それは凍てつくような寒さを感じる、雪がしんしんと降り続く夜のことだった。
ほぉ、と広げた手の平に向かって息を吐けば、目の前が真っ白に染まる。
そんな気休め程度の暖を取りつつ、私は人を待っていた。
「──ごめん!お待たせ!」
「……やっと来た」
「本当ごめん!仕事が長引いちゃって!」
「……なら連絡くらいちょうだいよ」
「マジでごめん!連絡する時間すら惜しくて、早くシノに会いたくて!」
「……行こう」
私の前で両手を合わせる彼の左手を引き、一つ微笑んでから歩き出した。
「つめたっ!」
「そりゃあ、ずっと待ってましたから」
「……ごめん。寒かったよな」
「……」
そんなの、今更慣れっこだから。
そんな嫌味は、わざと言ってやらない。
この男、シンジとは付き合ってもうすぐ一年になる。
合コンで出会った私達は、シンジからのアプローチに私が頷く形で付き合い始めたのだが。
ここ最近、デートに遅れてくることが多い。
シンジは仕事が長引いただなんて言っているけれど、私はちゃんと知ってるよ。
首元から漂う女物の香水の香り。仕事終わりの割にはセットされていないサラサラの髪。
──どうせ、女の子とさっきまでホテルにでもいたんでしょう?
そう聞けたら、どれだけいいだろうか。
確かに最初はシンジからのアプローチだった。正直言って、あの時はシンジに興味なんて無くて。
誰かと付き合うことも考えていなかった。
人数合わせで連れて行かれた合コンで、目の前に座ったのがシンジで。
IT系ベンチャー企業で営業職をしているというシンジは、確かに話の組み立てが上手かった。
オチがはっきりしていて笑いも取れて、ノリも良い。
昔やんちゃしていたという複数のピアスの穴とキリッとした目元。加えて少し強引な性格からか、合コンでも一番人気だった。
そんなシンジから連絡先を聞かれ、何度もデートに誘われ。
熱心に誘ってくるものだから、まぁ行くだけ行ってみようかと思って向かったデート。そこで告白されて、まずはお友達からということで付き合い始めた私達。
それなのに、今ではこんな男でも、いないと寂しいと思ってしまう私がいた。
浮気していると分かっているのに、二時間もこの寒空の中で待ってしまう程に。
シンジとのデートは、大体決まったコースだ。
仕事終わりの場合は交代交代で行きたいお店や食べたいものを指定して、食事に行く。
そしてその後、シンジの家に行って一夜を過ごすのだ。
それは週末の日もあれば週半ばの日もあって、デートに行く日に一貫性は無い。
休日の場合は大体シンジの家に私が向かい、のんびりとお家デートを楽しむことが多い。
シンジは基本がインドアタイプで、自分の家が大好きな人だ。
なんだかんだ私の家に来たことも無いくらいなんじゃないか。それくらい、シンジは私を自分の家に泊まらせるのが好きだ。
浮気をするなら家に呼ばない方が都合がいいだろうに、そういうところが抜けているのも何故か憎めないポイントなのだ。
今日も私希望のイタリアンを食べた後にシンジの家に向かおうとした。
……その時。
「あれぇ?シンジ君だー!」
前から歩いて来たのは、可愛らしい女性。
二十歳前後だろうか。もうアラサーに突入した私とは、比べ物にならないくらい若くキラキラしているように見えた。
「……知り合い?」
「え、あ、いや……」
シンジには一つ特徴があって。
焦った時、嘘がバレた時、言葉が詰まらせて冷や汗を掻くからすごくわかりやすい。
「シンジくん、さっきすぐに帰っちゃうんだもーん、びっくりしちゃった!次はいつ会える?」
「な……」
口をパクパクとして私の顔と彼女の顔を何度も見比べるシンジ。
その顔には焦りと動揺がありありと現れていて。
目尻の横を通って頬を伝った汗が、こんな季節なのにやけに暑そうに見えた。
「……知り合い?」
そんな様子のシンジにもう一度笑顔で聞くと、わかりやすくさらにその顔を歪めた。
実は、シンジの浮気性は今に始まった事ではないのだ。
しかしこうやってデート中に出会ったのは初めてだったりする。
「あ、違うんだシノ。アイツは……」
「あぁ、言い訳とか聞いてないから、大丈夫だよ」
「っ……」
「シンジが浮気してるのなんて、ずっと前から知ってたし」
もうどうでも良くなって、彼女に笑いかけながらそう言うと
「……え!?」
と本気で驚いていて。
「なに、え?隠せてるとでも思ってたの?バレてないって?」
