そして、光陰矢の如しとは言うけれど、楽しい時間はあっという間に過ぎた。端的に言うならば、美瑛での観光に時間を割き過ぎたのだ。新たに増えた思い出と、撮影したたくさんの写真データと引き換えに、富良野に辿り着いた頃にはすっかり日が沈みかけていた。

「ごめん、もう少し早く来る予定だったのに……」

 ラベンダーの定番イメージである鮮やかな紫は、今や沈み掛けの夕日に辛うじて照らされ、明度の低い輪郭を帯びている。
 これはこれで味があるが、彼女だって彩り豊かな花が見たかっただろう。撮影に夢中になり過ぎた自覚と、無茶なスケジュールを立てた引け目から、僕は僅かに俯いた。

「ううん、涼しいラベンダー畑も新鮮でいい感じだよ。三年前は焦げちゃいそうだったもん」
「それは……そうかもしれないけど」
「それにほら、視覚に頼らなくても、その分すっごく香りがするの! 光汰も嗅いでみて」
「……、本当だ」

 彼女の明るい声に促され、鼻腔を擽るラベンダーの香りを意識する。立ち寄った観光地の売店でもラベンダーグッズは多々売られていたけれど、そのどれよりも新鮮な今咲いている花の香りは、日中動き回り疲れた心と身体をリラックスさせた。

「ね? いい香りでしょ。目で見るより、他のもので感じることってあるよね」
「……そうだな、千早矢」

 人もまばらになったラベンダー畑を、僕達は静かに歩く。星の時間はもうすぐだ。日が落ちても高い気温が運ぶ生ぬるい風、噎せ返るようなラベンダーの香り、疲れを感じさせない楽しげな彼女の声。
 次第に辺りは暗くなり、彼女の期待に満ちた笑顔が見られないのが残念だ。僕達は空が見易い場所へと移動して、その時を待った。


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 建物や電線に邪魔されることのない拓けた場所から見上げた夜空には、無数の星が煌めいている。そんなロマンチックな光景に、彼女も満足しているようだ。

「ふふ。やっぱり星、好きだなぁ」
「そうだな……僕も好きだよ」
「でも彗星は……えーと」
「雲が少しあるから、肉眼じゃ見え辛いかもしれないな……望遠鏡はないけど、カメラで覗いてみるか?」
「うん!」

 僕は花を踏まないよう気を付けながら、三脚とカメラ、レンズのセットをする。人の居ない今なら、三脚も邪魔にはならないだろう。
 うんうん唸りながら明るさやズームの設定を弄り、一番綺麗に見える状態で彼女に場を受け渡す。日も落ちて気温も下がってきた、星空を撮るにはいい条件だ。

「ほら、どうだ?」
「……あ、ほんとだ、さっきより見易い! あれが、彗星……? 綺麗……」
「よかった。シャッターを押したら撮れるから、好きに撮ってみていいよ」
「えっ、でも壊した困るし……」
「大丈夫。だから、撮ってみて」
「うん……じゃあ、一枚だけ」

 僕はカメラをじっと見詰め、そのシャッターが動くのを待つ。そしてしばらくして、雲の裂け目を狙ったのか小さなシャッター音が聞こえた。
 その瞬間、僕はすぐに手を伸ばし、カメラに触れているであろう彼女の手を握ろうとする。しかし、指先はカメラに触れるだけで、彼女の温もりは感じられない。確かに、そこに居るはずなのに。

「光汰……」
「はは、やっぱり……触れられない、か」
「仕方ないよ、私幽霊だもん。生きてる人には触れない」

 そう言って笑う彼女の声は、寂しそうだ。けれど、その姿は見えない。ラジオから流れる声と同じだ。
 彼女の表情が見えなかったのは、暗さのせいだけじゃない。僕にはずっと、彼女の声だけが聞こえていた。

「星に手が届かないのと、同じだよ」
「それでも、星に焦がれるのは仕方ないだろう」
「それは、否定しないけど……」

 千早矢は、三年前の旅行を最後に、事故で亡くなった。
 それから姿は見えなくても、直接触れられなくても、声だけが僕には聞こえ続けた。そのことだけが、僕の心の支えだった。

 けれど人間、欲が出るもので。珈琲やカメラ、物に触れることは出来るのに、どうして僕にはただの一度も触れられないのだろうと思ってしまう。

「千早矢は、寂しくないのか……?」
「私だって、寂しいよ……でも……仕方ないじゃん。死んじゃったんだもん」

 今日の旅行だって、店で出された昼食の水も、施設の入園料も、全部僕一人分だ。彼女はもう、世界の何処にも居ない。そんな現実を突き付けられるのが分かっていたから、三年前間旅行なんてしてなかった。

 それでも、彼女の望みを叶えたかったのだ。自分の死すら仕方ないと割り切る彼女が、死後初めて口にした唯一の我が儘。
 どうしても、思い出の地で、美しい彗星を見せたかったのだ。

「あっ、見て! 今光汰の後ろ、光った! 別の流れ星かも!」
「え……っ」

 不意に彼女が大声を上げたので、僕は慌てて振り返る。すると、不意に背に仄かな温もりを感じた。
 背中に額を押し当てているような、少し低い位置の温度は、確かに、彼女のものだ。

「……っ、ちはや……」
「そのまま聞いて。……私ね、多分、そろそろ消えちゃうと思う」
「……は? なんで、そんな」
「三年間ずっと光汰の側に居られた。思い出の場所にまた来られた。二人で星を見られた。私ね、もう心残りもないんだ」
「そんなこと、言うな……僕は、心残りだらけだ! もっと、君と一緒にしたいことが山程ある、旅行ももっと行きたいし、見せたい景色だってある、それに、君と結婚だって……」
「光汰」
「……、ごめん、千早矢……」

 彼女の声に、それ以上言葉を紡ぐことは出来なかった。もうそんな泣きそうな声で、仕方ないよ、なんて言って欲しくなかったのだ。


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