誰もが浮かれていた。夜に、音楽に、雰囲気に。重低音にいまだ揺さぶられている。
「「あ」」
同時に私たちは声を発した。彼も私と同じ店でビールとソーセージを購入したらしく、以前からの友人のように私のもとにやってきた。
「休憩中?」
「まだ夜ご飯食べてなくて」
「俺も。一緒に食べようよ」
たとえばこれが路上だったら、駅前だったら。名前も知らない初対面の男性に食事に誘われても返事もせずに立ち去るだろう。
だけど頷いてしまうのは、彼も同じ音楽が好きで、一夜を共にする仲間で…何より熱に浮かされたフェス会場とアルコールのせいに違いなかった。
彼は迷いなく出店エリアを抜けて、飲食スペースとなっている芝生に腰をおろした。私も肩を並べて座る。周りには私たち以外にも同じように食事をとる人々がいた。
「かんぱーい」
カップに入ったビールを私に向けて、彼は白い歯を見せて笑った。無防備な笑顔につられて乾杯をする。
Tシャツにハーフパンツ。さっぱりとした黒髪をラフに分けて、たぶん私と同じくらいの年齢だと思う。清潔感のある見た目と人懐っこい笑顔が警戒心を和らげていく。
普段はサラリーマンをしているのだろうか。人当たりの良さから私と同じ営業マンかも。だけどこの空間では、彼のスーツの姿はまったく想像がつかない。
私も今日はスーツを脱ぎ捨ててここにいる。
*
今日は最悪だった。土曜日休みだとわかっているクライアントからの容赦のない着信で目が覚めた。
納品されたものに誤りがある。今すぐ正しいものを納品してほしい。月曜日まで待てない、そちらと違って土日も営業日なのだから……目覚めて五秒で耳元でそう怒鳴られた。
誰のミスだろうとか、私のせいじゃないとか、そんなことは先方にとってはどうでもいいことで、担当者としてすぐに向かわなくてはいけないことだけがわかった。
夏の休日にスーツを着込み、何人に、何回謝ったかわからない。夕方にようやくすべてのことを終えて、人の波にのまれて駅に続く地下街を歩いていた。
今日はビールを買って帰ろう。眠るまで飲んで、明日は一日泥のように眠ろう。最寄り駅のコンビニでスイーツも追加しよう。そうやって自分を慰めていた私は、柱の広告と目があった。
『ALL NIGHT ROCK FES』
カラフルな色の広告が目に焼き付いた。
「今日じゃん」
導かれるようにスマホで検索すれば、それは今日と明日の催しだった。今日の昼からスタートしたらしく月曜日の朝まで続く音楽フェス。
詳細ページを見れば、ちょうど今いるターミナル駅から特設バスが出ているらしい。二時間ほど揺られれば会場に到着する。
バスの出発時刻まであと二十分。その時間発のバスチケットもフェスの本日分ナイトチケットも発売中。
決断するまで数秒。地下街のファストファッションでTシャツとズボン、スニーカーまで購入して試着室でそれらに着替えた。そして駅構内のコインロッカーに着ていたスーツを押し込んだ。
――文字通り、スーツを脱ぎ捨てた。
疲れ切って今すぐベッドに飛び込みたいと思っていたくらいだったのに、どうして自分でもそんな行動をしたのかわからない。だって私、MBTI診断の『とても疲れる一週間を過ごした後は、にぎやかな社交の場を楽しみたい』には『同意しない』を選択するタイプだし。
夏の虫のように光に焦がれて、バスに乗り込んでいた。
*
学生の頃に何度か楽しんだフェス、社会人になってからは初めて訪れる。日々に忙殺されて、こういったエネルギーを使う場所からは足が遠のいていた。
到着したのは、冬場はスキー場として賑わう山中。午後九時。バスから降りたそこはまるで大人の遊園地のようだ。人々の熱気が感じられ、皆自然と笑顔を浮かべている。響く音が聞こえてくれば身体はリズムに合わせて揺られ、足も軽やかに奥に進む。
タイムテーブルを確認すると、私の好きなバンドの出演時間が近づいていた。すべてを後回しにして、私は急いで目当てのステージに向かった。
広大な会場にはいくつかのステージがあり、私のお目当ては一番小さなステージ。元カレの影響が抜けずにいまだにマイナーバンドブームが続いている。
日中から続いているフェスに観客は少し疲れも伴っているのか、この小さなステージに人はあまりいなかった。一曲目が始まってしまっているようで、私は人の群れの一番後ろで音を楽しむ。
「前の方、行けますよ」
隣の長身の男性が言った。乗り遅れた私に親切に言ってくれているのだろう。
「ありがとうございます。でも私、後ろでひっそり楽しむ方が好きなんです」
「ああ、俺も」
短い返事をして、彼はステージを向いた。ここでは誰もがステージの上に意識を向ける。
バスの中で爆睡した仕事帰りの私でも、前々からこの日を楽しみにしていた人でも関係ない。すべての人を爆音が飲み込んでいた。
*
彼らの出番が終わり、昼から何も食べていないことを今さら思いだした。フェスは朝まで続く。私の一番好きなバンドの出演時間は夜中の三時。休憩したり、何か食べないと持ちそうになかった。それにタオルやライブTシャツも買いたい。
そうして食べ物を購入した私は、先ほど隣で楽しんでいた彼と再会した。
同じマイナーバンドの演奏を聞いていた。それだけの共通点で、私たちは今共に食事をとっている。
