帰宅したのは深夜遅くだった。終電より前の電車で帰れただけマシだろうか。
 くたくたになりながら、ドカッとソファに腰掛ける。頭を天井に向け、大きく息を吐いた。

 テーブルの上には郵便受けに入っていた広告やら郵便やら、雑多に放置している。
 その中に一際綺麗な封筒があった。クリームベージュの光沢感のある封筒で、映画のものと思われる記念切手が貼られている。

 何となく乱暴にこじ開けるのは気が引けたので、ハサミで封を切った。
 中に入っていたメッセージカードを見て、大きく肩をすくめる。

 ――ああ、ついにか。

 スマホをソファに置き、瞳を閉じて反芻する。

 もう八年になるのだろうか。
 彼女とも映画を観に行ったことを思い出す。それも、ちょうど今くらいの時間から。

 あれはまだ、自分が大学生の頃だった。


* * *


 深夜の映画館はほとんど誰もいない。
 席はまばらで、空夜(くうや)が座る座席は一列分貸し切り状態だった。
 その隣では、幼馴染の愛美(まなみ)がスクリーンに釘付けになっている。映画を観に来ているのだから当たり前なのだが、どうしても時折愛美の横顔を盗み見てしまう。

 深夜の映画館、観ている作品はハードボイルドなアクション映画だった。どう考えても愛美の趣味ではない。
 当たり前だ。この映画は愛美が想いを寄せる男が観たいと言った映画であり、レイトショーで一緒に観るはずだった。

 電話が鳴り、愛美の名前がディスプレイに表示されたのを見て、空夜は何となく察した。
 またあの男関係なのだろうと。
 案の定ドタキャンされたという嘆きの電話だった。これから一人で映画を観るというので、そのチケットを俺にくれと言った。
 こんな夜遅くにわざわざ来るのかと驚く愛美に、一人でレイトショーは淋しいだろと言ったら「ありがとう」と呟いていた。

「あんまり面白くなかったね」
「そう? 俺はそれなりに楽しめたけど」

 但し映画の内容は半分くらい覚えていない。

「ほんとに? あたしにはよくわからなかった」
「わざわざ来た甲斐はあったくらいには面白かったけどな」
「そっか。空夜が楽しめたのなら良かった」

 愛美はそう言って柔らかく微笑む。

「ありがとう。本当はすごく淋しかったから、空夜が来てくれて嬉しかった」
「ま、暇だったし。何かあったら呼び出せって言ったの俺だしな」
「うん、ありがとう……」
「で、この後どうすんの?」

 もうとっくに零時は越えていて終電は終わっている。
 愛美は少しだけ言いにくそうにもじもじしていた。

「うち、来る?」
「っ、」

 愛美は僅かに悩んでいるのか目が泳いでいる。あるいは悩んでいるフリなのかもしれない。

「……行ってもいい?」

 上目遣いで見つめる彼女は天然なのか計算なのか。
 どちらにせよ、空夜の心を惑わせてくる。



 映画館から歩いて行ける距離に空夜のマンションはある。
 もう何度も訪れたことのある愛美は、何の気兼ねもなくソファに座った。
 ティーバックの紅茶を淹れてマグカップを渡すと、「それあたしがあげたやつ」と言っていた。この前友達と旅行に行って来た時にくれたものである。

「あんまり飲んでないんでしょ?」
「そういうわけじゃないけど。来た時に飲みたいかと思って」
「えー、まあ飲みたいけど」

 そう言いながら両手でマグカップを持ち、一口飲んで「あつっ!」と叫んだ。
 愛美は昔から猫舌だ。そのくせ一口目は思いっきり口に含もうとするので、大体こうなる。

「学習しないなぁ」
「今日はいけると思ったんだもん」
「猫舌って食べるのが下手らしいぞ」
「今は飲んでる」
「同じだろ」
「火傷したかもしんない」

 若干涙目になりながらこちらを振り向いた直後、愛美の唇を塞いだ。
 愛美は一瞬目を見開いたが、すぐに閉じて空夜の冷たい唇を受け入れた。

「冷ませた?」
「どうかな……」

 鼻先を寄せる愛美。空夜は角度を変えてもう一度口付けた。
 愛美が僅かに開いた口内に舌を挿し入れると、愛美も応えるように舌を絡ませる。静寂の中で響く水音と吐息。
 いつの間にかソファに倒れ込み、互いの唇を夢中になって貪っていた。

