お気に入りのゼリーを買おうとしたら、コンビニ限定のハートゼリーが目に入った。

 あたしは、迷うことなく限定のゼリーを二つ手に取りカゴの中に入れた。そして、最近発売したばかりのチョコレートも。お会計を済ませて小さなマイバックに入れる。
 いつものコンビニで買い物をして、家への帰り道を辿る途中だった。嬉しくて、鼻歌混じりに足取りも軽くアパートへ向かっていた。
 あと直線数メートル。

 今夜ももう来ているかな?

 彼のことを想うと、ますます気持ちも足取りも軽くなる。だけど、そんなあたしの目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
 足枷をつけられたみたいに、軽かった気持ちが途端に重さを増した。
 時が止まったみたいに、体が動かなくなる。

 抱きしめ合う男女が街灯から少し外れて、光と影を纏っていた。暗がりとはいえ、あたしはシルエットに近い二人のことをどちらも知っていた。
 一人は最近一緒に暮らし始めた恋人の創平(そうへい)。そして、もう一人は、親友の若葉(わかば)
 たまに二人で会っているのは聞いていた。だって、あたしも若葉も、創平とは同じ飲み会で知り合った仲だったから。別に、それはそれでかまわなかった。
 だけど……

 こちらからは創平の背中しか見えなくて、若葉が重なったかと思えば、創平の首に絡みつく腕。思わず目を逸らしてしまう。見なくても、見えなくても、何をしているのかが、分かってしまった。

 ──どういうこと?

 思わず、持っていたマイバックを落っことしそうになって、持ち手にギュっと力を込めて握りしめた。ジリッと後ずさる足の音で、遠く離れてはいるけれど、二人にあたしの存在があることを知られてはいけないと、息を殺した。

 ようやく二人が離れて、創平が家の中へと入るまで、しばらく縁石に座り込んで時間を潰していた。暗がりにスマホの画面がぼうっと光る。二人のことを視界に入れたくなくて、無意味に画面に目を落とした。
 見たくないのに、見えてしまう距離。知りたくないのに、知ってしまった二人のこと。
 全てを見届けてから、あたしは創平のいるアパートの一室へと、重たい足取りで帰った。

「ただいま」

 いつも通りに玄関を開けると、何事もなかったかのような創平の笑顔がそこにあった。

「おかえり、知佳(ちか)。今日遅くない?」
「あー、ちょっと遠くのコンビニ寄っちゃったから」

 あたしはいつものコンビニに寄ってきたのに、嘘をついてマイバッグを掲げた。やっぱり普段と何も変わらない創平の笑顔に、さっき見たことを思い出して胸が締め付けられる。

「そーなの? いつもんとこのが近いのに。なんかあった?」
「え……?」

 聞かれて困るのはあたしじゃないはずなのに、あたしは創平から目を泳がせるように戸惑いながら逸らした。

「何もないよ。ちょっとだけ、運動かなっ。ほら、最近甘いの食べすぎてたし」

 誤魔化すために言ったのに、近づいてきた創平があたしのマイバッグからゼリーとチョコレートを取り出して苦笑いしている。

「これじゃあ、意味なくない?」

 目の前に出されて笑われるから、あたしはますます戸惑うしかない。

「先にシャワー、浴びてきてもいい?」

 逃げるように創平の横を通り過ぎようとしたあたしの腕を、掴まれる。

「……なんか、隠してない?」
「え……」

 そのまま、創平はあたしのことを引き寄せて、大きな胸元へと包み込んだ。
 いつもの創平の匂いの中に、微かに若葉の香水の匂いが混じっているように感じた。あたしの顔を自分に向かせるために触れた手が、若葉にも触れたんだろうと錯覚する。
 近づく創平の距離から、思わずあたしは顔を背けた。

「ごめん、ちょっと……」
「え? ダメなの?」
「あ、仕事帰りで顔ベタベタだし、先洗って……」
「そんなん、全然大丈夫」

 あたしの言葉など聞かないで、創平は離れようとするあたしの腰を強く引き寄せて強引にキスをしてきた。
 いつもよりも強くて、優しいけど、どこか荒々しい。何度か交わしたキスの合間に、あたしは若葉の姿を思い出す。
 創平の首に絡みつく若葉の腕、少しかかとをあげて近づく二人の距離。
 さっきこの唇に触れたのは……

「ご……ごめ……もういい……」

 俯いたあたしは、創平の胸に両手を突いて、引き離すように力を込める。抱きしめられている腕が少しだけ緩んだ瞬間に、そこから抜け出した。

「シャワー、行ってくるね」

 逃げるように創平から離れると、あたしは荷物も持ったままでバスルームに入った。
 静かに閉めて鍵をかけると、ドアに寄りかかったまま落ちるように座り込んだ。
 電気をつけることも忘れて、真っ暗なバスルームの中で、声を殺して泣いた。