「はは、それでビジネスバッグ持ってきたんだ?」
衝動的にここにやってきた経緯を話すと彼は噴き出した。
上下の服やスニーカーに気を取られていて、リュックなどを購入するのを忘れてしまっていたのだ。
フェス会場に似合わない選手権があれば優勝できそうなビジネスバッグを見て、彼は声を出して笑った。
「気づいたときには、もうバスの時間が迫ってたから。ここに到着したらもうシュクリール始まるとこだったし」
「シュクリール好きなんだ?」
「うん、大好き。だから出番が終わってから預けようと思って。でも朝からなんにも食べてなかったから、食欲を優先させた」
「それはお疲れ様でした」
半分まで減ったビールを傾けられて、もう一度乾杯した。
「グッズにサコッシュもあったでしょ。今からこのカバンは預けて、それ買う」
「まあビジネスバッグ持ってるのは、君だけだろうな」
彼はビールを飲みながら笑って「名前、なんていうの?」と訊ねた。
「あなたは?」
「んー、シバ」
シバはシュクリールのボーカルの名前で、彼が本名を名乗っていないことは明らかだ。
「で、君は?」
「アンコ」
キーボードの名前をあげれば、彼は唇の端をあげた。
「一人?」
「そりゃ休日出勤の後の突発的行動ですから」
「それもそうか」
くつくつとシバは笑った。私の暴走ともいえる行動を笑ってくれる人がいて嬉しい。本当はここにくるバスの中で、やらかしたなと冷や汗をかいていたし、いつか誰かとの笑い話にしようと思っていたのがすぐに叶ったわけだ。笑い飛ばしてもらえると肩の力が抜ける。
「俺も一人。次見たいステージある?」
「私はけっこうマイナーなのが好きで。さっきのステージにずっと貼り付いてるかも」
「俺も。だから一人で来たんだよな。誰かときたら他のステージに付き合いで行かないといけないし」
「わかる」
大学生時代に音楽好きの友人と何度かフェスにきたけど、見たいステージがことごとく違った。別々のステージを見ればいいのだけど、同行者は思い出を一緒につくることをこだわった。仕方なく交代でみたけれど、同行者は私の好きなバンドを「しらないやー」で終わらせたっけ。
カップと紙皿がお互い空になると、シバは自分と私の分を重ねて「じゃ行くか」と立ち上がった。そして私が立ち上がるのを待っている。
「どこに行くの」
「物販。サコッシュ買いに行くんだろ」
当然というようにシバは言った。今夜、一緒に過ごす。さらりとそう言われているみたいで、わずかに体温が上がる。
私はお尻を払って、ビジネスバッグを持って立ちあがった。
「Tシャツも買いたいんだよね、あとタオルも」
肯定の返事にシバは笑顔を見せた。
本名も職業も、どこに住んでるかもわからない男。
だけどここではそんなことはどうでもいいのかも。どのアーティストが好きだとか、どの曲が好きだとか、そんなことを教えあえば十分だ。
*
私がTシャツを買えば、シバは色違いのTシャツを買った。
「昼からいるから、そろそろ着替えたいとこだったんだよな」
そう言ってお揃いのTシャツを着る。そわそわと胸が浮くのは、嫌な気持ちではなかった。
「次狙ってるのは?」
「十一時、さっきのステージ行きたい」
「いいね」
仲の良い友人のように気軽な会話を伴いながら、私たちは最初にいたステージに戻った。人のまとまりから一歩下がったところで曲を楽しむ。かすかにシバが揺れて、そのテンポがなぜか心地よかった。
「あ、この曲一番好き」
イントロが始まってシバを見上げれば「ん?」と柔らかな瞳で見下ろされる。
「なんて言った?」
「あーうん、たいしたことじゃないよ」
「え? なに? 聞こえない」
ステージの音でかき消された私の声を拾おうと、シバがかがんで私と同じ視線になる。
至近距離で目線がぶつかって、柑橘の香水と汗がまじった匂いがした。彼の鎖骨が目に入って言葉が詰まる。
「な・ん・に・も!」
口パクで言うと、よくわかっていなさそうままシバが笑った。
Aメロが始まって曲のテンポが上がる。ドラムの音に心拍数が連動してかき乱される。
もう一度見あげれば、視線に気づいた彼がもう一度私を見下ろす。
大好きな曲がサビに到達して、このときめきが曲のせいなのか、別のものなのかただ戸惑っていた。
*
二組の出番を終えて「ちょっと休憩するか」とシバが言った。私は当たり前のように彼の隣を歩き、シバはカクテルを販売している出店に並んだ。
それぞれ購入を済ませれば、近くの丸太のベンチに座る。
「それなに?」
「ピーチフィズ」
「いいね、一口ちょうだい」
自然な流れでシバは私のドリンクに口をつけた。
「これも飲む?」
「なにそれ」
「飲んだらわかる」
オレンジ色をしたカップが手渡される。一口飲んでみると、グレープフルーツの香りが抜けた。そのあとから甘みが追いかけてくる。
「何かわかった?」
「グレープフルーツしかわかんない」
「正解。それはシーブリーズ。ウォッカにグレープフルーツジュースとクランベリージュースが入ってる」
「へえ。だから甘いんだ」
カップを返せば、シバは目を細めて受け取る。私たちの肩が少しだけ触れた。
「飲みやすいでしょ。アンコはけっこうお酒飲むの?」
「んー付き合い程度かな。飲めるけど一人で深酒とかはない」