 愛美とこういうことをするようになったのは、大学三年になってすぐのことだった。
 ある夜、突然愛美が空夜の自宅を訪ねてきた。今にも泣き出しそうになりながら佇む彼女を放ってはおけず、部屋に招き入れた。
 あの夜も今日と同じように、愛美は約束をドタキャンされた。

「多分別の女と会ってるの」

 愛美が付き合っているのは、大手商社に勤めるエリート社員だった。ある飲み会に誘われて行ったらその男と出会ったのだそうだ。
 彼の大人で包容力があり、それでいてどこか「ずるい」ところに惹かれた。
 そこから男女の関係になるまで時間はかからなかった。

 愛美はその男に惚れている。だが、付き合ってはいない。
 一度も好きだと言われたことはない。
 それでも愛美は男のことが好きで、相手が社会人で自分が大学生だから子どもに思われたくない、嫌われたくないという思いから全てを飲み込み、今の関係を続けている。
 だが、約束を反故にされて傷付いていた。

 そんな男やめろよ、なんて言葉が意味をなさないのはわかっていた。
 だから、空夜はこう言った。

「お前も同じことすれば?」

 愛美は顔を上げ、驚いて空夜を見つめる。

「そいつが別の女と一緒にいるなら、今のお前も同じじゃん」
「っ、でも空夜は」
「俺なら後腐れないだろ?」

 空夜と愛美は小学生の頃からの仲である。
 両親が夢だった一戸建てを購入して引っ越した。その家の隣に住んでいたのが愛美だった。
 互いの両親が共働きだったこともあり、二人はよく学校から帰ってどちらかの家に行った。
 一緒にゲームしたり夕飯を食べたり、何気ない日常を共に過ごした。

 それまで幼馴染としてそれなりの距離で付き合っていたが、変わったのは愛美が高校生になって初めての彼氏ができた時だった。
「サッカー部の先輩に告白されたんだ」と頬を染めながらはにかむ愛美を見て、空夜は思い切り頭を殴られたような感覚に陥った。

 それまで何気なく一緒にいた愛美が、急に知らない女の子になってしまったような気がした。
 そしてその時、初めて愛美を異性として意識した。

 彼氏と一緒に嬉しそうに帰る愛美を見て、気が狂いそうになった。
 どうして愛美の隣は自分ではないのだろう。
 あそこは確かに自分の居場所だったはずなのに、そうではなかったのだと痛感させられた。
 今更ながらに空夜は自分の気持ちを自覚することになる。

 近くにいすぎたせいで気づかなかった。
 愛美の無邪気な屈託のない笑顔、当たり前のようにずっと見られると思っていた。だけど、そうではないのだ。
 誰かに取られてから気づくなんて、なんて馬鹿なのだろう。

 結局その先輩とは程なくして別れたが、空夜は愛美への想いを燻らせるばかりだった。

「やっぱり空夜といる方が気楽でいいね」

 別れたという報告を受けた時、愛美は笑っていた。目を真っ赤にしながらそれでも笑っていた。
 本当は泣き虫のくせに強がろうと無理して笑う。昔からそうだ。
 そしてそんないじらしいところが、たまらなく愛しいと思う。

 今もそう、愛美は必死に淋しさを押し殺そうとしている。
 戸惑いも迷いもあるのだろう、瞳がゆらゆらと揺れ動いている。
 だけどそんな彼女を引き寄せて抱きしめた。

「俺のこと、利用していいから」
「〜っ、くうや……っ」

 愛美の心の隙間に付け入ることになったとしても、彼女の傍にいたかった。
 ただもう少しだけ近い存在で、彼女の淋しさを埋めたいと思った。
 彼女の心のもっと奥深くに触れたいと思った。

