木田という姓。剣のんとした眼差し。どこかで見たことがあるなと引っかかりを覚えてはいたが、彼女は木田の母親だった。木田から乃蒼の話を聞いて、僕のところにやって来たとのことだった。
木田さんに乃蒼を紹介すると、彼女にも乃蒼の姿は見えていた。（ただし、朝香と同様、あるいはそれ以上に薄く見えているらしいが）
乃蒼の姿は、彼女の存在を認識している（あるいはしたがっている）人にのみ見えているという僕が立てた仮説が、より信憑性を増した。
乃蒼の姿をスマホのカメラで撮影すると、確かに映った。
やはり乃蒼はこの世界に存在しているのだ。ただ、彼女の姿を視認できない人が多いだけで。もっと早く写真の可能性に気づけば良かったと後悔してしまう。
「乃蒼は生きている、とはどういう意味ですか？」と木田さんに訊ねたのだが、「実際に見たほうが早い」とはぐらかされた。
どうやら、ここに乃蒼がいることとは、また別の意味があるらしい。
乃蒼がこの世界で目覚めてから、今日に至るまでの経緯を僕たちから細かく聞き出しメモを取ったあとで、週末に僕らの故郷である佐賀に戻ろう、と木田さんが提案をしてきた。
そこに行けば、わたしが言っていることの意味が全部わかるからと。車ならこちらで手配するからと。
いったい何を見せられるのか。正直怖いところはある。
しかし、僕たちに拒否権があるとは思えなかったし、僕たちとしても、このまま鹿児島にいても何も変わらない。とりあえずは木田さんの言葉に従ってみるしかなさそうだった。
こうして、僕たちは佐賀に戻ることになる。
奇しくもそれは、僕と乃蒼が元々予定していたのと同じ日だった。
それから三日後。僕たちが書いている小説は完成した。
完成した原稿を午前中いっぱいをかけて朝香が精読し、並行して僕が設定の矛盾などを中心に見ながら最終確認をし、完全に脱稿した。あらすじもできた。あとは応募するだけだ。
「終わったなあ」と互いの健闘を称え合う。
本来であればもっと喜びを爆発させるべきなのだろうが、今ひとつ喜べずにいた。この作品が受賞して、乃蒼の未練がすべて解消されてしまったら、彼女は消えてしまうのだろうかと、ふと考えてしまったから。
ついでに言うと、週末に厄介ごとを控えていたから。
週末。アパートの前で乃蒼と二人で待っていると、黒塗りのセダンがやってきて停まった。
車から降りてきたのは、木田さんと背が高い若い男。二人とも黒のスーツ姿だった。残暑厳しい晴れ渡った朝の空には似合わない。
「いかにもといった物々しい格好ですね」
僕が苦笑いをすると、「政府が準備した物だからね」と木田さんが微妙な顔をする。
「さあ、車に乗って。ここからは長いからね」
助手席には木田さんが乗り、僕と乃蒼が後部座席に乗り込んだ。すぐに車が発進する。運転手の男は寡黙でほとんど喋らなかった。僕らをどこかに送り届けるだけの役割なのだろうか。余計な話は一切しなかった。
哘乃蒼は、政府が威信をかけて保護しなければならない人物だからね。もし万が一があったら私の首が飛ぶ、と本気とも冗談ともつかない顔で木田さんが笑う。どうやら、僕が思っている以上に乃蒼の存在は重要視されているらしかった。
物騒な木田さんの物言いに、この先どんな現実と向き合うことになるのだろう、と不安ばかりが募っていく。
隣の乃蒼が手を握ってきたので、強い力で握り返した。
大丈夫だよ、という意思を込めて。
車で四時間ほど移動して佐賀県に入る。懐かしい風景を車窓から眺めて、懐旧の情にひたっていた。故郷である町に着いた時点で十四時だったので、初日は自由に行動させてもらえることになった。
ただし、僕と乃蒼は一緒に行動しなければならない。ついでに言うと、監視付きだ。
息苦しいがそれもやむなしだろう。僕はともかくとして、乃蒼に何かあっては一大事なのだろうし。
乃蒼の姿を視認できなくなったり、最悪逃げられたりしたら木田さんの首が飛ぶ（本当かどうかはともかくとして）。乃蒼の姿を確実に追える人間として、また万が一のときは、人質としての用途が僕にあるのだろうと察した。
ゆえに、僕の同伴が必要だったのだ。物扱いしやがって。
街を観光している余裕はない。最初に向かったのは僕の家だ。
乃蒼を残して一人で行くわけにもいかず、二人で家の呼び鈴を押す。母に、乃蒼の姿は見えていなかった。
僕の母は、乃蒼の名前を知ってこそいたが会ったことはない。顔と名前が一致するくらいのレベルじゃないと、乃蒼の姿は見えないのだろうか。