「俺もそんなもん。てか、人と飲むのが好き」
「そうなんだ」
シバは『とても疲れる一週間を過ごした後は、にぎやかな社交の場を楽しみたい』の質問に『同意する』で答えるタイプなのかもしれない。
シバって女の子、慣れてるよね。軽口でそう言いかけて、結局言葉にはならなかった。
「次はどうする予定?」
黙った私にシバは訊ねた。
「うーん、そうだなあ。もう少し休憩しようかな」
私はあくびをこぼした。既に日付が変わっている。朝、クレームで起こされてから今までずっと動いていた。バスで二時間寝ても、身体の疲れは取れていない。音楽に揺られているときは忘れていたけど、こうしてのんびりとお酒を飲んでいると疲れを思い出す。
「アンコの一番の目当てのバンドは?」
「私は三時からのedgegirl。一番好きなバンドなんだ」
「え!」
シバは目を丸くして自分のスマホを取り出すと、画面を私に見せた。待ち受けにうつるのはedgegirlのロゴ。
「シバも好きなの?」
「めっちゃ好き」
自慢のおもちゃを教えてくれる幼児みたいなキラキラの瞳が返ってきた。さらなる共通点を見つけてほほえみ合う。
「アンコ、あのステージにはりつくって言ってたから、好み似てるだろうなとは思ったけどね」
「じゃあこの人たちも好き?」
「好き好き」
私たちはしばらくどのアーティストが好きかを話した。好きな曲がいくつも被っていて嬉しかったし、知らないアーティストでも彼の好みなら興味がわいた。これだけ好みが被っているのならきっとこの名前を知らないアーティストを私は好きになれるのだろう。
音楽って聞くだけが楽しいわけじゃないんだな。好きと好きをお互いに共有するだけで、心がふわふわと浮いてくる。
「今日出演していないバンドで、アンコにオススメの曲がある。絶対好きだと思うんだよなあ」
シバが音楽アプリで曲の検索をかける。画面に現れた曲名は、
「え、これ、私も最近めっちゃ聞いてるよ」
「まじで」
シバがスマホから顔をあげた。隣でスマホを覗き込んでいた私とぐっと距離が近づいた。
あと数センチずつ二人が近づけば、キスができてしまうほどに。
私はその距離にわかりやすく固まった。シバも同じように私の瞳をみつめていた。彼の瞳の中に私がいる。
それはたった数秒のこと。
だけど胸が重点音を響かせていく。
「三時まで仮眠しない?」
ぽつりとシバが提案した。
「え?」
「edgegirlの出番まで。俺、今日テント付きプランにしてるから。」
「……うん。私も朝から働いてたから、実はだいぶ眠い」
シバの瞳に熱が灯る。きっと私も同じくらい熱に濡れて、揺れている。
シバは空になったカップを重ね合わせて左手に持つと、右手で私の手を取った。ぐっと引き寄せられて立ち上がる。
そのまま手をつないでテントに向かっていく。
もう戻れないよ。頭の中で私が言った。
十分ほど歩いてテントエリアに向かった。テントまで向かう間、シバは日中のステージについて話してくれた。それも私の好きなバンドばかりで話は尽きなかった。
「日中も好きなバンドばっかで全然休憩できなかったんだよな。ちょっと寝とかないと三時まで絶対持たないわ」
「一番のお目当てを見る前に力尽きたら最悪だもんねー」
……だから、二人で仮眠をとるだけ。
今日この後のメインイベントに向けて、ただ寝床を共にして、少し眠るだけ。
二人で言い訳をし合うように、テントエリアに進む。
テントは想像していたよりも小さかった。
小さなランタンと、適当に引かれたタオルケット。シンプルなそこに入って二人で寝転がる。
私たちが寝転ぶ分のスペースしかないテントのなかで、シバの黒い瞳が私を見ていた。
私たちの唇と唇の距離は、たった頭一つ分しかない。
「……ごめん、ちょっと痛くない?」
「ふふ、ちょっと痛い。ごつごつする」
「俺一人で仮眠用だったから。マットまではいいかな、と思って」
「全然いいよ、横になるとすごい楽」
目をつむってみる。すごい一日だった。
朝から仕事で謝罪をし続けて、ふと思いついてバスに飛び乗った。好きな音楽を浴びて、今は知らない男の子の隣で寝転んでいる。
朝からすべてのことが夢のようにも思える。こんな大胆な行動を取ったこと、人生の中で初めてだ。
そんな自分にも、浮足立っているのかもしれない。
目を開けるとシバはまだ私のことを見ていた。
私が思いを巡らせていた間、じっと見つめられていたことに気づき耳が熱くなる。
今日ずっと饒舌だったシバは黙ってしまって、テントの中は私の心臓の音以外静かになった。
グレープフルーツの香りがした。いや、違う。これはシバの香水の香りだ。
彼の長い指が私の耳に触れた。耳にかかった髪の毛を遊ぶ指がくすぐったくて、身をよじって少し笑う。
だけど、シバはもう笑ってくれなくて、ただ私を見つめていた。
もう、降参。
私は恥ずかしさから目を瞑り、同時にシバの動く気配がして、上唇に柔らかなものが触れる。
身じろぎひとつできずに、これからのことを想像してぎゅっと目を瞑る。
少しだけ唇が離れて目を開けば、先ほどよりずっと近くにシバの顔があった。少し顔を動かせば唇が触れてしまうくらいに。
「シバ……」
思わず顔を手で隠せば、手首をがっちり掴まれてシバはこじあけるように覆っている手を退けた。