 幼馴染のままでは物足りない。ただ傍にいられたらいい、なんて綺麗事は思えない。
 ずるくても構わない、もっと深く繋がり合って愛美の淋しさを拭い去りたい。

 外はいつの間にか雨が降っていた。窓ガラスから覗く夜の雨は、まるで愛美の心を映した鏡のようだった。

「空夜、あたし……」
「何も言うな」

 震える愛美の唇に人差し指を押し当てる。
 何も言わなくていい、わかっているから。

 愛美の瞳にじわりと涙が滲む。彼女の頬を撫で、そっと唇を重ね合わせる。
 これで拒否されたら、もうやめる。ただの幼馴染でいる。

 だけど愛美は拒まなかった。一瞬ピクリと反応したが、そのまま受け入れた。
 一度離し、もう一度唇を重ねる。二度目の口付けは感触を確かめるように、深く濃厚に絡み合う。

 いつしか夢中になってお互いを求め合っていた。
 愛美は大きく手を広げて空夜にぎゅっと抱きつく。
 そのやわな体をしっかりと抱き止め、そのままベッドになだれ込む。

「淋しくなったら、いつでも電話して」

 うるうるしながら空夜を見つめ、愛美はこくりと頷いた。

 それから二人は幼馴染以上恋人未満の関係になった。
 愛美からのコール音は、彼女の心の叫び声。淋しくてつらい、独りになりたくないというSOS。

 はっきり言って、愛美が好きな男は愛美のことを利用している。自分が会いたい時にだけ会って、抱きたい時に抱く都合の良い存在。
 愛美もそのことには気づいているはずだ。それでもそいつとは別れられない。離れ難くて淋しくて、それでも涙を堪えて唇を噛み締める彼女のことが、たまらなく愛おしい。

 だから愛美にとっての都合の良い存在でもいいと思った。
 愛美の心に空夜がいなくても、別の誰かを求めていたとしても、夜が明けるまでずっと傍にいる。
 抱きしめて口付けて繋がって、愛美の淋しさを埋めてあげられる。
 たとえそれが一夜限りだったとしても。

 シングルベッドは二人で寝るには狭く、愛美は小さく丸まりながら空夜にくっついて眠っている。
 指で顔にかかった髪の毛を掻き分けてやると、うっすらと涙が浮かんでいた。

 なんで愛美を利用する男なんかのこと。
 何度も喉元から出かけて、何度も飲み込んだ言葉。

 平気で嘘をついて、都合の良い時しか呼び出さないで、自分都合で急に予定をキャンセルする。
 そんな男といても幸せになれるわけがない。
 愛美はもっと幸せになれる、なっていいはずだと何度思ったことか。それを口にできずにいるのは、嫉妬じみたエゴを押し付けることになるとわかっているからだった。

 空夜は愛美の目に浮かぶ涙を指で掬い上げる。
 微かに反応したが、愛美は眠ったままだった。

 愛美を泣かせて悲しませるのに、こんなにも淋しい目をさせているのに、愛美の心にいるのは自分じゃない。
 こんなに近くにいても、愛美の心の中に自分の居場所はない。
 どんなに傷付き淋しい思いをしていても、愛美が恋焦がれているのは彼奴なのだ。

「俺にすればいいのに」

 彼女が眠る間しか言えないことが情けない。

 俺のことを利用すればいい。
 彼奴に嫉妬させてやればいい。
 都合の良い存在でいいから、傍にいたい。

 愛されなくてもいいから、覚えていて欲しい。
 俺という存在がいることを。
 だからいつでも呼び出してよ。

 空夜の切なる思いは夜の帷に消えた。



 朝、目覚めると隣に愛美はいなかった。
 代わりに寝室の奥からガチャガチャという何だか騒がしい音が聞こえる。
 気だるいまま起き上がり、寝室から顔を出すと愛美が玄関で靴を履いていた。

「あ、空夜おはよう」
「おはよ……帰んの?」
「ごめん! 一限目の講義で出さなきゃいけないレポートあったのに終わってなくて。今から大学で終わらせてくる!」
「……そっか。頑張れよ」
「ありがとう! あ、すごく適当だけど朝食作ったからよかったら食べて! 勝手に冷蔵庫開けてごめんね」

 愛美はそうして颯爽と出て行った。
 昨夜よりも表情がかなり明るかった。

 テーブルに並んでいたのは、スクランブルエッグとフレンチトーストだった。
 適当にと言っていたが、少ない冷蔵庫の中身から作れそうなものを考えて作ってくれたのだろう。

 スクランブルエッグは甘めの味付けで、愛美好みの味がした。

(レポートが終わってないってのは、嘘だな……)

