「……なにやっているんだろ。私」

 時刻は午後九時を過ぎたところ。私は関西から九州へと向かうフェリーの個室のベッドに腰を下ろし、溜息をついていた。
 大学が夏休みの時期に入った。夏休みを利用して、前々から計画していた友達や恋人との旅行に出かける学生は珍しくないと思うけど、今回私がしているのは数日前に思い立った、衝動的な一人旅だ。

 元々の夏休みの予定が無くなり、アルバイトも辞めたばかりでスケジュールに余裕があったとはいえ、私のどこにこんな行動力が眠っていたのだろうかと自分でも驚いている。

 自分では気にしていないつもりだったけど、衝動的に旅に出てしまうぐらいには、今の私は感傷的になっているみたいだ。九州までの移動手段なら新幹線や飛行機だってあるのに、真っ先に頭に浮かんだのが、フェリーを使った海路だったし。どうせ移動する海が良かった。私は人よりも「うみ」という響きを日常でよく耳にするし、海の見える町で生まれ育ったから、存在としても身近だ。船酔いにも強いから、船上の揺れもあまり気にならない。海は生命の母だとよく言うけれど、だとすれば船とは大きなゆりかごなのかもしれない。そう考えるとこの揺れもまた趣深い。

 まだ出航して一時間ぐらいだけど、船旅そのものは楽しめている。
 スマホに反射した顔が浮かない表情なのは、あくまでも私の個人的な問題だ。

「少し風に当たってこよう」

 今のままだと、一人でウダウダと考え込んでしまいそうだ。海の上で思考の沼にはまってどうする私。せっかくフェリーに乗っているのだし、気分転換に外の天望デッキに出てみることにした。

「よくないよくない」

 デッキに続く階段を上っている時、また不意に溜息が漏れてしまった。せっかくの気分転換の旅行なのに、こんな調子でどうする私。感情を振り払うように、濡れた犬みたいに頭を振った。

「思ったよりも寒いな……」

 夏場といっても、夜の海の上は意外と冷える。半袖のブラウスにスキニージーンズの薄着だからなおさらだ。寒さのせいか、夜の船のデッキに他に人はいなくて、私の貸し切り状態になっている。

「綺麗な星空」

 雲一つない空には満点の星が輝いている。その中に、肉眼でも小さく赤い星が見えた。七月の南の空の正座。あれは確か、アンタレスだったかな。こうして移動中に空を見上げることは、新幹線や飛行機ではできない。船旅ならではの体験だと思う。

「あれ、先客がいたんだ」

 椅子に座って星を眺めていると、私が独占していたデッキに乗船客が一人姿を現した。若い男性で、たぶん私と同年代。二十歳前後ぐらいだろうか。爽やかな短髪で、半袖のデニムシャツにベージュのチノパンツを合わせている。

「星、よく見えるね」
「快晴ですから」
「ここ、座ってもいい?」
「大丈夫ですよ。私のプライベートスペースってわけじゃないし」

 ここは乗船客なら誰でも利用可能なデッキだ。そもそも私に許可を取る必要はない。

「それじゃあ遠慮なく」

 男性は私と少し距離を置いて、別の椅子へと腰を下ろした。

「フェリーはよく利用するの?」

 沈黙が気まずいタイプなのか、男性が私にそんな話題を振ってきた。そんなにガツガツした印象はないけど、もしもナンパ目的だったりしたら嫌だな。

「今日が初めてです。チケットの買い方から調べたレベル」
「そうなんだ。星を眺める姿が様になってたから、慣れているのかと思ってた」
「ナンパならよそでやってください。まったく脈なしなので」

 くさいセリフ。やっぱりナンパ目的か。うんざりして、ちょっと強めの言葉で突き放す。

「驚かせてごめん。確かにこんな状況で突然声をかけたらそう見えるか」

 一瞬、目を丸くすると、男性は申し訳なさそうに私に頭を下げる。面と向かって謝られるとは思っていなかったので正直驚いた。

「えっと……ナンパ目的じゃないの?」

 我ながら何を言っているのだろう。これじゃあまるで、ナンパでなかったことを残念がっているみたいなセリフだ。自然と口調も砕けてしまう。

「これはこれで失礼な話だと思うんだけど……君が溜息つきながらデッキに上がっていくのが見えたから、何か変なことでも考えてるじゃないかと心配になって。考えすぎかとも思ったけど、夜の海って独特な魔力というか、怖さみたいなものもあるし」
「それって、私が身投げでもするんじゃないか心配してくれたってこと?」
「そういうこと……ごめん、旅行中にこんな不謹慎なことを。楽しそうに星を眺めていたし、完全に俺の早とちりだった」

