【年齢十八歳をもって成年とする 】       
       改正民法四条より

大人の恋……。
なんてずるくて甘美な響き。

その言葉を使えばなんだって許される気がする。
しかし大人になりきれなかった私は、迷い、自分を見失っていく。

本音を隠して諦めて偽って……。

―――そして最後の夜が明ける。




十八歳から成年になりますーー。
そんなニュースをテレビで見たのはいつだったろうか。確か梅雨の時期だった記憶だけがある。
憲法が改正されたのは、早く大人になる人が増えたからか、そうなりたい人が増えたのか。

そんなくだらないことを考えつつ、自分の手の中のグラスを見ていた視線をゆっくりと上げた。

時間は二十時半。

二十八階という高い場所から見る雨の東京の街は、ビルの窓から放つ光が雨に反射しどこかぼやけた色に見えた。
幻想的だなとか思えば、気持ちも晴れやかになるのだろうが、そう感じられないのは完全に私の心の問題だろう。

小さくため息が漏れた。

ここは都内の中心部にあるビルの上層階にあるバー。 落ち着いた照明に、洗練されたスタッフ、そしてゆったりと流れる音楽は、大切な時間を過ごすための大人のための空間だ。

店内を見回すと、カウンターに座っているのは私を含め数人だけ。 しかし、私の背後のテーブル席には友人同士、そして夫婦やカップルなど仲睦まじい様子でお酒と料理を楽しんでいる。

私と違って正しく大人になった人たちなんだろう。

そんなことを思った自分が滑稽で、自虐的な笑みがこぼれた。
”自分に酔うんじゃないの!” 親友ならそう言って怒るかもしれないが、今日だけは許して欲しい。

「おかわりを。スッキリとしたおすすめをお願いします」
大好きな親友を思い出して微笑んだまま、私は声をかける。
目の前にいた二十代後半だろうか、シンプルなベストとジャケットが驚くほど似合っている綺麗なバーテンダーの男性が、「かしこまりました」そう答える穏やかな声も心地がいい。

行儀が悪いと思いつつも、頬杖をついてぼんやりと過去を思い出してしまう。

彼らと出会ったのは十八歳の時。 春の淡い青い空が広がり桜が舞い散る広いキャンパスだった。
なかなか大学になじめなかった私に明るく声をかけてくれたのが雪乃、大橋雪乃(おおはしゆきの)だった。 かわいらしく咲き乱れる桜の花のような彼女は、私と正反対な社交的で素直な女性だった。

そんな私にないものを持つ雪乃に、私は素直に惹かれた。

『しずくってかわいい名前だね』
そう言って笑ってくれた雪乃。まったく性格が違う私たちだったが、仲良くなるのに時間はかからなかった。
そして、そんな雪乃に声をかけたのが裕也と彼。 ふたりは中学からの親友でいつも一緒だった。

『俺たちずっと一緒なんだ』
誇らしげに紹介する裕也と、どこか少し照れたように笑う彼が印象的で目を奪われた。 雰囲気こそ正反対の二人だったが、信頼しあっているのは見ていてすぐに分かったし、お互いが必要としあっていた。

人見知りで優等生気質な私はなかなか馴染めなかったが、彼らは根気よく話しかけ、時間をかけて頑なだった私の心を溶かしてくれた。

人生で初めてできた大切で優しくて温かい仲間。
授業をさぼることも、放課後の遊び方も、課題を写させてくれたのも彼らだ。どんな嬉しいことも、悲しいことも一緒に乗り越えてきた。

しかし、時間の経過とともに、少しずつ、少しずつ私たちの関係は形を変えていった。
ゆっくりと雪乃と裕也には知られることなく。

彼の視線の先にはいつも雪乃がいて、雪乃の目は裕也を映し、裕也も雪乃だけを見ていた。そして私は……。

きっと私と彼のどちらかが少しでもこの均衡を崩したら、歪な私たちの関係はすぐに破綻したはずだ。
そんな私の複雑な心の変化をどう思っていたかはわからないが、いつのころからか彼は『大丈夫か?』そう私に問うようになった。
主語なく問いかける彼に、いつも『なにが?』そう笑顔を作って答えるしかできなくなっていった。

私は本当は弱くてただ虚勢を張っているだけ。親のせい、育った環境のせい、そんな言い訳をしてばかり。
可愛くなれない自分が本当は大嫌いだった。
弱い自分を隠すためだけに強がる私を、ずっと一緒にいた彼は見抜いていたのかもしれない。