 本当は、彼奴からの連絡があったのだろう。
 こんな朝から何を言われたか知らないが、嬉しそうな横顔から察するに愛美にとっては良い報せだったようだ。

 スクランブルエッグもフレンチトーストも美味しいはずなのに、味がしなかった。
 この朝食はせめてもの愛美の気持ちなのだろうか。

(愛美なりに気を遣ってるんだろうな)

 一人きりの朝食は、カラッとした快晴の天気とは違って陰鬱とした時間となった。
 無常にも現実を突き付けられる、自分たちの関係の歪さと儚さを。
 また電話が鳴るのを待つ日々が続くのだろうと思った。

 実際愛美からの電話がこなくなった。それはつまり、順調だということ。
 一日に何度もスマホを確認しても、着信履歴は残らない。メッセージも止まったまま。
 愛美からの連絡が途絶えて、何日経っただろう。二週間連絡がないのは初めてだった。
 いつもなら一週間経てば電話が鳴る。もうそろそろか、と思った頃にコール音が鳴るのだ。
 余程順調なのかと思うと胸の奥が苦しくなる。

 三週間が過ぎ、一ヶ月が経とうとするところで自分から連絡してみようかと思った。

(何を話せばいいんだ……?)

 今、元気? 何してる?
 彼奴とは順調なの? なんて自分から墓穴を掘るようなこと聞けるわけがない。

 とは言え、やはり気掛かりなところもあるし、思い切って自分から電話をかけてみることにした。
 もしかして、万が一連絡ができないような状況に陥っていたのだとしたら。そんなことがあって欲しくないと思いつつ、場合によっては願ってしまう浅ましい自分もいる。

 とにかく、空夜は愛美とのトーク画面の通話をタップした。
 時刻は二十二時。もし家に一人でいるのなら、寝支度をしているところだろうか。

《……もしもし?》

 数回のコール音の後、愛美が出た。
 電話越しだが久しぶりに聞く愛美の声だった。

「もしもし」
《空夜?》
「久しぶり」
《久しぶりだね》

 久々に聞けた愛美の声に、どうしようもなく喜んでしまう自分がいた。

《すごいね》
「何が?」
《あたしね、空夜に電話しようと思ってたんだ》
「……そうなん?」
《うん。実は、あの人と別れたの》
「……え?」

 思わず握っていたスマホを握り直す。

「マジで?」
《うん、やっと決心がついた。ちゃんとサヨナラできたよ》
「そっか……」

 まさか会わない一ヶ月の間にそうなっているとは思わなかった。
 一ヶ月前はあんなに嬉しそうに出て行ったのに。
 愛美に悪いと思いつつ、高揚する気持ちが抑えられない。

「愛美、」
《それでね、空夜とこうして話したり会うのは最後にするね》

 なのに一転、心臓の奥からヒュッという縮み上がるような音がした。

「な、なんで?」

 動揺している気持ちを必死に隠そうとしたが、恐らく声は震えていた。

《ごめん、ずっと空夜に酷いことしてた。その自覚はあったのに空夜の優しさに甘えて……本当に最低だった》
「俺から言ったんだから、愛美は気にするなよ」
《気にするよ! 本当はずっと気にしてたの。だからもう、やめる》
「なんで……っ」
《今更ただの幼馴染には戻れないよ……っ》

 ――ああ、そうだった。

 ただの幼馴染が嫌で、その関係を壊したかったのは自分だった。

「愛美、俺は……っ」
《ごめんね、空夜》

 愛美の声は震えていた。

《ありがとうね》

 電話越しの涙声を聞いて、空夜は何も言えなかった。
 程なくして通話が切られる。

 静寂の夜、突然別れは訪れた。
 耳に当てていたスマホを持った手が、ダラリと垂れ下がる。

 空夜は心のどこかで、いつか愛美が振り向いてくれるのではないかと期待していたのかもしれない。
 都合の良い関係でもいい、淋しさを埋めるための存在でも構わない。ただ愛美には自分がいると、気づいて欲しかった。

