初めて声を聞いた時、頭の中で稲妻が落ちた。
 悠助(ゆうすけ)くんは、私の八歳年上の会社員。
 隣の家で多分一人暮らしをしてる。
 そして、笑い声が可愛くて、話す声が優しくて、いつも私も話してくれる素敵な人。
 そんな悠助くんとは、ベランダで出会った。
 
 叶うはずのない、恋だった。
 それでも、美しくて、ずっと胸の中でキラキラと輝いて、死ぬ時には私を彩ってくれるような恋だと思う。

 私は、学校の宿題に嫌気が差して、ため息ばかりこぼす。
 SNSでは満月だと、皆が呟いていた。
 だから、黒猫のムーンを抱えてベランダに出て眺めようと、足を踏み出す。

 ガラガラと重たい音を立てて、開く窓。
 夏だというのに冷たい夜風は、ぶわりと私の頬を撫でる。
 胸元でムーンは、嫌がるように身を捩った。

「あ、ムーン!」

 ぴょんっと軽々しく飛び降りて、私の足元を駆け抜けていく。
 追いかけた手は宙を切って、届かない。
 隣の家との仕切りの下を通り抜けて去っていくムーンに、声をかけることしかできなかった。

「待ちなさいってば!」

 荒げた声に、にゃーんっと軽く鳴いた声だけが聞こえる。
 仕切りの下から覗き込もうとすれば、目が合った。
 息を飲み込んで、手を引っ込める。

「ごめん、驚かせたね」

 柔らかい声が聞こえて、足元を走っていったムーンを抱き上げる姿が目に入った。
 心の中がビリビリと、痺れる。
 あまりにも、美しい声だった。
 
 外から覗き込もうと身を乗り出せば、ムーンが突き出される。
 慌てて受け取れば、ムーンはご機嫌斜め走に私の腕の中で「なぁん」と鳴く。

「ごめんって」

 謝りながら部屋に戻して、ベランダの窓を閉じる。
 隣の人はまだいるだろうか。
 仕切りの下をこっそり覗き込めば、スリッパが目に入った。

「あの」

 おずおずと話しかければ、優しい声が返ってくる。

「猫ちゃん、大丈夫?」
「はい、ありがとうございました!」
「いいーえー」

 やけに間延びした声に、くすりと笑いが漏れる。
 仕切りに寄りかかったまま、話しかけてみれば、返事が返ってきた。

「満月、ですか?」
「君も? 満月って、願いを叶えてくれそうだよね」

 掠れたような切なそうな声に、隣の人の願い事が何なのか気になる。
 どんな人が住んでるかも、私は今まで知らなかった。

「私も満月見てみようかなって」

 願い事は……考えていなかったけど。
 高校生活に満足してるとも、言い切れない。
 勉強には飽き飽きしているし、友達のくだらない話にと疲れてる。
 キラキラするような、ワクワクするようなことが起こればと思っていた。

 それが、恋だとは思っていなかったけど。
 だから、ある意味願いがすでに叶ったとも言える。
 だって、世界が急に輝いて見えた。
 話してるだけで、胸がワクワクとする。

「お兄さんのお名前は?」
「俺? 悠助、さんずいの遥かに、助けるで悠助だよ。お姉さんは?」
「願い事が叶うの、叶うに、天使の羽の羽で、叶羽(かのは)
「叶羽ちゃん」

 私の名前が急に、特別な物のようになっていく。
 ただ名前を呼ばれただけなのに、恥ずかしくなってしまった。
 頬もおでこも、熱い。

「叶羽ちゃん?」

 急に黙った私に不思議に思った悠助くんは、問いかける。
 その声が、呼び方が、あまりにも優しいから、つい胸がどくんっと高鳴った。

「はい」
「満月、見えた?」

 満月を見るために、出てきたのにすっかり忘れていた。
 ぼやりと空を見上げれば、うっすらと白く発光する満月を見つける。
 想像よりも淡い光。
 初めて、まじまじと月を見つめたかもしれない。

