ことさらに強さを求めたわけじゃなかった。
ただ生き延びたかっただけだ。
十五歳のときから魔物が蠢く地下迷宮に潜って探索を続けていた。
大きな夢があったわけじゃない、ただ生活のためだった。
だが俺には才能があったようだ。
気が付けばリングイア王国でいちばんと評判のSランクチームの冒険者となり、国いちばんの剣士とまで呼ばれるようになっていた。
無影のジン、そんな二つ名までちょうだいしたさ。
金に困ることはなくなり、かわいい彼女と暮らせるようにもなった。
バジリスク、サイクロプス、ドラゴン、迷宮の奥地に出現するボスと呼ばれる魔物たちですら、俺は次々と撃破した。
たぶん、才能が有りすぎたのだろう。
いつの頃からか、俺の強さは化け物じみてきていた。
王都の迷宮・地下四十二層。
Sランク冒険者チーム・キングダムはここのボスである三つ又のドラゴンと戦っていた。
黄金に輝く巨体、挑むものを圧倒する翼、長く伸びた三本の首には三つの頭が付いており、それぞれ火炎魔法、氷冷魔法、回復魔法を使っている。まさにボスらしいボスであった。
「さすがに強えな、あのキングギドラは!」
俺の言葉を親友のディランが打ち消す。
「アイツの名前はグランツォだ。キングギドラじゃねえ」
「おう、そうだったな……」
うっすらだが、俺には前世の記憶がある。
こことはまったく違う世界の日本という国にいた頃の記憶だ。
だが今はそんなことを気にしている場合ではないか。
俺はこいつを倒して財宝を手に入れ、愛しいエスメラの元へ帰らなければならない。
少し戦いに集中しよう。
キングギド……グランツォの攻撃にガード役の重戦士が跳ね飛ばされた。
魔法で身体強化し、二トンの攻撃にも耐えられるにもかかわらずだ。
たまらずにディランが叫ぶ。
「ジン、まだか?」
「そろそろだ……」
俺は目をつぶって気と魔力を練り上げ攻撃に備える。
コイツを倒すには俺の必殺技である無影斬を使うしかない。
だがその発動には少々時間がかかる。
しっかりと準備をしなければ俺の体がバラバラになりかねない大技なのだ。
体の中に気と魔力が充実し、すべての準備が整った。
目を見開けば視野が広くなっていて、どこもかしこもがクリアだ。
頭の中では戦場が俯瞰図のように見え、敵と味方の位置関係が手に取るように把握できている。
よし、この状態ならいけるだろう。
愛剣の柄に手をかけるとディランが叫んだ。
「ジンの用意ができた、みんな退け!」
グランツォを囲んでいた仲間たちがパッと離れるのと入れ替わりに、俺は前に進み出た。
三つの頭を持つドラゴンの殺意が凶器のように襲い掛かるが、俺の心は平らかだ。
明鏡止水、迷いは一切ない。
踏み込むと同時に抜刀し、敵を斬って、剣を鞘に戻す。
俺の技は至極単純で、それだけのことでしかない。
だが速すぎるゆえに、一連の動きを目で追える人間はいない。
相手が魔物であってもごく少数だろう。
そこで付いたあだ名が無影のジンである。
残影すらなく相手を斬ることに由来している。
俺の愛剣ヒュードルが鞘に戻ると、ドラゴンの頭は三つとも地面に落ちた。
迷宮の床に重い地響きがこだまする。
キングギドラは立ったまま絶命していた。
あ、グランツォか……。
「さすがはジンだぜ! よくやった!」
ディランが駆け寄って俺の肩を叩く。
他のメンバーも褒めてくれたが、どこかよそよそしかった。
きっと、俺のことが怖いのだろう。
それは俺自身が感じている恐怖でもある。
俺には才能が有りすぎたのだ。
戦いの日々の中で自分がますます化け物になっている自覚はある。
そして、同じ恐怖を恋人のエスメラも感じていたのだろう。
四十二層の探索から帰ってくると恋人のエスメラが消えていた。
ダイニングテーブルの上に残された短い手紙が、楽しかった蜜月の終わりを教えてくれた。
好きな人ができました。普通の人です。
なんとなくそんな予感はしていたのだ。
エスメラとは一年近く一緒に過ごしてきたけど、最近は少しだけ避けられているように感じていたから。
ただ、他の男の影には気づかなかった。
職業柄、俺は長く家を空ける。
だがオフのときは朝から晩までエスメラと一緒にいたのだ。
我ながら鈍いものだと笑えてさえくる。
俺を捨てた理由もエスメラははっきりと書いていた。
ジンのことがずっと怖かったの、ごめんなさい。
暴力はおろか、声を荒げたことすらなかったが、それでもエスメラは俺が怖かったのだ。
たぶん、俺は強くなりすぎてしまったのだろう。
人の領域に留まれないほどに。
そりゃあそうだ、国中の冒険者が手を焼くドラゴンを一太刀で斬り殺す男なんて恐ろしい存在に決まっている。
エスメラは身の回りの品だけを持って出て行ったようだ。
金庫の中にはまとまった金があったけど、それは手つかずで残っていた。
「…………」
崩れ落ちるようにソファーに座り、気を付けて周囲を見回してみる。
部屋の中はきれいに掃除をしてあった。
塵なんて一つも落ちていなかったし、どこもかしこも磨き上げられてピカピカに光っている。
エスメラが自分の痕跡をすべて消し去っていったかのようだ。
たまたま一緒に来ていたディランが腑抜けた俺に声をかけてきた。
「どうする、エスメラを探すか?」
俺は力なく首を振った。
探し出してどうなる?
