あの夜は、何度思い出しても人生で一番幸せな夜だった――。


   * * *


 会場のスクリーンに映し出される懐かしい写真たち。

 高砂に並ぶ新郎新婦が自分たちで作ったプロフィールムービーを見ながら、仲睦まじく微笑みあっている。

 ふたりは、高校三年間を一緒に過ごしたかけがえのない親友。アルバムをめくるように流れていく思い出の中で、私たちはいつも一緒に笑っていた。

 高校最後の体育祭。応援団の衣装を着た四人の男女が、満面の笑みでピースサインを作っている。

 若かりし頃の新郎新婦と私。
 そして、もうひとり――。

 テーブルの中央に飾られた花越しに、新郎側の席に座る彼の横顔がスクリーンの明かりでぼんやりと照らされている。

 はっきりとした切れ長の瞳。特徴的な鷲鼻。猫っ毛な髪質。それらはあの頃となにひとつ変わらないのに、どこか色気漂う大人になった彼の姿を見て、どきっとする。

 もう、あれから七年が経つ。

 それなのに私の恋はずっと停滞したまま、今も心の中に残っていた。

 もう一度スクリーンに視線を移し、私は思い出の中に浸った。


 二十五歳の春。ミントグリーンのワンピースドレスに身を包み、都内の式場で行われている披露宴に出席した。

 先ほどフォトタイムに入り、ぞろぞろとガーデンへと移動したら、主役の由香里(ゆかり)(わたる)は友人たちと代わる代わる写真を撮っている。

 私はなんとなくタイミングを逃し、デザートビュッフェのワゴンからケーキをいただいて端っこの椅子に座っていた。

百花(ももか)