 そう言って男性は、苦笑いを浮かべて頬をかいた。これまでよりも少し肩の力が抜けている気がする。たぶん、私が変なことを考えていたわけではないと分かり、安心したんだと思う。

「気にしてないよ。良い人なんだね」

 勘違いとはいえ、気遣ってくれたことは嬉しかった。私を心配して、偶然を装って声をかけてきたのも、今になって思えば何だか微笑ましい。ナンパだと誤解されて素直に謝ったり。不安が杞憂だったと分かって安堵したり。真っすぐで優しい人みたいだ。

「あなたはフェリーをよく利用するの?」
「俺の話?」
「他に誰もいないでしょう。私は答えたんだから、そっちも教えてよ」

 夜のデッキで一人星を眺めているのも悪くないけど、誰かと話すのもよい気分転換になりそうだ。彼は悪い人ではなさそうだし、このまま少しお喋りを続けてみることにした。

「バイクでツーリングするのが趣味でさ。北海道とか九州に遠征する時は、こうやってフェリーを利用してる。九州行きは去年の秋以来、三回目かな」
「旅慣れしてるんだ。夏にツーリングとか最高だね」
「時間と予算が許せば、どこまででも行ける自信はあるかな。ただツーリングは楽しいけど、信号待ちの時とかは暑さで『俺何やってるんだろう』って我に返る時もある。また風を切って走り出すとそんなのどうでもよくなって。停まるとまた我に返って、それの繰り返し」

 気持ちがのってきたのか、彼はやや自虐的ながらも、身振り手振りを交えて笑顔でそう買った。その表情だけで全て分かる。彼は本当にバイクや旅が好きなんだな。

「そういう君は今回どうしてフェリーに? あまり旅慣れはしてなさそうだけど」
「ご明察。数日前まで何も計画してなかったんだけど、気分転換がしたくて衝動的に一人旅に出たの。どうせなら海を感じたくて、移動の足はフェリーにした」
「海、好きなの?」
「嫌いではないかな。身近な響きだし」
「身近な?」
「字は違うけど、私の名前は羽美(うみ)っていうの。羽が美しいで羽美」

 私のフルネームは一之瀬(いちのせ)羽美(うみ)。名前の由来を両親に聞いたことはないけど、美しい羽という以外にも、海の見える町で育ったし、名前の響きもたぶん意識したんだと思う。自分の名前は気に入っているけど、たまに誰かが自然の方を指して「綺麗な海」とか言っているのを聞くと、ちょっとびっくりしてしまうこともある。

「なるほど。羽美さんが海の上で空の海を眺めていたわけだ」
「バカにしてない? そういうあなたの名前は?」
「俺の名前はカイ」

 彼が笑顔で自分の名前を言ったのを見て、私もつられて笑ってしまった。

「自分だって海っぽい響きじゃん」
「ごめんごめん。だからこそ面白くなっちゃって。ちなみにカイの字は海じゃなくて、快適の(かい)。気分爽快の快」
「爽やかでポジティブな紹介だね」
「自慢の名前だ。それぐらいじゃないとね」

 快には人を笑顔にする才能があるのかもしれない。まだ気分爽快まではいかないけど、快適ぐらいには気持ちが持ち直している。

「話を蒸し返して悪いけど、何かあったの? 気分転換の一人旅って言ってたし、溜息をつきながらデッキに上がったのは事実だろう」
「別に大した話じゃないよ。どこにでも転がっているような単なる傷心旅行のお話だから」
「俺でよければ話ぐらいは聞くよ。話を聞くことしかできないけど」

 陽気な声色をなりをひそめて、真剣な眼差しでそう言ってくれた。下心なんてないのは分かっているけど……。

「初対面の相手に話すようなことじゃないよ」

 このことはまだ仲の良い友達にも話してない。それを今日、たった今出会ったばかりの快に話すなんて。

「もちろん、無理に聞こうとは思わないよ。ただ、関係値のない初対面の相手だからこそ打ち明けられる感情もあるんじゃない? 旅の出会いは一期一会だ。だからこそ後腐れがないともいえる」

 快の優しさに心が揺れる。初対面の相手にこんな話をしていいのだろうか? だけど、一人ならずっと思考の沼に沈むばかりだ。そんな気持ちで旅行するぐらいなら、いっそのこと最初のうちに全てを。