「キレイですねぇ」
「告白みたいだね」
「へ?」
「そっか、若い子は知らないか」

 悠助くんの含みのある言い方に、首を傾げる、
 一際強い風が吹いて、雲を押し流す。
 そして、満月を少しずつと隠して行った。

「あ、見えなくなっちゃったね」

 残念そうな声に、変な提案をしたと思う。
 自分でもわかってる。
 それでも、悠助くんとの繋がりが欲しかった。
 
「あの、また、こうやってお話しできたりしませんか」
「じゃあ、またベランダで出会えたらね」
「はい! また、出てきます」
「俺も時々、出てくるよ」

 その約束通り、悠助くんは時々ベランダに居た。
 学校から帰ってきて、夕方に出ても会うことはなかったから、もっと遅い時間に帰ってくるんだと思う。
 だから、今まで私は隣に住む悠助くんの存在を知らなかった。

「こんばんは」
「叶羽ちゃん、こんばんは」

 悠助くんは挨拶をする時だって、私の名前を必ず呼ぶ。
 ふわふわと生クリームみたいな優しい呼び方に、私は毎回舞い上がってしまう。
 好きですと伝える勇気はなかった。
 隣の家なのに、振られたら正直過ごしづらい。
 そんな自分勝手なことばかり、考えていた。

「今日は、友達とクレープを食べに行ったの。新しく駅前にできたクレープ屋さん知ってる?」
「俺は行ったことないや。おいしかった?」
「うん! すっごく! 生クリームと、あと手作りのジャムを入れてるんだって」

 いつも私はその日会った、楽しいことを悠助くんに報告するのがクセになっていた。
 悠助くんはいつも、話を聞きながら「楽しそうだね」と呟く。
 だから、ますます私は調子に乗って、話を続ける。

「今日、進路調査票が配られたの。まだ一年生だよ?」
「叶羽ちゃんは、将来どうしたいとかあるの?」
「ない、かな。夢も希望もない! でも、好きな人と末長く幸せに生きたい」

 その好きな人は、今話してる悠助くんだけど。

「そっか」
「将来の夢って、ある?」

 私の声に、悠助くんの返事が止まる。
 ただ、静寂だけが夜の空に浮かび上がった。
 悠助くんの答えを待って、生ぬるい風を胸いっぱいに吸い込む。
 掠れて、微かに聞こえた音は、私の脳内では言葉にならない。

「え? 聞こえなかったよ」

 悠助くんは小さく、ふふふと笑う。
 そして、いつもの柔らかい声で「秘密だよ」と口にした。
 秘密と言われればますます知りたくなるのが、人間というもので。

「えー教えてよ! どんな仕事してるの?」
「それも、秘密」
「家族は?」
「今日はやけにグイグイくるね」

 秘密と言われれば、もっともっと、はやるように言葉が出ていく。
 悠助くんのことを、知りたかった。
 ずっと、知りたかったけど……
 せっかくのチャンスが巡ってきたから、無駄にはしたくなかった。

 年の差もあるし、顔も見たことない。
 それでも、私は悠助くんと恋人になれたら、なんて甘い妄想をしていた。

「悠助くんのこと、教えてよ」

 初めて、名前を呼んだ。
 名前を知った日から、心の中でだけずっと呼んでいた名前。
 どくん、どくん、と心臓が脈打って、口から出てきそうになる。
 温かい風が、私の背中を押すようにふわりと揺れていた。

「知っても、面白くないよ」
「それでも、知りたいの!」
「まぁ、少しならいいよ。もう俺もこの家出るし」
「え?」

 不意をついた言葉に、目を丸くする。
 隣から、くすくすと笑う声が聞こえた。

「叶羽ちゃんと話すの楽しかったよ」
「引っ越すの?」
「そう、北海道に」
「遠いな」

 北海道。
 観光地の映像しか、知らない。
 ここからだと、飛行機?
 遠い冬の景色を想像して、暑いのに、体がぶるりと震えた。

「じゃあ、いっぱい質問する!」
「俺のこと知っても、もうお別れなのに?」
「だって、好きな人のことは、誰だって知りたいでしょ?」

 口にしてから、慌てて押さえても遅かった。
 悠助くんは、じっと黙りこくる。
 私は、言ってはいけないことを、言ってしまったことに気づいて、ただ、自分を強く抱きしめた。
 突き放さないで。
 振らないで。
 願いを掛けそうになって、顔を上げる。