仏壇の前に座って父の遺影に手を合わせた。近況報告と雑談をしばらく母と交わしたあとで、人を待たせているからと手短に退散した。乃蒼が退屈そうにしていたので、あまり長居はできないし。
次に向かったのは乃蒼の家。彼女の家は母親の一人暮らしだ。
僕は乃蒼の母親と会ったことがない。乃蒼の監視が僕の役割とはいえ、親子水入らずの再会に立ち入るのは野暮な気がした。木田さんとそれについて交渉をし、乃蒼一人だけで家に行かせることで了承を得た。
乃蒼の姿は母親に見えるだろうか、という不安はある。
だが、ここまできて後戻りもできない。
家の前に到着したとき、隣の乃蒼が緊張しているのがわかった。
玄関の前に立って、乃蒼が深呼吸をする。
「……大丈夫。きっと見えるから」そう言って背中を押した。
呼び鈴を押すとしばらくして一人の女性が出てきて、彼女と一緒に乃蒼が家の中に入っていく。
良かった。視認できているらしい。
乃蒼の家の玄関が見える場所で待機すること一時間。泣きはらした顔で乃蒼が家から出てきた。
面会は、無事うまくいったらしい。乃蒼の姿が母親から見えない可能性は実際あったので、本当に良かったと思う。
自分が娘であると信じてもらうまで多少骨が折れたようだが、現状でわかっていることを包み隠さず伝えると、乃蒼の母親は娘のことを全面的に信じてくれたようだった。
「また来るね、と言ってきたけれど、次はないかもしれないね」
赤くなった瞼をこすりながらノアは笑った。無理をしているとわかる笑みだった。うまい具合に慰めてあげられる語彙を、僕は持ち合わせていなかった。
明日、何を見せられるのかわからないうちは、先の話などできるはずがなかった。
「必ずまた来よう」とそれだけを乃蒼に伝えた。
この日の夜は、ビジネスホテルで一拍した（乃蒼の姿はフロントの人に見えていなかったが、宿泊費はちゃんと払った）。翌日車で連れてこられたのは、佐賀市内で一番設備が整っている大学病院だった。去年、僕が入院していた病院のすぐ近くだ。これは偶然？ それとも？
「ここですか」
車から降りて病院の建物を見上げる。七階建ての、レンガ色の外壁をもった大きな病院だった。
「そうだ。この三階に目的の場所がある」
木田さんに乃蒼を紹介すると、彼女にも乃蒼の姿は見えていた。（ただし、朝香と同様、あるいはそれ以上に薄く見えているらしいが）
乃蒼の姿は、彼女の存在を認識している（あるいはしたがっている）人にのみ見えているという僕が立てた仮説が、より信憑性を増した。
乃蒼の姿をスマホのカメラで撮影すると、確かに映った。
やはり乃蒼はこの世界に存在しているのだ。ただ、彼女の姿を視認できない人が多いだけで。もっと早く写真の可能性に気づけば良かったと後悔してしまう。
「乃蒼は生きている、とはどういう意味ですか？」と木田さんに訊ねたのだが、「実際に見たほうが早い」とはぐらかされた。
どうやら、ここに乃蒼がいることとは、また別の意味があるらしい。
乃蒼がこの世界で目覚めてから、今日に至るまでの経緯を僕たちから細かく聞き出しメモを取ったあとで、週末に僕らの故郷である佐賀に戻ろう、と木田さんが提案をしてきた。
そこに行けば、わたしが言っていることの意味が全部わかるからと。車ならこちらで手配するからと。
いったい何を見せられるのか。正直怖いところはある。
しかし、僕たちに拒否権があるとは思えなかったし、僕たちとしても、このまま鹿児島にいても何も変わらない。とりあえずは木田さんの言葉に従ってみるしかなさそうだった。
こうして、僕たちは佐賀に戻ることになる。
奇しくもそれは、僕と乃蒼が元々予定していたのと同じ日だった。
それから三日後。僕たちが書いている小説は完成した。
完成した原稿を午前中いっぱいをかけて朝香が精読し、並行して僕が設定の矛盾などを中心に見ながら最終確認をし、完全に脱稿した。あらすじもできた。あとは応募するだけだ。
「終わったなあ」と互いの健闘を称え合う。
本来であればもっと喜びを爆発させるべきなのだろうが、今ひとつ喜べずにいた。この作品が受賞して、乃蒼の未練がすべて解消されてしまったら、彼女は消えてしまうのだろうかと、ふと考えてしまったから。
ついでに言うと、週末に厄介ごとを控えていたから。
週末。アパートの前で乃蒼と二人で待っていると、黒塗りのセダンがやってきて停まった。
