に合わないのではないか。そんな時間に、しかも今日の夜に、アリサはいったい何をしに来たのだろうか。
「あら、ずいぶん飲んでるねぇ」
アリサは靴を脱いで、ぼくの横を抜けて我が物顔でぼくの部屋に入る。リビングのスペースに転がっている空き缶を見て、アリサはくすりと笑った。
「どうしたんだよ、こんな時間に」
「来ちゃいけなかった?」
「いや、そんなことはないけど」
むしろぼくはアリサが来てくれた喜びで胸が一杯だった。まさか会えるとは思っていなかったのだ。アリサの用件が何であれ、会いに来てくれたことが嬉しかった。
アリサはリビングのローテーブルの前に座った。ぼくはアリサの格好がいつも大学で会う時より綺麗だったことに気づいた。アリサはいつもカジュアルな格好をしているのに、今日はなんだか落ち着いた女性らしい服装をしている。何か、そういった気分だったのだろうか。
ぼくはアリサの隣に座り、先程開けたばかりの缶ビールを飲んだ。少しぬるくなっていた。
「で、何しに来たんだよ」
ぼくが再び問うと、アリサはふわりと微笑んで、言った。
「最愛の人に会うために」
「ふっ」
ぼくは笑ってしまった。缶ビールを飲んでいたら吹き出していたところだ。
「あ、笑ったな? あたしがどれだけ大変な思いをしてここに来たか、わかるでしょ?」
「わかるよ。親には何て言って来たんだよ」
「彼氏に会いに行くって言った」
「ははっ、アリサ、嘘が上手いな」
笑ったのはぼくだけだった。アリサは真面目な顔で続けた。
「最後の夜くらい好きにさせてって言ったら、お母さんがいいよって言ってくれたの。お父さんは寂しそうだったけど、そんなことよりもナオトに会いたかった」
ぼくは沈黙する。アリサが言っていることを咀嚼するのに時間がかかった。
最後の夜に、アリサは両親よりもぼくを選んだのだ。それはいったいどういうことなのだろうか。アリサは何を思って、ぼくを優先したのだろうか。
そう、アリサにとって今日は最後の夜なのだ。病院ではない場所で過ごせる、最後の夜。
アリサは不治の病を患っている。病名は教えてもらっていないからわからないが、とにかくアリサの身体は病に蝕まれていて、入退院を繰り返している。大学の講義にも満足に出席することができず、どうにかテストには出席して単位を取っているような状態だ。アリサはこの前退院してきたばかりなのに、明日また入院するのだ。そして、それがきっと最後の入院になる。もう病院から出てくることはない、とぼくはアリサから言われている。
なぜなら、アリサの余命はもう一か月もないからだ。
「あたしが頑張ってここまで来たのに、ナオトは独りで酒を楽しんでたんだね。邪魔だった?」
「そんなことない。アリサのことが心配で、眠れなかったんだ」
ぼくが本心を告白すると、アリサは満足げに笑った。
「よろしい。寝ちゃってたらどうしようかと思った」
「どうして先に連絡くれなかったんだよ。連絡くれたら駅まで迎えに行ったのに」
「嘘つき。来るなって言うでしょ。最後の夜くらい家族で過ごせって言うでしょ」
アリサに指摘されて、ぼくは言葉に詰まった。確かにそのとおりだと思った。病院の外で過ごせる最後の夜なのに、ただの友人の家で過ごすなんて、どうかしている。アリサが最後の夜のお供にぼくを選んでくれたのは嬉しいけれど、ぼくでよいのかとも思ってしまう。
「で? どうしてぼくなんだ? アリサなら他にも会いたい奴がいるだろ?」
ぼくの問いに、アリサはもう一度同じ答えを返した。
「最愛の人に会うために、って言ったでしょ」
「それがぼくだって?」
「そう。最後の夜くらい、好きな人と一緒にいたいじゃない?」
アリサはまっすぐにぼくを見つめていた。ぼくはアリサの瞳から目を逸らせなかった。
なんだ、これは。どういうことなんだ? アリサの好きな人が、ぼく?
