初恋は厄介だ。
 成就する確率の低さとは裏腹に、いくら年月を重ねても色褪せずに心の一部に居座り続ける。そのあとに重ねた恋ですら、その色を塗り替えるのは至難の業。普段は息をひそめているくせに、ふとしたときに顔を出し、胸を甘く、苦く疼かせるのだから。


 通りがかったウエイターからシャンパングラスを手に取る。高校を卒業して八年、文香は成人式以来になる同窓会に参加していた。
 会場となった地元のホテルの大ホールには、壁一面に和洋折衷さまざまな料理が並び、あちこちで楽しそうな歓談の輪ができている。

 探り合うように声をかけるのは最初だけ。すぐに当時の距離感を思い出すのが、学生時代の友人といえるだろう。ドレッシーなワンピースやスーツに身を包んでいても、ひとたび声をかけ合えば、学生服を着ていた頃に立ち戻る。

 そのうちのひとつの輪から離れた文香に、クラスメイトだった利恵が駆け寄ってきた。

「文香、三杉くん、来てるよ」

そっとされた耳打ちに、鼓動が乱れる。

「……そう」
「そうって、話してこないの?」
「わざわざ行かなくても。顔を合わせたときでいいかな」
「またまた、そんなこと言って~」

 利恵が肘で軽く小突く。

「べつに特別話すことはないし」
「初恋の人だから、会うのが怖い?」
「そんなんじゃありません」

 小突かれたお返しに、香奈も肘鉄を繰り出した。

「大丈夫だよ。三杉くん、あの頃よりずっとカッコよくなってるから。幻滅する心配はない」
「なにそれ」

 思わずクスクス笑う。
 学生時代の面影がなくなり、いったいなにがあったの?と余計な心配をしたくなるほど変貌する人がいるのは、よくある話だ。

「あの頃、好きでしたって言っちゃえば? 文香は今フリーだし、三杉くんもまだ結婚してないみたいよ」
「どうしてそうなるの」

 もう八年も前の話。それも多感な高校生時代の恋だ。
 甘酸っぱくて、ほろ苦い片想い。
 気持ちを伝えず、振られもしないまま、永遠にエンドマークを置けない恋である。

「それに私、彼を好きなんて利恵に言ったっけ?」
「言ってないけど、そうだったでしょ?」

 気づいていたんだからと言わんばかりに、自信に満ちた笑みを浮かべる。
 さすがに親友の目は欺けなかったようだ。とはいえ今ここで白状しても仕方がない。意味深に微笑み返すだけに留めた。

「挨拶だけでもしてきたらいいのに」
「あとでね」

 高校時代ならともかく、文香はもう二十六歳。今さら昔の恋に溺れるなんてない。
 そう、今さらだ。
 だいたい彼のほうにそんな気はさらさらないだろう。文香ひとりがうっかり再燃して、高校時代のように一方通行の恋に身を焦がしたくない。

「そっか。まぁ文香がそう言うならね。さてと、じゃあ、私はあっちの輪に入ってくる」
「はい、いってらっしゃい」

 ワンピースの裾を揺らし、ひらひらと手を振る利恵を見送った。

(なにか食べてこようかな)

 空になったシャンパングラスをウエイターに預け、並んだ料理に文香が向かおうとしたそのとき――

「久しぶりだな、文香」

 背中に懐かしい声をかけられた。
 振り返るまでもなく彼だとわかる。しかし彼を見た文香は、さも驚いたように目を見開いた。

さらさらの黒髪は当時のまま、切れ長で澄んだ目元には意思の強さが滲み、大人になるにつれ身に着けたであろう色香が漂う。利恵の言っていた通りだった。

「三杉くん? わぁ、久しぶりだね。来てたんだ」

 出席を初めて知ったという空気を醸し出す。なんのプライドなのか、さも忘れていたふりをする自分を心の中で笑った。

「前回、欠席したから今回はと思って」
「あれ? そうだったんだっけ」

 六年前、三杉は成人式のあとに開催された同窓会には出席していない。当時、文香は密かにがっかりしたくせに、彼の欠席も記憶にない演技をした。

いったいなにをやっているのか。

 もう終わった恋だと言っておきながら、未だに縛られている事実に戸惑う。

(ううん、久しぶりに会ったせい。べつに今も好きなわけじゃないから)