無防備になった顔を見て、シバは柔らかく微笑むから私はもう一度目をつむる。
――ブーッ、ブーッ。
無音のテントにその音はよく響いた。シバからバイブ音が鳴る。シバは私の頬に手をかけた動きを止めて、戸惑ったような表情を浮かべる。
ブーッ、ブーッ。
「電話じゃない?」
「ん」
シバは別にいいよ、と私に唇を近づける。私は彼の肩をやんわりと押した。
「電話、出ないの?」
バツの悪そうな顔をしてほんの少し悩んでから、シバはハーフパンツからスマホを出した。
「もしもし?…あーうん、そう。…だから、フェスに来てるって。……そうそう。…じゃあまた連絡するから」
手短に会話を終えてシバは電話を切った。きまり悪そうにその場に座ったまま。
「じゃ、寝ようか」
私は出来るだけ軽く聞こえるように言った。
「もう一時になっちゃったよ、仮眠しとかないと」
笑顔を見せれば、シバも「だな」と笑って、私たちはまた隣に寝転んだ。
お互い、何も言わないまま、背中合わせで。
……シバの彼女だとしたら、ものすごくナイスタイミングだよ。私は痛んだ胸を小さく笑い飛ばした。
*
「アンコ、起きてる?そろそろ行くか」
二時半頃にシバは言った。私は結局眠れないまま、ただ背中の気配をじっと感じていた。シバもすっきりした顔はしていないから、眠れなかったのかもしれない。
「うん」
私たちはテントを出ると、自然と手を繋いだ。
明日になれば、もう他人になるから。
今夜だけはもうすこしだけ、この熱に浮かれていたかった。
一晩だけの夢をもう少しだけ見させて欲しい。
だって、私はシバの本当の名前も職業も、住所も知らないし。
今日が終わればもう会うこともない。
……あの電話は誰から?
それを聞くことはできないまま、私たちはステージに向かった。
「俺、edgegirlの次のバンドも好きなんだ」
「私聞いたことないな」
「絶対アンコも好きだと思うよ」
「そんな気がする」
あと二組で、土曜日のタイムテーブルはすべて終わる。朝が来る。
今日ずっとそうしていたように、私たちは人々の後ろについた。
真夜中、三時。だいぶ人は少なくなってきて、ステージにあがる彼らのことを好きなひとしかいない空間。
手を繋いでいれば、なんだか二人きりのように思える。
周りから見れば、私たちは恋人なのだろう。
あと十曲。
朝が来るまでは、シバの一夜限りの恋人でいたい。
あと九曲。
ステージの上で、メンバー紹介が始まった。そういえばここのベースもシバって言うなあ。
シバを見ると同じことを思ったのか、にやりと笑ってこちらを向いた。
あと八曲。
「真夜中でも声出していくぞー」とボーカルが煽って、私たちは大声をあげた。私はいつもよりはしゃいでみせた。
あと七曲。
「まあ言うても真夜中なんで、空気読んでバラードでしっとり行きますか」
観客が笑ったのを確認してから、静かな曲が始まった。
それは恋の終わりの歌で、私は始まってもない恋と重ね合わせて胸が少し苦しくなった。
あと六曲。edgegirlが挨拶をした。
「ここにきてくれたみなさんにビッグニュースです!俺らの東名阪ツアーが決定しましたー!」
ワァと観客が盛り上がり、私もシバと顔を見合わせて喜んだ。
シバもツアーに行くんだろうか。シバがどこに住んでいるかしらないから、彼がどこのライブに参戦するのかわからない。
あと五曲。
シバおすすめのバンドが出てきた。
イントロから、もう好きだ、と思った。
シバを見上げれば、得意げな表情で私を見ている。口が何か動いてそれは爆音で聞き取れなかったけど「だから言っただろ?」と言われた気がした。
あと四曲。
「まだまだ寝かさないぜー!」とボーカルが叫んで「朝がそろそろやってくるぞー!」とベースも叫んだ。
言われて時計を見てみれば朝の四時半だった。
シバが私の耳元に口を寄せて「そろそろ朝日が見られるよ」と言う。
夏の夜明けが近づいてきている。重く激しいビートと静かな朝の気配と、私のセンチメンタルな気分は、何もかもがチグハグでマッチしなかった。だから、こんなに苦しい。
あと三曲。
スローテンポな曲にハスキーな歌声が乗る。
それは眠りにつく前の歌にも、朝の始まりの歌にも聞こえる。悔しいくらいに私の心情と重なって、涙がにじみ出そうだ。
終わりたくない、この夜を。
都会の喧騒から、疲れから逃げ出したこの夜を終わらせたくない。うつむいた私の手をシバがぎゅっと握った。
あと二曲。
確実に朝は近づいてきて、暗闇が和らいでいく。今どこかで太陽が顔を出しているのだろう。それがわかるほどに空が黒から青に変化していく。
シバとアンコの夜が終わってしまう。
次の曲が終われば、私たちは他人に戻る。
この夜はただの通過駅のように人生を通り過ぎていく。私たちはお互いの人生に影響を与えない。
キスの続きをすれば良かった。小さな後悔が胸に宿る。
歌詞はあまり聞き取れなかった。幸せな恋の歌なのか、切ない失恋ソングなのか、わからない。
でも、胸が痛くて仕方ない。
シバともう会うことはない。だけど十年経っても、この曲を聞けばこの夜に戻ってきてしまう気がした。
初めて冒険した夜、好きな音に囲まれた一夜だけの苦い恋は、強烈に音と刻み込まれていく。
最後の曲が始まった。