本気でそう思っていたの?聞くまでもないシンジの様子に、一気に身体が冷える感覚がした。
あぁ、気が付いた。
これが、"情"というやつか。
自分の寂しさを適度に埋めてくれる、都合の良い存在。
身体の相性が良かっただけに、少し残念だけど。
思いの外、ショックは少なかった。
結局、私はシンジのこと、本気で好きになることはできなかったのかもしれない。
「ごめんね、シンジ」
「……え?」
「私、もう行くね」
「ちょ……待って、シノ!」
「今までありがとう」
「シノ!」
わざと彼女の横を通るようにシンジから遠ざかったのは、
「シンジくん!あんな女なんかいいじゃん!それより今日はもう空いたんだよね?シンジくんのお家行ってもいい?」
彼女がシンジを止めてくれると思ったから。
振り返らずにそのまま歩く。
すぐに、シンジの声は聞こえなくなった。
私はシンジのこと、本気で好きになることはできなかったのかもしれない。
だけど。
じゃあこの目から零れ落ちる雫は何なのだろうか。
痛む胸は、何なのだろうか。
あんな最低な奴に泣かされるなんて。
悔しい。
*****
「……あれ?先輩?」
「……中山くん」
「どうしたんですか?何かあったんですか?」
そのまま帰るのも虚しくて、居酒屋で一杯飲んだ帰り。
職場の後輩の中山くんと駅前で遭遇した。
百八十はあるだろう高い身長と甘いルックスが職場の独身女性から大人気の男性。
私よりつ一つ年下の二十四歳。
そんな中山くんは私の顔を見るなりその表情を崩し、心配そうに覗き込んでくる。
「はは、何もないよ。ちょっと飲みすぎただけ。中山くんは?今帰り?」
「……はい。残業が長引いちゃって」
「そうだったんだ。お疲れ様」
マフラーに顔を埋めながら、白くなる息をまた見つめる。
上を向くと、さっきよりも大粒になった雪が止まることなく舞い落ちてくる。
「……寒いね」
「そう、ですね」
「寒い。……寒いなあ」
早く雪なんて、溶けてしまえ。
そうしたら、雪と一緒にこの虚しさも溶けていかないだろうか。
そんな淡い期待を持ちながら、手のひらに落ちた雪の結晶をギュッと握りしめた。
その私の手を、温めるように包み込んだのは、誰の手か。
ハッと見上げると、中山くんが切なそうに私を見ていた。
「……俺でよければ、いくらでも温めますよ」
「え?」
「何かあったんでしょう?彼氏さんと会うんだって言ってたのに」
「……あ」
そういえば、会社を出る時に他の後輩にしつこく聞かれて言ったんだった。
"今日は彼氏と会う日だから"
自分で言ったことも覚えていないなんて、笑える。
「それなのに一人でいるし、いつもより元気無いし。……心配です」
「……ちょっと、彼氏のこと振ってきただけだよ」
「……え」
「アイツね、ずっと浮気性が治らなくて。知ってたから今更って感じだけど。さっき、初めて浮気相手と遭遇しちゃって。それで別れてきた」
つまんないでしょ、こんな話。
そう言いながら見上げると、思っていたよりも真剣な表情と目が合う。
「そんな顔、しないでください」
「え?」
「そんな無理して、笑わないでください」
「……だって」
「先輩のそんなつらそうな顔、見たくないです」
握られたままの手は、徐々に温かくなってきた。
「……先輩、この後時間ありますか」
「……あ、る。けど……」
「じゃあ、行きましょう」
「どこに」
「……まずはもう一件、飲みに行きましょう。いくらでも元彼の愚痴聞きますから。全部思ってること出し切ってください」
そう言って私の手を引く中山くんに、必然的に私も足が進む。
「それで、すっきりしたら今度は俺のこと、考えてくださいね」
「……それ、は」
「先に言っておきます。俺、これから先輩の弱みに付け込みます」
「なかやま、くん?」
「先輩のこと、ずっと好きだったんです。そんな顔させるような男なんて許さない。俺が奪う」
こちらを見ないままそう言って歩き出す中山くんに、
「な、に言ってんの」
私は思わず赤面した。
「嘘じゃないし、からかってるわけでもないです。本気です。本気で、先輩のこと堕としてみせますから」
だから。
そう呟いた中山くんは、ようやくこちらを見た。
道のど真ん中で引き寄せられた身体。
重なった唇は、これからの宣言なのだろうか。
周りの視線など気にならないくらい、頭の中が中山くんでいっぱいになる。
「これから覚悟しておいてくださいね、先輩」
フッ、と。小さく笑った中山くんに、胸がドクンと高鳴った。
end