あ——、なんというかもう、きっと無理だ。
 
 二十歳が終わる夜、僕は独りだった。
 生活するには狭い部屋が妙に広く感じる。
 なにを呟いても、一人暮らしの空間に返ってくる言葉はない。
 口から(こぼ)れては、消えるだけ。
 音楽は全て雑音に聞こえて、小説は目が散って文字すらまともに追えない。
 
 手元の原稿は一文字も進まない。
 僕がわからなくなっていく。
 そして情けなく、助けを求めてしまう。
 
 ——『(あさ)先生』
 
 ◇◇◇
 
 温かみのある明かりが(とも)る小料理屋。
 入店を歓迎する朗らかな声へ反射的に頭を下げながら、案内された個室へ向かう。
 (ふすま)を開けた先で、僕に光を差してくれた人が待っていた。
 僕に気がついて振り向くその人の柔らかい笑い方に、堅苦しい会釈(えしゃく)を返してしまった。そんな無愛想な僕へも構わず、その人は胸元で小さく手を振った。(そで)には(かす)かに、チョークの跡が残っている。
 
夏目(なつめ)君、久しぶりだね。お誘いありがと」
 
「いえ、こちらこそ急だったのに——すみません」
 
 二十一歳になって、初めて誰かと言葉を交わした。
 相手は——中学三年の頃の担任。
 僕にただ一人まっすぐ向き合ってくれた当時新任の女性教師。
 
「見慣れないアドレスから連絡が来たから誰かと思ったよ」
 
 茶化すように呟きながら、先生は立ち尽くす僕を席につくよう促した。
 そんなに緊張しないの、とくっきり笑窪(えくぼ)を浮かばせる。
 そして運ばれてきたグラスを受け取り、その片方を微笑みながら僕の前へ置いた。
 切り揃えられた黒髪は背中まで伸びていて、身につけている腕時計は上品さを帯びた物になっていた。それでも、その柔らかな雰囲気は中学三年生当時の記憶と綺麗に重なる。 
 僕は、この人に会いたかった。そして——。
 この人のことが好きだった、と。
 
「夏目君お酒は呑む?」
 
「僕、まだ呑んだことないんです。ちょっと抵抗があって」
 
「そっか、それなら私も今日は呑まない! 料理は先に頼んであるから追加したいのがあったら言ってね」
 
 その砕けた雰囲気と口調に、強張った心臓が解かれていく。
 そんな先生を見て、確かな懐かしさを感じた。僕にとっての恋愛、青春そのものだったから。
 ただ、僕は先生の姿をあまりよく覚えていない。
 黒板に字を書く指先も、教科書を朗読する声も、返却された提出物に添えられた字も、全て曖昧。
 それでも僕が先生を好きになったのは——。
 
「小説は、まだ書いてるの?」
 
「それは——」
 
 形すらない心を、教えてくれたからだった。
 
 ◇◇
 
 中学三年、夏。
 四日に一冊のペースで郵便受けに小説が届けられるようになった。
 差出人は——。
 
 ——担任 倉橋(くらはし) 旭 
 
 不登校だった僕にとって、それが先生との始まり。
 現代ファンタジー、異世界ファンタジー、恋愛、ミステリー……。時間を持て余していた僕は与えられるまま字を辿った。
 正直好みに合わない物語に出会うことも多かったけれど、読み終えるまでの過程を苦痛と感じることはなかった。
 一冊読んでは、郵便受けへ戻す。差し替えられた新たな小説を読み、戻す。その繰り返し。
 そうして各ジャンルを複数回読み終えた秋頃、僕はあることに気づく。
 規則性もなく届けられる物語には『ハッピーエンド』という共通点があった。 
 それがなにか僕へのメッセージのように感じたその日の放課後、僕は生徒の行き来が少ない職員玄関から『倉橋旭』を訪ねた。
 
「君が夏目君か! 初めまして、担任の倉橋旭です」
 
 職員室の奥から小柄な女性が駆け足気味に近寄ってきた。走る振動によって襟元で切り揃えられた黒髪が無邪気に揺れている。律儀に小説を届けるという点から、穏やかな女性を想像していた僕は一瞬人違いを疑った。けれど、一つだけ空席となった本が積み上げられているデスクが目に入った時『この人が倉橋 旭先生だ』と理解した。
 
「初めまして、あの、小説——届けてくれてありがとうございます」
 
「いえいえ! 押し付けるような形になっちゃってちょっと申し訳ないけど……もしかして、全部読んでくれてるの?」
 
 頷く僕に感動した様子で先生は目を見開く。
 そして数秒前の『申し訳ないけど』を打ち消すように『どうだった⁉︎』と興奮気味に問う。
 忙しい人、と思ったけれど嫌な気はしなかった。というより、その忙しさが僕には新鮮で嬉しさすら感じた。
 部屋にこもってばかりの僕はひさしぶりに、人が心から笑う顔を見た。
 