「なにしてるんだか。私」
音にならないぐらいの声が、口をついて自嘲気味な笑みが浮かぶ。

「大丈夫か?」
物思いにふけていた私は、不意に聞こえた甘く鼓膜にも響く低い声にビクっと肩が揺れた。 ”大丈夫か?”そんなセリフを私に言う人は、一人しかいない。そして、声に反応してしまう人も。

どうして来たの? そんなことを思う反面、来てくれたことに嬉しさも募る。

そんなぐちゃぐちゃの気持ちのまま振り返るのが怖くて、タイミングよくカクテルを置いてくれたバーテンダーの彼に笑顔を向けつつ問いかける。

「なにが?」
いつも通りに言えたはず。
「隣いい?」

私の問いに答える気はなさそうなその相手の問いかけに、私は隣の空いている椅子に視線を向けた。
「嫌って言っても座るんでしょう? ここにいるってよくわかったね陸翔(りくと)
「わかるよ」
当たり前だと言わんばかりにサラリと言いながら、背後で彼が笑ったのがわかった。そして隣に気配を感じる。

「今日はしずくに半年ぶりに会えてよかった。しずくにとっては仕方なくだったとか?」
「まさか」
正確には半年と少しだ。今が梅雨が明けた七月の上旬で、最後に会ったのは年が明けてすぐ。半年以上は経っている。 会ってなかったのはあなたが忙しかったせいであって、私のせいじゃない。

本当にそう? 私が陸翔を避けてなかったと本当にいえる?
自問自答しても答えは出ない。
彼に会いたくなかったと思わせていた自分に嫌気がさして、無意識にため息が零れた。

「これみよがしにため息をつくのは酷くないか? 本当に会いたくなかった?」
少し不機嫌そうな声が聞こえて、私はそこで初めて隣に座る男に視線を向けた。半年前と何も変わらない。いや、さらに魅力が増した気がする。

「そんなわけないでしょ」

聞いたくせに、私がそう答えるのもわかっていたのだろう、すぐにいつものトーンで言葉が降ってくる。
「それにしてもよく降るな。雨。でも、昼間の結婚式は晴れてよかったよな」
憂鬱そうに眉を潜める表情も様になりすぎる。そんなことを思っていることを悟られないように冷たく言い放つしかない。

「文の最後に主語を持ってくるのはやめた方がいいって何度も言ったでしょう?」
「意味はわかるだろ?」
わかるとか、わからないとか、言葉を生業とする人間なんだから……。そう文句がいつも通り口をつきそうで、慌てて私は口を噤んだ。

不毛だ――。

こんなやりとりを過去に何度してきたかわからない。
しかし、今そんなことをする意味はない。
黙った私に構うことなく、陸翔は口を開く。
「それは?」
「おすすめ」
陸翔は私が手を伸ばした鮮やかなピンク色の液体が入ったグラスを視線だけで示す。 単語だけのやりとりですぐに答えられる関係。長い時間を過ごした証拠だ。

「ジントニックをお願いします」
オーダーは決まっていたのだろう。迷いなく注文する姿はこの場所が似合う大人の男性に見える。 それほどの時間が出会いから経過したことを実感する。

どこか懐かしいピアノの旋律に耳を傾けて、バーテンダーの鮮やかな手つきをふたりで見つめた。

「お待たせいたしました」
小気味よい音を立てて置かれたグラスには無色透明の液体に、鮮やかなグリーンのライムが輝いていてとてもきれいでしばらく眺めた後、私たちは無言でグラスを軽く合わせてからお互い口に運んだ。

軽口をたたくこともあれば、無言の時間も共有してきた。ただそれだけと言ってしまえばそうなのだが、その時間は私にとって何より大切だった。
それは私たちが親友という関係を守っていたときだけだったかもしれないが。
今のこの無言の時間はやはり落ち着かない。
窓の外に視線を向けているその人をこっそり盗み見た。

この男の名前は篠宮陸翔(しのみやりくと)という。私、榊原(さかきばら)しずくとは、都内のそこそこ有名な大学の法学部で一緒に学んでいた仲間だ。
百八十㎝はある身長に、均整のとれたバランスのよい体形。それにどこか影がありミステリアスな雰囲気。整った少し甘めな顔は検察官より、弁護士が似合うから誰もがその道を進むと疑っていなかった。