最初は冗談だと思った。けれど、最後の夜の冗談としては、笑えない。もう病院の外に出られなくなるアリサが、ただの冗談のために、こんな夜中にぼくの家に来るだろうか。そんなはずがない。
アリサは本気なのだ。本気で、ぼくのことを好きだと言っているのだ。
酒でぼんやりとしていた頭が急に醒めた。酔っている場合ではない。ぼくは、ずっと秘めていた恋心を外に出すことができるのだ。アリサと同じ想いだと告げることができるのだ。
「だから、ナオトがどれだけ嫌がっても、あたしは今日ここに泊まるから」
「嫌がるわけないだろ。ぼくだって、アリサのことが好きだ」
ぼくが告白したのに、アリサは微笑みを浮かべただけだった。
「だめだよ、ナオト。あと一か月も生きられない女を好きになっちゃだめ」
「そんなこと言われたって、好きなものは好きなんだから、しょうがないだろ。アリサが何て言おうと、ぼくはアリサのことが好きだ」
アリサはぼくから視線を外した。ぐっと奥歯を噛み締めて、何かを堪えているように見えた。
しかし、次にぼくを見たアリサの表情は、大学でよく見た明るい笑顔だった。
「じゃあ、今日だけ、ナオトの彼女になってあげる」
「なんで今日だけなんだよ。入院したって会いに行けるだろ?」
アリサが入院しても見舞いに行くつもりだったぼくは、それが当然だと言わんばかりにアリサに訊いた。
「あぁ、うん、ええと、ね」
アリサは言葉を探しているようだった。それ自体が答えであるかのようだったが、ぼくはアリサの言葉を待った。直接言われるまで信じようとしなかった。
「もう、会えないの。家族とかじゃない限り、お見舞いはお断りなんだって」
「……どう、して?」
ぼくが絞り出した声をアリサが拾い上げて、聞きたくもない現実を突きつける。
「そういう病棟に入院するの。できるだけ外部の人との接触を避けたいんだって。だから、ナオトがあたしに会いに来るのは、無理なんじゃないかな」
「彼氏じゃ、だめなのか?」
「たぶんね。基本的には家族だけだし、家族の面会も最低限にって言われてるみたいだから」
ぼくは何も言えなかった。そういう決まりなのであれば、従わざるを得ないことはわかっている。でも、心は納得していなかった。その苛立ちをアリサにぶつけても何も変わらないから、
ぼくは黙ったまま俯いた。
「だから、今日だけナオトの彼女になってあげる。明日はもうお友達ね」
アリサが明るい声を出した。落ち込んだ雰囲気を盛り上げようとしているのだろう。
今日だけ。今夜だけ。あと数時間だけ。ぼくが手に入れた幸運は、明日には消え去ってしまう。そんなの、はいそうですかと言えるわけがない。
「嫌だ。ぼくは明日も、明後日も、アリサの彼氏でいたい」
「嬉しいけど、だめ。あたしのことは明日の朝にきれいさっぱり忘れて」
「できるわけないだろ。ぼくは、ぼくは、こんなにもアリサのことを想っているのに」
「あたしのことは忘れて、新しい女の子を探しなよ。もっと可愛くて、優しくて、健康な子がいいんじゃない?」
「それでいいのかよ。アリサはそれでいいのか? ぼくが他の女を好きになってもいいのか?」
アリサは辛そうに目を細めて、下を向いた。ふっと天井を見上げて、それからぼくを見た。
その瞳に涙が溜まっているのを、ぼくは見逃さなかった。
「いいわけないでしょ。ほんとは、あたしだってナオトとずっと一緒にいたいよ。でもできないんだから、諦めるしかないでしょ!」
それがアリサの本音だった。つうっと涙の筋ができて、頬から涙の雫が落ちる。一度零れ始めた涙は止められず、アリサの目からぽろぽろと零れていく。
ぼくはアリサの肩を抱いた。アリサは抵抗せず、ぼくの肩に身を預けた。
「一緒にいられないんだよ。あたしはもう死ぬんだよ。だから、あたしがナオトの幸せを奪うようなことをしちゃいけない」
「それでも、ぼくはアリサの彼氏でいたい。明日も、明後日も、その次も、ずっとアリサの彼氏でいたいんだ。アリサが嫌だって言っても、ぼくはアリサの彼氏を名乗るよ」
「嫌だなんて、言うわけないでしょ。嬉しいよ、嬉しいけどね、ナオトはそれでもいいの? あと一か月で死んじゃうような女と付き合っていいの?」
「いいよ。だって、好きなんだから。入院したって、会えなくたって、好きなんだから」
アリサは流れ落ちる涙を手で拭って、ぼくを見た。吸い込まれそうなその黒瞳に、ぼくは見惚れてしまった。
「あたしがもう入院するからって、嘘ついてない?」
「こんな嘘つくかよ。何度でも言うよ、ぼくはアリサが好きだ」
「あたしだって、ナオトが好き。ほんとはずっと言いたかったの。でも、ほら、病気のことがあったからさ、告白しても振られるんじゃないかと思って」
それは知らなかった。ぼくたちは両想いだったのだ。もしアリサの気持ちを知っていたら、ぼくたちはもっと早くに恋人になっていただろう。そうしたら、もっと長く恋人の関係を楽しむことができたのではないだろうか。こんな、たった数時間ではなくて。
アリサはぼくの肩に寄りかかったまま、ぼくと手を繋いだ。指を絡めて、恋人繋ぎ。アリサと初めて手を繋いだのが、こんな時間であることが恨めしく思えた。
「もっと、ナオトとこういうことしたかったなあ」
アリサはぽつりと呟く。ぼくは頷いて、アリサの手を握る自分の手に力を込めた。
「なあ、アリサ」
「ん?」
横を見ればアリサがいる。話しかければ応えてくれる。それがどんなに幸せなことなのか知るのは、きっと明日の朝なのだ。明朝、アリサがいなくなってから、ぼくは嫌と言うほどに思い知るのだろう。でも、それまでは。アリサがここにいるうちには、その幸せを感じていたい。
ぼくは空いている手で缶ビールを取り、喉に流し込んだ。もうすっかりぬるくなっていて、おいしくなかった。
「アリサは、本当にいなくなるのか? 急に良くなって、退院することはないのか?」
ぼくの疑問に、アリサは困ったような顔を見せた。
「ない。期待しないで。漫画とかドラマみたいに、急に良くなってハッピーエンド、なあんてことは現実には起こらないんだよ」
アリサは断言した。一縷の望みを抱くことすら許されていないのだ。アリサはいったいどういう気持ちで普段を過ごしていたのだろうか。常に死を意識させられる生活など、ぼくには耐えられそうもない。
「あたしは今日だけ彼氏になってくれればいいんだから。その先も彼氏でいるのが嫌になったら、いつだってやめていいんだからね」
「やめないよ。ぼくはもう、ずっとアリサの彼氏だ」
ぼくが言い切ると、アリサはやわらかい微笑みを浮かべた。
「じゃあ、お父さんとお母さんに紹介してもいい?」
「いいよ。明日の朝は家まで送るよ。そのついでに挨拶させてくれる?」
「いいの? あたしの彼氏ですって紹介したら、もう逃げられないよ?」
「何から逃げるんだよ。いいよ、紹介してくれよ。むしろそのほうが、アリサのお見舞いに連れて行ってくれるかもしれないし」
アリサはふふっと幸せそうに笑っただけだった。存在を確かめるようにぼくの手を握って、小さな声で言った。
「ねえ、ナオト」
「なに?」
「キスして」
アリサは不意にそう言って、ぼくのほうを見た。
ぼくはアリサと唇を重ねた。アリサの唇は柔らかくて、ずっと触れ合っていたいと思わせた。
唇が離れると、アリサは自分の唇を指でなぞった。それは官能的な動きで、ぼくはどきりとした。
「ふふ。キス、しちゃった」
「嬉しい?」
「うん。ほんとは、もっとしたかったんだけどなぁ」
それは残された時間の少なさを嘆く言葉だった。アリサに残された時間はもうわずかしかない。そのうち、ぼくと一緒に過ごせる時間は、たった数時間だけだ。これから寝る時間を考えれば、もう本当に少ししかない。
どうして、神様はこんなに意地悪なのだろうか。アリサが何をした? なぜアリサがこんな思いをしなければならない? アリサにばかり不幸を押し付けて、お前はいったいどんな顔をしている?
