オリオン座が煌めく空の下、ツンとした氷のように冷たい空気が頬を撫でる。
「寒いよー」
「カイロ持ってくればよかったね」
「ほんとねー。……あ、ごめん五円玉持ってない?財布に入ってなかった」
「五円?あるよ。一枚あげる」
「ありがとう!あとで返すから!」
「いやいいよ五円くらい」
後ろに並んでいる大学生くらいの女の子二人の会話を聞きつつ、私は一人、白く染まる自分の息が空に向かって溶けていく様子をじっと見つめていた。
下を向いてしまったら、なんだか泣いてしまいそうだったから。
特に何かがあったわけではない。ただ、冬の空気はどこか寂しくて、人恋しくさせる。
後ろの女の子たちじゃないけれど、確かにカイロを持ってくればよかった。ゆっくりと進む列の先に見える拝殿は、まだ遠い。
思えば去年は年が明けて早々嫌なことが続いていた。
営業としてバリバリ働いていたのに、通勤途中に運悪く交通事故に遭い二ヶ月入院。後遺症が残らなかったのは不幸中の幸いだったとは思う。だけど当たり前だがその間に私の担当顧客は他の社員に振り分けられてしまい、戻ってきてからは一からのリスタート。
ようやく以前の調子を取り戻してきたかと思った頃に、今度は元彼の浮気発覚により別れを経験。
結婚もうっすらと考えていただけに、ショックはかなり大きかった。
その後も季節外れのインフルエンザやらノロウイルスやらで体調を崩し、呪われてるんじゃないかと思うほどに悪いことが重なっていた。
周りに散々迷惑と心配をかけて、大した成果を残すこともできずに終えた一年。
今年こそは健康に平和に頑張りたい所存。……できれば恋愛も。そう思って、善は急げと年が明けたと同時に家を出て神社にやってきたのだ。
本当は厄払いのご祈祷も受けたかったけど、よくよく考えたら真夜中にやっているわけがなくて断念。
まぁ、まさか参拝だけでこんな長時間並ぶことになるとは思っていなかったけれど。
夜中に初詣に来たのは初めてだったから、こんなにも混むということを知らなかった。
いつのまにか私の後ろはさらに行列ができていて、自然と二列になりながら先に進んでいく。
しかしその途中で、目が乾燥していたのかコンタクトを片方落としてしまった。
「えっ……うそ……どうしよ……」
こんなところで落ちるなんてっ……。
きょろきょろと焦ったように下を見回していると、
「……どうかしましたか?」
隣からそんな声が聞こえてきて見上げる。
多分、私と同じくらいの年代の人。ぼやけてしまって顔はよく見えないけれど、ラフなスウェットにダウンコートを着た背の高い男の人だ。
「あ……いえ、片目だけコンタクト落としちゃって……」
恥ずかしくてそう言いながら視線をずらす。
「あー……それは……困りましたね。でもこの雪の中じゃ……さすがに見つけるのは……」
「ですよね……」
足元は雪が積もっていて、たくさんの人が踏みしめて固まっているから辺り一面真っ白だ。それをさらに神社の照明がうっすら反射しているため、透明で小さなレンズを探すのは至難の業。
彼もそう言いたいのがわかる。
これはもう無理だ。
新年だからって、レンズも新しいのを開けたばかりだったのに。
今年もついてないのかな……。
「……諦めます。お騒がせしてすみません」
会釈したものの、落ち込んだ心を取り繕う余裕はなかった。
コンタクトが落ちたのは右目。つまり左目はまだ入っている。
もちろんぼやけて見えづらいし、ずっとこのままだと眼精疲労もすごいだろう。
裸眼の視力がそこそこあるのならば、左目も外してしまった方がいいのだろう。だけど、私は両目ともかなり視力が低いため今左目も外してしまうと多分逆に危なくなってしまう。
「あの、大丈夫ですか?片目だけ入ってるんですよね?目痛くなりません?」
隣の彼にそう聞かれ、心配をかけるわけにもいかず
「どうでしょう……でも数時間だけですし。大丈夫だと思います」
と口角を上げる。
「そう、ですか。俺に何かできることがあったらなんでも言ってください」