彼女は出て行ったのだ、その事実は変えられない。
すべてがどうでもよくなってきた。
次はガルーダ(巨大な怪鳥)を討伐するなんてリーダーは言っていた。
成功すれば三年は遊んで暮らせる金が手に入るそうだ。
だけど、それに何の意味がある。
虚しく酒におぼれる未来しか見えない。
「おれ、冒険者をやめようかな……」
吐き出すようにつぶやくと、ディランは呆れ顔になっていた。
「向いてないんだよ」
「いや、お前はSランクチームの、これまたエースアタッカーだぞ。天職じゃねえか」
「まあなあ……。自分で言うのもなんだけど天才だと思う。努力もしたしな」
「だろう? これまでのキャリアを棒に振らなくてもいいじゃねえか」
「だけどさあ、メンタル的に限界なんだよ。これ以上続けたら、俺さあ……人間じゃなくなっちまう気がするんだ……」
これは漠然とした予測だけど、俺はまだ強くなれる気がするのだ。
そうなったとき、俺は人であり続けることができるのだろうか?
今はこうして一緒にいてくれるディランだって、俺から離れていってしまうかもしれない。
「だけどよお、冒険者をやめてどうするんだ? ジン、戦う以外にお前に何ができる?」
突如、心の中に風が吹いた。
それはダガールの熱く乾いた風だった。
ゴーダ砂漠のほとりにある、ちいさな村ダガールが俺の故郷だ。
無性に懐かしくなって、気が付いたら涙が出ていた。
「帰る……」
「帰るって、ジンの家はここだろうが」
「いや、ダガールへ帰る」
「ダガールと言えば、ジンの故郷か。だけど家族はもういなかったよな?」
両親は元々いない。
俺を育ててくれたじいさんとばあさんも死んでしまった。
だが、家はそのままになっているはずだ。
「じいさんがやっていたカフェがあるんだ。そこを再開しようかと思うんだ」
「ジンがカフェねえ……」
ディランは信じられないといった顔をしていたけど、じつは前から考えていたことでもあった。
三十歳になったら冒険者を引退して、カフェをやろうと計画していたのだ。
エスメラも賛成してくれたけど、彼女は残りの三年を待てなかったようだ……。
実を言うと、カフェの経営は俺の前世からの夢でもある。
俺は日本で脱サラしてカフェを始めようとしていたけど、そうなる前にトラックに轢かれて死んでしまった。
そんな記憶が残っているなんて、よほど未練を残しているのかな?
「ジン、冷静になって考えろ。料理なんてできるのか?」
「ほとんどできない。だけど、今は自分でも不思議なくらいドライカレーが作りたいんだ」
「ドライカレー? なんだ、そりゃ?」
「スパイスを効かせたキーマカレー、それにはひき肉がたっぷりと入っている。そいつをバターライスの上に盛り、その上に目玉焼きをそえるんだ」
「よくわからんが美味そうだな」
「作り方はぼんやりとしか覚えていない。でもな、俺の魂が囁くんだ」
「魂?」
「ジン、ドライカレーを作れ、ってな」
「お、おう……。大丈夫か?」
「安心してください、正気ですよ」
「なんで、丁寧語? だが、引退というのも悪くないかもな……」
ディランは戸惑いながらも俺を応援してくれた。
「わかった、ジンがそう決めたのなら俺はとめないよ。リーダーやメンバーたちにも口添えする」
「すまねえな」
「そりゃあジンが抜けるのは痛いが、俺たちも冒険者だ。そのへんは弁えているさ」
冒険者チームのメンバーは常に入れ替わっている。
いなくなった奴が戻ってきたり、戻ってきたやつがまた抜けていったり。
まるで、どこぞのロックバンドのようである。
うん、日本人のときの記憶がまた強くなったな……。
「いつか必ずお前のカフェへ行くよ」
「おう、ぜひ来てくれ。美味いものをたらふく食わせてやるからさ」
「で、店の名前はなんていうんだい?」
俺の脳裏に懐かしい店の姿が甦った。
晴れ渡る青空の下、まばらに生える草木、巻きあがる砂塵、その店の先は不毛の大地だ。
白熱の光に照らされて、どこまでも続く砂丘が折り重なっている。
黄色いペンキがはげかけたその店は大陸行路の街道沿いに建っていた。
看板の文字は俺がガキの頃でさえ薄くなっていたな。
今となっては、もうかすれて読めないかもしれない。
だけど、そこにはこう書いてあったはずだ。
「カフェ・ダガール」
帰ろう、あの場所へ。
決心が固まると、居ても立っても居られなくなるほどに旅立ちが待ち遠しくなった。
魔剣ヒュードルは俺の愛刀だ。
こいつは風竜グラスウィンドを倒したときに、その体内から出てきた。
全長が一〇〇センチほどの片刃剣である。
切れ味は言うに及ばず、耐久性も素晴らしい。
だが、こいつのいちばんの特性は、スケートボードのように所有者を乗せて飛行できることだろう。
最高速度はおよそ一二〇キロで、五〇メートルくらいの高さま上昇することもできる。
高い場所からの滑空も可能だ。
道がないところでも平気で入っていけるから、目的地までほぼ直線距離で行けるところも気に入っていた。
というわけで、今回の帰郷でも俺はヒュードルを使っている。
おかげで一日に七時間ほど、距離にして六〇〇キロメートルくらいを進める。
駅馬車では考えられないスピードだ。
とはいえ、飛ぶためには大量の魔力を注ぎ込んでやる必要がある。
スピードや移動高度で変わってくるが、並の魔法使いでは三十分で枯渇するほどの魔力が必要になるのだ。
二昔前のアメ車くらい燃費は悪い。
もっとも、俺が保有する魔力は多いので困った経験はない。
雨に降られることもなかったので、今回の旅も快適だった。
