大学の講義が終わると、家には戻らず駅前の書店へ直行した。
今日が、乃蒼と僕が二人で書いた小説の発売日だったからだ。
商店街を歩きながら空を見上げる。空は一面の銀箔の雲で、吹く風は冷たい。厳冬となった季節の名残が、道行く人々から体温を奪い取っていた。雲間から、綿毛のような白い氷の粒が舞い降りてくる。
雪だ。
雪なんて、たぶん生まれて初めて見た。君が泣いているのかな、とロマンチックなことを考えて、すぐに「らしくないな」と自嘲した。
書店の中は暖かく、空調がよく効いている。コートを着てマフラーを巻いたままでは暑くて、少し汗ばむほどだった。マフラーを外して脇に抱えた。
文芸書の棚に向かい、新刊・話題書のコーナーで目的のものを見つけた。
儚げな表情で、コスモス畑を見つめている少女が表紙に描かれている文庫本が、宣伝用のPOP付きで平積みされていた。
ペンネームは、僕と乃蒼の名前を組み合わせたものにした。
新進気鋭の女流作家・哘乃蒼の、二作目にして最後の作品だ。続刊することも、次回作が出ることもない。それを知っているのは、この世界で僕だけだ。
どうか売れますように、と心の中で祈った。
ヒット祈願にと一冊購入することにした。自分で書いた本を自分で買うのは妙な気分だ。世の文豪たちは、この言いようのない感覚を何度も味わってきたのだろうか。それとも、作品が手元を離れたら、どうでもよくなってしまうのだろうか。
未来はやがて今になって過去になる。いいことも悪いことも、すべてが過去に変わるのだから、気にしすぎないのが大切なのだ。忘れていかなくてはならないのだ。
それでも、時々思い出せるように、心の中の箱に鍵をかけてしまっておきたい。なるべく開ける日がきませんようにと、ひそかに願いながら。
会計を済ませ、書店を出ようとしたとき、不動産情報誌が並ぶ一角でふと足が止まった。彼女と再会したのはここだった。人の目には見えない、半ば幽霊のような存在だった君が、不動産を探していたなんて。今思い出すと、なんとも滑稽だ。
あの日、もし君と出会っていなかったら、この物語はどうなっていただろう。
この世界は。そして、僕は。
「もしも」を考えても仕方がない。考えたところで栓無きことだ。僕は今こうしてここにいる。それがすべてだ。
ああ、そういえば。とある出版社の編集の仕事で、内定が取れそうな見込みなんだ。君に伝えられたら、喜んでくれるかな?
ふっと笑みが零れ、僕は書店を後にした。
書店から外に出ると、雪は雨に変わっていた。街行く人が、傘を差したりフードで頭を覆ったりし始める。本降りにならなければいいが。
バス停でバスを待っていると、ポケットの中でスマホが震える。画面を見ると電話の相手は木田だった。
「もしもし」
『もしもし、じゃねーーよ。呑気なものだなあ。俺がなぜ電話をしたかわかるか?』
「寂しくなったとか?」
『そうそう。お前の声を聞かないと、夜も眠れなくて。……なわけないだろ! 卒業旅行に行くかどうか聞くために電話してるの。お前待てど暮らせど返事寄こさないんだもの』
僕よりひとつ年上の木田は、今年の春に大学を卒業する。卒業したあとは、某大手自動車メーカーへの就職が決まっていて、そのうちに広島に引っ越すのだという。思えば木田が乗っていた車は、この自動車メーカーのものだった。元々車好きなのかもな。
そこでそれに先立って、旧知のメンバーで卒業旅行を春休みにしようという計画が、木田本人の主催で持ち上がっていたのだ。
誘いは受けていたが、参加の可否について返信するのを失念していた。
「悪い悪い。今返信しようと思っていたところなんだ」
『嘘くせえ……。絶対に忘れていただろ』
「そんなわけないでしょ。これまでに、僕が嘘をついたことがあったか?」
『山ほど思いつくわ』
そう言えば、木田に二股野郎と罵られたこともあったな。懐かしい。