 どうして、若葉と……?
 どうして、平気でその手で、唇で、あたしに触れられるの?
 ……分からない。

 しばらくそのままの状態で座り込んでいると、バックの中のスマホが鳴り出した。
 驚きながら表示を確認すると〝若葉〟の文字。瞬時に先ほどの光景が頭の中に浮かび上がってくる。
 あたしは、着信に応えることなくスマホをバックの奥にしまいこんで、ようやくシャワーを浴び始めた。

 少し濡れた髪にタオルを巻いて、洗面所の鏡の前に立つ。写っている自分の顔に、思わず笑ってしまう。
 下がった眉に、目の淵が赤く腫れていて、泣いたことが一目瞭然だ。
 これじゃあ、すぐにはここから出られない。

「知佳? シャワー長くない、大丈夫か?」

 ドアの外から心配する創平の声が聞こえて、あたしは冷たい水で必死に目の下を冷やしていた。

「うん、大丈夫だよ。ゼリー冷やしといて」
「もうとっくに冷蔵庫入れといたよ。待ってるから、一緒に食べよ」
「……うん、髪乾かしたら、行くね」

 平静を装って、いつも通りに答えた。
 昨日までは、こんなことが起こるなんて思わなかった。美容師のあたしは毎日仕事で帰りは遅くなる。大体いつも同じ時間には帰宅できるから、あたしの帰って来る時間に合わせて創平はうちに来てくれる。それは、一緒に住み始める前から変わらない。
 だから、あたしが帰ってくる時間に外であんな事をしていたら、すぐにバレるって、二人とも分かっているはずなのに。
 考えれば考えるほど、あたしへの当てつけなんじゃないかと、思ってしまう。もしかしたら、二人はずっとあたしの居ない間に会っていたんじゃないかと。
 あたしの知らないうちに……きっと。
 ダメだ……また泣きそうだ。
 あたしは鏡の中の自分を慰めるようにわざと口角を上げて泣くのを必死に我慢した。

 部屋に戻ると、創平がテレビを見ながら笑っていた。ドライヤーで半乾きにした髪はまだ湿っているからタオルを首にかけたまま。冷蔵庫の中からペットボトルの水を取り出して飲んだ。流れていく冷たさに少し冷静になれる。

「あ、知佳ー、これおもしれぇよ。こっち来て一緒に見ようよ。あ、ゼリーも食う?」

 思い出したように創平は立ち上がって冷蔵庫の前にいたあたしの所まで来ると、躊躇うことなくギュッと抱きしめてくれる。

「いい匂い。俺もシャワーしてこよっかな。ゼリーはそのあとでも良い?」
「……うん、いいよ」
「よーし、じゃあ行ってこよっ」

 まだ少し濡れているあたしの髪を撫でると、創平はバスルームへと消えて行った。
 さっきコンビニで買ってきたゼリーは、付き合い始めた頃に創平が「美味しい」って気に入ってくれた期間限定のハートのゼリー。
 期間限定なだけに、一度しか食べたことがなくて、また売られること密かな楽しみにしていた。
 それが、今日の帰りのコンビニでたくさん並べられていたのを見て、あたしのテンションは爆上がりだった。
 それなのに……
 シャワーを終えて戻ってきた創平はまだ濡れた髪をタオルで拭きながら冷蔵庫を開ける。

「知佳も飲む?」

 そう言って缶ビールをちらつかせるから、あたしは頷いた。この際、飲まなきゃやってられない。

「このゼリー売ってたんだねー! 前に食べて美味かったやつだよな?」
「うん、創平覚えてたんだ」
「当たり前じゃん、知佳と期間限定だからまた出るまで待つしかないかーって泣いたじゃん」
「え? 泣いた? そこまでだっけ?」
「あー、ハートが崩れるのが嫌で食べれないって泣いたんだっけ?」
「それは創平でしょっ」

 ちょうど一年前。
 あたしが一人暮らしをしていたこのアパートに、毎日の様に創平は通ってきてくれていた。
 近くのコンビニでハートのゼリーを買った日、「ハートが可愛いだけの大したことないゼリーなんだろ」と創平はバカにしていた。
 だけど、いざ食べ始めると思ったより美味しかったようで、丁寧に食べ始める。ピンク色のゼリーの真ん中、ハートの寒天を崩さないように慎重に震えながらすくって口にする。
 その時の創平の笑みがすごく好きで。今思い出してもにやけてしまうくらいに可愛くて、本当に美味しそうに食べていたのを思い出す。
 あまりにも気に入ったようで、「また明日買ってくる」と張り切って次の日にコンビニに行くと、「あのゼリーは昨日までの期間限定だったんです」と店員さんに教えられて、残念そうに肩を落として帰ってきた創平を、あたしは慰めたんだ。