 悠助くんと出会った満月から、数ヶ月後の、満月の日だった。
 やっと口を開いた悠助くんは、謝罪の言葉を私に嘆かせる。

「ごめん」

 それは、期待に応えられれなくて、ということ?
 私の最近の楽しみだった時間が、終わりを迎えたことだけが、わかった。

「私こそ変なこと言って、ごめんなさい」
「あ、そうじゃなくて……」
「どういうこと?」

 そうじゃない?
 悠助くんの言葉を待って、ただ、時が経つのを待つ。
 じわりとかいた汗が、背中を伝っていく。

「俺、結婚してるんだ」

 思いもよらない言葉に、ぐっと心臓が痛む。
 だって、隣から誰か出てくるところを見たことも、子供の声を聞いたこともない。
 それなのに、結婚してるんだなんて。
 私を傷つけないように、振るための嘘だと思った。
 そんな嘘吐かなくても、素直に、振ってくれれば良かったのに。

「嘘じゃないよ。奥さんは、北海道に居る。単身赴任中なんだ。まだ子供も小さいし」

 ひゅっと喉を、空気が通り抜けていく。
 嘘じゃない、雰囲気の声だった。

「娘が成長したら叶羽ちゃんみたいになるのかなって、想像してた」
「そうだったんで、すね」

 無理矢理に口にした言葉は、他人事のように聞こえる。
 ずきん、ずきんと、血が巡るたびに痛む胸に気づかないふりをする。

「だから、高校の話を聞くの楽しかったんだ。娘が高校生になったら、そんな生活を送るのかなって想像できて」
 
 私は、あまりにも子供だった。
 だから、勝手に舞い上がって、勝手に恋に落ちて、勝手に、手の届くかもしれない人だと思い込んだ。
 私の一方的な思いを、悠助くんは突き放しもせずに、向き合ってくれてる。

 ますます、好きだと思った。

「叶羽ちゃんの気持ちには応えられなくて、ごめんね」

 キレイな思い出として、取っておこう。
 そう考えたら、涙が出てきた。
 顔も見たことないのに、ただ、夜に雑談をするだけの相手だったのに。

「でも、話してる時間は、本当に楽しかったよ」
 
 本気で、好きだった。
 実感して、震える声でもう一度、想いを口にする。

「悠助くんのこと、好きでした」

 過去形にしたのは、せめてもの強がりだ。
 悠助くんが、ふわりと柔らかい雰囲気で頷く。

「うん、ありがとう。でも、応えられなくてごめんなさい」

 初恋だった。
 確かに、恋だった。
 たとえ、声以外の何も知らなかったとしても。
 同じ景色を見つめて、くだらない話をした日々を、私はきっと忘れない。
 新しく誰かを好きになっても、きっと悠助くんの優しい声を思い出してしまう。

 その事実に、胸がずきん、ずきんと痛む。
 叶うとも思っていなかったのに、思いもよらない答えに、足の力が抜けた。
 しゃがみこんで、地面を見つめる。

 どんなに願っても、私は、悠助くんの好きな人にはなれない。
 その事実だけが、重たく胸にのしかかった。

「叶羽ちゃんはいつかもっと、好きな人に出会えるよ。俺が言うのは、きっとずるいけど」

 ずるいよ。
 ひどいよ。
 大人だからって、まるで、先の事を知ってるみたいに。

 それでも、悠助くんを好きになって、毎日が楽しかった。
 今まではくだらないと思ってた授業も、飽き飽きした友達の話も、悠助くんに話そうと思えるキラキラした結晶だった。
 今は、諦めるとは言えないけど、悠助くんに恋して良かったとは、思える。
 私のくだらない日常に、彩をくれた人だから。

「叶羽ちゃんとまた出会えたら、お話ししようね」

 優しい言葉を最後に、窓が閉まる音が聞こえる。
 声を上げて、わんわんと涙をこぼす。
 
 笑い声が、好きだった。
 優しい声が、大好きだった。
 顔も知らない、初恋だった。

 悠助くんとは、もう会えない。
 きっと、もう出てきてくれない。
 そして、そのまま、奥さんと娘さんのところに旅立ってしまう。
 その事実に、目の前が真っ暗になった。
 それでも、顔を上げれば、満月がうっすらと発光している。

 満月が願いを、叶えてくれるなら。
 私の恋を、叶えて欲しかった。
 ただ、好きという言葉を、涙と共に飲み込む。
 いつまでも、部屋に戻れないまま。

<了>