神への不満を心の中で唱えて、ぼくは缶ビールに手を伸ばす。缶はもう空だった。
「ナオト、まだ飲む? 持ってこようか?」
立ち上がろうとしたアリサを手で制して、ぼくはアリサに寄りかかった。
「もう要らない。アリサが来てくれたから」
「なにそれ。あたしはお酒じゃないよ」
「アリサがいなくなるのが寂しくて、眠れなかったんだ。だから酒を飲んで、酔い潰れようとしてたんだよ」
ぼくが正直に告白すると、アリサは笑った。先程まで泣いていたとは思えないくらい、輝いた笑顔だった。
「そんなにもあたしが好きだったんだ。ふぅん」
「そうだよ。好きだよ。悪いかよ」
「嬉しい。なんで、今日で最後なのかな」
アリサの瞳にはまた涙が溜まり始めていた。ぼくにはどうすることもできなくて、アリサの肩を抱いてその場を乗り切ろうとした。アリサはされるがままになっていた。
どうして今日で最後なのだろうか。せっかくぼくとアリサが恋人になれたというのに、どうしてあと数時間で別れなければならないのだろうか。神様は、幸福と不幸の配分を誤っているのではないだろうか。
「あーあ。死にたくないなあ」
アリサは軽い口調でそう言ったかと思うと、また涙を流した。俯くと涙の雫が零れ落ちていく。
「死にたく……ないなあ……」
アリサの言葉は切れ切れになって、小さな声とともにぼくの耳に届く。アリサはぐすんと鼻を啜って、ぼくの肩に寄りかかった。アリサの身体がとても小さく思えた。
ぼくは何と言えばよいのだろうか。何を言ってもアリサの励ましにはならないように思えた。だから、ぼくはアリサの肩に回した手で、アリサの背中を撫でてやった。
「せっかくナオトと恋人になれたのに、どこにも行けないなんてさぁ、寂しいよね」
「今から公園でも行くか?」
「やだよ。公園行ってどうするの。ここでこうしてるほうがいい」
アリサはぼくに寄りかかったまま体重を預ける。アリサがしたいことをすればいいと思い、ぼくは何も応えなかった。
「いろいろ行きたかった。遊園地も、有名なカフェも、おいしいお店も、ナオトと行きたい場所はいろいろあったのに、どうにもならないんだね」
「諦めるなよ。外泊できるかもしれないだろ」
「無理なの。もう、そんなこともできないの。ほんとはもっと前から入院したほうがよかったんだよ。でもあたしが嫌だって言って、今まで引き延ばしてもらったんだ」
ぼくは言葉に詰まってばかりだ。こう言ったらアリサを傷つけてしまうのではないかと不安で、思うように喋ることができなくなっていた。今まではそうではなかったのに、最後の夜だと思うと、やけに気を遣ってしまう。その躊躇いはアリサにも伝わっているようだった。
「そうだ、アリサ、何か今でもできることはないのか? やってみたかったこととか」
ぼくが明るい声で提案すると、アリサは涙を拭ってぼくを見た。
「何でもいい。ぼくができることなら何でもするよ」
「ええ、なんだろ、急に言われてもなぁ」
ぼくが場を明るくしようとしているのを察して、アリサも明るい声で応じる。最後の夜くらい、泣くのではなくて笑って終えてほしかった。
アリサはしばらく考え込んで、それからおずおずと言った。
「じゃあ、腕枕してほしい」
「腕枕? ああ、うん、いいよ」
ぼくはベッドに横になり、片腕を伸ばした。アリサは少し躊躇したが、ベッドに上がってくる。それからアリサはゆっくりとぼくの腕の上に頭を乗せた。アリサの頭の重みを感じて、まだアリサがここにいるのだと実感する。それがあと数時間しかないという現実からは目を背けた。
「おお、これが、腕枕かぁ」
アリサは嬉しそうに笑った。ぼくには何がよいのかわからなかったけれど、アリサが満足げにしていたから、これでよかったのだと自分を納得させた。
アリサの顔がすぐ近くにある。アリサは恥ずかしそうにしながら微笑む。
「なんか、ちょっと照れるね。こんな感じなんだ」
「思ったより近いんだな」
「ね。でも、幸せかも」
ぼくとアリサは見つめあって、どちらからともなくキスをした。触れ合うようなキスではなくて、もっと濃厚な、官能的なキスだった。
唇が離れると、アリサの瞳にはまた涙が浮かんだ。
「ごめん。泣いてばっかで、ごめんね、ナオト」
「いいんだ。ぼくの前で我慢しなくていい。好きなだけ泣きなよ」
「これで最後なんだ。明日にはもう、ナオトはいないんだ。それが寂しくて、辛くて、泣けてきちゃう」
ぼくはアリサを抱きしめた。ぼくの腕の中に収まったアリサは、声を上げて泣いた。
「なんで? なんで、今日しかないんだろう? どうしてもっと早くナオトに好きって言わなかったんだろう?」
「それは、ぼくにも責任がある。ぼくも、アリサが好きだって早く言えばよかった」
「ほんとだよ。ナオトがいろんな女の子と仲良いから、あたしが言えなかったんだよ」
それは関係ないだろうと思ったが、ぼくは口をつぐんだ。
「あたしがナオトの彼女なんだって、大学で言いふらしてくれる?」
「言いふらすことはないけど、訊かれたらそう答えるよ」
「あたしが死ぬまでは、彼氏でいてくれる?」