南下するにしたがって日差しは強くなり、空気が乾いてきた。
旅も四日目に入り、風景は懐かしい故郷のものになっている。
俺は速度を落として街道に沿ってのんびりと飛んだ。
ここは大陸行路の主要街道で交易の商隊がラクダに乗って砂漠を越えようとしている。
まだ行ったことはないが、砂漠の向こうにはレッドムーンという国があるのだ。
商人たちはヒュードルに乗った俺を見てぎょっとしていたが、こちらに害意がないことがわかると手を振り返してくれた。
ダガールが近づいてきた。
十二年ぶりの故郷に胸がドキドキしている。
実家は村からだいぶ離れたところに建っている。
先に村へ寄っていくとしよう。
建物の鍵はじいさんの幼馴染であるポビックさんが預かってくれているのだ。
ヒュードルの速度をさらに落とし、ゆるゆると俺はダガールに近づいていく。
目にする光景は記憶にあるものばかりだ。
痩せた土地に作られた豆やトウモロコシの畑、砂岩で出来た小さな家々。
まるで時が止まっているかのような錯覚を覚えるほどだ。
どこもかしこも見覚えがある。
あそこは遊び友だちのルガーの家だ。
俺たちは家の手伝いをさぼってよく一緒に遊んでいたものだ。
あとで叱られるのはわかっていても、やめられなかった。
ルガーは村を出て、どこかの街で大工をやっているそうだ。
お、あっちはマチルダ姉ちゃんの家だったな。
優しいお姉ちゃんで、誰にでも親切だったのを覚えている。
すごい美人というわけじゃなかったけど、優しくて、愛嬌があって、おっぱいが大きくて、村の男の子でマチルダ姉ちゃんに胸を焦 がさなかった奴は一人もいなかったと思う。
お、あれはたしか……。
次から次へと溢れる想い出を噛みしめながら、通りを左へ曲がった。
俺の記憶が確かならば、あの店はすぐ正面にあるはずだ。
ヒョードルから降りて刀身を鞘に納めた。
正面に控える青い商店には『ヘロッズ食料品店』の看板が掲げられている。
ここが、俺のじいさんの幼馴染であるポビックじいさんが経営する店だ。
軽い木の扉を押し開けて薄暗い店内に入った。
「いらっしゃい」
しわがれた小さな声が俺を出迎えた。
白く薄くなったポビックじいさんの頭髪に時の流れを感じる。
皺も少し深くなっていたが、商品の砂を祓う姿はまだまだ元気そうだった。
「ポビックじいさん」
名前を呼ばれて、じいさんはまじまじと俺の顔を見つめた。
だけど、まだ思い出せないようだ。
「あんたは……」
「俺だ、ジンだよ。ロットンの孫のジン!」
名を名乗るとポビックじいさんの顔に驚きの表情が表れた。
「こりゃあ驚いた! あの悪タレが帰ってきおったか!」
「じいさん、しばらくだったなあ!」
「よく帰ってきたな、ジン。嬉しいぞ!」
俺たちは肩を叩き合って再会を喜んだ。
ポビックじいさんと連れ立って実家まで歩いてきた。
俺の記憶にあるのより、店はさらに少し古びていた。
砂漠の風にさらされて極限まで乾いた二階建ての小さな店、ほとんど剥げているクリーム色のペンキ、店の前のひさしが作る濃い陰影まで、すべてが年を取って見えた。
「たまに窓をあけて風はいれているんだがなあ」
「すまねえな、じいさん。いろいろと世話をかけちまったなあ」
「ずいぶんと殊勝なことを言うようになったじゃねえか。ジンも少しは成長したか? ガハハハハハ」
無影のジンも、ポビックじいさんにとってはただのクソガキなのだろう。
俺にはそれが心地いい。
「おめえ、どうするんだ? 都で冒険者をやっていたと聞いたが、ここに住むつもりか?」
「ああ、冒険者は引退だ。俺はここでカフェを再開するつもりだよ」
ポビックじいさんは腕を組んで深くうなずいた。
「それがいい。冒険者なんぞは長く続けられる商売じゃない」
「まあな。どんな人間だって一生戦い続けることは不可能だ……」
じいさんは俺の背中をバシッと叩いた。
「ここでカフェをやるってんならヘロッズ食料品店の出番だな。協力するから何でも言ってくれ」
「頼りにしているぜ」
ポビックじいさんは鍵と一緒に一通の封筒を差し出してきた。
「ロットンが死ぬ前に書いたものだ。もしジンがダガールへ帰ってくるのなら渡してほしいと頼まれた」
物理的に不可能だったので、俺は祖父母の葬式に出ていない。
当時はまだヒュードルを手に入れてはいなかったのだ。
「じいちゃんの最期はどんなだった?」
「メランダさんを亡くして気落ちしていたよ。後を追うように死んだのは二週間後だったな」
仲のいい夫婦だったのはたしかだ。
きっと心の底から信頼しあえていたのだろう。
ダガールに着いたときからずっとこらえていたのだが、ついに俺の目から涙がこぼれた。
地面に落ちた雫は乾いた砂に焼かれてすぐにその痕跡を消していく。
「それじゃあ俺はもう行くよ」
「ああ、ありがとな」
「ジンよぉ、お前の帰りをいちばん喜んでいるのはロットンとメランダさんだろうなあ」
「ああ……そうかもな……」
乾いた砂がとめどなく落ちる俺の涙を吸い続けた。
気持ちが落ち着くと、俺は掃除に取り掛かった。
たまにポビックじいさんが手を入れてくれていたけど、積もった埃は大量だ。
窓を開け、まずは風魔法を駆使して埃を外へ吹き飛ばした。
お次は拭き掃除だ。
雑巾やモップは用具箱の中で見つけることができたが、裏の井戸は砂に埋もれていた。
井戸というのは定期的な手入れが必要なのだ。
この井戸も祖父母と一緒にその使命を終えてしまったようだ。
もっとも、水魔法なら使えるから問題はない。
むしろ井戸で水を汲むより便利なくらいだ。
店には対面式のキッチンがついている。