「ありがとうございます」
社交辞令なのはもちろんわかっているから、お礼だけ告げて前を向く。
初対面の赤の他人にそんなことを言ってくれるなんて、この人はきっと優しい人なんだろうな。
三十分ほどでようやく自分の順番が来た。
「お先にどうぞ」
彼にそう言われて、
「……ありがとうございます」
とだけ言ってお賽銭を入れてからお参りをする。
自分や家族の健康、仕事のこと。今年こそという気持ちを込めながら手を合わせて、一礼してから列を離れた。
私はそのままおみくじを引きに行き、箱に二百円を入れて隣の穴から開運御籤を引く。
凶だったらどうしよう……。
そんな不安をよそに、引いたおみくじは大吉で内心舞い上がった。
こういう時に誰かと一緒にいれば、お互いのおみくじを見せあったりできるのだろう。
一人だと自分で自分のおみくじを凝視するだけなのがほんの少し寂しい気もする。
しかし中を見ようとしたものの、ぼやけて目が霞んで文字がよく見えない。
「やば……目薬……」
目薬を出そうと鞄の中に手を入れるけれど、今日に限ってそれすらも忘れたらしい。
「嘘でしょ……」
自分の馬鹿さ加減に呆れを通り越して悲しくなってきた。
……もういいや。中身はよく見えないけれど、とりあえず大吉だったんだからいいだろう。
きっと、良いことが書いてあるに違いないし去年よりも良い一年になるに決まってる。
そう思って、諦めることにした。
このまま持って帰って家でじっくり読もうかとも思ったけど、私は昔からおみくじはおみくじ掛けに結んで帰るタイプ。
ズボラな私は持っていても財布に眠るだけになりそうなため、今年もいつも通り結びに行くことにした。
「……あ」
おみくじ掛けの前で結ぶ場所を探していると、隣に立っていた人が私を見てそう呟いたため、視線を向けた。
「え?」
「あ、いや。すみません」
「……あれ?もしかして、さっきお隣に並んでた方ですか?」
「あ、はい……」
見上げた先にはダウンコートとスウェット。さっきの彼だ。
「すみません、片方ぼやけているとやっぱり見えづらくて」
「いえ。こちらこそ急に話しかけたみたいになってすみません。……それより、大丈夫でした?体調悪くなってないですか?」
「はい。大丈夫です。ご心配おかけしてすみません。ありがとうございました」
彼もおみくじを買ったらしく、すごく高い位置に結んだようだ。
私も結んじゃおう。そう思っていたら、
「あの、失礼ですが……おみくじの内容は読めましたか……?」
と恐る恐るという感じで彼が聞いてきた。
つい数分前に諦めた自分を思い出して、
「あ……いやぁ、それがあんまり見えなくて。目疲れちゃうからやめちゃいました。ただ、大吉っていうのは見えたからいいかなって思って」
答えてから、嘘でも読めたと言えば良かったと後悔する。
だけど時すでに遅く、彼は「……やっぱり」と呟いた。
「持って帰ったりはしないんですか?」
「……お恥ずかしながら、おそらく忘れて財布に眠るだけなので……」
ははは、と笑う。すると、彼は一瞬考えるように静かになった。
そして
「あの……」
「はい」
「俺でよければ……内容、読みましょうか?」
とおみくじを持つ私の手を掴んだ。
「……へ?」
「大吉ならなおのこと内容知りたいじゃないですか。気になりません?このまま結んじゃうのもったいないですよ」
「えっと……それはそうですけど……でも」
確かに内容は見たいけど。そのために引いたわけだから気になるけども。
でも、そもそも私が勝手にコンタクト落としちゃったのが原因なんだし。
そう思って断ろうとしたものの。
「ここでお会いしたのも何かの縁でしょうし。どうですか?あっちで甘酒飲みながら、とか」
「甘酒……?」
彼の指差す方を見ると、無料で甘酒を飲める仮設テントがはってあった。
言われてみれば、甘酒の香りが漂ってくる。
「身体も温まるし。どうです?」
その香りにつられるように、
「……じゃあ、お願いしてもいいですか……?」
そう、頷いている私がいた。
*
