高橋さんが鍵をあけ、どうぞと中に促した。私は躊躇った。
日向が高橋さんと過ごす家。
高橋さんは首をかしげた。
「お茶ぐらいいれるけど?」
と扉を中から開き、私を見た。
断るのも変に意識をしすぎかもしれない。
私は玄関までは入ってそこで、ワンルームの高橋さんの家を見た。大好きな日向がたくさんの時間を過ごしている部屋。日向の趣味であろうぬいぐるみ等が見えた。
二人の領域。二人が愛を語らい、そして……。
とにかく、ここは私が入っていい場所じゃない。
「さなさん?」
不思議そうに高橋さんがこちらを見た。
「お茶は結構です。傘だけかしていだだけますか?」
「もちろん構わないよ」
傘を手渡してくれる高橋さん。身長が彼と同じくらいなのに気づいた。
目が合う。優しい眼差し。
この目を日向は見ているのだ。そして、高橋さんは日向を。
胸がきゅうっと痛んだ。
羨ましいと思った。それ以上に悲しさを覚えた。
彼は。
私と目を合わすことが少なかった。
彼の自信に満ちた目がすきだったのに。
澄んだ眼差しが私に向けられればどんなに幸せだろうと思った。
でも彼はいつも前ばかり見ていた。それだけじゃない。歩調も変わることなく。私はいつも速足で彼について行くのに必死だった。セックスをするときさえ、彼は私を気遣うことは無かった。
なぜ付き合ってくれたんだろう? いつも胸を占めていた疑問。結局わからないまま……。
「君を好きにまでなれなかった」
たった一言の真実は別れの言葉だけで。
高橋さんが驚く気配が伝わってきた。
私が高橋さんを見上げるとすうっと幾筋もの涙が頬を伝っていった。
駄目だ。私は酔っているのだろうか。
私が高橋さんを見る目にはきっとやりきれない思いが宿っていたと思う。
そのときだ。
私の涙を高橋さんが優しく掬った。
長い指だった。
私は困惑気味に高橋さんを見た。
視線が絡む。
そのなかに日向を見つけて、私は、咄嗟に逸らそうとした。
私、帰らなきゃ。
ドアノブに手をかけたとき、カタンと音をたてて傘が落ちた。
拾わなきゃ。
でも、視線を高橋さんから逸らせない。
高橋さんの手がドアノブを握る私の手に触れ……。
アルコールの香りが鼻をかすめた。
それがどちらのものかわからないままに、私の唇は塞がれていた。
私は混乱し、眩暈を覚えた。でも抗えなかった。それは私が知っているキスとは違う、優しく甘いものだったから。
日向!
親友を思い出そうとした。
のに。
かくんと膝が折れた。ずるずるとドアにもたれながら、私は座り込み、その間も高橋さんの唇が離れることはなかった。
戸惑いはあった。
でも。
身体が熱い。
ぼんやりと高橋さんを見つめる。
私は狡いかもしれない。
高橋さんが私から離れる。
手はまだ重なったままだ。
高橋さんの瞳が一瞬躊躇うように揺れ、そして。
次の瞬間その瞳に熱が灯るのを見た。
高橋さんは私を抱き起こし、再びキスをした。そして、さらに私を引き寄せた。
引きずられるままに玄関から部屋へ一歩入るとき、私は僅かな抵抗をした。だがそんなことは無意味だった。
罪悪感と高揚感。
それは苦く甘い毒となって全身を駆け巡る。
日向の場所のはずのベッド。
私は促されるがままに彼に身を委ねた。
私の体を這う指は優しい。
私は初めて女である幸福を覚えた。
高橋さんは優しかった。
日向にもするのだろう。高橋さんはセックスの後、腕枕をしてくれた。
でもそのときの高橋さんの眼差しには戸惑いがあった。
そして私の中でも、高揚感は消え、罪悪感だけが大きく膨らんでいた。
「電車がなくなるので……」
私の言葉に、高橋さんはぼんやりとしながら、
「そうだね」
と言った。
「駅まで送るよ」
私たちは無言で歩いた。
日向の顔がちらつく。きっと高橋さんも同じだろう。
駅の前まできたとき、高橋さんは私を見つめて、ごめんといった。
「僕は日向を愛してる。だから、君を選ばない」
そんなことは解っていることだし、安心さえ逆に覚えた。
でも切なかった。高橋さんは優しかったから。勘違いをしそうになるほど。
「……。言い訳にしかならないのは分かってる。でも……」
高橋さんの指が私の左頬に触れた。
「そんな目で男を見ちゃだめだ」
私はどんな目をしていたのだろう。誘うような目をしていたのだろうか。
「無防備で、置いていかれた子供のようで……ほうっとけなくなる……。ごめん、やっぱり言い訳にしかならないね。
でも気をつけたほうがいいと思う。例え相手が知人だったとしても。ごめん、偉そうだよね。自分は君を傷つけたのに」
「いえ……」
「彼」を私は、今夜のような目で見つめたことがなかったのだろうか。それとも、見つめたから「彼」は憐れんで付き合ってくれたのだろうか。わからない。
「……」
「日向には言いませんから安心してください。私も大事な親友を無くしたくない。
でも、約束してください。私が言うのもなんですが、もう浮気はしないと。
それとも他にもあるんですか?」
「ないよ。君が初めてだ。もうしない。誓うよ。日向を大事にする」
彼はもう浮気はしないだろう。後悔の滲む高橋さんの目を見つめて私は確信した。
「よかった。それじゃおやすみなさい」
「……気をつけて」
電車から夜の街を見て、しばらく私はぼんやりとしていた。
自分がよくわからなかった。
大好きな日向の彼なのに。
ううん、日向の彼だから?