「朝がきたらみんなでおはよーするぞ!最後はあかるくしめよう!」
ボーカルの煽りに観客の熱が上がっていく。
最後に畳み掛けてくる花火のように、蝉の最期の鳴き声のように、夏の終わりを感じるような、焦りと切なさがこみ上げてくる。
……終わりたくない、この夜を。
シバが私の耳に唇を寄せた。音が全身を包んでいてシバの声はまったく聞こえなかった。シバを見上げれば言葉のかわりに小さくキスを落とされた。
「俺の名前、柴本慧。シバは嘘じゃないよ」
次は聞き取れた。驚いて顔を上げると、シバは笑顔を返した。
「オールナイトロックフェス最高ー!!!」
ギターをかき鳴らしてボーカルが叫んだ。観客も最後の声を振り絞って叫ぶ。
シバは私を見ていた。一晩だけの恋。十曲だけの恋人。
もう私たちは他人に戻る、はずだけど。
「これで終わりと思ったかー!」
ボーカルが叫べば他の楽器の音もさらに大きくなり、観客の熱量もワンステージ上がった。
「誰にも求められてなくても、勝手にアンコールッ!」
始まるアップテンポのイントロ。ドラムと連動する心臓がうるさい。皆がキラキラした瞳で楽しそうにステージを見ている。
シバは、柴本慧は、私だけを見ていた。
「私の名前はアンコ――杏子って書いて、キョウコって読むの」
アンコールの曲で掻き消されないように告げた声はちゃんとシバに届いたみたいだ。
「あー、杏子。さっきの電話、親だから」
「え?」
「もしかして勘違いされてるかなと思ったけど、俺、彼女いません。ただ、ああいう場面で親の声聞くと、ほら……なんか気まずいだろ」
照れくさそうにシバは笑うと、ステージを向いた。
「ダブルアンコールはないから、ここで全て出し尽くしていけよー! 朝がきたぞー!!!」
アンコール曲はサビに入り、この夜最後のきらめきを皆が受け取る。
それを返すように皆笑顔で叫んだ。
ライブの終わりはいつだって切ない。空は明るくなっていて、夜の終わりを知った。私は離れていた手をもう一度繋いだ。シバがそれに気づき、こちらを見る。
まだ君のことをなんにも知らない。
この曲が終わったら、次はどんな話をしようか。
「「あ」」
同時に私たちは声を発した。彼も私と同じ店でビールとソーセージを購入したらしく、以前からの友人のように私のもとにやってきた。
「休憩中?」
「まだ夜ご飯食べてなくて」
「俺も。一緒に食べようよ」
たとえばこれが路上だったら、駅前だったら。名前も知らない初対面の男性に食事に誘われても返事もせずに立ち去るだろう。
だけど頷いてしまうのは、彼も同じ音楽が好きで、一夜を共にする仲間で…何より熱に浮かされたフェス会場とアルコールのせいに違いなかった。
彼は迷いなく出店エリアを抜けて、飲食スペースとなっている芝生に腰をおろした。私も肩を並べて座る。周りには私たち以外にも同じように食事をとる人々がいた。
「かんぱーい」
カップに入ったビールを私に向けて、彼は白い歯を見せて笑った。無防備な笑顔につられて乾杯をする。
Tシャツにハーフパンツ。さっぱりとした黒髪をラフに分けて、たぶん私と同じくらいの年齢だと思う。清潔感のある見た目と人懐っこい笑顔が警戒心を和らげていく。
普段はサラリーマンをしているのだろうか。人当たりの良さから私と同じ営業マンかも。だけどこの空間では、彼のスーツの姿はまったく想像がつかない。
私も今日はスーツを脱ぎ捨ててここにいる。
*
今日は最悪だった。土曜日休みだとわかっているクライアントからの容赦のない着信で目が覚めた。
納品されたものに誤りがある。今すぐ正しいものを納品してほしい。月曜日まで待てない、そちらと違って土日も営業日なのだから……目覚めて五秒で耳元でそう怒鳴られた。
誰のミスだろうとか、私のせいじゃないとか、そんなことは先方にとってはどうでもいいことで、担当者としてすぐに向かわなくてはいけないことだけがわかった。
夏の休日にスーツを着込み、何人に、何回謝ったかわからない。夕方にようやくすべてのことを終えて、人の波にのまれて駅に続く地下街を歩いていた。
今日はビールを買って帰ろう。眠るまで飲んで、明日は一日泥のように眠ろう。最寄り駅のコンビニでスイーツも追加しよう。そうやって自分を慰めていた私は、柱の広告と目があった。
『ALL NIGHT ROCK FES』
カラフルな色の広告が目に焼き付いた。
「今日じゃん」
導かれるようにスマホで検索すれば、それは今日と明日の催しだった。今日の昼からスタートしたらしく月曜日の朝まで続く音楽フェス。
詳細ページを見れば、ちょうど今いるターミナル駅から特設バスが出ているらしい。二時間ほど揺られれば会場に到着する。
バスの出発時刻まであと二十分。その時間発のバスチケットもフェスの本日分ナイトチケットも発売中。
決断するまで数秒。地下街のファストファッションでTシャツとズボン、スニーカーまで購入して試着室でそれらに着替えた。そして駅構内のコインロッカーに着ていたスーツを押し込んだ。
――文字通り、スーツを脱ぎ捨てた。
疲れ切って今すぐベッドに飛び込みたいと思っていたくらいだったのに、どうして自分でもそんな行動をしたのかわからない。だって私、MBTI診断の『とても疲れる一週間を過ごした後は、にぎやかな社交の場を楽しみたい』には『同意しない』を選択するタイプだし。