「申し遅れました。俺、斉藤です」
「そういえばすっかり忘れてましたね。私、小峰です」
「小峰さん。よろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
甘酒を受け取り、仮設テントの中にある椅子に座る。
ここにはストーブがあり、冷えた足元がじんわりと温まっていき落ち着く。
今更お互い自己紹介をして、甘酒をまず一口飲んだ。
「……本当にいいんですか?おみくじの内容読んでもらうなんて」
「もちろん。でも強引すぎましたよね……あ、でも俺怪しい者じゃないので!それは!本当に!変な下心とか無いので!」
「ふふ、わかってますよ」
「……すみません」
焦ったように弁明する彼に、私は笑う。
多分、この人結構面白い人だ。
「大丈夫ですよ。私、甘酒も好きですし、おみくじの内容が気になってたのも本当なので。ありがとうございます」
「そう言っていただけると助かります……」
そんな話をしつつ、手に持ったままだったおみくじを渡す。
斉藤さんはゆっくりと開いて、中を見てくれた。
「どうですか?」
「んー、いろいろ難しいこと書いてありますけど、要約すると"自分の直感を信じるのがいい"って書いてあるっぽいです。最初から読みますね」
「はい」
斉藤さんが読んでくれた神託は、確かに直感を信じると良いということが書いてあるようだった。
直感、か。
「私、結構石橋を叩いてから渡りたいタイプなので直感で動くことってあんまり無いかも……」
「あ、そうなんですか?」
「はい。恋愛なんか特に。それでいつも良縁を逃しちゃうんですよ」
はは、と笑えば彼は
「じゃあ今年は恋愛も直感ですね」
と一緒に笑ってくれる。
そして、そのまま細かい運勢を一つずつ教えてくれた。
「待ち人、直ぐに来る」
「え、直ぐ?すぐっていつだろ……」
「はは、どうでしょうね。次、願望。辛抱強く我慢すればいずれ叶う」
「辛抱強く……わかりました」
「次、病気。息災」
「おぉ、良かったです」
「ですね。次、──」
商売、旅行、勉学と続いて、最後に恋愛。
「恋愛。……流れに身を任せると吉。これで終わりですね」
「流れに身を任せる……ってすごいこと書いてありますね」
「確かに。あんまりおみくじでは見ない言葉かも」
笑いながらおみくじを折りたたんだ斉藤さんは、そのまま私に返してくれた。
おみくじは読み終わったけれど、まだ甘酒は半分くらい残っている。
テントの中は特に混んでいるわけではないけど、飲み干して早めにここから出た方がいいかな?
そう思っていると、
「小峰さんは、毎年元旦に来てるんですか?」
斉藤さんがさりげなく話を振ってくれた。
「いえ。いつもは三日を過ぎたくらいにふらっと来るんです。ただ、去年は嫌なことが続きすぎたので、今年は早めに神頼みしようと思って」
「奇遇ですね。俺も似たようなものです」
「そうなんですか?」
「はい。去年は災難続きで。本厄だったからだと思うんですけどね。今年は速攻で厄払いしてもらおうと思って来たら、夜はやってなかったみたいで」
「私も!私もご祈祷をお願いしようと思ってたんです。でも張り紙見て諦めて……」
意外なところで共通点が見つかり、話が弾む。
「あれ、ってことは小峰さんって、もしかしてかなり年下ですか?女性の厄年って十九歳とかでしたよね……?」
「あ、違うんです。全然厄年関係ないけどご祈祷受けようと思ってただけで」
「そうなんですか?勝手に同年代かと思ってて……俺今年二十六になるんですけど」
「え!私も!私も六月に誕生日が来たら、二十六になります」
「え!すごい偶然ですね!」
「本当、びっくりです」
まさか、歳まで同じだとは思わなかった。
そうか、女性と男性だと厄年が違うから、同い年の男性は去年が本厄だったのか。
そのまま話は盛り上がり、去年の嫌なことをお互いに愚痴ったり仕事の話をしたり。
どうやら斉藤さんも去年、彼女に浮気されて振られてしまったらしい。
そんなところまで同じで、話が尽きることはなかった。