日向が好きな彼が羨ましかった。
日向を好きな彼が羨ましかった。
私には得られなかった二人の絆。
試したのだろうか? 日向への気持ちを。
それは口実。
私はあの一瞬、高橋さんを求めたのだから。いや、たぶん「彼」を高橋さんに求めてしまったのだろう。
でも、違った。
私は目を閉じる。
高橋さんは優しかった。そして、日向を愛している。
分かりきっていること。
不毛な一夜。
でも幸福な夜だった。
以後も高橋さんとは何度も会う機会があった。高橋さんは相変わらず、日向だけを優しい目で見つめている。その姿に私は安堵する。
でも偶然私と目があうと、その瞳には複雑な光が宿る。
私たちだけの秘密。
罪悪感。それだけではない。思い出す幸福感。
でも。
日向が一番大切。
この気持ちも私と高橋さんの揺ぎ無い気持ちだ。
だから、秘密は秘密のままに、私たちは時を重ねるだろう。
そしてまたみんなで会う……。
了
日向が高橋さんと過ごす家。
高橋さんは首をかしげた。
「お茶ぐらいいれるけど?」
と扉を中から開き、私を見た。
断るのも変に意識をしすぎかもしれない。
私は玄関までは入ってそこで、ワンルームの高橋さんの家を見た。大好きな日向がたくさんの時間を過ごしている部屋。日向の趣味であろうぬいぐるみ等が見えた。
二人の領域。二人が愛を語らい、そして……。
とにかく、ここは私が入っていい場所じゃない。
「さなさん?」
不思議そうに高橋さんがこちらを見た。
「お茶は結構です。傘だけかしていだだけますか?」
「もちろん構わないよ」
傘を手渡してくれる高橋さん。身長が彼と同じくらいなのに気づいた。
目が合う。優しい眼差し。
この目を日向は見ているのだ。そして、高橋さんは日向を。
胸がきゅうっと痛んだ。
羨ましいと思った。それ以上に悲しさを覚えた。
彼は。
私と目を合わすことが少なかった。
彼の自信に満ちた目がすきだったのに。
澄んだ眼差しが私に向けられればどんなに幸せだろうと思った。
でも彼はいつも前ばかり見ていた。それだけじゃない。歩調も変わることなく。私はいつも速足で彼について行くのに必死だった。セックスをするときさえ、彼は私を気遣うことは無かった。
なぜ付き合ってくれたんだろう? いつも胸を占めていた疑問。結局わからないまま……。
「君を好きにまでなれなかった」
たった一言の真実は別れの言葉だけで。
高橋さんが驚く気配が伝わってきた。
私が高橋さんを見上げるとすうっと幾筋もの涙が頬を伝っていった。
駄目だ。私は酔っているのだろうか。
私が高橋さんを見る目にはきっとやりきれない思いが宿っていたと思う。
そのときだ。
私の涙を高橋さんが優しく掬った。
長い指だった。
私は困惑気味に高橋さんを見た。
視線が絡む。
そのなかに日向を見つけて、私は、咄嗟に逸らそうとした。
私、帰らなきゃ。
ドアノブに手をかけたとき、カタンと音をたてて傘が落ちた。
拾わなきゃ。
でも、視線を高橋さんから逸らせない。
高橋さんの手がドアノブを握る私の手に触れ……。
アルコールの香りが鼻をかすめた。
それがどちらのものかわからないままに、私の唇は塞がれていた。
私は混乱し、眩暈を覚えた。でも抗えなかった。それは私が知っているキスとは違う、優しく甘いものだったから。
日向!