 すると、懐かしい声に呼ばれた。
 
「よっ」

 目が合うなり、彼は照れくさそうにはにかみながら、ぎこちなく手をあげる。

 私は思わず、口に入れたケーキをそのままごくりと飲み込んでしまい、咳き込んだ。

「おい、大丈夫かよ」
「急に声かけるからでしょ」
「相変わらず、危なっかしいのな」

 そんな可愛くもない返事をした私に、けらけらと笑いながら近くにあったオレンジジュースを差し出してきた。

「……ありがと」

 数ある飲み物の中から、迷わず私の好きなオレンジジュースを手にとる。

 そんな彼の行動ひとつで、単純な私の心はぽっと暖かくなった。

「久しぶりだな。同窓会ぶり?」

 そう言いながら、彼は空いている隣の椅子に座ってくる。

「うん。夏生(なつき)は元気にしてた?」
「おう」

 久しぶりに彼の名前を呼んだら、胸がぎゅっとなった。

 背は一八〇センチと高くて、当時はバスケ部のエースでもあった。

 黙っていればモテるだろうに、いつもふざけてばかりいたから〝残念イケメン〟なんて言われて、由香里と渉にはよくうるさいと怒られていたっけ。

 私はそんなやりとりを笑いながら、気づけば夏生ばかり目で追うようになっていた。

 彼の様子をちらりとうかがいながら、ちょうど一直線上に見える由香里たちの姿を見つめる。

「やっぱり複雑なもの?」
「なにが?」
「好きだった人の結婚式にでるのって」

 夏生は高校時代、由香里のことが好きだった。

 仲良くなってから、分かりやすい彼の気持ちを知るのに時間はかからなくて。私に向ける優しさと由香里に向ける優しさがどこか違うのを、ずっとそばで見ていた。

 天真爛漫でスラッとしている美人な由香里。

 幼児体型なうえ、顔も至って普通な私はなにもかも彼女とは正反対。夏生の好みには程遠いだろう。

「別に。いつの話してんだよ」

 私はオレンジジュースを口にしながら、夏生がどんな表情でそう答えたのか確認することができなかった。

 だって、強がって言ったのがわかっているから。

 彼は高校二年の冬、一度告白してフラれている。その頃から由香里と渉はいい雰囲気で、いつ付き合ってもおかしくなかった。

 夏生はそれを分かっていて、気持ちに区切りをつけたかったと言っていた。

 でも、彼女への気持ちはずっと消えていないだろう。

 成人式をきっかけに開かれた高校三年の同窓会で、由香里たちが婚約したと聞いてすごくつらそうな顔をしていたから。

「百花こそ、どうなんだ? 結婚とか」

 グラスビールを片手に持ちながら、彼は唐突に話題を変えてきた。

「予定なし。彼氏もいない」

 私の恋愛事情なんて興味ないくせに――。
 そうふてくされながら、ぶっきらぼうに答えた。

「ふーん。……あいつは?」
「だれ?」
「同窓会で告られてたじゃん。サッカー部のイケメンから」

 同窓会から、もう四年も経っている。
 すごく懐かしい話で、申し訳ないけれどそんな出来事があったことすら忘れかけていた。

「なにもないよ」

 一瞬面食らってしまったけれど、慌てて否定した。

「なんだ、付き合ったのかと思った」
「そんなわけないじゃない。だって、あの日は夏生と――」

 不意に振り向いた彼と視線が交わる。

 思い出したら顔が一気に熱くなり「なんでもない」と言いかけた言葉を飲み込んだ。

「あの日は、なに?」

 しかし、普段は冗談ばかり言っている彼がいつになく真剣な表情を見せ、目を奪われる。

 場内に流れるBGMも辺りの喧騒も、なにひとつ耳には入らない。しんとした静けさの中、自分の鼓動の音だけが強く響いているような気になる。

 ふたりの間だけ時間が止まっているみたいだった。

 こういう時ばかり、ずるい――。
 分かっているくせに。

 心の中でそう思いながら、あの夜の記憶が蘇る。


『百花』

 何度も繰り返し私の名前を呼びながら、首筋にかかる吐息は熱を帯びていた。

 同窓会の夜。二次会を終えて、三次会へと向かおうとする同級生たちの波から離れ、私は夏生の泊まっていたビジネスホテルに入った。

 どうしてそうなったのかと言われると、今となっては曖昧だった。

 婚約を祝福される由香里たちはみんなの中心にいて、そんなふたりに笑顔を向けながら、どこか上の空だった夏生を見ていられなかった。

 だからあの日、三次会のカラオケに移動する道中、私はお酒の勢いに任せて『大丈夫?』と彼の手を握った。すると、強く手を握り返され『だめ』と答えたんだ。

 そのあとの記憶はぼんやりとしている。

 手を繋いだまま乗り込んだタクシー。この手を離さなくていいのなら、正直行き先はどこでもよかった。

 ホテルの一室に入るなり、電気もつけずそのままぎゅっと抱きしめられた。

 大人な香水のかおり。
 意外と筋肉質で、厚い胸板。

 私の知らない夏生がそこにいた。
 
 別の人を想いながら抱かれていることは分かっていた。
 叶わぬ恋だということも分かっていた。

 それでも、どうにもこの気持ちは止められない。

 今だけでも私を見てくれれば……。
 必要としてくれれば……。

 私はそれで幸せだった。
 
 初めて体を重ねたあの日以来、私たちは今日まで一度も、会うことは疎か連絡すらしてこなかった。

 たった一度の過ち。彼にとってはそんな消したい過去だったかもしれない。