「読みました。でも届けられる物語が全部ハッピーエンドなこと、それに担任の先生が小説だけを届けるって不思議で」
 
「夏目君、いいところに目をつけるねぇ」
 
 企んだ表情のまま、先生はなにかを噛み締めるように首を何度か上下させる。
 そして一呼吸おいた後、満を持して口を開き『最初に一つ』と勢いよく人差し指を立てた。
 
「私は夏目君に心を知ってほしかったんだっ」
 
 自信に満ち溢れた言葉の意味を、僕はその唐突さ(ゆえ)に理解できなかった。
 職員室前の廊下で話すよりもリラックスできるから、と先生は僕の手を引き自身のデスクへ招く。先ほど目に入った本が積み上げられたデスクは、やっぱり先生のものだった。
 
「言葉ってね、紡いだ人の心の形なんだよ」
 
 腰あたりまで積まれた本の表紙を撫でながら告げられる言葉には、妙に深い意味が込められている気がした。
 無意識に首を傾げてしまった僕の目を見つめながら「そんなこと言われても難しいよね」と呟く。
 それからもう一度僕を見つめて、今度は「だから聴いてほしいんだ」と告げた。
 
「私は夏目君を知らない、だから夏目君の心なんてもっとわからない」
 
「それは、確かにそうですけど——」
 
「だから突然だけど夏目君、小説を書いてみない?」
 
 本当に言葉の通り『突然』だった。
 聴いてほしい、から始まった会話にしては急展開すぎる。
 戸惑っている僕がおかしいのかと錯覚してしまうほど、先生は平然とした様子で説明を続ける。
 
「考えていることとか、好きなこととか。そんな自分自身も見失っちゃうくらい繊細なことを言葉に表してほしいの」
 
「もし書いたとして、僕はそれをどうすればいいんですか……?」
 
「どうする必要もないけど……もしよければ、私に読ませてくれたら嬉しいなぁって思う。夏目君は私のクラスの生徒だからね、どんな人か知りたいの」
 
「授業の一環かなにかですか、課題とかそういう——」
 
「いや、全く?」
 
 先生の言葉は、きっと嘘じゃない。
 本当にただ『僕』に向けて、心を教えてくれようとしている。
 
「強引に学校へ連れ出すことよりも、遥かに大切だと思うんだよね。自分自身を知るって、理由があって避けてる環境で嫌々授業を受けることより生きることに役立つと思わない? ごめんね、ちょっとめんどくさいでしょ。でもね、私が教師になって教えたいことってそういう考えることすら忘れちゃうようなことばっかりなんだ」
 
 職員室でこんなこと言っちゃよくないね、と先生は口元へ無邪気に人差し指を添える。
 僕と先生の会話が聞こえていたのか、周辺のデスクで数分前まで険しい顔をしていた教師の口角が(なご)やかに(ゆる)んでいた。この先生は普段から、こんな感じなのだろう。
 まっすぐな先生の言葉は、僕の頭に残っていた。
 言葉は、紡いだ人の心の形。それならきっとこの先生は、まっすぐな心の持ち主だ。
 
「それじゃあ、ハッピーエンドの理由って……」
 
「夏目君に届けた本は全部私が好きな物語たち。つまり私はハッピーエンドが好き! 誰かが幸せに包まれるような物語が好き、そういう遠回りな私の自己紹介だよ」
 
 単純だった、でもそれがなによりわかりやすい『まっすぐ』の証明だった。
 僕は、この人を、この人の言葉を信じてみたい。

 それからは途絶えることなく届けられる小説を読みながら、僕自身の物語を紡ぐ日々が始まった。
 そしてそれを月に一度、先生の元へ届ける。
 職員室で先生を訪ねる度、いらっしゃい! と歓迎してくれる声に僕の心が照らされた。
 手渡した原稿を隣で読まれている時の鼓動は妙に騒がしくて、初めて感じる種類の恥ずかしさを覚えたこともあった。
 心を(さら)け出すような、(まと)っているものを剥がされるような、そんな感覚は先生が相手であることを理由に抵抗を感じなかった。
 それを、卒業まで続けた。
 その中でいつの間にか、なにもなかった僕の中に大きすぎる光が宿っていた。
 
 ——小説家になりたい。
 
 生まれて初めて抱いた、僕の夢。
 非現実的な夢だと思う。
 小説家は年齢も資格も問われないけれど、その反面確実になれるなんて保証もない。
 秀でた文才を持ち合わせていない僕が抱えるには、無謀すぎる夢。
 ただそんな夢すら、先生は包み込んでくれた。
 あの夏に届けてくれた全てのハッピーエンドのように。
 