「アリサが死んでも、ぼくはアリサの彼氏だよ」
「ふふ。ほんとかなぁ」
アリサは泣きながら笑った。ぼくの想いが半分くらいしか届いていないような気がして、ぼくはアリサを抱く腕に力を込めた。
ぼくたちはしばらく抱き合っていた。沈黙が降りても、気まずさはなかった。むしろ心地よい静けさだった。
やがて、アリサが小声でぼくに言った。
「ねえ、ナオト。やりたいこと、もうひとつあった」
「なに?」
「何でもいいって、言ったよね?」
「言った。何でもいいよ」
アリサはしっかりとぼくの目を見て、最後の願いを口にした。
「あたしの初めてを、もらって?」
その意味がわからないほど子どもではない。ぼくはほんの少しの衝撃と、アリサを抱ける幸福感を覚えた。
そうか。ぼくたちは恋人なんだから、最後の夜の行為には相応しいじゃないか。
ぼくはアリサに覆い被さるように体勢を変えて、アリサの瞳を覗き込んだ。
「いいのか」
「いいよ。ナオトに抱いてほしい」
そう言って、アリサはぼくにキスした。
それが始まりの合図だった。ぼくはもう、自分を止めることができなかった。
その一か月後、アリサは死んだ。
ぼくのところに連絡が来たのは、アリサが死んでから数日後だった。アリサの両親から連絡が来た時、ぼくは思ったよりも平常心を崩さなかった。ああ、ついに来たんだなと思った程度だった。
けれど、ぼくを突き崩したのは、アリサがぼくに残した手紙だった。そんなものがあるとは思ってもみなかった。アリサの両親からその手紙を受け取り、自分の部屋で読んだ。
この手紙は、あたしが死んでから、ナオトに届けてほしいと頼んでいます。
だから、この手紙をナオトが読んでいる時、もうあたしはいません。
ごめんね。やっぱりあの夜が最後で、もう会えなかったね。彼女失格です。
あたしがナオトに手紙を書こうと思ったのは、目的があるからです。
あたしはもう死んだので、ナオトには新しい彼女を見つけてほしいと思っています。あたしに囚われることなく、自由に恋愛を楽しんでほしいと思っています。
そんなことできるわけないだろって言うと思うけど、頑張ってください。あたしはもういないし、会えないんだから、あたしに囚われる必要なんてありません。
お願いだから、あたしのことは思い出にしてください。いつまでも引きずらないで。
最後の夜、あたしを抱いてくれて、嬉しかった。
最後の夜、ずっと泣いてばっかだったけど、慰めてくれて嬉しかった。
あの夜のことを思い出して泣くことはあったけれど、大切な思い出をくれて、ありがとう。
あたしは星になります。夜空を見上げて、とっても綺麗な星があったら、それがあたしです。ナオトなら見つけてくれると信じています。
じゃあね、ナオト。あたしはナオトの幸せを願っています。
ぼくは手紙を握りしめて、泣いた。泣くことしかできなかった。
アリサの願いなんて叶えられそうもなかった。だって、アリサが死んだ今も、ぼくはこんなにもアリサのことを愛しているのだから。
アリサに言われた通り、夜空の星を見上げてみた。けれど、どれも同じような星に見えて、どれがアリサかなんてわかるはずもなかった。
星になんてならなくていいんだ。ただ、生きていてくれたら、それでよかったのに。
ぼくは慟哭した。ぼくを慰めてくれる人は、誰もいなかった。
ぼくは自分しかいないワンルームの部屋で、独りで酒を飲んでいた。そうでもしないとこの夜を越すことができなかった。居酒屋に行くことも考えたけれど、自分の部屋のほうが泥酔できるし、寝たいと思ったらいつでもベッドで寝ることができるから、ぼくは自分の部屋を選んだ。結果的に、この選択は間違っていなかったと思う。
スマートフォンが震えるたびに、ぼくは慌てて画面を見る。そして、待っていたものとは違う通知であることに落胆する。
いや、そもそも、ぼくが待っているものは来るはずがないのだ。何か約束しているわけでもない。ただ、ぼくが一方的に待っているだけなのだ。
もう何本目かわからない缶ビールを開けて、ぐいっと飲む。この苦味にも慣れてしまって、一本目の心地よさはもう感じられない。ただの酒だ。ぼくがこの夜を抜けて明日の朝を迎えるための道具でしかない。
ぼくはもう酔っていた。普段ならもう飲むのをやめて、ベッドに横になるところだ。でも、今日のぼくはまだ眠る気分ではなくて、心がざわついていた。このざわつきを鎮めなければ、ぼくはきっと眠れないだろう。あるいは、酔い潰れるのを待つしかない。
そこへ、聞き慣れない音が鳴った。ぼくは何の音かわからず、すぐには動けなかった。同じ音がもう一度鳴って、ようやくそれがインターホンの音であると認識した。
誰だ、こんな時間に。ぼくの友人だとしたら、スマートフォンに何か連絡してきそうなものだが、そんな連絡は来ていない。こんな夜更けに来るだなんて、いったい何者なのだろうか。
いつものぼくなら無視したことだろう。しかし、今日のぼくはやけに強気だった。酒を飲んで気が大きくなっていたのかもしれない。ぼくはふらつきながら玄関まで行って、ドアチェーンも掛けずにドアを開けた。
