最後、あなたが私に残した言葉は、ケーキを包む銀紙のように薄っぺらいものだった。
「今までありがとう」
一方的に言うと、私の返事も聞かずに、テーブルに鍵を置いて背中を向ける。縋りつく間もなかった。
がちゃん、と扉が閉まる音がした。
すべてが終わった瞬間だった。
部屋の中はすぐに静寂で満たされて、かちりかちりと、無情に時を刻む時計の音だけが響いている。
朝が苦手で、どうしてもひとりじゃ起きられないからって義鷹くんが買った目覚まし時計。
明日の朝も、私が部屋を出ていってから鳴るのだろうか。
――アラーム、止めなきゃ。
近所迷惑になってしまう。
この部屋にはもう、止めるひとはいないから。
最愛のひとにふられた直後だというのに、取り乱すことも彼を追いかけることもなく、冷静に今の状況を受け入れているじぶんにびっくりする。
義鷹くんと付き合い始めて、二ヶ月。
この部屋のもともとの住人は、私だった。
二ヶ月前まで、この部屋は殺風景なものだった。
私が今座っているソファも、義鷹くんと付き合い始めた頃買い足したものだ。
ふたりで座れるくらい大きなソファがほしいと、義鷹くんが言ったから。
スピーカーも、音楽好きな義鷹くんが持ってきたもの。本棚には、義鷹くんの趣味だったミステリー小説だとかホラー小説の本がずらりと並んでいる。私の本は、その中にほんの数冊、申し訳程度に置かれているくらいだった。
義鷹くんは、ソファでうたた寝をするのが好きだった。
ふたり並んでソファに座って、いっしょにホラー映画を見たりもした。星がきれいな夜は、ベランダに出て星空鑑賞会をしながらお酒を飲んだこともあった。
付き合って一ヶ月の記念日に、義鷹くんが好きなスイーツ、オペラを買ってきたらすごく喜んでくれて。義鷹くんも私に可愛いネックレスを贈ってくれた。
そのネックレスは、今もドレッサーのアクセサリースタンドにかかっている。
これをつけるときは、いつも甘えて義鷹くんにつけてもらっていた。
今、私はソファに座っている。ドレッサーには、義鷹くんからもらったネックレス。ベランダも、本棚も、スピーカーも、ぜんぶある。
ぜんぶ……ぜんぶ、義鷹くんがいたときとなにひとつ変わらない景色。
ただ、義鷹くんだけがいない。
『別れてほしい』
たった数分前のこと。
仕事から帰ってきた私を待っていたのは、そんなひとことだった。
***
義鷹くんは高校時代の先輩で、ずっと片想いをしていた相手だった。
文武両道だった義鷹くんは、容姿も優れていたため、同級生からも後輩からもモテていた。
一方私は、華やかな容姿もなければ特別頭がいいわけでもない、どこにでもいる少女A。
義鷹くんにはとても釣り合わない人間だった。
じぶんでも自覚していたし、周りにも高望みし過ぎだってよく言われていた。
それでも、恋に落ちてしまったものはどうしようもなくて。
バスケ部だった義鷹くんを追いかけてマネージャーになって、猛アプローチした。
高二の秋、義鷹くんに同い歳の彼女ができたって知ったときは、絶望した。半年後に別れたと聞いたときは、不謹慎だけれどすごく嬉しかった。
義鷹くんが卒業したあとの一年間は、ひどく退屈で。
義鷹くんが進学した大学に合格するために、苦手な勉強も頑張った。
高校時代から合わせて三回告白して、惨敗。大学まで追いかけて、二ヶ月前、四回目の告白をしたとき、ようやく恋人になることを許してもらえた。
それからは、信じられないくらいに毎日が幸せで。
順調に付き合えているつもりだったのに。
なにがいけなかったのかな?
私なりに、尽くしていたつもりだった。
義鷹くんの好きなものを作ったり、贈ったりして、機嫌もとっていた。
不満もあったけれど、喧嘩なんてしたくないから言いたいことは我慢したし、わがままだって言わないように気を付けていたのに。
『好きなひとができた』
別れたい理由を聞いたら、そう言われた。頭が真っ白になった。
好きなひとってなに?