 頭の中でカッコ悪い言い訳を繰り返した。

「綺麗になったな」
「えっ、なに、やだな。やめてよ」

 唐突に褒められて、今度は動揺する。しかも眩しそうに目を細めるリアクションまでつけるから、鼓動が変なリズムで弾んだ。
 今の言葉はここで再会した同級生の女性たちにする、儀礼的な挨拶のひとつ。本気にしてはいけないと自分に言い聞かせる。

「そういう三杉くんだって」
「俺がなに?」
「利恵が言ってたよ、さらにカッコよくなってたって」

 彼を見たときにその言葉の通りだと思ったくせに、利恵に罪をなすりつける。しかしその直後、余計なひと言だと後悔した。
 彼の出席を前もって知っていたと暴露したのも同然。いかにも今知ったような態度をとったのが嘘になってしまう。
文香は不自然に目を泳がせた。

 三杉がクスッと笑ったのは、その事実に気づいたからなのか、それとも照れたからなのか。
再会の場面から改めてやりなおしたい。次こそ上手に演じられるから。

「三杉くんは今も東京?」

 話題を変えて誤魔化した。

「ああ。大学を卒業したあとそのままね。文香はずっとこっちだっけ?」
「うん。就職も地元」

 文香も東京の大学に進みたかったが、両親に反対され地元の大学に進学。就職先も実家から通える距離にある。

「結婚は……」

 三杉の視線が、不意に文香の左手に飛ぶ。

「あっ、してないよ」

 胸の前で手を振って否定した。薬指に指輪がないのを確かめたのだろう。

「俺も」

 三杉は自分の左手を見せてはにかんだ。

 高校生のとき、文香はその笑顔に恋していた。
 バスケ部のキャプテンだった彼はゴールを決めたあと、必ずそうして笑ったものだ。口を大きく開け、奇声を上げる部員が多い中、彼の控えめな微笑みは異色だった。
 その笑顔にはマネジャーをしていた文香だけでなく、観戦している女子たちもハートを射貫かれていただろう。事実、彼を〝はにかみ王子〟と呼び、黄色い声援を送る姿を何度も見た。

 懐かしい。
 そう思った途端、時を超え、心が高校時代に飛んでいく。

「ここ、抜けないか?」

 文香に一歩近づき、三杉は耳元で囁いた。

「……え?」

 言葉の意味を図りかね、心も声も惑う。

「ふたりきりで少し話したい」

 先ほどの笑みを向けられ、条件反射で頷いた。

 利恵にひと言断ろうとしたが、彼女は大きな輪の中で楽しそうに笑っている。弾む会話に水を差したくないため、なにも告げずに三杉とふたりで会場を出た。

 ホテルのエレベーターに乗り、最上階を目指す。そこにバーがあるのは知っている。
 綺麗な夜景が見られると地元でも評判のデートスポットだ。都会慣れしている彼の目を楽しませるには不十分かもしれないが。

 照明を落とし、ジャズが静かに流れる店内には、週末を前に多くのお客がいた。
 カウンターに案内され、並んで腰を下ろす。
 利恵とはもちろん恋人がいたときにその彼とも何度も訪れた場所なのに、緊張するのはなぜだろう。
 文香はミモザ、三杉はジントニックで再会を祝って乾杯する。

「文香とアルコールで乾杯するって、なんか変な感じだな」
「そうね、高校生のときはコーラだったものね」

 試合の打ち上げは、勝っても負けても毎回そうだった。
 ペットボトルをわざと激しく振り、爆弾コーラのロシアンルーレットをしたこともある。文香も一度だけ当たり、さんざんな目――いや、心躍る瞬間を味わった。学生時代のキラキラした思い出だ。

「大人になったんだなって実感する」

 お互いを学生時代しか知らないから、そう感じるのかもしれない。ましてや八年ぶりの再会、空白の期間が長いから。

「最後のゲーム、覚えてる?」
「もちろん。俺が三ポイントを決めて勝利したゲームだろう?」
「そうそう。三杉くんの放ったボールがゴールに入るまでの時間は、人生で一番ハラハラした瞬間だった」