『それで? 当然参加だよな?』
「もちろんだよ。ああ、楽しみだなあ。水着姿の女の子を浜辺でたくさん拝めるんだろうなあ」
『確かに海には行くけど……三月だぞ? 水着になっている女の子がいるとしたら、そいつは頭のおかしい奴だ。あと、お前は彼女の水着姿で我慢しておけ』
木田が失笑した。他愛のないこんなやり取りに、いつの間にか木田とも仲良くなったものだなあ、としみじみ思う。
『ところでさ、長濱』
「ん?」
『話に出たついでだけど、最近彼女とはどうなっているんだ?』
「相変わらずかな。今も一緒に暮らしているよ」
『そっか。なら、いいんだが。喧嘩なんてしてないだろうな?』
「してないよ」
たまには。滅多には。まあ、時として喧嘩することもあるけどな。それはお互いに腹を割って話せているからこそだ。
『ならいいんだけど。大事にしてやれよ。あいつのこと』
「ああ。……と、バス来たから電話切るぞ」
『おお。じゃあ三月な』
「ああ。楽しみにしてる。しーゆーあげいん。当日、楽しみにしてろよ」
『なんだそり――』
ブツッ。話している途中で電話を切った。
憤慨している木田の顔が、目に浮かぶようだった。彼女が考えたサプライズについては、当日まで内緒にしておこう。
バスを降りると、アパートのほうに向かって歩き始める。
ようやく蕾を付け始めたソメイヨシノの並木を横目に歩いていく。この道を、彼女と肩を並べて歩いたものだと、遠い日の記憶に思いを馳せる。
目の前に踏切が見えてきた。
道の向こうから、一人の女性が踏切を渡ってきていた。
白のワンピースを着ていて、その上からカーキ色のパーカーを羽織っている。背は低い。百五十センチもないだろう。
踏切の警報音が鳴り始めて、二人の靴音と混じり合ってリズムを刻む。
やがて、僕たちはすれ違う。
そのとき――肩までの長さの彼女の髪がふわりと揺れた。
懐かしい匂いがした。馴染みのある匂いだった。心の中で、ともすれば胸が苦しくなるような、懐かしさをはらんだ光が瞬いた。
引き寄せられるように足が止まる。
吸い寄せられるように振り向いた。
乃蒼、とごく自然に、僕の口から声がこぼれて落ちる。
その女性が振り返ることはない。
諦めて踵を返したそのとき、ようやく彼女がこちらを見た気がした。
遮断機が下りる。彼女の顔を見るより先に、通過していく急行電車が二人の視界を遮った。
急行電車が通過していく。途切れたと思ったら今度は逆方向から別の電車がくる。
思いの外長く、視界は遮られた。
警報機が鳴りやんで遮断機が上がったとき、踏切の向こうに女性はいなかった。
今のは現実だったのか。それとも幻だったのか。どちらなのかわからないが、最近こういった体験をよくする。
もし、この幻覚を見せているのが彼女だとしたら、ずいぶんと悪趣味なんだな君もと、文句の一つでも言ってやらねばなるまい。
もし、これが自分の脳が見せている都合の良い妄想なのだとしたら、ちゃんと忘れられていなくてごめんな、と彼女に謝罪しなくてはなるまい。
――乃蒼がこの世界からいなくなってから、早いもので一年と三ヶ月が過ぎていた。
あの日、十一月三日、世界は確かに一度、崩壊の淵に立った。
大気が低く唸り、軋みながら裂け、太陽が異様な色に染まり、空そのものが落ちてくるかのようだった。
未曽有の天変地異が、それこそ天地をひっくり返した。
これは僕が選んだ道だった。すべての終わりを受け入れ、覚悟を決めて目を閉じたのだが、予想していた鋭い痛みも、息を詰まらせる苦しみも、何ひとつ訪れなかった。
「おかしいな」と、恐る恐る目を開けたとき見えたのは、西の空に広がる夕焼けの残照だった。長い尾を引く赤い光が、まるで世界に最後の別れを告げるように伸びている。夜風に揺れるコスモスの花々が、静かにそこに佇んでいた。
それは奇跡のように美しい黄昏時だった。空にはまだ夕焼けの赤が溶け残り、薄闇が優しく大地を包み込んでいた。