*
気が付けば、すっかり甘酒は冷たくなってしまっていた。
「うわ、もうこんな時間だ。すみません。すっかり話し込んじゃって……。目、疲れちゃってますよね。本当すみません」
「全然。大丈夫ですよ。私の方こそ楽しくて時間を忘れちゃってました」
参拝をしたのが確か一時過ぎくらいだったと思う。
スマホの時間を見ると、すでに二時近くになっていて驚いた。
こんなにも男の人と話が弾んだことが今まであっただろうか。
波長が合うと言うのか、どこか似ているのか。
まだまだ話し足りない。もっと話してみたい。もっと斉藤さんのことを知りたい。そう思っている私がいて、誰よりも自分が一番驚いていた。
だけど、それを言葉にしたら彼を困らせてしまうだけだ。
彼は親切心で私に声をかけてくれただけなんだから。
それに、私はいまだにぼやけた視界の中にいる。
これ以上は斉藤さんに余計な心配をかけるわけにもいかない。
「そろそろ行きましょうか」
「ですね」
紙コップを捨て、テントの中から出る。
すると容赦無く冷たい風が吹いてきた。
「寒っ……!」
「うわ、ほんとだっ」
さっきまでストーブの温かさでぬくぬくしながら話をしていたからか、外に一歩出ると今が真冬だということを改めて全身に突きつけられたような気がして身震いする。
斉藤さんはそんな私を見かねたのか、
「……はい」
と手を差し出した。
「え?」
「寒いでしょ。俺、手はあったかいから」
そう言ったかと思うと、私の手を包み込むように繋いだ。
少し乾燥した手は、大きくてゴツゴツとしている。
トクントクンと鼓動が早く、大きくなっていく。
「おみくじ、結びに行きましょう」
「……はい」
斉藤さんの言う通り、その手は温かい。
手が温かい人は心が冷たいだとか、手が冷たい人は心が温かいだとか。
そんな迷信のような言葉はあるけれど。
多分、斉藤さんは手も心も温かい人なんじゃないかな。
そんな風に、思う。
斉藤さんに手を引かれた先で、おみくじを結ぶ。
結ぶために手が離れてしまうのが、少し寂しいと思った。
手にかかる白い息が、ふわりと溶ける。
結んだ後、願掛けのようにパンパンと両手を叩いて拝むと、斉藤さんが隣で笑ったような気がして。
ちらり。視線を向ければ、
「ん?」
とおどけたような声が返ってきた。
「いえ」
それに笑顔を返し、その場を離れる。
自然とお互いの足は鳥居の向こうに動いていた。
歩きながら、ふと手が触れる。
それにピク、と肩が反応した時、斉藤さんの手が再び私の手を包み込んだ。
「……!」
「はは、また冷たくなってる」
彼はそう笑ったかと思うと、鳥居の前の階段を一段ずつゆっくり降りていく。
どうして手を繋ぐのだろう。階段が滑って危ないから?それとも──。
頭の中をぐるぐると考えが巡り、それを必死に処理していたからか、突然
「きゃっ……!?」
さらっと積もった雪の下は氷だったらしく、足を取られて身体が傾く。
思わず彼と繋いだ手を力任せに握ってしまい、このままじゃ二人とも階段から落ちてしまう、と目をギュッと瞑った。
だけど、いつまで経っても身体は落ちていく感覚がなくて。
恐る恐る目を開くと、
「っぶねー……セーフ、かな?」
斉藤さんの顔が至近距離にあり、途端に心臓がバクバクと騒ぎ始めた。
斉藤さんが咄嗟に私の手を引き、反対の手で落ちないように腰を引き寄せてくれていたらしい。
目の前に斉藤さんの肩があり、まるで抱きしめられているような状態になっていた。
「ご!ごめんなさい!お怪我はありませんか!?」
「はは、全然。小峰さんは怪我してない?」
「は、い。おかげさまで……」
「そっか。良かった」
斉藤さんはそう呟くと、私の腰をさらに引き寄せる。
コート越しでもわかる、思いの外がっしりとした身体。
それが改めて目の前の人は男性だということを教えてくれたような気がして、息を呑む。
「……斉藤さん?」
呼びかけると、そっと身体は離された。
その途端に冷たい風が全身を撫でる。
……どうして、もう一度抱きしめたの……?
