ちろくんは甘いものが好きで、ご飯にジャムをかけて食べられるような子だった。
 そして物腰も話し方も声も柔らかな、あまり男性味を感じない子だった。
 いつも指定の学ランではなく、ワイシャツの上にオーバーサイズのカーディガンを着て、細身の体を隠すゆったりとしたシルエットだった。
 それでも長い袖から覗く手は確かに筋張った男の子のもので、キーボードを叩く指先につい視線が向いてしまったのを覚えている。

 部室でお菓子を配ると嬉しそうに「ありがとう」と頬張る姿が可愛くて、まるでハムスターみたいだった。
 普段髪で隠れがちだった耳にイヤホンをして、パソコンで動画を見ながら寛ぐ横顔を盗み見るのが好きだった。

 今にしてみると、彼とはいっそ女友達のような距離感だったように思う。
 その少し長めの柔らかそうな黒髪に触れてみたくて、ある日部室に幾つか髪飾りを持ち込んで「今日暑いし、これつけてあげる」なんて冗談めかしたこともあった。
 確か、そのまま一番可愛いシュシュを結んだあの時も、結局嫌がらずに部活が終わるまでつけていてくれたな、なんて、閉じ込めていた数多の思い出たちが一気に溢れる。

「……好き、だったなぁ。本当に」

 たった一枚の写真から、次々と浮かんでくる懐かしい気持ち。
 十五年経ってもこんなにも鮮明に蘇る遠い日の記憶と、もう完全になくなったと思っていたのに確かに胸の内に残る、甘くて苦い恋心の欠片。

 すっかり埋葬された過去となり色褪せていた青春の淡い日々が、無機質に積み上げられた段ボールだらけの部屋の中に蔓延する。その歪なコントラストに、今がいつなのか一瞬わからなくなった。

 深夜の静けさの中に確かに響くこの心臓の音は、どれくらいぶりに高鳴っているだろう。
 もう叶うことのないこの気持ちも荷造りみたいに詰め込んで封が出来ればいいのに、一度出てきてしまうとそう簡単にはいかなかった。

「ちろくん、今は、どうしてるんだろ……」

 もう十数年、連絡さえ取っていない。確かSNSでは繋がっていた気がするし、当時は良く彼の投稿をひっそり確認したりしていたけれど、それも高校の頃の話だ。

 今もまだ、同じアカウントを使っているだろうか。わたしは思わずスマホを手に取り、彼を検索しようとして……やめた。
 忘れてはいけない。この恋心は、本来もう十五年も前の化石なのだ。

「……思い出は、あの頃のままにしておこう」

 十五年後の彼は、どんな大人になっただろう。学生の頃の気持ちで、わたしは想像する。

 あの頃のような中性的な雰囲気はなくなって、きっと素敵な男の人になっているだろう。
 彼女さんとあれだけのラブラブっぷりだったのだ、彼女さんと未だ続いているのかはわからないけれど、誰が相手だろうと、きっと愛妻家の素敵な旦那様になっているに違いない。
 この歳なら、もう一人や二人子供だって居るかもしれない。
 家はどの辺りなのだろう、地元では卒業後彼の姿を見かけたことがないから、どこかへ引っ越したのかもしれない。甘いものがたくさん食べられるお店の近くに住んでいたら良いなと思う。
 仕事はどんなものが似合うだろう。白衣なんかも似合うだろうし、スーツも捨てがたい。私服は見たことがないけれど、今でもオーバーサイズの服を着ているのだろうか。
 どんな環境でもきっと、あの頃デスクトップパソコンのキーボードを何時間も叩いて物語を生み出していたように、目標に向かって頑張っているはずだ。

「……ちろくんもわたしも、もうとっくに大人、なんだよなぁ……時間ってあっという間だ」

 あの頃は、その時間が当たり前のようにずっと続くんだと思っていた。けれど今にしてみると、高校生活なんて、ほんの一瞬だ。

 わたしは、昔も今も、ちろくんとどうこうなりたい訳じゃなかった。
 甘味好き仲間で、友達で、部活のメンバーで、恋愛のステージに立つことを諦めたからこそたまにじゃれても許されるあの距離感が、ひどく心地よかった。彼の隣に並ぶ自分なんて、想像もできなかった。

 いつだってそうだ。わたしは、恋愛もスポーツも勉強も、主役にはなれない。目立たず群衆に紛れる脇役でいい。地味で、無害で、部屋の隅っこで大人しくしているような、そんな場所が落ち着くのだ。
 けれど好きな人には、手の届かない綺麗な思い出の中で、いつまでも憧れのままで居て欲しい。
 押し付けのエゴだとわかっていても、そう願ってしまう。

 それでも、もしも彼の青春という大切な記憶のどこかに、わたしという脇役がほんの少しでも存在出来て居たなら、この上なく幸せだと思ってしまう。そんな細やかな夢くらい、勝手に見ても許されるだろう。

「あ……」

 そんなことをぼんやりと考えていると、ふと、手の中のデジタルカメラの電源が切れて、彼の姿が暗闇に消えるように見えなくなってしまった。少しの時間しか充電しなかったのだから、すぐに使えなくなって当然だ。

「……、……ちろくん、大好きだったよ」

 何も映さず暗くなった液晶画面に向かって、わたしは初めて、囁くように彼への想いを口にした。
 画面に反射して僅かに映るわたしの顔は、もうあの頃のようなあどけなさもない、ただの大人だ。
 カメラロールの中で変わらずキラキラと在り続ける彼との対比に改めて現実を突きつけられて、十五年越しの届くことのない告白は、夜の静寂の中に溶けていく。
 切ないような、すっきりしたような、けれどじんわりと温かい、不思議な気持ちだった。

 埃っぽい部屋の空気を入れ換えるために窓を開けると、澄みきった空気と夜空に浮かんだ月があまりにも綺麗で、やけに目に染みた。

「……よし。片付け、残りも頑張ろう」

 部屋の中には、他にも過去の思い出がたくさんある。友達から誕生日に貰ったぬいぐるみや、幼馴染みとお揃いのアクセサリー、昔のアルバムや、少し前に流行っていた本。ひとつひとつ見ていたら、きっときりがない。
 引っ越し予定日まであと僅か。ここからはしんみり浸っている余裕はないのだ。本格的に作業しなくてはいけない。
 きっと連日の疲れや新しい生活への不安もあって、こんなにも感傷に浸ってしまったのだろう。
 気持ちを切り替えなくてはと、わたしはそれから、夜明けまでひたすら手を動かし続けた。

「おやすみなさい」

 そしてその夜の終わりに、わたしは掌サイズの大切な過去を一つ、かつての恋心と共に段ボールの奥にしまった。