辺りはまるで何事もなかったかのように静寂に満ちていて、崩壊の予感など夢だったのではないかと錯覚するほどだった。
そこからの記憶は、ひどく断片的だ。
すべての人が乃蒼の存在を忘れ去っていた。彼女がこの世界で二度目の生を生き、その足跡を残したことを覚えているのは、僕ただ一人だった。
いや、もしかしたら、僕自身も一度彼女を忘れてしまったのかもしれない。
今となっては確かめようもないし、そんなことはもうどちらでもいい。
今でも鮮明に覚えているのは、木田の車で家に辿り着き、すぐに受賞作品の原稿を手に取って改稿を始めたことだ。
どこをどう直すかは、あらかじめ日記に書き留めておいたから、迷いは一切なかった。
佐賀を訪れ、戻ってきてからの日々――この目で見て、耳で聞いて、心で感じた世界のすべてを、僕は日記に刻み込んでいた。それを頼りに、乃蒼と過ごした半年間の出来事をなぞらえるように、小説の原稿を書き直したのだ。
ふと、担当編集さんとのやり取りが頭をよぎった。まだ新人らしい若手の編集さんには、無理難題を押し付けてずいぶん困惑させてしまった。
「いやあ、それにしても驚きましたよ。あの野崎先生のご子息だとは。……本当に、この事実を著者紹介文に記さなくていいんですか? 野崎先生のご子息だと宣伝したら、確実に部数が伸びるのにと編集長も言っているのですが」
「いいんです。それを記してしまったら、作品ではなく僕が主役になってしまいますからね」
「それで、こんな……と言ったら失礼かもしれないんですが、女性的なペンネームなのですね? 素性を隠すために」
「そうです。この作品を買ってくれた読者には、余計な情報を入れずに、純粋に作品を楽しんでもらいたいと、そう思っているんです」
これでようやく、と僕は思った。
野崎周吾の影から、脱することができると。
「そうですかあ……」と残念そうに彼は打ち合わせの席で呟いた。
またこの担当編集さんには、「それにしても、また思い切った改稿をするんですね」と苦笑いもされた。同時に、「リアリティが上がって良い」、とも。
乃蒼と過ごした半年間の日々を彩った僕たちの作品は、こうして出版された。
「次回作はありません」と編集部に告げたとき、とても残念がられた。だが、無理なものは無理なのだ。理由は、言わないほうが良いだろう。
――「小説を書くのは好きか?」と父に問われたことがある。
余命宣告をされて、寝たり起きたりの生活をしながら、父が最期の力を振り絞って遺作の編集作業をしていたときのことだ。
「どうだろうな」と僕は曖昧な返事をしたように思う。このときすでに、僕は自分の才能の限界に気付き始めていたから。
「そうか」と穏やかな顔で笑い、それから父は続けて言った。
「成長したいなら、いつまでも同じ場所に居続けないことだ」と。
才能がないとでも言いたいのか。あの頃の僕は釈然としていなかったが、今ならばわかる。おそらく父は把握していた。僕の能力がどのくらいなのかも、僕の迷いにも。その上で、苦しいのであれば、違う道を模索してもいいだろうと、そう言ってくれていたのだ。
父は病床で、多くの言葉を残したわけではない。しかし、その短い言葉は僕の心の中に深く刻み込まれた。
そこからいろいろな因果があって、今につながっているとも言えるのだから、人生って面白い。
なぜ僕だけが乃蒼のことを忘れなかったのか。本当の理由はわからない。
ただ、僕はこう考えている。乃蒼と二人で書き上げた小説の原稿を何度も読み返すうちに、彼女と過ごした日々の記憶が僕の心に深く根付いたのではないか、と。
都合のいい妄想にすぎないのかもしれないけれど。
並行世界とつながっていた大学病院の一室は、今ではどこにでもある平凡な病室に戻っていた。乃蒼がそこにいた気配は微塵も残っていない。当然、誰もそんなことを覚えていない。