「つまらない話だよ」

 揺れていた心が、話す方向へと振り切った。揺れる海の上でなければ、あるいは思い留まっていたかもしれない。これもまた、快の言っていた夜の海の持つ独特な魔力のせいだろうか。

「……大学が夏休みに入る前にね、恋人に振られたの。つきあい始めてから最初の夏休みだったし、色々と遊びに行く計画もしてて、そのために貯金してたんだけど……その予定、全部無くなっちゃった」
「それはきついな」

 快は目を閉じて、短く頷いた。

「突然のことだったみたいだけど、何かきっかけがあったの?」
「……相手の浮気。それも私と仲の良かったアルバイト先の後輩と。いきなり彼氏に別れてほしいって言われて、理由を問いただしたら、後輩の子の方と真摯にお付き合いしたいからだってさ」
「真摯とは一体」
「本当だよね。ただ、別れを切り出されるまでまったく二人がそういう関係だとは気づかなかった。私と付き合いはじめて間もなく、後輩の子とも関係が始まってたみたけど、その子は私の前ではずっと変わらない様子で。発覚後もそれは変わらなくて、正直ゾッとした」
「真夏だし、怖い話のシーズンではあるな。方向性が異なるけど」
「本当に恐ろしいのは人間の心ってね……そんなこんなで、恋人と過ごすはずだった夏休みの予定は消滅。居づらくなってアルバイト先も辞めちゃった。そのまま夏休みに突入して、気づいたらチケットを購入して、フェリーの上にいるってわけ」

 いつの間にか私の言葉を熱を帯び、早口になっていた。こうして言葉にすると感情が止まらない。口が次から次へと言葉を紡ぎ出す。こうなって初めて分かる。私は誰かにこの話を吐き出したくてしかたがななかったんだ。

「溜息の理由が分かったよ。それは一人旅に出たくもなるか」

 快は怒るでも笑うでもなく、ただただ頷いてくれた。下手に感情移入されるよりも、このぐらいの方が居心地がいい。

「ごめんね。こんなつまらない話を初対面の人に」
「面白いとかつまらないとかは関係ないよ。インパクトがあったことは間違いないけど。ガス抜きっていうのかな。人間には誰かにただただ話を聞いてもらう時間が必要な時があると思うんだ。羽美にとってはそのタイミングが今で、たまたまその場にいたのが俺だった。それだけの話だよ」
「快はやっぱり良い人だね」
「大袈裟だな。言っただろう。俺はただ話を聞くだけで、問題を解決するわけじゃない。もちろん悪人よりは善人ではありたいと思っているけど」

 そう言って快ははにかむ。歳は私と同じぐらいのはずなのに、快はどこか達観していて大人びて見える。一人旅でツーリングをしてきた経験からなのか、快自身にも過去に何か大変な経験があったのか。それは初対面の私には分からないけど、快の言葉には説得力があって、同時に懐の深さが感じられる。比較することではないかもしれないけど、あれだけ私の脳内を騒がせていた元カレが、とてもちっぽけで幼稚な存在に思えてきた。

「話を聞いてもらえただけで、私の心はスッと軽くなったよ。仲の良い友達相手だと元カレの愚痴がヒートアップして逆に落ち着けなかったかも。初対面の快が相手だったからこそ、穏やかに感情を吐き出せたんだと思う」
「それなら何よりだ。溜息ついてた時と違って、今は良い表情してるよ」
「そう? あまり自覚はないけど」
「表情が柔らかくなっている。当社比だけど」
「なにそれ。だけど本当だ。今の私、笑ってるね」

 無意識に口角が上がっていることを、この時初めて自覚した。そういえば、元カレと別れて以来、自然に笑えていなかったような気がする。まだ誰にも事情を話せてなくて、しばらくは作り物の笑顔で取り繕っていたから。

「その様子なら、一人旅も自分のために楽しめそうだな」
「自分のために?」
「きっかけは傷心旅行だったかもしれないけど、せっかくの旅行なんだから楽しまないと。これは元カレのための旅行じゃなくて、羽美のための旅行なんだから」

 快は本当に良い人だね。話を聞くだけとか言っておいて、しっかりとフォローまで入れてくれている。

「そうだね。これ以上、元カレのことを考えて時間を過ごすなんてもったいない。せっかく旅行に来たんだから楽しまないと! 今回は後のことなんて考えずに、美味しいものもいっぱい食べるぞ!」
「それがいい。食事は旅の醍醐味の一つだから」