 だけど私にとっては大切な思い出で、人生で一番幸せな時間だった。

「ねえ、夏生」

 好き――。

 今にもあふれ出しそうになる彼への気持ちを口にしてしまいたくなる。しかし、彼の薬指に光る指輪がそうはさせなかった。

 口にしそうになった気持ちは、いつものように自然と心の奥に引っ込めた。

「百花ー! 夏生ー!」

 顔を上げたら、真っ赤なカラードレスを着た由香里が満面の笑みで手招きをしている。

「本当幸せそうに笑うよな」

 大きく手を振っている彼女を見て、夏生がそう言って微笑む。

「ごめん、なに?」

 由香里に向けた笑顔のまま、彼の顔が振り返る。私はゆっくり首を横に振り、「行こう」と小さく囁いた。


 披露宴を終え、とあるパーティー会場を貸し切った二次会が始まった。

 盛大な拍手で迎えられる新郎新婦は、定番のウエディングソングとともに入場する。

 高校の同級生たちとテーブルを囲み、「乾杯」とカクテルグラスを合わせた。

 しかしその場に、さっきまでいたはずの夏生の姿はなかった。

 二次会には行くと言っていたのに。 

 周りの会話に適当に相槌を打ちながら、入り口の方にばかり視線を送った。

「名古屋に帰ったよ」

 すると、いつの間にかそばには渉が立っていた。

「夏生。明日の朝から仕事が入って、急遽今日の便で帰らなきゃいけなくなったって」
「そう……なんだ」

 私は言葉を詰まらせながら必死に平気なふりをした。「大変だね」と他人事みたいに笑うと、困ったように微笑まれ、思わず視線を逸らした。

 本当は、もっと夏生と話がしたかった。
 この日を迎えるまで、毎日のようにどんな顔で話そうかと鏡の前で練習したくらいだ。

 でも、私の気持ちは迷惑でしかないから。

 一年前。夏生は会社の同僚だという女性との間に子供ができて、突然結婚した。

 四人のトークルームでされた報告。【おめでとう】と表示されていく中で、私はあまりの衝撃とショックで、その言葉を打ち込むのに随分と時間がかかってしまった。

「もう、お別れくらい言って帰れって感じだよね。本当薄情なんだから」

 冗談まじりに言葉を発し、嘘の明るさで取り繕う。

 そこへ由香里までもが心配そうに近づいてくる。ふたりして深刻そうな顔だ。

 きっと私の気持ちはバレている。それなのに今まで深く聞いてこなかったのは、この想いが実らないことをわかっているからだろう。

「ちょっと、主役がこんなところにいていいの?」

 笑って、ごまかして。いつもこうして笑顔の裏に本当の気持ちを隠してきた。

 だから、今日も――。

「ねえ、百花。同窓会のあと、なにがあったの?」

 しかし、由香里のその一言で一瞬にして表情が消えた。渉は隣で慌てたように「おい」と口にする。

 ふたりとも、私たちの間になにかが起きたことを知っていたらしかった。

 口をつぐんだままどうしたらいいか分からずにいたら、不意に目があった渉が諦めたように口にする。

「今更こんなこと言っていいのかわかんないけど。あいつ、同窓会が終わってから口癖みたいに言ってた。中途半端なことして絶対百花に嫌われたって」

 知らなかった。
 夏生があの日のことをそんな風に思っていたなんて。

 頭の整理がつかないまま黙り込んでいたら、
「ずっと口止めされてたんだけど、もうむり」
 由香里が唐突にそう切り出した。

「高校の頃、私に告白してきた時、夏生は振ってくれって言いにきたんだ。ちゃんと区切りつけて終わらせないと、次の恋に向き合えない。百花に失礼だからって言って」

「え……」

「夏生はさ、ずっと百花なんだよ」

 由香里の安心させるような笑顔が向けられる。
 しかし、私は混乱し、わけがわからなかった。
 
「そんなはずない。だって、たくさん相談受けて……。好きな人に振り向いてもらえなくてつらいとか。どうしたら男として見てもらえるかなって」

 高校時代、彼はいつもどこか遠くを見ながらそう言っていた。

「同窓会のときも、ふたりが婚約したって聞いてつらそうで」

 そうだ。由香里のことを引きずっていなかったのなら、あの夜の説明がつかない。

 私は、彼の弱った心につけこんだ。
 傷を舐め合うみたいに、抱き合ったのだから――。

 自分に言い聞かせるように、夏生の気持ちが私に向いていない理由ばかりを探す。そうしなければ、苦しくてたまらなかった。

 しかし、由香里の目は私を諭すような眼差しをしていた。

「同窓会でも百花しか見てなかったよ。他の男の子から告白されて仲良さそうにしてるの見て、あのまま付き合ったらどうしようってずっと不安がってた」

 知らない真実がひとつずつ紐解かれていく。

「そんな素振り、全然……」

 そう言いかけて言葉を失った。

 ――夏生の恋を応援してる。
 ――いつでも相談のるから。
 ――私は、夏生の一番の親友だよ。

 傷つきたくなくて、私はずっとそんな言葉たちを盾にして自分を守ってきた。

 それが彼を傷つけているとも知らずに。

「私、ずっとひどいこと言ってた」

 過去の言動を思い出し、胸が痛くなる。

 なにも言わなかったんじゃない。
 ずっと言えなかったんだ。

 力が抜けるみたいにすとんと近くの椅子に座り込む。

 由香里を好きな夏生を見ているのがつらくて、好きでもない先輩と付き合ったこともある。報告すると、決まって夏生は『おめでとう』と言ってくれた。