そこには水を溜めておける甕もあったので、必要な分だけ魔法でだしておいた。
「備品はまだ使えそうだな」
食器類は皿もカップも傷んでいなかった。
だが魔導コンロは壊れていた。
なんどスイッチをひねっても火がつかないのだ。
おそらく経年劣化だろう。
あらかじめわかっていれば都の道具屋で買ってきたのだが、今さら言っても詮無いことだ。
とはいえこれも火炎魔法で何とかなる。
少量の料理なら問題はないはずだ。
カフェは村はずれにあり、祖父母の代から客は少なかった。
店を開いたからと言って、すぐに大勢の客が訪れることもないだろう。
あらかた掃除を終えるともう夕方だった。
砂漠の太陽は地平線を真っ赤に染め、砂丘が鱗のように黒く波打っている。
窓からぼんやりその景色を眺めていたら店の扉に取りつけてある鐘がなった。
カランカランとよく響く、銅製の鐘である。
ちらりと目をやると、年のころは十代後半、長い濃紺の髪をした女が入ってきた。
目つきの悪い屈折した美少女、それが俺の第一印象だった。
「泊まりたいんですけど」
「泊まりたい? ここはカフェなんだが……」
女はカウンターの横にかかれた料金表を無言で指し示す。
宿泊 ……三〇〇〇ゲト
水(洗顔にも飲料にも使えます) ……三〇〇ゲト
爺さんの頃には宿屋もやっていた。
料金表はその名残で、外の看板にも小さく書いてあるのを忘れていた。
ゲストルームは三部屋ある。
「悪いけど宿屋はもうやっていないんだ」
女は振り返って外を見た。
先ほどまで大地を染めていた太陽はすでに砂丘の向こう側だ。
空には残光がうっすらと残るだけになっている。
「廃業なんだ。カフェは再開する予定だけど」
「でも、部屋はあるのでしょう?」
「あるけど、ここにいるのは俺一人だぜ。あんた怖くないのかい?」
女は小さく肩をすくめた。
俺を真っ直ぐ見据える瞳に恐怖の色はまったくない。
「別に怖くないわ。それより、外で寝る方がゾッとする」
「怖くないわ」か……。
ちょっとだけ古風な喋り方をする少女だ。
ひょっとするとどこぞのお嬢様かもしれない。
エレガントさとか、かわいらしさはないけどな。
どうしてこのガキを泊めてやることにしたのかはよくわからない。
なんとなれば村の神殿を紹介してやることもできたのだ。
だが、俺はこの娘を泊めてやることにした。
下心があったわけじゃない。
しいて言えば、こいつから俺と同じにおいがしたからだ。
それは、寂しい化け物のにおいだった。
二階のゲストルームに案内するとシュナと名乗った少女はため息をついた。
それが疲労からきているのか、部屋のボロさに呆れているからかは判別がつかない。
ただ、どこか世の中を拗ねているような印象をシュナからは受ける。
「この3号室を使ってくれ。何かあったら俺は下のカフェか角の部屋にいるから」
「おやすみなさい」
小さくうなずいてシュナは扉を閉めた。
思いがけず妙な客を泊めることになってしまったが、それも明日までのことだ。
朝になればあの娘も出ていくだろう。
だが、どこへ行くのだ?
砂漠へ行くのならラクダがないというのはおかしな話だ。
徒歩で渡り切れるほどゴーダ砂漠は甘くない。
まあ、俺ならレッドムーンまで徒歩で行けるとは思う。
体力もあるし水魔法だって使える。
てくてく歩いて行けばそのうちたどり着くだろう。
だがシュナは?
どういうわけか、あいつでもできそうだと俺は踏んでいる。
あいつには得体のしれないなにかがある気がするのだ。
「どうでもいいか……」
そう、どうでもいいことだった。
人と人との関係はほとんどが一期一会だ。
俺とシュナだっておそらく二度と会うことはないだろう。
いろいろと考えるのは止めにして、俺はカフェのバーカウンターに座った。
それよりも気になるのは祖父からの手紙だ。
落ち着いたら読んでみようと思っていたのだが、シュナが来てこんな時間になってしまった。
夜も更けた、故人からの手紙を読むにはちょうどよい頃合いだ。
封を開けるとカサカサの紙が出てきた。
ジンへ
本で読んだことだが、親心というのは子が親を思う心の倍はあるそうだ。私は今それをこの身をもって実感している。不肖な孫の行く末が心配でならん。私にとっての唯一の心残りだ。
ジンよ、お前は幸せでいるか? 疲れてはいないか? 飯を美味しく食べられているか?
もしお前が幸福に暮らしているのなら私にとってそれ以上は望むべくもない。
どこへでも好きな場所へ行って自分の能力を試してみればいい。
だがもし不幸で、心が疲れてダガールに戻ってきたのなら、この家を起点にもう一度人生について考え直してほしい。
そのためにここをジンに残す。
仕事はいろいろあるだろう。砂漠の案内人になるというのも一つの手だ。ここには太陽の神殿へいく巡礼者も多い。なんなら宿屋やカフェをやるというのも一つの手だ。ジンにまともな料理ができるかどうかはわからないがな。
もしジンが店をやるというのならアイバ家の秘密を教えておこう。
それは裏山の倉庫のことだ。覚えているか? ジンが幼い頃、魔物がでるから絶対に近づいちゃいかんと言っていたあの場所だ。実のところ、あそこは本当に魔物が出没する。それどころか、あの岩山の奥は迷宮になっているのだ。
アイバ家の者たちは代々この迷宮を受け継いできたが、そこで命を落とした者は数知れない。私の父や兄、ジンの父母もあそこで魔物と戦って死んでいるのだ。だから迷宮の存在をお前に教える気はなかった。
