大学の講義が終わったあとで、家には戻らずにまっすぐ駅前にある書店まで足を伸ばした。
 乃蒼と僕と、二人で書いた小説の発売日が今日なのだ。
 商店街を歩きながら空を見上げる。空は一面の銀箔の雲で、吹く風は冷たい。厳冬となった季節の名残が、道行く人々から体温を奪い取っていた。雲間から、綿毛のような白い氷の粒が舞い降りてくる。
 雪だ。
 雪なんて、たぶん生まれて初めて見た。君が泣いているのだろうか、とロマンチックなことを考え、次に「らしくない」と自嘲した。
 書店の中はよく空調が効いていて暖かかった。コートを着てマフラーを巻いていると、暑くて少し汗ばむくらいだ。マフラーを外して脇に抱える。
 文芸書籍の棚に足を運び、新刊・話題書のコーナーで目的の物を見つける。
 儚げな表情で、コスモス畑を見つめている少女が表紙に描かれている文庫本が、宣伝用のPOP付きで平積みされていた。
 ペンネームは、僕の名前と乃蒼の名前をミックスしたものにした。
 新進気鋭の女流作家哘乃蒼の、二作目にして最後の一冊だ。続刊することも、次回作が出ることもない。それを知っているのは世界で僕一人だけ。
 どうか売れますように、と心中で祈った。
 ヒット祈願で一冊購入することにした。自分で書いた本を自分で購入するのはいささか変な気分だ。世の中の文豪は、なんとも言い難いこの感覚を、何度も味わっているのだろうか。それとも手を離れたら、自分の作品などどうでも良くなってしまうのだろうか。
 未来はやがて今になって過去になる。いいことも悪いことも、いずれすべてが過去になるのだから、気にしすぎないのが大切なのだ。忘れていかなくてはならないのだ。
 それでも時々は思い出せるように、心の中にある箱に、鍵をかけてしまっておきたい。なるべく開ける日がきませんようにと、ひそかに念じながら
 会計を済ませて書店を出ようとしたとき、不動産情報誌を並べている一角でふと足が止まる。彼女と再会したのがここだった。人の目に見えない、半ば幽霊みたいな存在だった君が、不動産を探していたなんてね。今思い出すとなかなかに滑稽だ。
 あの日、もし君と出会っていなかったら、この物語はどのように変わっていたのだろう。
 この世界はどうなっていたのだろう。そして、僕は。
 もしも、の話をしてもしょうがない。考えても栓無きことだ。
 僕は、今こうしてここにいる。それがすべてだ。
 ああ、そうそう。とある出版社の編集の仕事で、内定が取れるかもしれないんだ。君に伝えたら、喜んでくれるかな?
 ふ、と笑んで、僕は書店をあとにした。

 書店から外に出ると、雪は雨に変わっていた。街行く人が、傘を差したりフードで頭を覆ったりし始める。本降りにならなければいいが。
 バス停でバスを待っていると、ポケットの中でスマホが震えた。
 スマホを取り出すと電話の相手は木田だった。

「もしもし」
『もしもし、じゃねーーよ。呑気なものだなあ。俺がなぜ電話をしたかわかるか?』
「寂しくなったとか?」
『そうそう。お前の声を聞かないと、夜も眠れなくて。……なわけないだろ! 卒業旅行に行くかどうか聞くために電話してるの。お前待てど暮らせど返事寄こさないんだもの』

 僕よりひとつ年上の木田は、今年の春に大学を卒業する。卒業したあとは、某大手自動車メーカーへの就職が決まっていて、そのうちに広島に引っ越すのだという。思えば木田が乗っていた車は、この自動車メーカーのものだった。元々車好きなのだろう。
 そこでそれに先立って、旧知のメンバーで卒業旅行を春休みにしようという計画が、木田本人の主催で持ち上がっていたのだ。
 誘いは受けていたが、参加の可否について返信するのを失念していた。

「悪い悪い。今返信しようと思っていたところなんだ」
『嘘くせえ……。絶対に忘れていただろ』
「そんなわけないでしょ。これまでに、僕が嘘をついたことがあったか?」
『山ほど思いつくわ』

 そう言えば、木田に二股野郎と罵られたこともあったな。懐かしい。

『それで? 当然参加だよな?』
「もちろんだよ。ああ、楽しみだなあ。水着姿の女の子を浜辺でたくさん拝めるんだろうなあ」
『確かに海には行くけど……三月だぞ? 水着になっている女の子がいるとしたら、そいつは頭のおかしい奴だ。あと、お前は彼女の水着姿で我慢しておけ』