 その言葉をどんな想いで言っていたんだろう。

「私、夏生が好きだった」

 初めて吐露した恋心。
 ずっとふたりの前でさえ言えなかった。

 涙がひとりでにこぼれ落ちると、由香里が「うん」と頷き、私を優しく抱きしめた。

「ちゃんと好きだった。あの夜を後悔したことなんてない。傷ついてなんてない」

 とめどなく気持ちが溢れ出し、どうにも止められなかった。

「迷惑じゃないかな。伝えてもいいのかな」

 顔を上げると、ふたりはすべてを見透かしたみたいな顔をして微笑んでいる。

「私、行ってくる……」

 はなを啜り、立ち上がる。

 すると、ふたりは驚いたように顔を見合わせたけれど、すぐに笑顔を向けてくれた。

「東京駅から乗るって言ってた」
「百花、頑張れ」

 気づけば会場を飛び出し、無我夢中で走っていた。
 周りの目なんて気にもせず、スカートの裾が舞い上がるのも構わず、大通りに向かう。

 ヒールの高いパンプスに何度足を取られたかわからない。このまま靴を脱ぎ捨てて、裸足で走りたいと何回思っただろう。

 息を切らしながら、やっとの思いでタクシーを捕まえた。東京駅に向かう車内でスマホをぎゅっと握りしめる。

【行かないで】

 そう言葉を残して――。

 駅に着くなり、とにかく走った。
 バスのロータリーで【名古屋行】の表示を探す。

 人の波をかき分けてぶつかるたび、こんな格好をしているからか、尚更不審な目で見られた。

 額から一筋の汗が頬を伝った時、ちょうど名古屋行きのバスが横を通り過ぎていった。

 終わった。こんなに頑張ったのにと、どっと疲労感が全身を襲う。

 そのとき、握りしめていたスマホが震え出す。

 落ち込み気味に画面を見たら、なぜか夏生の名前がそこにある。

『なにやってんだよ』

 スマホを耳に当てた途端、呆れたような困ったような、でも優しい声がした。

「なにって……」
『そんな格好で走って、目立つに決まってんだろ』

 呆然とその場に立ち尽くしていた私は、そんな言い回しにハッとして辺りを見回す。

 すぐに『後ろ』と声がして、振り返った。

「なんで?」

 なぜか、そこにはスーツケースをひく夏生の姿があった。

『あんなメッセージ送ってきて、帰れるかよ』

 すぐそこで口が動かす彼を見ながら、耳元でぼそぼそとそう言う声を聞いた。

 夏生がゆっくりと近づいてくる。私は妙に緊張して、スマホを持っていた手を下げて、乱れた前髪を慌てて整える。

「ごめん、引き止めて。私――」

 俯きがちにそう言いかけたとき、目の前まできた夏生の腕に力強く引き寄せられた。

 一瞬、なにが起きたかわからずに混乱する。

 なぜか道のど真ん中で、抱きしめられていた。

「行かないでなんて言われたら、男は勘違いするぞ」

 鼓動が一気に加速する。
 彼の腕の中にすっぽりとおさまる私の体は熱を帯び、今にも心臓の音が聞こえてしまいそうだ。

 きっと、注目を集めているに違いない。私がパーティードレスなんて着ているから余計に目立つだろう。

 でも、そんな恥じらい感じさせないようにしているのか。背の高い彼が全ての視線遮って、私を包み込んでいた。

「夏生、好き」

 もう隠していることはできなくて、やっとの思いで口にする。

 すると、夏生の体がゆっくりと離れていった。私はそのまま、動揺している彼の瞳を真っ直ぐ見据える。

「ずっと好きだった」

 言えた。

 何年も抱えてきた恋心を口にして、いろんな想いがこみあげてくる。すっきりとしたような、終わってしまったと悲しいような。自分でも分からない感情が、涙になって視界を揺らした。

「だからあの夜、私は幸せだったよ」

 目を丸くして固まる彼にそう告げたら、意を決したようにスーツケースの持ち手をぎゅっと握りしめたのがわかった。

「百花、俺も――」
「なにも言わないで」

 しかし、私はあえて彼からの言葉を遮った。

「言っちゃだめ。……だめだよ」

 声を落としながら、左手の薬指に光る誓いの印を見つめる。

 その先に続く言葉を聞いてしまったら、後戻りできなくなってしまう。間違いを犯してしまうかもしれないと、そう思った。

「夏生。私のこと、ちゃんと振って」
「え……」
「次の恋に進むために。……お願い」

 これはもう、高校生の恋愛ではないから。

 私の身勝手で振り回していいはずはない。大人として、ちゃんと終わらせなければならなかった。

 夏生は、複雑そうな顔で視線を動かす。

 でも、叶うことのない恋はここで終わらせるしかない。こうするしかないのだと、自分に言い聞かせた。

「百花」
「うん」
「ごめんな。ごめん」

 夏生は何度もそう言う。その『ごめん』の中に、いろんな思いが込められている気がした。

「今は大切にしなきゃいけない家族がいる」

 その一言で、長い恋心にピリオドが打たれた。

「ありがとう」

 つらくてたまらないはずなのに、どこか清々しい。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、私は精一杯の笑顔を作った。

「バイバイ、夏生」

 震える声でそう告げて、そのまま彼に背を向けた。


 この恋は、一生忘れないだろう。
 あの夜は、一生忘れないだろう。

 だからキミもどうか私を忘れないで――。


 振り返らないと心に決めて、いくあてもなく歩き出した。



Fin.