でも、私はそれが彼の対外的な顔だということは知っている。 本当の彼は正義感が強く、優しく、曲がったことが嫌いな人。それが篠宮陸翔という人間だ。

何かがあるといつも一番に駆け付け問題を解決して、私たちのことを心配してくれた。時には自分が矢面に立って盾になることすらあり、ひやひやしたこともある。

そんな彼は私の予想通り検察官の道を選んだ。大学院に入り司法試験を受け、最短で検察官になったエリート。 どこまでも完璧すぎて嫌味な男だ。
隙のないネイビーのスリーピースに、マッドなタイプの靴。シンプルだがとても良いものなのは明らかだ。

私といえば特に可愛さも、美しさもないし、体型も至って普通。
法学部を出ても、その道には進むことなく一般企業に勤めている私と彼は住む世界が違うのだ。 結婚式帰りということで、多少ドレスアップはしているから、この雰囲気にいても浮いてはいないが、普段は地味な会社員だ。

「俺さ、少しだけ二次会に顔を出してきた。裕也と雪乃は楽しそうだった」
「良かった」
今日は私たち二人の大切な親友同士の結婚式。私たちにとっても特別な日だ。 陸翔を見ると昼間のことを思い出しているのか、その瞳は愛しいものを見る様に甘くなる。


その瞳を一度でもいいから、私に向けて欲しかったーー。
あっ……。
そんな感情を持った自分が最低な気がして、人間失格のような絶望感が襲う。

「二次会はふたりの会社の人も多いでしょ。式にも参加したし披露宴でもたくさん話したからいいの。自分こそいいの?」
「ああ。アイツはわかってくれる」
平静を装って尋ねると、あっさりとした返事が返ってくる。男同士の友情はいろいろあるのかもしれない。

大切な親友の結婚式。その二次会に出ないということは、薄情者だということは百も承知だ。

陸翔がどんな思いで、親友と好きな人を祝福したのかは想像もつかない。
私より辛いはず。それは理解していたが、雪乃を見つめる陸翔をもう見たくなかった。

出会ってから時間の経過とともに、私たち四人の関係も変わっていった。
雪乃と裕也ふたりの時間が増えるにつれ、私たち二人の時間も増える。

じくじくと実らない恋にとらわれ、傷つき心が痛むことが増え勝手に限界を迎えた私の恋。

ふたりが結婚をしたら、終わらせよう。

それはここ一年、ずっと考えてきたことだった。

「そっか」

そんな覚悟を悟られないように、当たり障りのない返事をしていると、なにやら視線を感じて振り返る。
そしてやっぱりと思った。 いつものことなのだが、カップルの女性ですら陸翔に目を奪われていて、隣の男性が面白くなさそうな表情を浮かべつつ彼女を制している。
この男は昔からどこにいても女性からの熱い視線を、涼しい顔で気づいていないふりをする。

「相変わらずだね」
「なにが?」
つい口をついてしまった私の言葉の意味がわからないと言った様子を見せつつ、陸翔は綺麗な所作でグラスを口元に運んで微笑を浮かべた。
それがまた妙な色気がある。女の私より色気があるのはなぜだろう。

「わかってるでしょ。女の子の視線」
「俺のせいでしずくまで見られて不愉快ってこと?」
「そんなこと言ってない」
「じゃあ、なんだよ」
そこまで言われて私は黙り込む。女の子の視線に嫉妬しているだけだ。
しかし、そんなことは言えない。

見られることは陸翔が悪いわけではないし、むしろ嫌がってることを私は知っていた。
勘が鋭く他人の気持ちに敏感だからこそ、興味のないふりをする。それが彼のおもいやりだと知っているのに。

いつからか彼は何も悪くないのに、責めるようなことを言ってしまうことが増えた。
そんな自分が嫌いで、昔に戻りたくて足掻いて、でもできなくて。少しずつ距離をとることでしか、自分を保てなくなっていた。

「腹減ったな。何か頼むか」
「なんでもいいよ」
話を変えてくれたのに、そっけない返事をした自覚はあったが、本当に食欲がないからそう答えた。
しかし。
「なあ、しずく。お前いつからそんな適当な返事を返すようになった? 長くいても俺はしずくのことすべて理解なんてできないからな」

怒りを含む真面目な声音に私は驚いて陸翔を見据えた。そこには真っすぐ私を見下ろす漆黒の瞳。

適当なんかじゃない。どう答えても気持ちを見透かされそうで怖かっただけだ。

何も言えず、陸翔から視線をそらす。

彼と同じ時間を過ごして、笑いあい、時には喧嘩をして一緒にいられるだけで幸せだった頃。
そして、段々と欲張りになる自分を隠して心配をさせ、それを案じられることで、自分の心を少し満たしていたこと。
知られたくないけど、わかって欲しい。身勝手すぎた幼い私。