 木田が失笑した。他愛のないこんなやり取りに、いつの間にか木田とも仲良くなったものだなあ、としみじみ思う。

『ところでさ、長濱』
「ん?」
『話に出たついでだけど、最近彼女とはどうなっているんだ?』
「相変わらずかな。今も一緒に暮らしているよ」
『そっか。なら、いいんだが。喧嘩なんてしてないだろうな?』
「してないよ」

 たまには。滅多には。まあ、時として喧嘩することもあるけどな。それはお互いに腹を割って話せているからこそだ。

『ならいいんだけど。大事にしてやれよ。あいつのこと』
「ああ。……と、バス来たから電話切るぞ」
『おお。じゃあ三月な』
「ああ。楽しみにしてる。しーゆーあげいん。当日、楽しみにしてろよ」
『なんだそり――』

 ブツッ。話している途中で電話を切った。
 憤慨している木田の顔が、目に浮かぶようだった。彼女が考えたサプライズについては、当日まで内緒にしておこう。

 バスを降りると、アパートのほうに向かって歩き始める。
 ようやく(つぼみ)を付け始めたソメイヨシノの並木を横目に歩いていく。この道を、彼女と肩を並べて歩いたものだと、遠い日の記憶に思いを馳せる。
 目の前に踏切が見えてきた。
 道の向こうから、一人の女性が踏切を渡ってきていた。
 白のワンピースを着ていて、その上からカーキ色のパーカーを羽織っている。背は低い。百五十センチもないだろう。
 踏切の警報音が鳴り始めて、二人の靴音と混じり合ってリズムを刻む。
 やがて、僕たちはすれ違う。
 そのとき――肩までの長さの彼女の髪がふわりと揺れた。
 懐かしい匂いがした。馴染みのある匂いだった。心の中で、ともすれば胸が苦しくなるような、懐かしさをはらんだ光が瞬いた。
 引き寄せられるように足が止まる。
 吸い寄せられるように振り向いた。
 乃蒼、とごく自然に、僕の口から声がこぼれて落ちる。
 その女性が振り返ることはない。
 諦めて踵を返したそのとき、ようやく彼女がこちらを見た気がした。
 遮断機が下りる。彼女の顔を見るより先に、通過していく急行電車が二人の視界を遮った。
 急行電車が通過していく。途切れたと思ったら今度は逆方向から別の電車がくる。
 思いの外長く、視界は遮られた。
 警報機が鳴りやんで遮断機が上がったとき、踏切の向こうに女性はいなかった。
 今のは現実だったのか。それとも幻覚だったのか。
 どちらなのかわからないが、最近こういった体験をよくするようになった。
 もし、この幻覚を見せているのが彼女だとしたら、ずいぶんと悪趣味なんだな君もと、文句のひとつでも言ってやらねばなるまい。
 もし、これが自分の脳が見せている都合の良い妄想なのだとしたら、ちゃんと忘れられていなくてごめんな、と彼女に謝罪しなくてはなるまい。

 ――乃蒼がこの世界からいなくなってから、早いもので一年と三ヶ月が過ぎていた。

 あの日、十一月三日、世界は確かに一度崩壊を始めた。
 大気が震え、大地が割けて、太陽の色が変化して、空が落ちてきた。
 未曽有の天変地異が、それこそ天と地をひっくり返した。
 これは自らがした選択だ。すべての終わりを覚悟して目を閉じたのだが、予想していたような痛みも苦しみもいっさい襲ってこなかった。
 おかしい、とこわごわ目を開けたとき見えたのは、日が沈む際に放たれた長く尾を引いた赤い光と、夜風に揺れるコスモスの花だけだった。
 西の空に夕焼けの名残の赤さが残る、奇跡みたいに綺麗な黄昏時だった。
 辺りは、何事もなかったみたいに静かだった。
 そこからの記憶は、ひどく断片的だ。
 すべての人が乃蒼のことを忘れていた。彼女が二度目の生を受けて、この世界にいたことを覚えていたのは、僕ただ一人だった。
 いや、もしかしたら、僕も一度忘れたのかもしれない。
 今となってはわからないし、もうどちらでもいいことだ。
 今でもはっきりと覚えているのは、木田の車で家まで戻ってきて、それからすぐ受賞作品の原稿を直し始めたことだ。
 どこを改稿するのかは、日記の中にあらかじめ記しておいたので迷いはなかった。
 佐賀に行き、戻ってきたあとから、この目で見聞きしてきたこの世界のすべてを、乃蒼と二人で過ごした日々の出来事を、すべて日記の中に記しておいたのだ。それを元に、乃蒼と過ごした半年間の出来事に寄せるよう、小説の原稿を直したのだ。
 担当編集さんとしたやり取りを、ふと思い出した。まだ新人であると思しき若手の編集さんには、ずいぶんと無理を言って困らせてしまったものだ。