 ——心がわからなくなったり、わかりすぎて息が詰まったらここに連絡すること。
 
 最後に卒業祝いとして渡された小説の最後に、そう記された手紙が挟まっていた。
 その物語は過去に読んだどの物語よりも主人公が傷つき、振り回された。それでも最後は救われ、そして報われる。
 僕の中で最高のハッピーエンドとなって先生の言葉や僕が先生へ抱いた感情と共に思い出として保管された。
 
 ◇◇
 
「今は、書けてないです」
 
 そっかそっか、と先生は綺麗に並べられた料理を口に運びながら僕の現状を受け入れた。
 適当に聞き流しているわけじゃない、これが先生の優しさの形だと僕は知っている。
 そして少し考えた後、右頬に食べ物を詰めたまま僕へ問う。
 
「夏目君、日常は楽しい? ご飯はちゃんと美味しい? 眠るのを楽だと感じられる?」
 
 口元を覆っている手の甲が、表紙を撫でていたあの日の手と記憶の中で重なる。
 言葉は紡いだ人の心の形、それなら言葉すら紡げなくなった僕の心はきっと——。
 
「きっと全部、わからないです」
 
「全部?」
 
「はい、全部」
 
 なんて情けない答えだろう。
 でも本当に今の僕に答えられることは、これが精一杯だった。
 先生が箸を置き、一瞬難しい表情をして僕を見つめる。
 
「誰かと会ったり、話したりすることはある?」
 
「月に一度あればいいかな、程度です」
 
「お仕事は?」
 
「在宅で不定期に依頼を受ける仕事以外は、ずっと執筆ばっかりで——」
 
「誰かと連絡を取ったりすることはある?」
 
「業務連絡以外のメッセージは基本的にないです」
 
 言っていて虚しくなる。
 言葉にして改めて気づく、僕は本当に独りだった。 
 数分前まで先生の鼻あたりを保てていた目線は無意識に僕の膝へと下がってしまう。
 情けない、この言葉に尽きる。
 ただ耳に響いたのは、僕の心を(すく)い上げるような声だった。
 
「今も書くことを辞めないでいるなんてすごいじゃん! 夏目君のまっすぐなところ、大人になっても健在だね」
 
 にこにこ、という言葉のお手本のような表情をしている。
 まっすぐなのは先生の方ですよ、と返したくなる。
 それに夢に取り憑かれたように書いて、諦め方を忘れた今の僕には『辞めないでいる』というより『辞められずにいる』の方が正しいような気さえする。
 
「ペンネームは?」
 
「え」
 
「夏目君のペンネーム、無理強いはしないけど教えてほしくて」
 
 あの日と同じだ。
 初めて会った日、忙しく僕へ『どうだった⁉︎』と尋ねた時と同じ興奮気味な口調。
 先生は少しだけ身を乗り出して、僕の返答を待つ。
 
「ヨルです。カタカナで『ヨル』」
 
 素敵な名前、と呟いたあと『どうしてその名前にしたの?』と飛んできた。正直、聞かれるだろうな、と予想はしていた。
 
「それは、言えないです」
 
 先生の名前の反対側にある言葉だから、なんて言えるはずがない。
 旭。名前の通り光のような先生に僕は夢を与えられて、心を教えられた。裏を返せば、僕はそれらを持っていなかった。
 先生が持っているものを、僕はなにも持っていない。
 先生がいたから、僕は今の僕でいられる。
 それを忘れないために僕は『アサ』の対極である『ヨル』と、自らに名前をつけた。
 
「そっか、それじゃあいつか夏目君がとんでもなくすごい小説家になったら『恩師』の枠として聞き出しちゃおうかな!」
 
 自分で恩師なんて恩着せがましいね、と恥ずかしそうに茶化して笑う。
 先生は恩師なんて言葉には収まりきらないです、と返してみるとわかりやすく頬を赤らめた。
 年齢は違えど、同じ『大人』になったからだろうか。その表情を見た瞬間、先生を純粋に可愛いと思った。
 中学生の頃に感じていた敬愛を込めた好きとは違う、異性としての好意が僕の中で動いた。
 僕の中に明確な恋愛感情が覗いた。
 
「ねぇ、夏目君」
 
「はい」
 
「きっと今の夏目君は心が静かすぎるんだね」
 
「心が静か……」
 
「そんな状態じゃ、言葉なんて出てきてくれないよ」
 
 僕の現状とその言葉が一致する。
 僕の相槌を急かすことなく待った後、先生は続きを告げようと口を開く。
 もしまだ言葉を紡ぐことを諦めていないなら、という前置きを差し込み、先生は続ける。
 