 三年生の引退試合の劇的な勝利である。

「さすがに一番はないだろ」
「ううん、あのときの光景は今思い出しても興奮しちゃう」
「確かにそうだな」

 共通の思い出話に花が咲き、楽しい時間はあっという間に過ぎていく。お酒の効果のせいもあるだろう、饒舌に語り合った。

 揃って三杯目のカクテルを飲み干し、ふたりの間に沈黙が舞い降りる。
 隣で三杉が腕時計を確認した。

(そろそろお開きかな……)

 名残惜しさを飲み込み、文香から〝帰ろうか〟と口を開こうとしたが――

「俺、あの頃、文香のことが好きだったんだ」

 三杉は思いがけない言葉を口走った。
 過去の話だとわかっていても、心は言うことを聞かない。鼓動があり得ないスピードで脈を刻みはじめた。

 ゴールポストを見据えるときのように真っすぐで、それでいて甘さを秘めた眼差しを見つめ返す。その瞳に囚われたら最後。そんな直感を覚えるのに目を逸らせず、あっさり絆された。

「……私も。私も三杉くんが好きだった」

 心の赴くままに打ち明ける。
 今まで一度も口にしたことはなかった。あの当時、利恵にさえ打ち明けていない。
 永遠に告げることはないだろうと諦めていた気持ちを今、初めて、それも彼本人に打ち明けた高揚感に包まれた。

 三杉が、あの笑みを浮かべる。見た者を一瞬で虜にしてしまう、キラースマイルだ。

「このあと、まだ時間ある?」

 彼の質問がなにを意味しているのか、わからない年齢ではない。なにより文香も、もっと一緒にいたかった。

 あの頃、素直に打ち明けていれば、今日までずっと一緒に過ごしていたかもしれない。恋人同士として、今回の同窓会に出席していた可能性だってある。
 同級生たちに〝なんだ、お前らまだ付き合っていたのか〟〝結婚するんだろう?〟なんてからかわれて、笑い合う未来があった気がしてならない。
あの頃、素直に告白さえしていれば。
 そんな後悔が文香の背中を押す。

空白の時間を取り戻したい。間に合うのなら、まだ見ぬ彼との未来を掴みたい。その一心だった。

言葉もなく頷き、彼に差し出された手に自分のそれを重ねる。心を躍らせながら三杉にエスコートされ、エントランスロビーに降りてチェックインを済ませた。

高校当時に恋焦がれた彼と、これから一線を超える。
そんな日がくるなど、あの頃の自分はもちろん、同窓会の会場で彼と再会したときの自分も、想像していなかった。

 胸の高鳴りに合わせてエレベーターが上がっていく。ぎゅっと繋がれた手から、彼の気持ちが伝わり泣きそうになった。
 それと同時に、じつはこうなることを望んでいたのだと思い知る。今さら昔の恋に溺れるなんてないと心の中で笑い飛ばしたくせに、本音は違っていたのだ。
当時の自分に教えてあげたい。あたためているその想いは、いつかきっと報われるからと。

 部屋に入るなり、唇を奪われた。
 迸る彼の色香に、繊細な舌使いに、体は次第にとろけていく。服を脱がせ合い、もつれるようにしてベッドに倒れ込んだ。
 募り募った想いをぶつけ合うように、互いの熱を混ぜ合わせる。何度も求め合い、重なり、際限のない愛と欲望に溺れた。
 こんなにも情熱的に抱き合った経験はない。そう感じるほど激しく、そして満ち足りた時間だった。


 翌朝、三杉の腕に抱かれて目覚めた文香は、たとえようのない幸福感に包まれていた。

(ほんとに幸せ。でも、三杉くんとは遠距離恋愛になっちゃうかな……)

 東京で働いている彼とは、電車で二時間程度の距離がある。しかし初恋を成就させた文香には、その程度の試練なら乗り越えられる自信があった。
 時期がくれば、そのうち結婚の話も出るだろう。そのときがくるまでの辛抱だ。
 文香の中で、彼との未来予想図がみるみるうちに完成形になっていく。