「いやあ、それにしても驚きましたよ。あの野崎先生のご子息だとは。……本当に、この事実を著者紹介文に記さなくていいんですか? 野崎先生のご子息だと宣伝したら、確実に部数が伸びるのにと編集長も言っているのですが」
「いいんです。それを記してしまったら、作品ではなく僕が主役になってしまいますからね」
「それで、こんな……と言ったら失礼かもしれないんですが、女性的なペンネームなのですね? 素性を隠すために」
「そうです。この作品を買ってくれた読者には、余計な情報を入れずに、純粋に作品を楽しんでもらいたいと、そう思っているんです」

 これでようやく、と僕は思った。
 野崎周吾の影から、脱することができると。

「そうですかあ……」と残念そうに彼は打ち合わせの席で呟いた。

 またこの担当編集さんには、「それにしても、また思い切った改稿をするんですね」と苦笑いもされた。同時に、「リアリティが上がって良い」、とも。
 乃蒼と過ごした半年間の日々を彩った僕たちの作品は、こうして出版された。
「次回作はありません」と編集部に告げたとき、とても残念がられた。だが、無理なものは無理なのだ。理由は、言わないほうが良いだろう。
 ――「小説を書くのは好きか?」と父に問われたことがある。
 余命宣告をされて、寝たり起きたりの生活をしながら、父が最期の力を振り絞って遺作の編集作業をしていたときのことだ。
「どうだろうな」と僕は曖昧な返事をしたように思う。このときすでに、僕は自分の才能の限界に気づき始めていたから。
「そうか」と穏やかな顔で笑い、それから父は続けて言った。
「成長したいなら、いつまでも同じ場所に居続けないことだ」と。
 才能がないとでも言いたいのか。あの頃の僕は釈然としていなかったが、今ならばわかる。おそらく父は気づいていた。僕の能力がどのくらいなのかも、僕の迷いにも。その上で、苦しいのであれば、違う道を模索してもいいだろうと、そう言ってくれていたのだ。
 父は病床で、多くの言葉を残したわけではない。しかし、その短い言葉は僕の心の中に深く刻み込まれた。
 そこからいろいろな因果があって、今につながっているとも言えるのだから、人生って面白い。
 なぜ、僕だけが乃蒼のことを忘れなかったか。本当のことはわからない。
 僕は、このように解釈している。乃蒼と二人で作った小説の原稿を繰り返し読んでいくうちに、乃蒼と過ごした日々の記憶が、僕の頭の中に定着したのではないかと。
 都合の良い、僕の妄想なのだろうけれど。
 並行世界とつながっていた大学病院の一室は、どこにでもある普通の病室に戻っていた。乃蒼がいた気配は微塵もない。そうなっていたことをもちろん誰も覚えていない。
 それはつまり、彼女が元の世界に戻った証なのだと、そう思っている。
 乃蒼はもういない。
 声も、匂いも、姿も、彼女の存在のすべてがこの世界から消えたのだ。
 人々の記憶からもまた。
 それでも、思い出は僕の胸の中にある。僕だけは乃蒼のことを覚えている。むしろ、前よりも記憶が鮮明になっている気さえするのだから不思議だ。心の奥底に、ナイフで深い傷を刻まれたときのように。彼女はもう隣にいないのに、いたときよりも存在を強く感じるのはなんだか矛盾しているようだった。
 自然界のあらゆるものに、霊魂や意識が宿るという信仰あるいは思想がある。それに近いものかもしれない。
 心の中に、乃蒼の姿を大切に仕舞ってあることで、そこに彼女の魂が宿ったのだ。
 あの日、なぜ世界の崩壊が止まったかはわからない。
 けれど――ここに――
 ――僕は、自分の胸に手を添えた。
 乃蒼がいるからなんじゃないかなって、そう思うんだ。
 乃蒼は僕の記憶の中で生き続ける。僕が忘れない限りは、ずっと。

 家のクローゼットの中には、今でも乃蒼の着ていた服が残っている。
 私は確かにこの世界にいたのだと、自己主張をするみたいに。
 次の彼岸がきたならば、乃蒼に報告しに行こうと思う。
 僕にも新しい恋人ができたんだよと。
 それは、君もよく知っている人なんだよ、と。

 雨上がりの空の雲間には、鮮やかな虹がかかっていた。
 約束の証に主が虹をかけた、聖書の逸話を思い出した。