夏の虫のように光に焦がれて、バスに乗り込んでいた。
*
学生の頃に何度か楽しんだフェス、社会人になってからは初めて訪れる。日々に忙殺されて、こういったエネルギーを使う場所からは足が遠のいていた。
到着したのは、冬場はスキー場として賑わう山中。午後九時。バスから降りたそこはまるで大人の遊園地のようだ。人々の熱気が感じられ、皆自然と笑顔を浮かべている。響く音が聞こえてくれば身体はリズムに合わせて揺られ、足も軽やかに奥に進む。
タイムテーブルを確認すると、私の好きなバンドの出演時間が近づいていた。すべてを後回しにして、私は急いで目当てのステージに向かった。
広大な会場にはいくつかのステージがあり、私のお目当ては一番小さなステージ。元カレの影響が抜けずにいまだにマイナーバンドブームが続いている。
日中から続いているフェスに観客は少し疲れも伴っているのか、この小さなステージに人はあまりいなかった。一曲目が始まってしまっているようで、私は人の群れの一番後ろで音を楽しむ。
「前の方、行けますよ」
隣の長身の男性が言った。乗り遅れた私に親切に言ってくれているのだろう。
「ありがとうございます。でも私、後ろでひっそり楽しむ方が好きなんです」
「ああ、俺も」
短い返事をして、彼はステージを向いた。ここでは誰もがステージの上に意識を向ける。
バスの中で爆睡した仕事帰りの私でも、前々からこの日を楽しみにしていた人でも関係ない。すべての人を爆音が飲み込んでいた。
*
彼らの出番が終わり、昼から何も食べていないことを今さら思いだした。フェスは朝まで続く。私の一番好きなバンドの出演時間は夜中の三時。休憩したり、何か食べないと持ちそうになかった。それにタオルやライブTシャツも買いたい。
そうして食べ物を購入した私は、先ほど隣で楽しんでいた彼と再会した。
同じマイナーバンドの演奏を聞いていた。それだけの共通点で、私たちは今共に食事をとっている。
「はは、それでビジネスバッグ持ってきたんだ?」
衝動的にここにやってきた経緯を話すと彼は噴き出した。
上下の服やスニーカーに気を取られていて、リュックなどを購入するのを忘れてしまっていたのだ。
フェス会場に似合わない選手権があれば優勝できそうなビジネスバッグを見て、彼は声を出して笑った。
「気づいたときには、もうバスの時間が迫ってたから。ここに到着したらもうシュクリール始まるとこだったし」
「シュクリール好きなんだ?」
「うん、大好き。だから出番が終わってから預けようと思って。でも朝からなんにも食べてなかったから、食欲を優先させた」
「それはお疲れ様でした」
半分まで減ったビールを傾けられて、もう一度乾杯した。
「グッズにサコッシュもあったでしょ。今からこのカバンは預けて、それ買う」
「まあビジネスバッグ持ってるのは、君だけだろうな」
彼はビールを飲みながら笑って「名前、なんていうの?」と訊ねた。
「あなたは?」
「んー、シバ」
シバはシュクリールのボーカルの名前で、彼が本名を名乗っていないことは明らかだ。
「で、君は?」
「アンコ」
キーボードの名前をあげれば、彼は唇の端をあげた。
「一人?」
「そりゃ休日出勤の後の突発的行動ですから」
「それもそうか」
くつくつとシバは笑った。私の暴走ともいえる行動を笑ってくれる人がいて嬉しい。本当はここにくるバスの中で、やらかしたなと冷や汗をかいていたし、いつか誰かとの笑い話にしようと思っていたのがすぐに叶ったわけだ。笑い飛ばしてもらえると肩の力が抜ける。
「俺も一人。次見たいステージある?」
「私はけっこうマイナーなのが好きで。さっきのステージにずっと貼り付いてるかも」
「俺も。だから一人で来たんだよな。誰かときたら他のステージに付き合いで行かないといけないし」
「わかる」
大学生時代に音楽好きの友人と何度かフェスにきたけど、見たいステージがことごとく違った。別々のステージを見ればいいのだけど、同行者は思い出を一緒につくることをこだわった。仕方なく交代でみたけれど、同行者は私の好きなバンドを「しらないやー」で終わらせたっけ。
カップと紙皿がお互い空になると、シバは自分と私の分を重ねて「じゃ行くか」と立ち上がった。そして私が立ち上がるのを待っている。
「どこに行くの」
「物販。サコッシュ買いに行くんだろ」
当然というようにシバは言った。今夜、一緒に過ごす。さらりとそう言われているみたいで、わずかに体温が上がる。
私はお尻を払って、ビジネスバッグを持って立ちあがった。
「Tシャツも買いたいんだよね、あとタオルも」
肯定の返事にシバは笑顔を見せた。
本名も職業も、どこに住んでるかもわからない男。
だけどここではそんなことはどうでもいいのかも。どのアーティストが好きだとか、どの曲が好きだとか、そんなことを教えあえば十分だ。
*
私がTシャツを買えば、シバは色違いのTシャツを買った。
「昼からいるから、そろそろ着替えたいとこだったんだよな」
そう言ってお揃いのTシャツを着る。そわそわと胸が浮くのは、嫌な気持ちではなかった。
「次狙ってるのは?」
「十一時、さっきのステージ行きたい」