だが、今のジンなら平気かもしれないと考え直した。迷宮は危険だがその見返りは大きい。この迷宮は挑戦者の欲するものを与えてくれるからだ。
都に行った村の者からお前の話を聞いたよ。お前は無影のジンなんて呼ばれて、国いちばんの剣士になったんだってな。数年に一度手紙が来ても、ジンは「元気でやっている」としか書いてこないからちっとも知らなかったぞ。
あの小さかったジンが国いちばんの剣士とは私も非常に鼻が高い。よく頑張ったな。今のジンならきっと迷宮を自分の生活に役立てることができるはずだ。
扉の封印を解除する十桁の暗証番号をここに記す。暗記したらこの手紙は破棄するように。
0120441202
ロットン・アイバ
手紙を読み終えた俺は身じろぎ一つできなかった。
カフェの裏手にある岩山には頑丈な鉄の扉がついている。
その奥が迷宮になっているとは想像すらしたことがない。
小さい頃から絶対に近づいてはいけないと厳命されてはいたが、そんな秘密があるとは知らなかった。
だいたい俺の両親も砂漠の魔物と戦って死んだと聞いていたのだぞ。
知ってしまえば気になった。
引退したとはいえ俺は生粋の冒険者だ。
そこに迷宮があるのなら、入ってみたくなるのが性というものだ。
夜はすっかり更けて中天の位置に白い月が浮かんでいる。
どうにも落ち着かなくて魔剣ヒュードルを腰に差し、愛用の皮鎧を身に着ける。
とりあえず様子を見るだけだ、そう自分に言い聞かせて外に出た。
岩山の入り口付近は暗かった。
ちょうど陰になる部分で自分の手さえ見えないほどだ。
火炎魔法で小さな焔を作り出して周囲を確認した。
じいさんが怖かったので、ここに来たことはほとんどない。
頑丈そうな鉄扉にはナンバー式のロックがついていた。
暗証番号はもう暗記している。
0120441202
ロックは大きな音を立てて解除された。
扉は予想以上に重かったが、軋むこともなくスムーズに開いた。
入ってすぐはマンションのエントランスのようになっている。
神経を集中して内部の気配を探ったが、入り口付近に魔物の気配はない。
だが……。
「隠れてないで出てきたらどうだ?」
振り返り、闇に向かって声をかけると、現れたのはシュナだった。
「どうしてついてきた?」
「なんかこそこそしていたから気になったのよ。アンタが悪党なら捕まえてやろうと思ったんだけど……」
シュナは周囲をきょろきょろと見回している。
「ここは迷宮ね」
「そのとおりだ。わかっているならすぐに出て行った方がいい。危険だぞ」
「そうかしら? この付近に魔物の気配はないみたいよ。あら、あの石板はなにかしら?」
「おい……」
シュナは俺を通り越して目の前にある台座をチェックした。
台座には石板が埋め込まれており、そこにはずらっと文字が並んでいる。
迷宮レベル:3
迷宮タイプ:荒野
挑戦者1
ジン・アイバ(27):素人カフェ店主(剣士)
レベル 99+?
HP 999+?
MP 999+?
力 999+?
すばやさ 999+?
体力 999+?
賢さ 32
料理レベル 3
攻撃力 999+?
守備力 999+?
魔法攻撃力 132
魔法守備力 162
挑戦者2
シュナ・パイエッタ(19):家出むすめ(見習い聖女)
レベル 99+?
HP 658
MP 999+?
力 246
すばやさ 782
体力 673
賢さ 178
料理レベル マイナス24
攻撃力 273
守備力 287
魔法攻撃力 999+?
魔法守備力 999+?
「あんた、何者だ? ふざけたステータスをしてやがるな」
魔法攻撃力と魔法守備力は俺よりも上じゃねえか。
こんな奴はトップレベルと言われたチーム・キングダムにもいなかったぞ。
「アンタこそ何者よ。アホみたいにカンストしているじゃない。まあ、賢さはたいしたことないみたいだけど」
「なんだと? てめえこそ料理レベルのマイナス24ってなんだよ。状態異常なしでマイナスなんて初めて見たぞ」
「うるさい、バカ! 勝手に他人のステータスをじろじろ見ないでよ。スケベ、エッチ、色魔!」
えらい言われようだな。
「俺はここの調査をするから、出て行ってくれ」
「ふん、お断りよ。ちょうど眠れなくて困っていたの。手伝ってあげるから感謝しなさい」
実に勝手な言い草だが、それでもいいような気がした。
たぶん、俺が本気を出してもこいつならビビッたりはしないだろう。
化け物同士、そこだけは安心してもいいと思う。
「いちおう、この迷宮のことは内緒なんだが……」
「安心して。私は口が堅いから」
「口が悪いからの間違いじゃないのか?」
「殴るわよ」
「殴り合いで勝てると思うなよ」
「極大魔法でぶっ飛ばす」
「だが避ける!」
「結界を張って逃がさない!」
「それでも避ける!」
「逃がさない!」
俺たちは罵り合いながら迷宮の奥地へと踏み込んだ。
エントランスを抜けると、そこは薄暗い荒野だった。
岩壁などはどこにも見当たらず、寂しげな平原がどこまでも続いている。
とても岩山の中とは思えない。
「おそらく大規模な空間魔法ね。転移魔法で亜空間に飛ばされたのよ」
「へー」
「アンタ、わかってないでしょう?」
「うん」
「バカ……」
「まっすぐ歩いて行ったら壁にぶつかるのかな?」
「いえ、同じところに戻ってしまうはずよ」
つまり北へ真っ直ぐ進めばいつの間にか南へ、東に真っ直ぐ進めば西へ到着してしまうのだろう。
「丸い球の上を歩いているようなもんだな」
「あら、意外とお利口さん」
「あんまりバカにするな。それと俺の名前はジン・アイバだ。まがいなりにも今はチームなんだから、相棒の名前くらいは覚えておけ」