それはつまり、彼女が元の世界に帰った証なのだと、僕はそう解釈している。
乃蒼はもういない。
その声も、匂いも、姿も――彼女の存在を示すすべてが、この世界から完全に消え去った。
人々の記憶からもまた。
それでも、僕の胸の中には思い出が息づいている。僕だけが乃蒼を覚えているのだ。むしろ、以前より記憶が鮮明になっている気さえするのだから不思議だ。まるで心の奥にナイフで刻まれた深い傷のように、彼女がいなくなった今のほうが存在を強く感じる。隣にいないのに、いたとき以上に彼女が近くにいるような――そんな矛盾が妙に心地いい。
自然界のあらゆるものに霊魂や意識が宿るという信仰がある。それに似ているのかもしれない。
心の奥に乃蒼の姿を大切にしまっておくことで、そこに彼女の魂が宿ったのだ。
あの日、なぜ世界の崩壊が止まったのかはわからない。
けれど――ここに――
――僕は、自分の胸に手を添えた。
乃蒼がいるからなんじゃないかなって、そう思うんだ。
乃蒼は僕の記憶の中で生き続ける。僕が忘れない限りは、ずっと。
家のクローゼットの中には、今でも乃蒼の着ていた服が残っている。
私は確かにこの世界にいたのだと、自己主張をするみたいに。
次の彼岸がきたならば、乃蒼に報告しに行こうと思う。
僕にも新しい恋人ができたんだよと。
それは、君もよく知っている人なんだよ、と。
雨上がりの空の雲間には、鮮やかな虹がかかっていた。
約束の証に主が虹をかけた、聖書の逸話を思い出した。
今日が、乃蒼と僕が二人で書いた小説の発売日だったからだ。
商店街を歩きながら空を見上げる。空は一面の銀箔の雲で、吹く風は冷たい。厳冬となった季節の名残が、道行く人々から体温を奪い取っていた。雲間から、綿毛のような白い氷の粒が舞い降りてくる。
雪だ。
雪なんて、たぶん生まれて初めて見た。君が泣いているのかな、とロマンチックなことを考えて、すぐに「らしくないな」と自嘲した。
書店の中は暖かく、空調がよく効いている。コートを着てマフラーを巻いたままでは暑くて、少し汗ばむほどだった。マフラーを外して脇に抱えた。
文芸書の棚に向かい、新刊・話題書のコーナーで目的のものを見つけた。
儚げな表情で、コスモス畑を見つめている少女が表紙に描かれている文庫本が、宣伝用のPOP付きで平積みされていた。
ペンネームは、僕と乃蒼の名前を組み合わせたものにした。
新進気鋭の女流作家・哘乃蒼の、二作目にして最後の作品だ。続刊することも、次回作が出ることもない。それを知っているのは、この世界で僕だけだ。
どうか売れますように、と心の中で祈った。
ヒット祈願にと一冊購入することにした。自分で書いた本を自分で買うのは妙な気分だ。世の文豪たちは、この言いようのない感覚を何度も味わってきたのだろうか。それとも、作品が手元を離れたら、どうでもよくなってしまうのだろうか。
未来はやがて今になって過去になる。いいことも悪いことも、すべてが過去に変わるのだから、気にしすぎないのが大切なのだ。忘れていかなくてはならないのだ。
それでも、時々思い出せるように、心の中の箱に鍵をかけてしまっておきたい。なるべく開ける日がきませんようにと、ひそかに願いながら。
会計を済ませ、書店を出ようとしたとき、不動産情報誌が並ぶ一角でふと足が止まった。彼女と再会したのはここだった。人の目には見えない、半ば幽霊のような存在だった君が、不動産を探していたなんて。今思い出すと、なんとも滑稽だ。
あの日、もし君と出会っていなかったら、この物語はどうなっていただろう。
この世界は。そして、僕は。
「もしも」を考えても仕方がない。考えたところで栓無きことだ。僕は今こうしてここにいる。それがすべてだ。
ああ、そういえば。とある出版社の編集の仕事で、内定が取れそうな見込みなんだ。君に伝えられたら、喜んでくれるかな?