「いいね」
仲の良い友人のように気軽な会話を伴いながら、私たちは最初にいたステージに戻った。人のまとまりから一歩下がったところで曲を楽しむ。かすかにシバが揺れて、そのテンポがなぜか心地よかった。
「あ、この曲一番好き」
イントロが始まってシバを見上げれば「ん?」と柔らかな瞳で見下ろされる。
「なんて言った?」
「あーうん、たいしたことじゃないよ」
「え? なに? 聞こえない」
ステージの音でかき消された私の声を拾おうと、シバがかがんで私と同じ視線になる。
至近距離で目線がぶつかって、柑橘の香水と汗がまじった匂いがした。彼の鎖骨が目に入って言葉が詰まる。
「な・ん・に・も!」
口パクで言うと、よくわかっていなさそうままシバが笑った。
Aメロが始まって曲のテンポが上がる。ドラムの音に心拍数が連動してかき乱される。
もう一度見あげれば、視線に気づいた彼がもう一度私を見下ろす。
大好きな曲がサビに到達して、このときめきが曲のせいなのか、別のものなのかただ戸惑っていた。
*
二組の出番を終えて「ちょっと休憩するか」とシバが言った。私は当たり前のように彼の隣を歩き、シバはカクテルを販売している出店に並んだ。
それぞれ購入を済ませれば、近くの丸太のベンチに座る。
「それなに?」
「ピーチフィズ」
「いいね、一口ちょうだい」
自然な流れでシバは私のドリンクに口をつけた。
「これも飲む?」
「なにそれ」
「飲んだらわかる」
オレンジ色をしたカップが手渡される。一口飲んでみると、グレープフルーツの香りが抜けた。そのあとから甘みが追いかけてくる。
「何かわかった?」
「グレープフルーツしかわかんない」
「正解。それはシーブリーズ。ウォッカにグレープフルーツジュースとクランベリージュースが入ってる」
「へえ。だから甘いんだ」
カップを返せば、シバは目を細めて受け取る。私たちの肩が少しだけ触れた。
「飲みやすいでしょ。アンコはけっこうお酒飲むの?」
「んー付き合い程度かな。飲めるけど一人で深酒とかはない」
「俺もそんなもん。てか、人と飲むのが好き」
「そうなんだ」
シバは『とても疲れる一週間を過ごした後は、にぎやかな社交の場を楽しみたい』の質問に『同意する』で答えるタイプなのかもしれない。
シバって女の子、慣れてるよね。軽口でそう言いかけて、結局言葉にはならなかった。
「次はどうする予定?」
黙った私にシバは訊ねた。
「うーん、そうだなあ。もう少し休憩しようかな」
私はあくびをこぼした。既に日付が変わっている。朝、クレームで起こされてから今までずっと動いていた。バスで二時間寝ても、身体の疲れは取れていない。音楽に揺られているときは忘れていたけど、こうしてのんびりとお酒を飲んでいると疲れを思い出す。
「アンコの一番の目当てのバンドは?」
「私は三時からのedgegirl。一番好きなバンドなんだ」
「え!」
シバは目を丸くして自分のスマホを取り出すと、画面を私に見せた。待ち受けにうつるのはedgegirlのロゴ。
「シバも好きなの?」
「めっちゃ好き」
自慢のおもちゃを教えてくれる幼児みたいなキラキラの瞳が返ってきた。さらなる共通点を見つけてほほえみ合う。
「アンコ、あのステージにはりつくって言ってたから、好み似てるだろうなとは思ったけどね」
「じゃあこの人たちも好き?」
「好き好き」
私たちはしばらくどのアーティストが好きかを話した。好きな曲がいくつも被っていて嬉しかったし、知らないアーティストでも彼の好みなら興味がわいた。これだけ好みが被っているのならきっとこの名前を知らないアーティストを私は好きになれるのだろう。
音楽って聞くだけが楽しいわけじゃないんだな。好きと好きをお互いに共有するだけで、心がふわふわと浮いてくる。
「今日出演していないバンドで、アンコにオススメの曲がある。絶対好きだと思うんだよなあ」
シバが音楽アプリで曲の検索をかける。画面に現れた曲名は、
「え、これ、私も最近めっちゃ聞いてるよ」
「まじで」
シバがスマホから顔をあげた。隣でスマホを覗き込んでいた私とぐっと距離が近づいた。
あと数センチずつ二人が近づけば、キスができてしまうほどに。
私はその距離にわかりやすく固まった。シバも同じように私の瞳をみつめていた。彼の瞳の中に私がいる。
それはたった数秒のこと。
だけど胸が重点音を響かせていく。
「三時まで仮眠しない?」
ぽつりとシバが提案した。
「え?」
「edgegirlの出番まで。俺、今日テント付きプランにしてるから。」
「……うん。私も朝から働いてたから、実はだいぶ眠い」
シバの瞳に熱が灯る。きっと私も同じくらい熱に濡れて、揺れている。
シバは空になったカップを重ね合わせて左手に持つと、右手で私の手を取った。ぐっと引き寄せられて立ち上がる。
そのまま手をつないでテントに向かっていく。
もう戻れないよ。頭の中で私が言った。
十分ほど歩いてテントエリアに向かった。テントまで向かう間、シバは日中のステージについて話してくれた。それも私の好きなバンドばかりで話は尽きなかった。
「日中も好きなバンドばっかで全然休憩できなかったんだよな。ちょっと寝とかないと三時まで絶対持たないわ」
「一番のお目当てを見る前に力尽きたら最悪だもんねー」