「シュナ・パイエッタよ。私の足を引っ張らないでね」
「ほざいてろよ……」
ダンジョンのレベルは3というだけあって、出現する魔物はたいしたことはなかった。
一角ウサギに巨大カマキリなど低レベルの魔物ばかりである。
俺たちはそいつらを一撃で倒していく。
「やっぱり強いな。ディランの三倍は強いわ」
「ディラン? 誰よ、それ」
「俺の友だちだ」
「アンタの友だち風情と一緒にしないで。こっちは毎日奈落の底の最下層で……」
うかつなことを喋ってしまったといった感じでシュナは言葉を飲み込んだ。
「奈落の底?」
「な、なんでもない」
奈落の底という名称には聞き覚えがあった。
たしかガーナ神殿の地下にあるとされている迷宮の名前がそれだったはずだ。
一般の冒険者は入ることが許されていなくて、特に選ばれた神官や神殿騎士たちがそこで修行を積むという話である。
神官崩れの冒険者に聞いたことがあるが、奈落の底の最下層には地獄に通じる門があるそうだ。
そこで悪魔と戦い、勝利できた者はしかるべき地位につくという噂がある。
シュナのステータスには聖女見習いとあった。
聖女と言えば神殿のアイドル的存在だが、その実力は計り知れない。
おそらくシュナも地獄門の前で修業をしていたのだろう。
「何をぼんやりしているのよ?」
「いや……、って、次が来たぞ。たぶんあれがボスだ」
ボスは巨大な雄鶏だった。
体長は二メートルくらい。
燃えるように赤いトサカ、純白の羽、鋭い嘴《くちばし》と鉤づめは鮮やかなレモンイエローで、金色の目は殺意に満ちている。
「ブラッドコーチンね」
「稀に羽針を飛ばしてくるぞ。刺さると神経に作用するから気を……」
説明はまだ途中だったがシュナの風魔法が発動してブラッドコーチンの首を切り落としていた。
見事なウィンドカッターだ。
なるほど、魔法攻撃は俺より上か。
発動スピードも威力も尋常じゃない。
「なに?」
「せっかちだな」
「先制攻撃は戦いの基本よ。学校で習わなかったの?」
「学校なんざ、行ったことねえよ」
ダガールに学校はない。
村の神官さんが子どもたちに文字を教えてくれただけだ。
優しい神官さんは「あなたの隣人を愛しなさい」と説いたが、「やられる前にやりなさい」とは言っていなかった。
そもそも町の子どもだって学校に行けるのはほんの一握りだ。
裕福な家の子弟、貴族や商人の子どもくらいである。
口は悪いが、シュナの動作には洗練されたものがある。
おそらく貴族階級の娘だろう。
首を落とされたブラッドコーチンは一般的な鶏のサイズに縮んでしまった。
魔物にはこういうことがよくある。
「こいつは可食モンスターだから持って帰ろう」
ブラッドコーチンは王都の中央ダンジョンでも出現して、俺もよく食べたものだ。
味が濃く、肉の弾力が強い。
高級食材として人気が高く、レストランなどに卸すと喜ばれる。
ブラッドコーチンを専門に狩る冒険者もいたくらいだ。
「あら、卵もあるわよ」
草むらの中に六個見つけたので、それも持ち帰ることにした。
荒野タイプの迷宮の地面が盛り上がり、そこに祭壇が現れた。
石造りの舞台のようになっていて、高さは40センチほどである。
広さは4メートル×4メートルくらいだ。
舞台の上にはたった今倒したばかりのブラッドコーチンの石像が建っている。
「あら、宝箱よ」
石像の前には小さな宝箱があった。
レベル3の迷宮なのでたいしたものは入っていないのだろう。
「あまり期待するなよ」
「わかっているわ。それでも期待しちゃうじゃない」
シュナはブツブツと文句を言いながら蓋を開けた。
中から出てきたのは丸くたたまれた羊皮紙だ。
「マジックスクロールかしら?」
マジックスクロールとは、そのまま魔法の巻物のことである。
たとえ魔法が使えない者でも、マジックスクロールを読むだけで、そこに込められた魔法を発動できてしまう便利アイテムだ。
その利便性から高値で取り引きされることが多い。
特に強力な魔法が込められたマジックスクロールは需要が高く、中には数千万ゲトで取引されるものもあるようだ。
「……これ、マジックスクロールじゃない」
羊皮紙を読んでいたシュナがボソリとつぶやいた。
「じゃあなんだよ?」
シュナは無言で羊皮紙を突き出してくる。
その表情は複雑だ。
「なになに……『美味しいコーヒーの淹れ方』だ……と……? マジックスクロールじゃなくてレシピじゃねえか!」
羊皮紙には豆と水の量、お湯の温度、何秒でどれくらい湯を注ぐのかなどの細かい指示が並んでいた。
そういえばじいさんの手紙にあった、この迷宮は挑戦者の欲するものを与えてくれるって。
だからレシピや食材が手に入ったのだろう。
「やれやれ、苦労して手に入れたのが肉と卵、そしてレシピとはね」
「別に苦労なんてしてねえだろう? 瞬殺していたくせに」
「気持ちの問題なの。はあ、精神的に疲れたわ。せっかくレシピを手に入れたんだからコーヒーを淹れてよ」
「うむ、そうしてやりたいのだが、うちにはコーヒー豆がない」
「はっ? それでよくカフェが名乗れたわね!」
「だから、まだ開店前だって言ってるだろがっ! 明日まで待ちやがれ」
「じゃあ、明日になったらどんなメニューを出すのよ?」
「もちろん美味しいコーヒーだ」
「他には?」
他にだと?
そういえば俺はまだなにも考えていなかったな。
ドライカレーの作り方を思い出そうと必死だったのだ。
「他は……、そう! 水だ。水を200ゲトで売り出す」
砂漠で水は立派な商品になる。
「他には?」
他だと……?