 見た目は真面目そうで甘えるなんてしなさそうな創平は、あたしの前では当たり前のように駄々を捏ねる。そんなところがたまらなく愛おしくて、あたしは創平と一緒にいればいるほどに好きが溢れていった。

「あれ? 知佳……なんか目、赤くない?」

 考え事をしていたあたしの頬に、創平が優しく指を添える。目の前に現れた心配そうな顔に、胸が締め付けられてしまって、次の瞬間、どんな顔をしてしまったんだろう……創平があたしを抱きしめた。

「知佳……」

 そんなに優しく抱きしめてくれるのに、その手で、若葉の事も抱きしめたんだよね?
 さっき涙は流したからもう出ないと思ったのに、泣いたってどうしようもないのに、聞きたくも、知りたくもないのに……言わずにはいられなくなってしまった。

「……どうして……さっき、若葉の事も抱きしめたりしたの……」

 震えながら出た言葉に、あたしを抱きしめてくれていた創平がゆっくりと離れた。

「……もしかして、見てたのか?」

 街灯の下で抱き合っていた若葉とのことを、嘘だと、誤解だと、間違いなんだと笑って欲しい。
 だけど、あたしが見てしまった光景が間違いなんかじゃなく、現実である事を創平は簡単に認めてしまう。

「あれは、若葉が彼氏に浮気されたって泣いて会いにきたから外で話してたんだけど、そろそろ知佳も帰って来るしって帰そうとしたらさ……」

 言い訳を始めた創平に、あたしは湧き上がってきて止まらなくなった涙を拭いながら背を向けた。

「抱きしめて、キスしたんでしょ」

 ポツリと溢すと、創平は小さくため息を吐いた。

「いや? してないって。あいつが勝手に抱きついてきたんだし、キスしてこようとしたから、冷静にそれは止めたよ。俺は知佳だけだし」

 背中越しに少し怒っているみたいな言葉。謝ってくれたら許すとか、そんな簡単にこの話を終わらせられるわけじゃない。

「ごめん……だからさっきから様子がおかしかったんだな。不安にさせたよな……」

 ふわりと後ろから抱きしめてくれるから、優しい温もりに、全てを許してしまいそうになってしまう。包み込んでくれる創平の腕にそっと手を置いて寄り添う。
 この手が抱きしめてくれるのは、あたしだけがいい。
 くるりと創平に向き合うと、近い距離の唇にそっと触れる。
 わがままなんかじゃないよね? あたしは創平の彼女なんだから。
 抱きしめあって、触れ合って、創平の気持ちがあたしにあることを確かめる。

「さ、ゼリー食べよっか!」

 気持ちを確かめ合えたのかはまだ分からないけれど、きっとあたしが許したと思ったのか、創平は笑顔でそう言ってテーブルの上のゼリーとスプーンを手に取った。

 ゼリーも食べ終わってビールも空いた頃、あたしはバックの中に押し込んでいたスマホを取り出した。
 さっき、若葉から着信が来ていたことを思い出す。
 画面表示を確認すると、若葉からメッセージが届いていた。
 「新着メッセージがあります」と、何個も表示されていた。

》あいつ、他にも女いるよ。
最低なやつだから、ほんと、縁切った方がいいよ。

 一番最新のメッセージに思わず「え?」と声が漏れてしまう。

》知佳が帰って来たの、あたしは気が付いていたよ。
あたしもずっと騙されていたけど、創平は、知佳の事も騙してる。

》もう知佳の事騙して居たくなかったし、あいつの本性知って欲しくて、さっき知佳が帰って来る頃を見計らってあんな事したんだ……

》知佳、ごめんね。
知佳とはずっと友達で居たかったのに、創平の事好きになっちゃって。
あたしずっと知佳に内緒で創平と関係を持っちゃってた。

 送られてきていたすべてのメッセージに目を通して、もう言葉も出なくて呆然とする。
 あたしは、鼻歌交じりで次のビールを冷蔵庫に取りに向かっていた創平の後ろ姿を見つめた。
 まさか。
『あいつ、他にも女いるよ』
 そんなわけない。

 たしかに、創平は飲み会の場で一番盛り上げ上手で、誰とでも仲良くしていて、好きになったのはあたしの方からだった。きっとあたしと同じように創平のことを好きになる女の子はたくさんいるんだろうと思った。きっと、若葉もそうだったんだと思う。
 だからって、これはどうしたらいいんだろう。あたしは創平の彼女だよね?
 あたしは、恋人の創平を信じたら良いの?
 親友の若葉を信じたら良いの?