「……行きましょうか」
切な気にそう呟いた斉藤さんに、私も頷くことしかできなかった。
境内から聞こえてくるお正月の音楽が、少しずつ遠く小さくなっていく。
残りの階段を一段ずつ降りる足取りは、すごく重く感じた。
それがどうしてかなんて、わからないほど子どもじゃない。
だけど、この気持ちに名前をつけるのは怖くて。
それを認めてしまったら、また傷つくことになるんじゃないかと思ってしまう。
その怖さに抗うことができるほど、私は強い大人ではない。
気が付かなかった振りをすれば、傷つくことはない。
人恋しかっただけ。一緒にいてくれる人がいて、嬉しかっただけ。
大丈夫。彼とは今日が初対面なんだ。たった一日、たった数時間一緒に過ごしただけのこと。
家に帰ってゆっくり眠れば、全部一夜の素敵な思い出として昇華できるから。
そう自分に言い聞かせているうちに、最後の一段になる。
目の前には見慣れた景色。境内で流れていたお正月の音楽は、もう聞こえない。
──あぁ、日常に戻ってしまう。
「……じゃあ、ここで」
「……遅くなってしまったし、コンタクトのことも心配だから。家まで送ります」
「……大丈夫ですよ。もう慣れてきましたから」
もう少し一緒にいたい。だけど。
首を横に振り、ゆっくりと手を離す。
「ありがとうございました。楽しかったです」
これ以上一緒にいたら、きっともう思い出に昇華できなくなる。
もっともっとって、欲が出てしまいそう。
そんなこと、斉藤さんを困らせてしまうだけだから。
「……俺も。楽しかったです」
苗字と、歳と、境遇と。
それしか知らない相手だけれど、一年の始まりをこの人と過ごせて良かったと思う。
ひらひらと手を振ると、私は彼に背を向ける。
……連絡先くらい、聞くべきだったかな……。
空を見上げると、ここにきた時と同じくオリオン座が光り輝いていて。
それにかかるように広がっていく白い息が、月明かりの中でふわりと溶けていく。──その時。
「──小峰さんっ!」
「……え?」
グイッと手を引かれ、身体が反転したかと思うと再び温かなものに包まれる。
「……やっぱ、ダメ」
「……え?」
「帰したくない」
「っ……」
「これで終わりとか、ダメです」
「斉藤さん……?」
驚いて呼びかけるものの、その身体は小さく震えていた。
……あぁ、この人も私と同じだ。一歩踏み出すのが怖いんだ。だけどその怖さに逃げた私とは違い、彼は飛び越えようとしてくれている。
嬉しくて。でもまさか、と戸惑いを隠せない。
「すみません。こんなこと言われても小峰さん困るだけなのはわかってるし、目疲れてるから早く帰るべきだってわかってるんだけど……。今帰したら、二度と会えなくなるような気がして、怖くて。本当に下心はなかったんです。そんなつもりで声かけたわけじゃないのに。でも、こんなに楽しかったの初めてでっ……」
「……斉藤さん」
「完全に俺のわがままです。でも、今言わないと一生後悔すると思ったから。……まだ帰したくない、です」
やっぱり同じ気持ちだ。
そう思ったら、自然と背中に両腕を回していた。
肩を跳ねさせる斉藤さんに、私も緊張する。
私も、この怖さを飛び越えていいだろうか。
本当に流れに身を任せても、いいのだろうか。
「……嬉しいです。私も……本当はまだ、帰りたくなかったから」
「小峰さん……」
「まだ話し足りない。斉藤さんのこと、もっと知りたいです。……教えて、もらえませんか」
「っ、もちろんです。……俺にも、小峰さんのこと、もっと教えてください」
「……はい」
頷くと、どちらからともなく微笑む。
そして少し身体を離して、見つめ合った。
斉藤さんが、私の右目に手のひらをかざす。
「……陽太。俺、斉藤陽太って言います」
「……陽太、さん」
左目だけで初めてちゃんと見た彼は、想像以上に端正な顔立ちをしていて。
だけど甘く優しく微笑む表情は、彼に感じていた印象そのままだと思った。
「……私は、美織。小峰美織です」
「……美織さん」
噛み締めるように呼ばれた声に、胸が震えた。
近付く距離。手をかざしたままの彼の鼻先が、私に触れる。
そして、ゆっくり目を閉じると。
午前二時。月明かりの下で、私たちはそっと唇を重ねた。