ふっと笑みが零れ、僕は書店を後にした。
書店から外に出ると、雪は雨に変わっていた。街行く人が、傘を差したりフードで頭を覆ったりし始める。本降りにならなければいいが。
バス停でバスを待っていると、ポケットの中でスマホが震える。画面を見ると電話の相手は木田だった。
「もしもし」
『もしもし、じゃねーーよ。呑気なものだなあ。俺がなぜ電話をしたかわかるか?』
「寂しくなったとか?」
『そうそう。お前の声を聞かないと、夜も眠れなくて。……なわけないだろ! 卒業旅行に行くかどうか聞くために電話してるの。お前待てど暮らせど返事寄こさないんだもの』
僕よりひとつ年上の木田は、今年の春に大学を卒業する。卒業したあとは、某大手自動車メーカーへの就職が決まっていて、そのうちに広島に引っ越すのだという。思えば木田が乗っていた車は、この自動車メーカーのものだった。元々車好きなのかもな。
そこでそれに先立って、旧知のメンバーで卒業旅行を春休みにしようという計画が、木田本人の主催で持ち上がっていたのだ。
誘いは受けていたが、参加の可否について返信するのを失念していた。
「悪い悪い。今返信しようと思っていたところなんだ」
『嘘くせえ……。絶対に忘れていただろ』
「そんなわけないでしょ。これまでに、僕が嘘をついたことがあったか?」
『山ほど思いつくわ』
そう言えば、木田に二股野郎と罵られたこともあったな。懐かしい。
『それで? 当然参加だよな?』
「もちろんだよ。ああ、楽しみだなあ。水着姿の女の子を浜辺でたくさん拝めるんだろうなあ」
『確かに海には行くけど……三月だぞ? 水着になっている女の子がいるとしたら、そいつは頭のおかしい奴だ。あと、お前は彼女の水着姿で我慢しておけ』
木田が失笑した。他愛のないこんなやり取りに、いつの間にか木田とも仲良くなったものだなあ、としみじみ思う。
『ところでさ、長濱』
「ん?」
『話に出たついでだけど、最近彼女とはどうなっているんだ?』
「相変わらずかな。今も一緒に暮らしているよ」
『そっか。なら、いいんだが。喧嘩なんてしてないだろうな?』
「してないよ」
たまには。滅多には。まあ、時として喧嘩することもあるけどな。それはお互いに腹を割って話せているからこそだ。
『ならいいんだけど。大事にしてやれよ。あいつのこと』
「ああ。……と、バス来たから電話切るぞ」
『おお。じゃあ三月な』
「ああ。楽しみにしてる。しーゆーあげいん。当日、楽しみにしてろよ」
『なんだそり――』
ブツッ。話している途中で電話を切った。
憤慨している木田の顔が、目に浮かぶようだった。彼女が考えたサプライズについては、当日まで内緒にしておこう。
バスを降りると、アパートのほうに向かって歩き始める。
ようやく蕾を付け始めたソメイヨシノの並木を横目に歩いていく。この道を、彼女と肩を並べて歩いたものだと、遠い日の記憶に思いを馳せる。
目の前に踏切が見えてきた。
道の向こうから、一人の女性が踏切を渡ってきていた。
白のワンピースを着ていて、その上からカーキ色のパーカーを羽織っている。背は低い。百五十センチもないだろう。
踏切の警報音が鳴り始めて、二人の靴音と混じり合ってリズムを刻む。
やがて、僕たちはすれ違う。
そのとき――肩までの長さの彼女の髪がふわりと揺れた。
懐かしい匂いがした。馴染みのある匂いだった。心の中で、ともすれば胸が苦しくなるような、懐かしさをはらんだ光が瞬いた。
引き寄せられるように足が止まる。
吸い寄せられるように振り向いた。