 愛美のことが好きだった。
 彼女の屈託ない笑顔と淋しさを隠しきれない瞳に惹かれ、いつの間にか恋焦がれるようになっていた。

 愛美のことが好きで、それしか考えられないくらいに好きで。
 どうしようもない男に傷つけられている姿が見過ごせなくて。
 本当は何度も耳を塞ぎたかったし、目を逸らしたかった。
 今愛美が誰と一緒にいて、誰とキスして誰に泣かされているかなんて、知りたくなかった。

 だから、言った。
 いつでも電話して欲しい、淋しくなったら呼び出して欲しいと。
 少しだけでもいいから、愛美の鼓動に近づきたかった。

 だけど本当は――愛美の愛が欲しかった。

 ただ普通にデートして、映画を観て、二人で笑い合って。
 一番近くで支えて抱きしめ合える存在になりたかった。

 淋しい顔なんてさせないで、毎日笑わせてやれるのにってずっと思っていたのに。
 物分かりの良いフリをしていても、自分の心は誤魔化せていない。本当は愛美の愛を切望していた。

「っ、う……っ」

 カッコつけずに素直に言えばよかったのだろうか。
 あんな男なんかやめて、俺にしろよと。
 誰よりも好きだと素直に言えていれば、何か変わっていたのだろうか?

 いや、きっと変わることはなかった。
 もう何を思っても、今更変わることはない。
 空夜の悲痛な想いは宵闇の中に溶けてゆく。

 結局最後まで本当の気持ちは伝えられないまま、終わりを告げた。
 その日から、電話は鳴らなくなった。


***


「おーい、空夜!」

 少し遅れてきた空夜を出迎えたのは、大学時代の友人・松原(まつばら)だ。
 卒業後IT系企業に就職し、エンジニアをしている。社会人になって一年目の頃はよく飲みに行っていたが、最近はご無沙汰だった。

「久しぶり」
「おう、元気か?」
「まあぼちぼち」

 八年の月日が経った今、空夜はある飲料系企業の販売部で働いている。毎日仕事に追われる日々だが、自分のスキルに自信がついてきて仕事が面白いと感じるこの頃でもある。

「そういえば、空夜と愛美ちゃんって幼馴染じゃなかった?」
「え? ああ、そうだな」
「ずっと連絡取り合ってたの?」
「いや、全然。この前会社で異業種交流会あって、たまたま再会した」

 愛美と再会したのは、本当に偶然だった。
 先輩に誘われて参加した異業種交流会で、たまたま会ったのだ。
 愛美はある企業の社長秘書になっていた。

 あの夜以来、空夜はずっと後悔していた。
 幼馴染のままであれば、あんな風に終わることはなかったかもしれないのに、と。

 もう二度と戻れない関係になってしまったからこそ、愛美が「久しぶりだね」と自分から声をかけてくれたことに驚いた。
 ぎこちない挨拶だったが、空夜も「久しぶり」と返した。

 今何をしているのか、から始まって仕事の話が中心だった。
 会話のテンポは思っていたよりも軽く、途切れることなく続いた。
 この会話のテンポ感に懐かしさを覚えていた。

 お互い社会人となり、環境が変わったからなのだろうか。案外普通に会話できていたことに驚いた。
 恐らく愛美が柔らかい口調で穏やかに接してくれたからだろう。気まずくならないように、慎重に言葉を選びながら。

 八年の間に愛美は雰囲気が変わった。
 凛とした芯のある女性に成長していた。

 愛美はきっと、自分を変えたかったのだと思う。
 淋しくてつらくて寄りかかるしかなかった自分を変えたくて、あの夜に全てを捨て置く覚悟だったのだ。
 その気持ちが今なら何となくわかるような気がした。

「愛美ちゃん、なんか大学の時と雰囲気変わったよな」

 同窓会で一度会ったきりの松原でさえ、愛美の変化には気づいたようだ。

 皆が見守る中で静かに歩みを進める愛美は、花が咲いたように美しかった。
 純白を美しく纏い、一歩また一歩と真紅の絨毯の上を進んでゆく。
 幸福の笑みを咲かせる彼女は、空夜が知る中で一番輝いて見えた。

 やはり愛美には、笑顔が似合う。
 毎日笑顔にさせてやるのに、って思っていたこともあったけれど――愛美は自ら幸せを掴み取ったのだ。

「愛美、結婚おめでとう」

 そして、ありがとう。
 長きに渡る空夜の初恋は、こうして幕を閉じた。