好きなひとって、私じゃないの?
私は、なんだったの?
義鷹くんの『好きなひと』は、義鷹くんが高校のとき一度だけ付き合った、同い歳の元カノだった。
どうしても忘れられないのだと、義鷹くんは申し訳なさそうに話した。
『はじめの頃は、付き合っていくうちに、少しづつでも茉優のことを愛せるようになると思ってた』
思ってた?
じゃあ、ムリだったってこと?
『……ごめん』
ごめん、ってなに?
それは、なにに対してのごめんなの?
私以外の女の子を好きになったことに対しての、ごめん?
私を傷付けたことに対しての、ごめん?
それとも、私を愛せなかったことへの、ごめん?
ただのごめんだけじゃ、分からない。
ちゃんと話し合いたいのに、義鷹くんはそれを拒むように目を伏せている。
なにを話してもこの気持ちは変わらない、お前のことは好きになれない。
そう言われているようだった。
『茉優といた時間は、楽しかった。感謝もしてる』
『楽しかった』の前に『それなりに』という言葉がついているように、私には思えた。
ひどい話。
そんなふうに言われたら、怒りたくても泣きたくても、なにも言えない。
『勝手なのは俺だから、俺が出ていく。茉優はここにいていいから。じゃあ――今までありがとう』
そう言って、義鷹くんは鍵を置いて出ていった。
――ねぇ、気付いてた?
今日は私たち、付き合って二ヶ月の記念日だったんだよ。
私、ケーキ買ってきたんだよ。
義鷹くんが大好きだったオペラ。義鷹くんのおかげで、私も食べるようになったオペラ。
いっしょに食べようと思って買ってきたのに。
ひとりきり、時計の音だけが響く部屋。
ふたりぶんのケーキをテーブルに出す。フォークもそろえて。
スマホを開く。
写真アプリを起動させて、思い出を取り出す。
テーマパークで撮った写真。カフェでの写真。バー、夜景、星空の写真。
ギャラリーの中には、義鷹くんとの思い出が乱雑に散らばったまま。
今度、プラネタリウムに行こうって約束していたのに。
どうして?
私はどうしたら好きになってもらえた?
気に入らないところがあるなら、教えてくれたら良かった。そうしたら、すぐに直したのに。
でもきっと、義鷹くんがダメだったのは、そういうところだったのだと、心のどこかで分かってしまうじぶんもいる。
義鷹くんはたぶん、私のこういうところが好きになれなかった。
なんでもかんでも義鷹くんに合わせてしまう私が、重かったのだと思う。
高校時代、義鷹くんが唯一付き合った女の子は、じぶんの気持ちをはっきりと言う子だった。
彼のご機嫌をとろうとする女の子が多い中、彼女だけは、義鷹くんとちゃんと対等に向き合っていた。
でも私は、彼女のようにはなれなかった。
だって、私は私に自信がなかったから。デートもキスも、ぜんぶ私からで、義鷹くんから求めてくれたことなんて一度もなかったから。
それなのにじぶんの意見を言って、不満まで言ったらきらわれる。そう思ったら、怖くて本音を言うことなんてできなかった。
私は彼女のような美人でもなければ、器量良しでもない。
だから、尽くすしかなかった。
それを重いと言われてしまったら、私にはもうどうしようもない。
ふと、高校時代の記憶がよみがえってきた。
彼女が義鷹くんの試合を見に来たとき、義鷹くんは嬉しそうに彼女のもとへ駆け寄っていた。見たことのない甘い顔をして、彼女を見つめていた。
放課後だって、先に帰ろうとしていた彼女のことを、義鷹くんは急いで帰り支度を済ませて追いかけていった。
……私は知っていた。
義鷹くんは、好きなひとには積極的になるのだ。
私のときはそんなこと、一度だってなかった。
いっしょにいても、私が話しかけなきゃ会話は生まれなかったし、私を迎えに来てくれるなんてこともなかった。
なにひとつ、救いがなかった。