 混乱するあたしの思考を遮るように、創平のスマホがテーブルの上で静かに通知が来たことを知らせる。サイレントで表示されている画面には『みおり』と、明らかに女の名前。今までそんなの気にした事がなかった。だって、創平は誰とでも仲良くなれる、友達の多い優しくて大らかな人。

「はいはーい? 何?」

 あたしが着信の名前に動きを止めていると、戻ってきた創平は何も気にしないように明るい声でスマホを耳に当てて話し始めた。

「マジーっ? 今から? 飲んじゃったもんー! 迎え来てくれるなら行く行く」

 こんな会話は、今までも日常茶飯事だった。友達の多い創平は飲みに出ていく事だってザラにある。そんなのにいちいち文句なんて言っていられないし、友達が多くて大事にしているのはいいことだと思っていたから。

「知佳、俺今から出てくんね。先寝てていいよ」

 軽く言いながら、身だしなみを整え始める姿に、今まで見て来ていたはずのその光景に、急に違和感を覚える。

『あいつ、他にも女いるよ』
 若葉のメッセージが頭から離れない。

 どうして、今までなんとも思ってこなかったんだろう。
 どうして、疑ったりしてこなかったんだろう。

「仕事残ってるし、まだ起きてるから鍵、置いていって?」
「え? あー、はい」

 何か考え込むようにしてから、作ったばかりの合鍵を惜しくもなさげに創平はテーブルに置いた。
 そして、弾むように軽快な足取りで出て行ってしまった。創平の後ろ姿に、あたしはどちらを信じるべきなのか、確信した。

 空になったビールの缶もそのままに、創平の物を空いていた段ボールへと無心で詰め込む。一緒に住んでいるけれど、創平は夜しか居ないし、それも、ほとんどはあたしが常備している食材を使って夕飯を食べて、寝に帰ってくるだけだ。生活感はあまりなくて、創平の物なんて、小さめの段ボール一箱でも隙間が空くほどしか無かった。

 思い出なんて、今テーブルの上にあるゼリーくらいしかない。
 出会った頃、一年も前の事を愛おしく思い出として大切にしてきていた自分に、嫌気がさした。まだ残るハートの形のゼリーを、あたしは流しへとひっくり返した。
 ぐちゃぐちゃに形を崩したそれに、涙さえも出てこない。
 今はただ、怒りが湧き上がる。
 あたしの大切な思い出を、あたしの大切な若葉(ともだち)を、あたしの事を、騙していた事を、ゆるさない。

 玄関のドアの前に捨てるように段ボールを置くと、玄関に鍵をかけた。窓もなにもかも厳重に戸締りをした。帰って来たって、もう中には入れてあげない。もしまた入れてしまったら、創平の事を受け入れてしまったら、多分繰り返しだと思う。

 創平は優しい。あたしの事を好きでいてくれたんだと思う。
 だけど、たぶん、若葉の事も、さっきの『みおり』の事も、あたしと同じように好きなんだ。それだけの気持ちだ。みんな一緒。
 あたしの出した答えは正しい。正しいと、思いたい。

 もう、この夜が早く明けてほしい。

 日付が変わって数時間後。
 玄関のドア前で物音が聞こえた。

「……っだよ、閉め出してんじゃねーよ、あいつ」

 ドアノブがガチャリと音を立てて、低い声が聞こえた。
 スマホが暗闇に光る。着信は『創平』。自分の荷物の入った段ボールが何なのかと、閉められた鍵を開けるようにと催促の電話だろう。
 もちろんあたしはそれに出ないし、鍵も開けたりしない。
 しばらくベッドの中で布団を被って静かにしていると、スマホは光るのを止めて、玄関付近になにも物音がしなくなった。

 》なに怒ってんの? 俺は知佳だけだよ。

 届いたメッセージに落胆する。

 なにがあたしだけ? 騙すことが?
 あたしの欲しい言葉はそんなんじゃない。

「たしかに、思い返してみれば、創平に好きだってちゃんと言われたことなかったかもな……」

 抱きしめてくれた時も、キスをする時も、肌が触れ合う時だって。どの夜をとっても、きっと、創平の『知佳だけだよ』は、その時だけの逃げ言葉だ。
 一度きり、毎回がワンナイト。
 あたしだけがずっと一緒にいれると思っていたんだ。
 だから、メッセージもきっとこれっきり。

「あたしじゃなくたっていいんだ」

 震える声で呟いて、目を閉じた。泣いてなんかやらない。そんなの悔しすぎる。
 明日、若葉と会おう。そして、二人で思いっきりあいつの悪口言ってやる!
 そして、慰め合おう、バカな男に引っかかっちゃったねって。
 若葉と一緒になら、泣いてやる。忘れてやる。大嫌いになってやる。

 だから、今日という夜が明けるまでは、好きだった余韻に浸っていよう。

ーendー