親友を思い出そうとした。
のに。
かくんと膝が折れた。ずるずるとドアにもたれながら、私は座り込み、その間も高橋さんの唇が離れることはなかった。
戸惑いはあった。
でも。
身体が熱い。
ぼんやりと高橋さんを見つめる。
私は狡いかもしれない。
高橋さんが私から離れる。
手はまだ重なったままだ。
高橋さんの瞳が一瞬躊躇うように揺れ、そして。
次の瞬間その瞳に熱が灯るのを見た。
高橋さんは私を抱き起こし、再びキスをした。そして、さらに私を引き寄せた。
引きずられるままに玄関から部屋へ一歩入るとき、私は僅かな抵抗をした。だがそんなことは無意味だった。
罪悪感と高揚感。
それは苦く甘い毒となって全身を駆け巡る。
日向の場所のはずのベッド。
私は促されるがままに彼に身を委ねた。
私の体を這う指は優しい。
私は初めて女である幸福を覚えた。
高橋さんは優しかった。
日向にもするのだろう。高橋さんはセックスの後、腕枕をしてくれた。
でもそのときの高橋さんの眼差しには戸惑いがあった。
そして私の中でも、高揚感は消え、罪悪感だけが大きく膨らんでいた。
「電車がなくなるので……」
私の言葉に、高橋さんはぼんやりとしながら、
「そうだね」
と言った。
「駅まで送るよ」
私たちは無言で歩いた。
日向の顔がちらつく。きっと高橋さんも同じだろう。
駅の前まできたとき、高橋さんは私を見つめて、ごめんといった。
「僕は日向を愛してる。だから、君を選ばない」
そんなことは解っていることだし、安心さえ逆に覚えた。
でも切なかった。高橋さんは優しかったから。勘違いをしそうになるほど。
「……。言い訳にしかならないのは分かってる。でも……」
高橋さんの指が私の左頬に触れた。
「そんな目で男を見ちゃだめだ」
私はどんな目をしていたのだろう。誘うような目をしていたのだろうか。
「無防備で、置いていかれた子供のようで……ほうっとけなくなる……。ごめん、やっぱり言い訳にしかならないね。
でも気をつけたほうがいいと思う。例え相手が知人だったとしても。ごめん、偉そうだよね。自分は君を傷つけたのに」
「いえ……」
「彼」を私は、今夜のような目で見つめたことがなかったのだろうか。それとも、見つめたから「彼」は憐れんで付き合ってくれたのだろうか。わからない。
「……」
「日向には言いませんから安心してください。私も大事な親友を無くしたくない。
でも、約束してください。私が言うのもなんですが、もう浮気はしないと。
それとも他にもあるんですか?」
「ないよ。君が初めてだ。もうしない。誓うよ。日向を大事にする」
彼はもう浮気はしないだろう。後悔の滲む高橋さんの目を見つめて私は確信した。
「よかった。それじゃおやすみなさい」
「……気をつけて」
電車から夜の街を見て、しばらく私はぼんやりとしていた。
自分がよくわからなかった。
大好きな日向の彼なのに。
ううん、日向の彼だから?
日向が好きな彼が羨ましかった。
日向を好きな彼が羨ましかった。
私には得られなかった二人の絆。
試したのだろうか? 日向への気持ちを。
それは口実。
私はあの一瞬、高橋さんを求めたのだから。いや、たぶん「彼」を高橋さんに求めてしまったのだろう。
でも、違った。
私は目を閉じる。
高橋さんは優しかった。そして、日向を愛している。
分かりきっていること。
不毛な一夜。
でも幸福な夜だった。
以後も高橋さんとは何度も会う機会があった。高橋さんは相変わらず、日向だけを優しい目で見つめている。その姿に私は安堵する。
でも偶然私と目があうと、その瞳には複雑な光が宿る。
私たちだけの秘密。
罪悪感。それだけではない。思い出す幸福感。
でも。
日向が一番大切。
この気持ちも私と高橋さんの揺ぎ無い気持ちだ。
だから、秘密は秘密のままに、私たちは時を重ねるだろう。
そしてまたみんなで会う……。
了