「強引に心を動かす方法、大人になった夏目君に教えてあげよっか」
 
 そんな挑発的な口調を先生から聞いたのは、初めてだった。
 そしてその言葉の意味を、僕は瞬時に理解できてしまった。
 このまま店を出ても、僕と先生はきっとまっすぐ家へ帰らない。料理が綺麗に片付いた食器たちが、その合図だろう。
 先生へ目線を向け直すと知らない表情がそこにはあって、曖昧な境界線を超えることを許されたように感じた。
 そしてそれは、僕の中で『旭先生』が『旭さん』に変わった瞬間だった。
 
 ◇
 
 二人きり、一室。
 僕はまた緊張で立ち尽くしてしまう。
 この状況でわかりやすく戸惑ってしまうのは、なんというか一人の男として情けなかった。
 
「急だったでしょ、本当によかった?」
 
 頷くことしかできない。
 間違いない、確かに心が動く予感がしている。
 僕は今、恋人でもな一人の女性と夜を越えようとしている。
 
「——え」
 
 僕の胸に彼女の額が当たる、抱きしめられている。
 背を撫でる(てのひら)は小さくて、それでも暖かく柔らかい。指先の動きには誘惑と色っぽさが含まれている。
 初めての感覚だった。
 ぎこちなく、僕も彼女を抱き寄せる。
 
「せんせ——旭さん」
 
「夏目君、私との夜のこと一瞬も溢さずに覚えてて。この夜に二度目はないから」
 
 彼女の後頭部に手を添えながら二人の身体をベッドに預ける。
 鼻先が触れる、吐息がかかる、彼女からは甘い匂いがした。
 恥じらいが伝わる彼女の唇に僕の唇を重ねる。
 顔を少し離して彼女を見つめて、黒目がちな瞳とミステリアスな笑みに心を奪われた。

 律儀に止められたボタンを指先で外しながら、彼女の身体の熱を感じた。
 一瞬、手が止まる。
 理性か躊躇いか、先に進もうとする欲を前に戸惑う僕の頬に手を当てて彼女が呟く。
 
「いいよ、夏目君は大人になった。そして私は今夜だけ、夏目君の先生を辞める」
 
 ズルかった、耐えられるはずがなかった。
 僕は、彼女のことが好きだから。
 中学生の頃に抱いていた曖昧な好意の輪郭が歪に浮かび上がってくる。
 わかった、感じた、これが——。
 
 ——心が動く感覚か。
 
 ◇
 
 朝になって、彼女は先生に戻っていた。
 
「おはよ、夏目君」
 
 鏡の前、スーツ姿で髪を結う彼女の姿。
 大変でしょ、教員の朝は早いのよ? と嫌々な口調とはかけ離れた笑顔で言う。
 
「夏目君」
 
「はい」
 
「オトナの夜はいかがでした?」
 
 揶揄うように問い、彼女は悪い顔をした。
 昨晩の記憶も相まって僕は今、とても複雑な感情に襲われているというのに。
  
「先生、可愛かったですよ」
 
「からかい返さないで」
 
 そう笑あえる先生のままでよかった、そう素直に思った。
 一夜を越しても、きっと僕は大人になんてなりきれなかった。
 紳士的なリードはできなかったし、自らを魅力的に映らせようとする余裕なんてあるわけがなかった。
 それに動きすぎた心は、久しく止まっていたこともあってまだ整理できていない感情で散らかっている。
 夜に触れることで、精一杯だった。
 つまり——。
 
 ——僕はまだ夜を知らない。
 
 ただきっとそれでよかった。
 この曖昧な感情こそ、今の僕なのだから。
 僕は、僕の心を知れた。
 
 身支度を終えた彼女が立ち上がって振り向き、僕の名前を呼んだ。
 起きたばかりで定まらずにいた焦点が彼女に集まる。改まってなにを告げるのだろうなんて純粋な疑問ではない、僕の中には彼女との『二度目』以降への期待があった。
 けれど彼女は、最後まで僕の『先生』だった。

「次、夏目君に会うのは夏目君が『ヨル』を見つけてからにしようか」
 
「え——」
 
「だから物語が描けたら、また私を呼んで。その時は元教え子と教師じゃない、小説家と読者として——、一人の大人として会おう」
 
 そう僕へ微笑んだ彼女は、またね、と残して振り返ることなく部屋を出た。
 
 時計を見て、僕は迫るチェックアウトの時間に急かされるように荷物をまとめて身支度を済ませる。
 一人残された部屋には彼女との夜の欠片が残っていた。
 シワのついたシーツと枕、使い終えたタオル、彼女の口紅の跡が薄く残ったティーカップ。
 (から)になった部屋でなにかを呟いたところで、返事がないことなどわかっている。それでも僕は言葉にしたかった。
 満たされた感覚を、感じた心の動き方を、僕はこのまま塗り替えたくない。
 だから彼女と夜を超えた僕が感じた心のままを言葉にして、永遠にしよう。
 先生、僕はまだ——。
 
 ——旭さん以外との夜を、知らないままでいたいです。