六年前のあの日、彼と一緒にいることを選んだのは紛れもない自分なのに。

『ねえ、しずく。誕生日のお祝いをしよう。だって記念すべき二十歳だよ。もちろん、裕也も陸翔も一緒に』
雪乃に誘われた日、二人が付き合い始めたことを報告された。 私のお祝い、そして二人の付き合いを祝う日。ふたりは私たちが祝福してくれることを疑ってはいなかったし、親友が幸せそうに微笑んでいることは、私もとても嬉しかった。
しかしそれは同時に陸翔が失恋をした日ということだ。

陸翔の気持ちを考えたらめでたくなんかない。
しかし、私にとっては好きな人が失恋したことは、悲しさ、痛み、そして少しの期待。様々な感情が湧き上がり、私はその場にいられなくなった。
幸せそうに寄り添うふたりを、陸翔はどんな気持ちで祝っているのだろう。

『ねえ、ふたりの邪魔しすぎはよくないよ。陸翔いこう』
そう言って彼の腕を取り、強引に店の外へと連れ出した。
『どうしたんだよ、しずく』

そんな私の行動に驚いたように陸翔はそう言ったが、理由もなくそんなことをするようなタイプではない私がしたことをそれ以上何も言わなかった。
なんとなく気まずくて、から元気で陸翔に自ら自分の誕生日を祝って欲しいとねだった。
『お祝いぐらいしてよ』
『まあ、二十歳だもんな。俺の方が先輩だし』
『たかが数か月で何よ』
そんなたわいもない言い合いをすることで、陸翔が笑ってくれることが嬉しかった。
そして、二十歳の私たちが背伸びをした場所がここだった。

大人の空間にドキドキして緊張して、それでもふたりで過ごす時間は楽しくて。言葉は一言一句覚えているのに、その日初めて飲んだアルコールは甘かったのか、苦かったのかは覚えていない。

それから今までの六年間。お酒の飲み方も、たった一本の煙草を教えてくれたのも陸翔だった。

私はあの時の決断を後悔していたのだろうか。
気持ちを封印し、隠し、笑えば一緒にいられると信じた。
でも。今の私たちは?

何が正しくて、どうしたらよかったかなんてわからない。

「ごめん。そんなつもりじゃない」
やはりうまく伝えられなくて、謝罪をして俯いて言葉を続ける。
「ここんなふうに陸翔となりたかったわけじゃない」
こぼれ落ちてしまった本音。会話すらできなくなるなんて思っていなかった。
私のせいだと責められる、そう覚悟した私に聞こえたのは小さな「俺こそごめん」と呟く声だった。

そして、陸翔が呼吸を整えたのがわかった。

「俺さ、六年前、しずくの誕生日を祝った日のこと、今でもはっきりも覚えてる」
「え?」
キュッとその言葉に唇を噛んで彼を見上げた。まさか、陸翔もあの日を思い出していたなんて。
「楽しくて、しずくとずっとこうして過ごしていくって疑ってなかった」
それを壊したのは私ーー。
こんな結末を迎えるのなら、彼の傷に漬けいってベッドに誘って、呆れられてすっぱりと関係を終わらせておけば良かったのだろうか。

そうしていれば、今頃、私は他の人と幸せになっていたかもしれない。
でも、大切な仲間も無くしていたはずだ。

今日、雪乃たちを祝福できたことだけで、そうしなかった自分は正しかったはず。
醜い自分と向き合たことは、無駄ではない。勝手に思われ続け、挙げ句の果てに嫌な態度をとられた陸翔には迷惑をかけたけど。

今伝えたい言葉は、ごめん、じゃなくありがとうだ。

「ねえ、陸翔、雪乃きれいだったね。裕也も今日は男らしかったし」
最後ぐらい楽しかった日の私でいたい。そんな思いから陸翔を見つめて微笑む。
そんな私の思いが伝わったのか「ああ、六年越しだもんな」 そう笑う。

六年という期間は私にとっても、とても長い日々だった。

陸翔も同じように長かったはず。
雪乃たちが結婚をした今日、終わりにするべきだ。
「私たちも長かったね」
過去形で伝えた私の言葉に気づかない陸翔ではない。
しかし、彼もなにも言わなかった。ただ少し寂しそうな瞳を浮かべただけ。