「こ、氷水。250ゲト」
「それ以外にないの?」
「砂糖水と塩水……300ゲト……」
「バカか……」
シュナの呆れ顔がムカついた。
「うるせえ、マイナス24」
「マイナス24って呼ぶなっ!」
俺たちは罵《ののし》りあいながら来た道を引き返した。
朝になった。
ゴーダ砂漠は本日も晴天なり。
早朝から大量の紫外線が降り注ぎ砂を焼いている。
旅人に水が売れるかもしれない……。
思い立ったが吉日という言葉もある。
ここには水しかないけれど、今日から店を開けるとしよう。
そうと決まればさっそくメニューを書かなければならないな。
じいさんの代からある黒板に俺はメニューを書きつけた。
本日のメニュー
水 ……200ゲト
氷水 ……250ゲト
これでよし。
開店準備は完璧だ。
さて、こうして準備は整ったのだが、腹が減って仕方がない。
夜中に迷宮を探索したせいだろう。
本日はめでたい開店記念日だから豪勢な朝食を作ることに決めた。
幸い、俺の手元にはブラッドコーチンの肉がまるまる一羽分と卵が六個ある。
これを使えば腹を満たすにはじゅうぶんだ。
なにを作ろうかと考えていると、店にシュナが入ってきた。
「おはよう、お腹がすいちゃった。朝ご飯をお願い」
「おう、今作るぜ」
「今朝のメニューはなに?」
「ブラッドコーチンの塩焼きと目玉焼きだ」
「昨日のあれね。じゃあお願い」
シュナはバーカウンターに頬杖をついてぼんやりとしている。
こちらを手伝う気はないようだ。
もっともシュナはお客であり、俺は店主だ。
そのことに異存はない。
異存はないが……、少々困っている。
俺の目の前にあるのは羽が付いたままのブラッドコーチンだ。
スーパーマーケットで売られているパックの肉とはわけが違う。
「なあ、鶏肉はどうやって捌いたらいいんだ?」
「私が知っているわけないじゃない。ジンは料理人でしょう? ジンが何とかしなさいよ」
「俺はカフェの店主なの。カフェの店主は鶏を捌かないの」
たぶん。
これまでも肉の解体をした経験はない。
冒険者パーティーには専属の料理人がいたのだ。
食材管理や調理はぜんぶ彼がやっていたので俺が知る由もない。
「シュナは家の手伝いとかをしたことないのか?」
そう訊くと、シュナは一瞬だけ悲しそうな顔になった。
「私はずっと忙しかったの! そういうのをやっている暇はなかったんだから」
「仕方がない。それじゃあ卵を焼こう。目玉焼きくらいなら俺でも何とかなる」
「そうね。それくらいなら私でも……」
フライパンを熱していると外からラクダの足音が響いてきた。
「おーい、ジン、起きているかぁ?」
あの声はポビックさんだな。
「ヘロッズ食料品店のボビックさんだ。ちょっと行ってくるから目玉焼きを頼む」
「う、うん……」
俺はシュナを残して表に出た。
「おはよう、ポビックさん。どうしたんだい?」
「用事があって近くまで来たんだ。ついでに注文を取っておこうかと思ってな。欲しい食材とかはあるかい?」
「そうそう、コーヒー豆を注文しようと思っていたんだ」
『美味しいコーヒーの淹れ方』のレシピは入手済みだ。
コーヒー豆さえあれば繁盛店への道だって簡単にひらけるだろう。
「コーヒー豆とパンも頼む」
ポビックさんと注文のことを話していたら、店の中からシュナの叫び声が聞こえてきた。
「ギイヤアアアアアアア!」
俺は慌てて店の中へ駈け込んだ。
「どうした、シュナ⁉」
店の中に充満する煙の向こうに、呆然と立ち尽くすシュナの姿があった。
シュナの手にはフライパンが握られており、その上には殻が付いたままの卵が置いてあった。
あるものは黒く煤け、またあるものは破裂して中身がこぼれているではないか。
「まさかとは思うが、そのまま卵をフライパンの上に置いたのか?」
「そ、そうよ」
「卵は割って入れるもんだぜ」
「し、知らないわよ、そんなこと! 茹でるときは割らないでしょう? だから同じだと思ったの!」
くそ、料理レベルマイナス24をなめていた。
「もったいないことをしちまったな……」
つい、ぼやいてしまったら、シュナはキッと俺を睨んだ。
「元に戻せばいいんでしょう? やってやるわよ!」
元に戻す?
そんなことは不可能だ。
「やっちまったものは仕方がない。素直に謝ってくれればそれで……って、なにをしているんだ?」
シュナは胸の前で手を合わせて魔力を循環させ始めた。
立ち昇る青緑のオーラは神聖魔法の特徴である。
だがこれは並の神聖魔法じゃない。
循環する魔力量が膨大過ぎて店の家具が震えていやがる。
おや、どこからか微かな歌声が聞こえてきたぞ。
これはシュナが歌っているんじゃない。
シュナは自分の身に神を降ろそうとしているのか。
この歌声は運命神を迎える天使たちの歌声だ。
「まさか、蘇生魔法か!」
「囁き……祈り……詠唱……念じろぉおおおおおおお!」
膨大な魔力が無残な卵に降り注ぐ。
「卵は元気になりましたぁああ⁉」
信じられないことに、六個中五個の卵が元通りになっていた。
それどころじゃない、勢い余って二羽ほどヒヨコになってるじゃねえか……。
「すげえな。高位の神官でも蘇生魔法の成功率は一割以下って聞いたぞ」
「ふん、御覧のとおり元通りよ。一個くらいはご愛敬ね……」
卵が相手ではあるが、八割以上の確率で蘇生させていやがる。
やっぱりこいつはただものじゃないな。
魔力を使い果たしたのだろう。
シュナはよろよろと壁のところまでいって、背中をつけて座り込んでしまった。
蘇生魔法を六個分だ、ふらふらになっても仕方があるまい。
だが、脱力の仕方がひどすぎる。
眉間に皺を寄せて、ゼエゼエ喘ぐ姿はオッサンだ。
せっかくの美少女が台無しである。
「おい、パンツが見えているぞ」
「疲れて動けないの。ありがたく拝んどけ……」
吐き捨てる姿に、こいつが聖女になれない理由の一端がわかった気がした。
「ありがたみの欠片もねえな。目玉焼きは俺が作るから休んでろ」
「ん……。ジン」
「なんだ?」
「お水をちょうだい」
優しい俺はすぐに水魔法で水をつくってグラスに注いでやった。
「200ゲトだ」
「お金をとるの⁉」
当然だ。
俺は店主でシュナは客。
砂漠で水は貴重なのだ。
カフェ・ダガール、本日より開店である。
店を開けたはよかったが、客は一人も来なかった。
日中に交易商人や巡礼者たちが街道を幾人も通ったが、店に入ろうとする者は一人もいない。
みんながみんな素通りだ。
今日もむなしくゴーダ砂漠の空が暮れていく……。
「なぜだ⁉」
「水しかないからよ!」
シュナの理不尽なツッコミは無視した。
そして俺たちはまた迷宮へとやって来ている。
うちに食べるものがなにもなかったからだ。
「めんどくせえなあ……」
「アンタがブラッドコーチンを黒焦げにしたからじゃない」
「焼けば羽をむしらないですむって言ったのはシュナだろう」
「だからってファイヤーボールをぶっ放すんじゃないわよ!」
確かに羽は焼け落ちた。
その代わり肉も黒焦げになってしまったのだ。
俺は自分のファイヤーボールを過小評価していたみたいだ。
「まあ、すんだ話を蒸し返すのはよそうぜ。それより石板のチェックだ」
迷宮レベル:21
迷宮タイプ:森
入るたびに構造が変わるのはわかっていたが、前回のレベル3に比べて今回はレベルがいきなり上がった。
なるほど、じいさんが俺をここに入らせたくなかったわけだ。
いきなり高レベルの迷宮に当たれば即死だってあり得るのだ。
とはいえ21くらいなら今の俺ならどうということもないだろう。
幸か不幸か欠陥聖女様もご一緒だ。
エントランスを抜けるとそこは森だった。
ゴーダ砂漠では感じることのない蒸し暑さが俺たちを襲う。
どこか見えないところで動物や鳥が鳴いている。
まさにジャングルといった風情で、密集した木々の間を細い小径が続いていた。
「おそらくボスはこの先だろう。いってみようぜ」
歩き出してすぐにシュナが何かに気が付いた。
「見て、ジン。枝に爆弾が!」
枝に爆弾?