(あとで利恵にもちゃんと連絡しなきゃ。なにも言わずに姿をくらませたから怒ってるよね)

 三杉との一夜を報告するときの、利恵の反応を想像しただけで笑みが零れる。きっとびっくりするはずだ。

 彼は隣でまだ眠っているが、目覚めたらとびきり甘いキスをくれるだろう。そんな妄想をして表情に締まりがなくなる。
文香は間違いなく幸せの絶頂にいた。

 そうして際限なく浮かれていると、三杉がゆっくり目を開ける。

「おはよ、三杉くん」

 文香の姿を捕らえた瞳が揺れる。三杉は上体を起こし、ベッドに座った。
 はらりと落ちた布団から逞しい肉体が露わになり、文香は頬を染める。

「……文香、ごめん」
「ううん、大丈夫」

 おそらく昨夜、何度も求め過ぎたことを謝っているのだろう。しかし、それなら文香も同罪だ。
 ふたりで過ごした濃密な時間を思い返し、胸が熱い。

「じつは俺、来月結婚するんだ」
「……え?」

 なにを言われたのかわからなかった。
 少なくとも文香が予想していたものとは大幅に違う。

「結婚する前に昔の恋に終止符を打ちたかったんだ。打ち明けられなかった想いを整理したかった」

 三杉は淡々と、少しだけ申し訳なさそうに告げた。
 それまで浮かれモードで元気よく回っていた文香の思考回路が、ぴたりと止まる。

(……終止符を打ちたかった? 想いの整理?)

 彼の言葉を脳内で繰り返す。

(そう、だったんだ……)

 思い描いた未来予想図が粉々に崩れ落ちていく。思いも寄らない展開が、再び文香を待ち受けていた。

ドクドクと嫌な音を立てる心臓が、今にも口から出てしまいそうになる。
 幸せの絶頂から、躓きもせずに転落していく。
 ついさっきまで文香が感じていた幸せは、まやかしだったのだ。実態のない蜃気楼と一緒。ゆらゆらと移ろっていたのに、有頂天になって気づかなかった。

 今思えば、三杉は一度も未来の約束を口にしていない。
〝絶対に離さない〟〝この先もずっと一緒だ〟
 抱き合いながら、そんな将来を示唆する言葉など、ひと言も発していなかった。

(そっか、そうだよね……)

 当然の結末だ。彼との幸せな未来を想像していた自分の滑稽さに自嘲する。

「文香を好きだったのは嘘じゃない。でも俺は――」
「大丈夫って、さっき言ったでしょう? 私も同じだから」

 言い訳を並べる三杉を遮り、強気で言う。

「……文香も?」
「三杉くんを好きだったのは過去の話。自分の気持ちにケリをつけたかっただけ。だからお互い様」

 声が震えそうになった。鼻の奥がツンとして涙が溢れそうになった。
でも、意地で堪える。

(私は傷ついてなんかいない)

 大人の女のささやかな、だけど悲しいプライドだ。

「そうか」

 三杉が安堵するのが手に取るようにわかった。
 手を出したものの、ここでごねられたらどうしようかと不安だったのか。
 泣いて縋るカッコ悪い姿を見せるわけにはいかない。仮にも初恋の相手に。
 どうせなら、いい女だったと思われたい。最高の女を抱いたのだと。

「結婚おめでとう。幸せになってね」
「ありがとう。文香もな」

 最後の最後に、三杉はあの笑みを浮かべた。
一瞬で女性を虜にしてしまう微笑みが、今の文香にはとても残酷だった。


 彼を置き、ホテルをあとにする。
 土曜日の街は、文香の心とは対照的に穏やかな時間が流れていた。

 たったひと晩で燃え上がり、散った恋の儚さはまるで打ち上げ花火のよう。一気に弾け、消えたあとに残るのは眩い光の残像だけ。
 流されるまま、彼と一夜を過ごしてよかったのか。
それとも初恋は、綺麗な思い出のまま心に秘めておいたほうがよかったのか。
 その答えを知っているのは、未来の自分、ただひとりなのかもしれない。

 八年の時を経て、文香の初恋は一瞬のきらめきと引き換えに終わりを告げた。


おわり