乃蒼、とごく自然に、僕の口から声がこぼれて落ちる。
その女性が振り返ることはない。
諦めて踵を返したそのとき、ようやく彼女がこちらを見た気がした。
遮断機が下りる。彼女の顔を見るより先に、通過していく急行電車が二人の視界を遮った。
急行電車が通過していく。途切れたと思ったら今度は逆方向から別の電車がくる。
思いの外長く、視界は遮られた。
警報機が鳴りやんで遮断機が上がったとき、踏切の向こうに女性はいなかった。
今のは現実だったのか。それとも幻だったのか。どちらなのかわからないが、最近こういった体験をよくする。
もし、この幻覚を見せているのが彼女だとしたら、ずいぶんと悪趣味なんだな君もと、文句の一つでも言ってやらねばなるまい。
もし、これが自分の脳が見せている都合の良い妄想なのだとしたら、ちゃんと忘れられていなくてごめんな、と彼女に謝罪しなくてはなるまい。
――乃蒼がこの世界からいなくなってから、早いもので一年と三ヶ月が過ぎていた。
あの日、十一月三日、世界は確かに一度、崩壊の淵に立った。
大気が低く唸り、軋みながら裂け、太陽が異様な色に染まり、空そのものが落ちてくるかのようだった。
未曽有の天変地異が、それこそ天地をひっくり返した。
これは僕が選んだ道だった。すべての終わりを受け入れ、覚悟を決めて目を閉じたのだが、予想していた鋭い痛みも、息を詰まらせる苦しみも、何ひとつ訪れなかった。
「おかしいな」と、恐る恐る目を開けたとき見えたのは、西の空に広がる夕焼けの残照だった。長い尾を引く赤い光が、まるで世界に最後の別れを告げるように伸びている。夜風に揺れるコスモスの花々が、静かにそこに佇んでいた。
それは奇跡のように美しい黄昏時だった。空にはまだ夕焼けの赤が溶け残り、薄闇が優しく大地を包み込んでいた。
辺りはまるで何事もなかったかのように静寂に満ちていて、崩壊の予感など夢だったのではないかと錯覚するほどだった。
そこからの記憶は、ひどく断片的だ。
すべての人が乃蒼の存在を忘れ去っていた。彼女がこの世界で二度目の生を生き、その足跡を残したことを覚えているのは、僕ただ一人だった。
いや、もしかしたら、僕自身も一度彼女を忘れてしまったのかもしれない。
今となっては確かめようもないし、そんなことはもうどちらでもいい。
今でも鮮明に覚えているのは、木田の車で家に辿り着き、すぐに受賞作品の原稿を手に取って改稿を始めたことだ。
どこをどう直すかは、あらかじめ日記に書き留めておいたから、迷いは一切なかった。
佐賀を訪れ、戻ってきてからの日々――この目で見て、耳で聞いて、心で感じた世界のすべてを、僕は日記に刻み込んでいた。それを頼りに、乃蒼と過ごした半年間の出来事をなぞらえるように、小説の原稿を書き直したのだ。
ふと、担当編集さんとのやり取りが頭をよぎった。まだ新人らしい若手の編集さんには、無理難題を押し付けてずいぶん困惑させてしまった。
「いやあ、それにしても驚きましたよ。あの野崎先生のご子息だとは。……本当に、この事実を著者紹介文に記さなくていいんですか? 野崎先生のご子息だと宣伝したら、確実に部数が伸びるのにと編集長も言っているのですが」
「いいんです。それを記してしまったら、作品ではなく僕が主役になってしまいますからね」
「それで、こんな……と言ったら失礼かもしれないんですが、女性的なペンネームなのですね? 素性を隠すために」
「そうです。この作品を買ってくれた読者には、余計な情報を入れずに、純粋に作品を楽しんでもらいたいと、そう思っているんです」
これでようやく、と僕は思った。