ジャングルで爆弾など、どこかのゲリラみたいで物騒だ。
だが、シュナの見つけたものは爆弾などではなかった。
「違う、あれはアボカドだ!」
「アボカド?」
高い枝の上に鈴なりのアボカドがあった。
リングイア王国にアボカドはない。
シュナが知らないのも当然だ。
俺だって前世の記憶がなかったらわからなかっただろう。
「アボカド……、アボガド? いや、アボカドが正しかった気がする」
俺は曖昧な記憶をたぐりよせる。
「名前なんてどうでもいいのよ。食べられるの、あれ?」
「たしか美味かったはずだ。熟しているのは黒いやつだ。青いのは食べられなかったと思う」
「だったら黒いのを持って帰りましょう」
シュナは嬉々としてアボカドの木に近づいた。
「待て!」
殺気を感じて抜剣した。
敵は目の前のアボカドの木だ。
どうやらこいつは植物系の魔物だったらしい。
幹をくねらせ、枝をしならせて攻撃してきた。
「なめるなぁ!」
ほお、しなる枝を蹴り返したか。
シュナの蹴りはアボカドの生木を切り裂くほどの威力だ。
出来損ないの聖女様は物理攻撃も得意か。
あの蹴り、ウチのチームにいた格闘家より上だろう。
奴も闘技大会で優勝するくらいの腕だったが、シュナの蹴りの方がキレている。
だが恥じらいはないな。
今日のパンツの色は黒だ。
「死にさらせやぁあああっ!」
シュナは理不尽に強かったが、相変わらず色気は皆無だった。
アボカドの魔物は俺が剣でとどめを刺した。
熟れたアボカドが十個も手に入ったが不満は残る。
本当はもっと取れたはずなのに、ほとんどの実がシュナとの格闘で潰れてしまったからだ。
「もう少しスマートに戦えないのか?」
「力で圧倒して押し潰す。それが私の格闘術よ」
「聖女のセリフじゃねえな」
「私を聖女と呼ぶな! 絶対になりたくないんだから」
とにかく、アボカドはボスではなかった。
迷宮のレベルは24だから、ボスはもう少し強力なのだろう。
この迷宮を制覇するにはもう少し先へ進む必要があるようだ。
しばらく森の中を進むと少し開けた場所に出た。
そこに現れたのが人型の魔物だ。
といっても人間に似ているのは体の一部だけだ。
頭の部分は紫色のボンボンのような花、腕はネギのような葉っぱになっている。
「初めて見るけど植物系の魔物……だよな?」
「こいつがここのボスのようね。弱そうだけど」
「油断するなよ」
魔物はいきなりガスを吐いてきた。
シュナを抱き上げてバックステップで避ける。
シュナは俺の腕の中でウィンドカッターを発動させた。
聖女様は判断も早いな、回避は俺に委ねて攻撃に専念してやがる。
強力な風の刃が、ガスを払うと同時に魔物の体を切り刻んだ。
またもや勝負は一瞬で決した。
「催涙ガスの類だな。目の端がちょっと傷む」
「はいはい」
シュナの治癒魔法で目の痛みはすぐになくなった。
「ん? あれはニンニクじゃないか?」
倒れたモンスターの脚にニンニクの塊が瘤のようにたくさんついていた。
さっきのボスはニンニクの魔物だったようだ。
「まさか、あれを食べる気?」
「だってニンニクだぜ」
「なんとなくグロテスクじゃない。臭そうだし!」
「だってニンニクだから……」
言い争っていると前回と同じように祭壇が現れた。
祭壇の横には宝箱もある。
「今日はなにかなぁ?」
ウキウキしながら開けてみると、そこにはアボカドトーストのレシピが入っていた。
前世で食べたような気もするけど、記憶は曖昧だ。
俺はささっとレシピに目を通していく。
「おっ! 美味しいアボカドトーストを作るにはニンニクが必要だぞ。やっぱり採取していこう」
「私は食べないからねっ!」
「そう言うなよ、今夜も泊めてやるからさ。ホテルは廃業だから特別なんだぞ」
「今夜も泊るなんて言ってないでしょう!」
「あ、そうなの? チェックアウトならそう言ってくれよ」
「いや、まあ……、泊まるけどさ……」
泊まるのなら最初からそう言えばいいのに、シュナは相変わらず素直じゃなかった。