 笑顔でサムズアップをすると、快は静かに椅子から立ち上がった。

「俺はそろそろ中に戻るよ。安全運転のためにもしっかり睡眠を取らないと」
「行っちゃうの?」
「言っただろう。ナンパ目的じゃないって。話も聞き終わったし、俺はお役ごめんだ」
「旅の出会いは一期一会ってやつ?」
「そういうこと。冷えるから、羽美も程々で切り上げろよ。旅先で体調崩したら悲惨だからな」

 そう言って快はデッキの階段を下っていく。このさっぱりとした後腐れないのない感じ。快はやっぱり旅慣れてしている。彼にとってはたくさんの一期一会の一つだったかもしれないけど、私にとっては大切な一期一会になった。

「心配してくれてありがとう。おやすみ」
「おやすみ。良い旅を」

 名は体を表すと言うけれど、快はまさしくそれだったと思う。快適の快。気分爽快の快。関わる人を快適に、気分爽快にさせてくれるのが快という人間なんだと思う。

「もう少し星を眺めたら、私も船室に戻ろう」

 傷心旅行の名目で始まった旅だったけど、今はそんなことはどうでもよくなった。せっかくならこの旅を存分に楽しもう。そう思えるようになっただけでも、旅に出て良かったと思う。


 翌朝。フェリーは目的地である九州、福岡県のフェリーターミナルへと入港した。憂いが晴れたからか、母なる海のゆりかごが心地よかったのか。私は熟睡していて、起きてからは着替えにメイクに下船準備に大慌てだった。忙しない朝だったけど、旅先でもゆっくり眠れたのはリラックスできている証拠だ。

「最後にお別れぐらい言いたかったけど」

 下船までの時間に、簡単にデッキや共用スペースを回ってみたけど、昨日の夜に出会った快の姿を見つけることは出来なかった。快はバイクで来ているみたいだし、徒歩とバイクでは船を下りる順番や場所が違う。快はもうバイクで下船する準備を終えているのだろう。

「これも一期一会か」

 旅の出会いは一期一会だと快も言っていた。もう一度会いたい気持ちはあるけど、無理に探そうとするのは野暮というものだ。

『ご案内いたします――』

 下船のアナウンスに促され、乗船客が次々と下船していく。その流れに乗って、私もついに九州地方へと初上陸を果たした。

「九州到着! 美味しいものをいっぱい食べるぞ!」

 フェリーに乗り込んだ時はまだまだ傷心中で、こんなにもワクワクする旅になるとは想像もしていなかった。これも全部、快のおかげだ。

 船上の一期一会に感謝して、数日間の九州旅行を満喫しよう!

 ※※※

 九州旅行から戻り、二週間が経過した。旅行の出費もあったし、夏休み中には新しいアルバイトを見つけないといけない。幸いにもすぐに仕事は見つかり、通っている大学にも近いカフェで接客を担当することになった。

「今日からアルバイトで入ってくれることになった、一之瀬さんです」
「一之瀬羽美です。よろしくお願いします!」

 マネージャーの紹介に預かり、元気よく挨拶をした。アルバイト経験こそ何度もあるけど、初めての職場はやっぱり緊張する。

「一之瀬さんの指導は高峰(たかみね)くんにお願いします。先輩として、一之瀬さんをサポートしてあげてください」
「は、はい。分かりました」

 同僚の方々の顔はまだ覚えてきれないけど、高峰さんという先輩も緊張しているのかな? 一瞬、声が上ずっていたような。それにしてもこの声、どこかで聞いたことがあるような。

高峰(たかみね)(かい)です。分からないことがあったら何でも聞いてください」

 一歩前に出たその人の顔を見た瞬間、全てを理解し、お互いに自然と笑顔がこぼれた。どうやら彼は緊張していたわけではなくて、新人アルバイトが見覚えのある顔と名前だったことに驚いて声が上ずってしまったみたいだ。

 一期一会のつもりだったんだけど、今になって思えば、同じフェリーターミナルから乗船しているのだから、生活圏が近い可能性もあったんだ。

 フェリーでの一人旅は私に色々なことを教えてくれた。
 誰かにただ話を聞いてもらう時間が大切なこと。
 美味しいご飯を食べるのも旅の醍醐味の一つであること。
 旅の出会いは一期一会であること。
 それに追加して、世間は意外と狭いということ。

 今日からよろしくね。高峰快先輩。



 了