「よっ、元気にしてた?」
「……アリサ。どうして」
そこにいたのは見知った顔だった。コンビニのビニール袋を提げた彼女は、ぼくが何かを言う前にぼくの家に入ってくる。
アリサはぼくの大学の同級生だ。少し長めのショートヘアを茶色に染めて、大学生らしくピアスの穴もいくつか開けて、おしゃれにも気を遣う、可愛い女子大生だ。性格も快活で、友人も多い。ぼくみたいに物静かな人間とは対極にあるような、明るい女性だった。どうしてぼくと一緒にいてくれるのかわからないが、アリサとはよく一緒に行動している。
ぼくはアリサのことが好きだ。しかし、この気持ちを明かしたところで、アリサには届かないことくらい理解している。アリサにはもっと美しく、内面まで整っているような男性が相応しい。アリサ自身の好みは知らないが、とりあえずぼくは眼中にないことくらい、アリサの普段の態度を見ていればわかる。ぼくは仲の良い友人であって、それ以上の存在ではない。
そのはずなのに、アリサはどうしてこんな時間にぼくの家に来たのだろう。アリサは実家暮らしで、ぼくの家からは遠い。今からでは終電の時間に間に合わないのではないか。そんな時間に、しかも今日の夜に、アリサはいったい何をしに来たのだろうか。
「あら、ずいぶん飲んでるねぇ」
アリサは靴を脱いで、ぼくの横を抜けて我が物顔でぼくの部屋に入る。リビングのスペースに転がっている空き缶を見て、アリサはくすりと笑った。
「どうしたんだよ、こんな時間に」
「来ちゃいけなかった?」
「いや、そんなことはないけど」
むしろぼくはアリサが来てくれた喜びで胸が一杯だった。まさか会えるとは思っていなかったのだ。アリサの用件が何であれ、会いに来てくれたことが嬉しかった。
アリサはリビングのローテーブルの前に座った。ぼくはアリサの格好がいつも大学で会う時より綺麗だったことに気づいた。アリサはいつもカジュアルな格好をしているのに、今日はなんだか落ち着いた女性らしい服装をしている。何か、そういった気分だったのだろうか。
ぼくはアリサの隣に座り、先程開けたばかりの缶ビールを飲んだ。少しぬるくなっていた。
「で、何しに来たんだよ」
ぼくが再び問うと、アリサはふわりと微笑んで、言った。
「最愛の人に会うために」
「ふっ」
ぼくは笑ってしまった。缶ビールを飲んでいたら吹き出していたところだ。
「あ、笑ったな? あたしがどれだけ大変な思いをしてここに来たか、わかるでしょ?」
「わかるよ。親には何て言って来たんだよ」
「彼氏に会いに行くって言った」
「ははっ、アリサ、嘘が上手いな」
笑ったのはぼくだけだった。アリサは真面目な顔で続けた。
「最後の夜くらい好きにさせてって言ったら、お母さんがいいよって言ってくれたの。お父さんは寂しそうだったけど、そんなことよりもナオトに会いたかった」
ぼくは沈黙する。アリサが言っていることを咀嚼するのに時間がかかった。
最後の夜に、アリサは両親よりもぼくを選んだのだ。それはいったいどういうことなのだろうか。アリサは何を思って、ぼくを優先したのだろうか。
そう、アリサにとって今日は最後の夜なのだ。病院ではない場所で過ごせる、最後の夜。
アリサは不治の病を患っている。病名は教えてもらっていないからわからないが、とにかくアリサの身体は病に蝕まれていて、入退院を繰り返している。大学の講義にも満足に出席することができず、どうにかテストには出席して単位を取っているような状態だ。アリサはこの前退院してきたばかりなのに、明日また入院するのだ。そして、それがきっと最後の入院になる。もう病院から出てくることはない、とぼくはアリサから言われている。
なぜなら、アリサの余命はもう一か月もないからだ。
「あたしが頑張ってここまで来たのに、ナオトは独りで酒を楽しんでたんだね。邪魔だった?」
「そんなことない。アリサのことが心配で、眠れなかったんだ」
ぼくが本心を告白すると、アリサは満足げに笑った。
「よろしい。寝ちゃってたらどうしようかと思った」
「どうして先に連絡くれなかったんだよ。連絡くれたら駅まで迎えに行ったのに」
「嘘つき。来るなって言うでしょ。最後の夜くらい家族で過ごせって言うでしょ」
アリサに指摘されて、ぼくは言葉に詰まった。確かにそのとおりだと思った。病院の外で過ごせる最後の夜なのに、ただの友人の家で過ごすなんて、どうかしている。アリサが最後の夜のお供にぼくを選んでくれたのは嬉しいけれど、ぼくでよいのかとも思ってしまう。
「で? どうしてぼくなんだ? アリサなら他にも会いたい奴がいるだろ?」
ぼくの問いに、アリサはもう一度同じ答えを返した。
「最愛の人に会うために、って言ったでしょ」
「それがぼくだって?」
「そう。最後の夜くらい、好きな人と一緒にいたいじゃない?」
アリサはまっすぐにぼくを見つめていた。ぼくはアリサの瞳から目を逸らせなかった。
なんだ、これは。どういうことなんだ? アリサの好きな人が、ぼく?