私たちは付き合う前から、かけ違えてしまったボタンのようにちぐはぐで、きっと今彼を追いかけて復縁を迫ったとしても、うまくいくことはないのだろう。
オペラを食べる。
ほろ苦い洋酒の味が、口の中に広がっていく。
義鷹くんの好物と知るまで、洋酒が効いていて苦いから、ほとんど食べなかったオペラ。
食べた瞬間、胸がぎゅっと苦しくなった。苦しくなるけれど、涙は出なかった。
だから私は、ひたすらオペラを食べ続けた。苦しくても、ふたりぶん、ちゃんと。
食べながら、大丈夫、大丈夫、と言い聞かせる。
このオペラは、ちゃんと味がする。
ちゃんと美味しい。
この洋酒の苦味を美味しいと思えるくらいには、私はもう大人になった。
だから大丈夫なのだ。
私と義鷹くんは終わってしまったけど、なにも一生会えないわけじゃない。
だって、私たちは生きている。
となりにはいれなくとも、幸せを願うことはできるのだ。
きっといつか、街のどこかでばったりまた会えるはずだ。
いつか再会したとき――そのとき、笑って声をかけられるように、この恋心は、今日このオペラとともにすべて食べきってしまおう。
***
「茉優。茉優」
名前を呼ばれて、ハッと目を開けた。
何度か瞬きを繰り返す。
私はベッドの中にいた。ぬくもりに包まれていることに気付いて、そっと顔を上げると、義鷹くんが優しい眼差しで私を見下ろしていた。
「義鷹くん、起きてたの?」
義鷹くんは、素肌の私を優しく抱き締めてくれていた。直接触れる肌が、ついさっきまでの熱を引き戻してくるかのようで、顔が熱くなった。
「ちょっとうなされてるみたいだったから起こした。怖い夢でも見た?」
「えっ……」
うなされていたのか。
記憶の糸を手繰るが、覚えていない。
「……よく覚えてないけど、そうかも。でももう平気だよ」
義鷹くんがいれば、悪い夢を見てもぜんぜんへっちゃらだ。夢なんてどうでもいいと思える。
「そっか」
義鷹くんはすっと目を細めて微笑んだ。義鷹くんのがっしりとした腕が、私を抱き締める。離さない、と言われているようで泣きたくなるくらいに嬉しい。
「ねぇ、義鷹くん」
「なに?」
耳元で響く低い声はくすぐったくて、これ以上ない幸せを私にくれる。
「私ね、義鷹くんのこと……」
――大好きだよ。
義鷹くんの匂いも、腕の中の心地も、低い声も。
このひとを失ったら、私はきっと、生きていけない。
そう思うくらいに、大好き。
「ずっといっしょにいてほしい」
「……うん」
義鷹くんは、どうしてか申し訳なさそうに微笑んだ。
ゆっくりと目を開けた。気が付けば私はベッドに横になっていた。いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
カーテンの向こうはほんのり明るく、明け方のようだった。
重い頭を動かし、となりを見る。
手を伸ばすと、ひんやりとしたシーツの感触が手のひらに広がる。
薄い朝の光に照らされた部屋の中には、だれもいない。響くのは、無機質な時計の音。
義鷹くんの匂いが残ったベッド。
心が散りぢりになっていくような心地になる。
夢を見て、気が付いた。
気が付いてしまった。
二ヶ月も付き合っていたのに、義鷹くんは私に、一度も『愛してる』と言ってくれなかった。
やっぱり夢じゃなかった。
義鷹くんはもういない。
今日から私はひとり。
長いながい、私の恋は終わったのだ。
私の心を置き去りにして。
寂しさが込み上げて、涙が頬をつたい落ちる。
冷たいシーツを握り締めて、嗚咽を漏らす。
やっぱり、諦められない。
忘れられない。
好き。大好き。
彼を好きな気持ちはケーキとともに昇華されることはなく、まだ私の中で燻っている。
夢でもよかった。
夢の中でもいいから、もう少しあのぬくもりに触れていたかった。
もう一度だけでいいから、『茉優』って、名前を呼んでほしかった。
テーブルに目を戻すと、オペラがのっていたはずの銀紙シートだけが残っていた。