このまま親友として、一緒にいられないことはないかもしれない。
でもできない。
原因は私。 陸翔の隣で誰かが微笑むのをみることを耐えることはもうできないししたくはない。

いや、すでに耐えられてなかったのだ。隠しきれない思いは、いつしか決壊して友達との境界線が解らなくなってしまっていた。
だから、こんなギクシャクした空気に最期してしまった。

ごめんね。やっぱり謝罪の言葉しかでてこない。

さあ、そろそろ終わりの時間だ。
私は少し残ったカクテルを飲み干すと陸翔を見た。

「行こうか」
当たり前のようにチェックをしようとする彼を制して、一万円札を財布から出してそっとカウンターに置く。
初めてここに来た日は、右も左もわからずレジを探した。 そんな私たちも今思えば愛しい。
一生懸命に恋をして、友情を育み、青春を過ごしたのだから。

今、なりたかった大人ではないけど、後悔はしたくない。
そんな私を見て陸翔は少しだけ複雑そうな笑みを浮かべたあと、私の手を取り一万円札を握らせた。
すっぽりと包まれた大きな手と、その行動に驚いて二十センチは高い彼を見上げる。

「男を立てろよ」
最後にそんなことを言うなんてずるい。男じゃないじゃない。親友でしょう? そう口にしそうだったが、陸翔の真剣な瞳に何も言えなくなる。
ただ、まっすぐに陸翔を見つめている私は、どんな顔をしていたのか自分でもわからない。

ねえ、陸翔。
心の中で彼の名前を呼ぶ。
手だけじゃなくて、その広い胸に飛び込みたい。
抱きしめて欲しい。キスをして、甘やかして、「好きだよ……」って囁いて欲しい。
ずっとずっと好きだった。
触れたところからその気持ちが伝わればいいのに。
そんな思いで泣きそうになるのをなんとか堪えて、ギュッと彼の手を握り返した。

たぶんほんの数秒だったはず。

「ありがとう」
私はそう伝えて、そっと一万円札を受け取り彼の手を離した。

大人になったはずなのに、やっぱり私はあの二十歳の誕生日の日から成長していないのかもしれない。
昨日までは、今日もしも陸翔に会えたなら、最後の思い出に抱いてもらおう、そんなバカなことも頭を過っていた。
そんなこと……できない。

「行こうか」
今度は陸翔が私を促す。
店を出て静かな薄明りのエレベーターホール。ガラスの大きな窓からは東京の夜景が広がっていた。
美しくて、綺麗で、このまま帰りたくない。

「しずく?」
エレベーターを呼ぶボタンを押そうとしていた陸翔が、俯いて立ち止まっていた私に気づき振り返った。
その陸翔を見て、今までのことが鮮やかによみがえる。

ああ、無理だ。できるわけない。
このまま、この何年もの思いを忘れることなんてできない。ずっとずっと好きだったのだから。

そう思うと私は勢いよく走り出していた。そしておもいきり陸翔に抱きついた。
私の勢いに一歩下がったが陸翔だったが、すぐに私を支えてくれる。

「陸翔のバカ、陸翔の無神経、陸翔なんて陸翔なんて……」
ずっと好きだった。
あれほど人の気持ちがわかる人が、私の気持ちに気づいていないわけはない。
優しくてずるい人。

そろそろと距離を取ると、私はそっと触れるだけのキスをする。
初めて見る驚いて目を見開いた陸翔の表情を見て、私は泣き笑いの笑顔を浮かべた。

「ずっと好きだったよ。最後の嫌がらせ。ずっと覚えておきなさいよ!」
涙を拭いながらそう強がった私を見て、陸翔は私の大好きな笑顔で大きく一度だけ頷いた。

「ああ、一生忘れない。しずく、俺は……」
そこで言葉が止まる。俺はなに?
そう思いつつも、私はエレベーターのボタンを押した。
数秒後。静かな空間にポンとエレベーターの到着を知らせる音がした。

「じゃあね、陸翔は乗らないで」
「……わかった」
静かにそう答えた陸翔の顔は、もう涙で見えなかった。それでも精一杯の感謝を込めて私は笑顔を作り手を振る。

さようなら。私の初恋。

エレベーターを降り、ビルの外へ出るといつのまにか雨は上がっていた。
私の夜は終わったーーー。
初めてのキスと一緒に。


END