車から降りてきたのは、木田さんと背が高い若い男。二人とも黒のスーツ姿だった。残暑厳しい晴れ渡った朝の空には似合わない。
「いかにもといった物々しい格好ですね」
僕が苦笑いをすると、「政府が準備した物だからね」と木田さんが微妙な顔をする。
「さあ、車に乗って。ここからは長いからね」
助手席には木田さんが乗り、僕と乃蒼が後部座席に乗り込んだ。すぐに車が発進する。運転手の男は寡黙でほとんど喋らなかった。僕らをどこかに送り届けるだけの役割なのだろうか。余計な話は一切しなかった。
哘乃蒼は、政府が威信をかけて保護しなければならない人物だからね。もし万が一があったら私の首が飛ぶ、と本気とも冗談ともつかない顔で木田さんが笑う。どうやら、僕が思っている以上に乃蒼の存在は重要視されているらしかった。
物騒な木田さんの物言いに、この先どんな現実と向き合うことになるのだろう、と不安ばかりが募っていく。
隣の乃蒼が手を握ってきたので、強い力で握り返した。
大丈夫だよ、という意思を込めて。
車で四時間ほど移動して佐賀県に入る。懐かしい風景を車窓から眺めて、懐旧の情にひたっていた。故郷である町に着いた時点で十四時だったので、初日は自由に行動させてもらえることになった。
ただし、僕と乃蒼は一緒に行動しなければならない。ついでに言うと、監視付きだ。
息苦しいがそれもやむなしだろう。僕はともかくとして、乃蒼に何かあっては一大事なのだろうし。
乃蒼の姿を視認できなくなったり、最悪逃げられたりしたら木田さんの首が飛ぶ（本当かどうかはともかくとして）。乃蒼の姿を確実に追える人間として、また万が一のときは、人質としての用途が僕にあるのだろうと察した。
ゆえに、僕の同伴が必要だったのだ。物扱いしやがって。
街を観光している余裕はない。最初に向かったのは僕の家だ。
乃蒼を残して一人で行くわけにもいかず、二人で家の呼び鈴を押す。母に、乃蒼の姿は見えていなかった。
僕の母は、乃蒼の名前を知ってこそいたが会ったことはない。顔と名前が一致するくらいのレベルじゃないと、乃蒼の姿は見えないのだろうか。
仏壇の前に座って父の遺影に手を合わせた。近況報告と雑談をしばらく母と交わしたあとで、人を待たせているからと手短に退散した。乃蒼が退屈そうにしていたので、あまり長居はできないし。
次に向かったのは乃蒼の家。彼女の家は母親の一人暮らしだ。
僕は乃蒼の母親と会ったことがない。乃蒼の監視が僕の役割とはいえ、親子水入らずの再会に立ち入るのは野暮な気がした。木田さんとそれについて交渉をし、乃蒼一人だけで家に行かせることで了承を得た。
乃蒼の姿は母親に見えるだろうか、という不安はある。
だが、ここまできて後戻りもできない。
家の前に到着したとき、隣の乃蒼が緊張しているのがわかった。
玄関の前に立って、乃蒼が深呼吸をする。
「……大丈夫。きっと見えるから」そう言って背中を押した。
呼び鈴を押すとしばらくして一人の女性が出てきて、彼女と一緒に乃蒼が家の中に入っていく。
良かった。視認できているらしい。
乃蒼の家の玄関が見える場所で待機すること一時間。泣きはらした顔で乃蒼が家から出てきた。
面会は、無事うまくいったらしい。乃蒼の姿が母親から見えない可能性は実際あったので、本当に良かったと思う。
自分が娘であると信じてもらうまで多少骨が折れたようだが、現状でわかっていることを包み隠さず伝えると、乃蒼の母親は娘のことを全面的に信じてくれたようだった。
「また来るね、と言ってきたけれど、次はないかもしれないね」
赤くなった瞼をこすりながらノアは笑った。無理をしているとわかる笑みだった。うまい具合に慰めてあげられる語彙を、僕は持ち合わせていなかった。
明日、何を見せられるのかわからないうちは、先の話などできるはずがなかった。
「必ずまた来よう」とそれだけを乃蒼に伝えた。
この日の夜は、ビジネスホテルで一拍した（乃蒼の姿はフロントの人に見えていなかったが、宿泊費はちゃんと払った）。翌日車で連れてこられたのは、佐賀市内で一番設備が整っている大学病院だった。去年、僕が入院していた病院のすぐ近くだ。これは偶然？ それとも？
「ここですか」
車から降りて病院の建物を見上げる。七階建ての、レンガ色の外壁をもった大きな病院だった。
「そうだ。この三階に目的の場所がある」