最初は冗談だと思った。けれど、最後の夜の冗談としては、笑えない。もう病院の外に出られなくなるアリサが、ただの冗談のために、こんな夜中にぼくの家に来るだろうか。そんなはずがない。
アリサは本気なのだ。本気で、ぼくのことを好きだと言っているのだ。
酒でぼんやりとしていた頭が急に醒めた。酔っている場合ではない。ぼくは、ずっと秘めていた恋心を外に出すことができるのだ。アリサと同じ想いだと告げることができるのだ。
「だから、ナオトがどれだけ嫌がっても、あたしは今日ここに泊まるから」
「嫌がるわけないだろ。ぼくだって、アリサのことが好きだ」
ぼくが告白したのに、アリサは微笑みを浮かべただけだった。
「だめだよ、ナオト。あと一か月も生きられない女を好きになっちゃだめ」
「そんなこと言われたって、好きなものは好きなんだから、しょうがないだろ。アリサが何て言おうと、ぼくはアリサのことが好きだ」
アリサはぼくから視線を外した。ぐっと奥歯を噛み締めて、何かを堪えているように見えた。
しかし、次にぼくを見たアリサの表情は、大学でよく見た明るい笑顔だった。
「じゃあ、今日だけ、ナオトの彼女になってあげる」
「なんで今日だけなんだよ。入院したって会いに行けるだろ?」
アリサが入院しても見舞いに行くつもりだったぼくは、それが当然だと言わんばかりにアリサに訊いた。
「あぁ、うん、ええと、ね」
アリサは言葉を探しているようだった。それ自体が答えであるかのようだったが、ぼくはアリサの言葉を待った。直接言われるまで信じようとしなかった。
「もう、会えないの。家族とかじゃない限り、お見舞いはお断りなんだって」
「……どう、して?」
ぼくが絞り出した声をアリサが拾い上げて、聞きたくもない現実を突きつける。
「そういう病棟に入院するの。できるだけ外部の人との接触を避けたいんだって。だから、ナオトがあたしに会いに来るのは、無理なんじゃないかな」
「彼氏じゃ、だめなのか?」
「たぶんね。基本的には家族だけだし、家族の面会も最低限にって言われてるみたいだから」
ぼくは何も言えなかった。そういう決まりなのであれば、従わざるを得ないことはわかっている。でも、心は納得していなかった。その苛立ちをアリサにぶつけても何も変わらないから、
ぼくは黙ったまま俯いた。
「だから、今日だけナオトの彼女になってあげる。明日はもうお友達ね」
アリサが明るい声を出した。落ち込んだ雰囲気を盛り上げようとしているのだろう。
今日だけ。今夜だけ。あと数時間だけ。ぼくが手に入れた幸運は、明日には消え去ってしまう。そんなの、はいそうですかと言えるわけがない。
「嫌だ。ぼくは明日も、明後日も、アリサの彼氏でいたい」
「嬉しいけど、だめ。あたしのことは明日の朝にきれいさっぱり忘れて」
「できるわけないだろ。ぼくは、ぼくは、こんなにもアリサのことを想っているのに」
「あたしのことは忘れて、新しい女の子を探しなよ。もっと可愛くて、優しくて、健康な子がいいんじゃない?」
「それでいいのかよ。アリサはそれでいいのか? ぼくが他の女を好きになってもいいのか?」
アリサは辛そうに目を細めて、下を向いた。ふっと天井を見上げて、それからぼくを見た。
その瞳に涙が溜まっているのを、ぼくは見逃さなかった。
「いいわけないでしょ。ほんとは、あたしだってナオトとずっと一緒にいたいよ。でもできないんだから、諦めるしかないでしょ!」
それがアリサの本音だった。つうっと涙の筋ができて、頬から涙の雫が落ちる。一度零れ始めた涙は止められず、アリサの目からぽろぽろと零れていく。
ぼくはアリサの肩を抱いた。アリサは抵抗せず、ぼくの肩に身を預けた。
「一緒にいられないんだよ。あたしはもう死ぬんだよ。だから、あたしがナオトの幸せを奪うようなことをしちゃいけない」
「それでも、ぼくはアリサの彼氏でいたい。明日も、明後日も、その次も、ずっとアリサの彼氏でいたいんだ。アリサが嫌だって言っても、ぼくはアリサの彼氏を名乗るよ」
「嫌だなんて、言うわけないでしょ。嬉しいよ、嬉しいけどね、ナオトはそれでもいいの? あと一か月で死んじゃうような女と付き合っていいの?」
「いいよ。だって、好きなんだから。入院したって、会えなくたって、好きなんだから」
アリサは流れ落ちる涙を手で拭って、ぼくを見た。吸い込まれそうなその黒瞳に、ぼくは見惚れてしまった。
「あたしがもう入院するからって、嘘ついてない?」
「こんな嘘つくかよ。何度でも言うよ、ぼくはアリサが好きだ」
「あたしだって、ナオトが好き。ほんとはずっと言いたかったの。でも、ほら、病気のことがあったからさ、告白しても振られるんじゃないかと思って」
それは知らなかった。ぼくたちは両想いだったのだ。もしアリサの気持ちを知っていたら、ぼくたちはもっと早くに恋人になっていただろう。そうしたら、もっと長く恋人の関係を楽しむことができたのではないだろうか。こんな、たった数時間ではなくて。
アリサはぼくの肩に寄りかかったまま、ぼくと手を繋いだ。指を絡めて、恋人繋ぎ。アリサと初めて手を繋いだのが、こんな時間であることが恨めしく思えた。
「もっと、ナオトとこういうことしたかったなあ」
アリサはぽつりと呟く。ぼくは頷いて、アリサの手を握る自分の手に力を込めた。
「なあ、アリサ」
「ん?」