野崎周吾の影から、脱することができると。
「そうですかあ……」と残念そうに彼は打ち合わせの席で呟いた。
またこの担当編集さんには、「それにしても、また思い切った改稿をするんですね」と苦笑いもされた。同時に、「リアリティが上がって良い」、とも。
乃蒼と過ごした半年間の日々を彩った僕たちの作品は、こうして出版された。
「次回作はありません」と編集部に告げたとき、とても残念がられた。だが、無理なものは無理なのだ。理由は、言わないほうが良いだろう。
――「小説を書くのは好きか?」と父に問われたことがある。
余命宣告をされて、寝たり起きたりの生活をしながら、父が最期の力を振り絞って遺作の編集作業をしていたときのことだ。
「どうだろうな」と僕は曖昧な返事をしたように思う。このときすでに、僕は自分の才能の限界に気付き始めていたから。
「そうか」と穏やかな顔で笑い、それから父は続けて言った。
「成長したいなら、いつまでも同じ場所に居続けないことだ」と。
才能がないとでも言いたいのか。あの頃の僕は釈然としていなかったが、今ならばわかる。おそらく父は把握していた。僕の能力がどのくらいなのかも、僕の迷いにも。その上で、苦しいのであれば、違う道を模索してもいいだろうと、そう言ってくれていたのだ。
父は病床で、多くの言葉を残したわけではない。しかし、その短い言葉は僕の心の中に深く刻み込まれた。
そこからいろいろな因果があって、今につながっているとも言えるのだから、人生って面白い。
なぜ僕だけが乃蒼のことを忘れなかったのか。本当の理由はわからない。
ただ、僕はこう考えている。乃蒼と二人で書き上げた小説の原稿を何度も読み返すうちに、彼女と過ごした日々の記憶が僕の心に深く根付いたのではないか、と。
都合のいい妄想にすぎないのかもしれないけれど。
並行世界とつながっていた大学病院の一室は、今ではどこにでもある平凡な病室に戻っていた。乃蒼がそこにいた気配は微塵も残っていない。当然、誰もそんなことを覚えていない。
それはつまり、彼女が元の世界に帰った証なのだと、僕はそう解釈している。
乃蒼はもういない。
その声も、匂いも、姿も――彼女の存在を示すすべてが、この世界から完全に消え去った。
人々の記憶からもまた。
それでも、僕の胸の中には思い出が息づいている。僕だけが乃蒼を覚えているのだ。むしろ、以前より記憶が鮮明になっている気さえするのだから不思議だ。まるで心の奥にナイフで刻まれた深い傷のように、彼女がいなくなった今のほうが存在を強く感じる。隣にいないのに、いたとき以上に彼女が近くにいるような――そんな矛盾が妙に心地いい。
自然界のあらゆるものに霊魂や意識が宿るという信仰がある。それに似ているのかもしれない。
心の奥に乃蒼の姿を大切にしまっておくことで、そこに彼女の魂が宿ったのだ。
あの日、なぜ世界の崩壊が止まったのかはわからない。
けれど――ここに――
――僕は、自分の胸に手を添えた。
乃蒼がいるからなんじゃないかなって、そう思うんだ。
乃蒼は僕の記憶の中で生き続ける。僕が忘れない限りは、ずっと。
家のクローゼットの中には、今でも乃蒼の着ていた服が残っている。
私は確かにこの世界にいたのだと、自己主張をするみたいに。
次の彼岸がきたならば、乃蒼に報告しに行こうと思う。
僕にも新しい恋人ができたんだよと。
それは、君もよく知っている人なんだよ、と。
雨上がりの空の雲間には、鮮やかな虹がかかっていた。
約束の証に主が虹をかけた、聖書の逸話を思い出した。