横を見ればアリサがいる。話しかければ応えてくれる。それがどんなに幸せなことなのか知るのは、きっと明日の朝なのだ。明朝、アリサがいなくなってから、ぼくは嫌と言うほどに思い知るのだろう。でも、それまでは。アリサがここにいるうちには、その幸せを感じていたい。
ぼくは空いている手で缶ビールを取り、喉に流し込んだ。もうすっかりぬるくなっていて、おいしくなかった。
「アリサは、本当にいなくなるのか? 急に良くなって、退院することはないのか?」
ぼくの疑問に、アリサは困ったような顔を見せた。
「ない。期待しないで。漫画とかドラマみたいに、急に良くなってハッピーエンド、なあんてことは現実には起こらないんだよ」
アリサは断言した。一縷の望みを抱くことすら許されていないのだ。アリサはいったいどういう気持ちで普段を過ごしていたのだろうか。常に死を意識させられる生活など、ぼくには耐えられそうもない。
「あたしは今日だけ彼氏になってくれればいいんだから。その先も彼氏でいるのが嫌になったら、いつだってやめていいんだからね」
「やめないよ。ぼくはもう、ずっとアリサの彼氏だ」
ぼくが言い切ると、アリサはやわらかい微笑みを浮かべた。
「じゃあ、お父さんとお母さんに紹介してもいい?」
「いいよ。明日の朝は家まで送るよ。そのついでに挨拶させてくれる?」
「いいの? あたしの彼氏ですって紹介したら、もう逃げられないよ?」
「何から逃げるんだよ。いいよ、紹介してくれよ。むしろそのほうが、アリサのお見舞いに連れて行ってくれるかもしれないし」
アリサはふふっと幸せそうに笑っただけだった。存在を確かめるようにぼくの手を握って、小さな声で言った。
「ねえ、ナオト」
「なに?」
「キスして」
アリサは不意にそう言って、ぼくのほうを見た。
ぼくはアリサと唇を重ねた。アリサの唇は柔らかくて、ずっと触れ合っていたいと思わせた。
唇が離れると、アリサは自分の唇を指でなぞった。それは官能的な動きで、ぼくはどきりとした。
「ふふ。キス、しちゃった」
「嬉しい?」
「うん。ほんとは、もっとしたかったんだけどなぁ」
それは残された時間の少なさを嘆く言葉だった。アリサに残された時間はもうわずかしかない。そのうち、ぼくと一緒に過ごせる時間は、たった数時間だけだ。これから寝る時間を考えれば、もう本当に少ししかない。
どうして、神様はこんなに意地悪なのだろうか。アリサが何をした? なぜアリサがこんな思いをしなければならない? アリサにばかり不幸を押し付けて、お前はいったいどんな顔をしている?
神への不満を心の中で唱えて、ぼくは缶ビールに手を伸ばす。缶はもう空だった。
「ナオト、まだ飲む? 持ってこようか?」
立ち上がろうとしたアリサを手で制して、ぼくはアリサに寄りかかった。
「もう要らない。アリサが来てくれたから」
「なにそれ。あたしはお酒じゃないよ」
「アリサがいなくなるのが寂しくて、眠れなかったんだ。だから酒を飲んで、酔い潰れようとしてたんだよ」
ぼくが正直に告白すると、アリサは笑った。先程まで泣いていたとは思えないくらい、輝いた笑顔だった。
「そんなにもあたしが好きだったんだ。ふぅん」
「そうだよ。好きだよ。悪いかよ」
「嬉しい。なんで、今日で最後なのかな」
アリサの瞳にはまた涙が溜まり始めていた。ぼくにはどうすることもできなくて、アリサの肩を抱いてその場を乗り切ろうとした。アリサはされるがままになっていた。
どうして今日で最後なのだろうか。せっかくぼくとアリサが恋人になれたというのに、どうしてあと数時間で別れなければならないのだろうか。神様は、幸福と不幸の配分を誤っているのではないだろうか。
「あーあ。死にたくないなあ」
アリサは軽い口調でそう言ったかと思うと、また涙を流した。俯くと涙の雫が零れ落ちていく。
「死にたく……ないなあ……」
アリサの言葉は切れ切れになって、小さな声とともにぼくの耳に届く。アリサはぐすんと鼻を啜って、ぼくの肩に寄りかかった。アリサの身体がとても小さく思えた。
ぼくは何と言えばよいのだろうか。何を言ってもアリサの励ましにはならないように思えた。だから、ぼくはアリサの肩に回した手で、アリサの背中を撫でてやった。
「せっかくナオトと恋人になれたのに、どこにも行けないなんてさぁ、寂しいよね」
「今から公園でも行くか?」
「やだよ。公園行ってどうするの。ここでこうしてるほうがいい」
アリサはぼくに寄りかかったまま体重を預ける。アリサがしたいことをすればいいと思い、ぼくは何も応えなかった。
「いろいろ行きたかった。遊園地も、有名なカフェも、おいしいお店も、ナオトと行きたい場所はいろいろあったのに、どうにもならないんだね」
「諦めるなよ。外泊できるかもしれないだろ」
「無理なの。もう、そんなこともできないの。ほんとはもっと前から入院したほうがよかったんだよ。でもあたしが嫌だって言って、今まで引き延ばしてもらったんだ」
ぼくは言葉に詰まってばかりだ。こう言ったらアリサを傷つけてしまうのではないかと不安で、思うように喋ることができなくなっていた。今まではそうではなかったのに、最後の夜だと思うと、やけに気を遣ってしまう。その躊躇いはアリサにも伝わっているようだった。
「そうだ、アリサ、何か今でもできることはないのか? やってみたかったこととか」
ぼくが明るい声で提案すると、アリサは涙を拭ってぼくを見た。
「何でもいい。ぼくができることなら何でもするよ」
「ええ、なんだろ、急に言われてもなぁ」
ぼくが場を明るくしようとしているのを察して、アリサも明るい声で応じる。最後の夜くらい、泣くのではなくて笑って終えてほしかった。
アリサはしばらく考え込んで、それからおずおずと言った。
「じゃあ、腕枕してほしい」
「腕枕? ああ、うん、いいよ」
ぼくはベッドに横になり、片腕を伸ばした。アリサは少し躊躇したが、ベッドに上がってくる。それからアリサはゆっくりとぼくの腕の上に頭を乗せた。アリサの頭の重みを感じて、まだアリサがここにいるのだと実感する。それがあと数時間しかないという現実からは目を背けた。
「おお、これが、腕枕かぁ」
アリサは嬉しそうに笑った。ぼくには何がよいのかわからなかったけれど、アリサが満足げにしていたから、これでよかったのだと自分を納得させた。
アリサの顔がすぐ近くにある。アリサは恥ずかしそうにしながら微笑む。
「なんか、ちょっと照れるね。こんな感じなんだ」
「思ったより近いんだな」
「ね。でも、幸せかも」
ぼくとアリサは見つめあって、どちらからともなくキスをした。触れ合うようなキスではなくて、もっと濃厚な、官能的なキスだった。
唇が離れると、アリサの瞳にはまた涙が浮かんだ。
「ごめん。泣いてばっかで、ごめんね、ナオト」
「いいんだ。ぼくの前で我慢しなくていい。好きなだけ泣きなよ」
「これで最後なんだ。明日にはもう、ナオトはいないんだ。それが寂しくて、辛くて、泣けてきちゃう」
ぼくはアリサを抱きしめた。ぼくの腕の中に収まったアリサは、声を上げて泣いた。
「なんで? なんで、今日しかないんだろう? どうしてもっと早くナオトに好きって言わなかったんだろう?」
「それは、ぼくにも責任がある。ぼくも、アリサが好きだって早く言えばよかった」
「ほんとだよ。ナオトがいろんな女の子と仲良いから、あたしが言えなかったんだよ」
それは関係ないだろうと思ったが、ぼくは口をつぐんだ。
「あたしがナオトの彼女なんだって、大学で言いふらしてくれる?」
「言いふらすことはないけど、訊かれたらそう答えるよ」
「あたしが死ぬまでは、彼氏でいてくれる?」
「アリサが死んでも、ぼくはアリサの彼氏だよ」
「ふふ。ほんとかなぁ」
アリサは泣きながら笑った。ぼくの想いが半分くらいしか届いていないような気がして、ぼくはアリサを抱く腕に力を込めた。
ぼくたちはしばらく抱き合っていた。沈黙が降りても、気まずさはなかった。むしろ心地よい静けさだった。
やがて、アリサが小声でぼくに言った。
「ねえ、ナオト。やりたいこと、もうひとつあった」
「なに?」
「何でもいいって、言ったよね?」
「言った。何でもいいよ」
アリサはしっかりとぼくの目を見て、最後の願いを口にした。
「あたしの初めてを、もらって?」
その意味がわからないほど子どもではない。ぼくはほんの少しの衝撃と、アリサを抱ける幸福感を覚えた。
そうか。ぼくたちは恋人なんだから、最後の夜の行為には相応しいじゃないか。
ぼくはアリサに覆い被さるように体勢を変えて、アリサの瞳を覗き込んだ。
「いいのか」
「いいよ。ナオトに抱いてほしい」
そう言って、アリサはぼくにキスした。
それが始まりの合図だった。ぼくはもう、自分を止めることができなかった。
その一か月後、アリサは死んだ。
ぼくのところに連絡が来たのは、アリサが死んでから数日後だった。アリサの両親から連絡が来た時、ぼくは思ったよりも平常心を崩さなかった。ああ、ついに来たんだなと思った程度だった。
けれど、ぼくを突き崩したのは、アリサがぼくに残した手紙だった。そんなものがあるとは思ってもみなかった。アリサの両親からその手紙を受け取り、自分の部屋で読んだ。
この手紙は、あたしが死んでから、ナオトに届けてほしいと頼んでいます。
だから、この手紙をナオトが読んでいる時、もうあたしはいません。
ごめんね。やっぱりあの夜が最後で、もう会えなかったね。彼女失格です。
あたしがナオトに手紙を書こうと思ったのは、目的があるからです。
あたしはもう死んだので、ナオトには新しい彼女を見つけてほしいと思っています。あたしに囚われることなく、自由に恋愛を楽しんでほしいと思っています。
そんなことできるわけないだろって言うと思うけど、頑張ってください。あたしはもういないし、会えないんだから、あたしに囚われる必要なんてありません。
お願いだから、あたしのことは思い出にしてください。いつまでも引きずらないで。
最後の夜、あたしを抱いてくれて、嬉しかった。
最後の夜、ずっと泣いてばっかだったけど、慰めてくれて嬉しかった。
あの夜のことを思い出して泣くことはあったけれど、大切な思い出をくれて、ありがとう。
あたしは星になります。夜空を見上げて、とっても綺麗な星があったら、それがあたしです。ナオトなら見つけてくれると信じています。
じゃあね、ナオト。あたしはナオトの幸せを願っています。
ぼくは手紙を握りしめて、泣いた。泣くことしかできなかった。
アリサの願いなんて叶えられそうもなかった。だって、アリサが死んだ今も、ぼくはこんなにもアリサのことを愛しているのだから。
アリサに言われた通り、夜空の星を見上げてみた。けれど、どれも同じような星に見えて、どれがアリサかなんてわかるはずもなかった。
星になんてならなくていいんだ。ただ、生きていてくれたら、それでよかったのに。
ぼくは慟哭した。ぼくを慰めてくれる人は、誰もいなかった。