……だから、二人で仮眠をとるだけ。
今日この後のメインイベントに向けて、ただ寝床を共にして、少し眠るだけ。
二人で言い訳をし合うように、テントエリアに進む。
テントは想像していたよりも小さかった。
小さなランタンと、適当に引かれたタオルケット。シンプルなそこに入って二人で寝転がる。
私たちが寝転ぶ分のスペースしかないテントのなかで、シバの黒い瞳が私を見ていた。
私たちの唇と唇の距離は、たった頭一つ分しかない。
「……ごめん、ちょっと痛くない?」
「ふふ、ちょっと痛い。ごつごつする」
「俺一人で仮眠用だったから。マットまではいいかな、と思って」
「全然いいよ、横になるとすごい楽」
目をつむってみる。すごい一日だった。
朝から仕事で謝罪をし続けて、ふと思いついてバスに飛び乗った。好きな音楽を浴びて、今は知らない男の子の隣で寝転んでいる。
朝からすべてのことが夢のようにも思える。こんな大胆な行動を取ったこと、人生の中で初めてだ。
そんな自分にも、浮足立っているのかもしれない。
目を開けるとシバはまだ私のことを見ていた。
私が思いを巡らせていた間、じっと見つめられていたことに気づき耳が熱くなる。
今日ずっと饒舌だったシバは黙ってしまって、テントの中は私の心臓の音以外静かになった。
グレープフルーツの香りがした。いや、違う。これはシバの香水の香りだ。
彼の長い指が私の耳に触れた。耳にかかった髪の毛を遊ぶ指がくすぐったくて、身をよじって少し笑う。
だけど、シバはもう笑ってくれなくて、ただ私を見つめていた。
もう、降参。
私は恥ずかしさから目を瞑り、同時にシバの動く気配がして、上唇に柔らかなものが触れる。
身じろぎひとつできずに、これからのことを想像してぎゅっと目を瞑る。
少しだけ唇が離れて目を開けば、先ほどよりずっと近くにシバの顔があった。少し顔を動かせば唇が触れてしまうくらいに。
「シバ……」
思わず顔を手で隠せば、手首をがっちり掴まれてシバはこじあけるように覆っている手を退けた。
無防備になった顔を見て、シバは柔らかく微笑むから私はもう一度目をつむる。
――ブーッ、ブーッ。
無音のテントにその音はよく響いた。シバからバイブ音が鳴る。シバは私の頬に手をかけた動きを止めて、戸惑ったような表情を浮かべる。
ブーッ、ブーッ。
「電話じゃない?」
「ん」
シバは別にいいよ、と私に唇を近づける。私は彼の肩をやんわりと押した。
「電話、出ないの?」
バツの悪そうな顔をしてほんの少し悩んでから、シバはハーフパンツからスマホを出した。
「もしもし?…あーうん、そう。…だから、フェスに来てるって。……そうそう。…じゃあまた連絡するから」
手短に会話を終えてシバは電話を切った。きまり悪そうにその場に座ったまま。
「じゃ、寝ようか」
私は出来るだけ軽く聞こえるように言った。
「もう一時になっちゃったよ、仮眠しとかないと」
笑顔を見せれば、シバも「だな」と笑って、私たちはまた隣に寝転んだ。
お互い、何も言わないまま、背中合わせで。
……シバの彼女だとしたら、ものすごくナイスタイミングだよ。私は痛んだ胸を小さく笑い飛ばした。
*
「アンコ、起きてる?そろそろ行くか」
二時半頃にシバは言った。私は結局眠れないまま、ただ背中の気配をじっと感じていた。シバもすっきりした顔はしていないから、眠れなかったのかもしれない。
「うん」
私たちはテントを出ると、自然と手を繋いだ。
明日になれば、もう他人になるから。
今夜だけはもうすこしだけ、この熱に浮かれていたかった。
一晩だけの夢をもう少しだけ見させて欲しい。
だって、私はシバの本当の名前も職業も、住所も知らないし。
今日が終わればもう会うこともない。
……あの電話は誰から?
それを聞くことはできないまま、私たちはステージに向かった。
「俺、edgegirlの次のバンドも好きなんだ」
「私聞いたことないな」
「絶対アンコも好きだと思うよ」
「そんな気がする」
あと二組で、土曜日のタイムテーブルはすべて終わる。朝が来る。
今日ずっとそうしていたように、私たちは人々の後ろについた。
真夜中、三時。だいぶ人は少なくなってきて、ステージにあがる彼らのことを好きなひとしかいない空間。
手を繋いでいれば、なんだか二人きりのように思える。
周りから見れば、私たちは恋人なのだろう。
あと十曲。
朝が来るまでは、シバの一夜限りの恋人でいたい。
あと九曲。
ステージの上で、メンバー紹介が始まった。そういえばここのベースもシバって言うなあ。
シバを見ると同じことを思ったのか、にやりと笑ってこちらを向いた。
あと八曲。
「真夜中でも声出していくぞー」とボーカルが煽って、私たちは大声をあげた。私はいつもよりはしゃいでみせた。
あと七曲。
「まあ言うても真夜中なんで、空気読んでバラードでしっとり行きますか」
観客が笑ったのを確認してから、静かな曲が始まった。
それは恋の終わりの歌で、私は始まってもない恋と重ね合わせて胸が少し苦しくなった。
あと六曲。edgegirlが挨拶をした。
「ここにきてくれたみなさんにビッグニュースです!俺らの東名阪ツアーが決定しましたー!」
ワァと観客が盛り上がり、私もシバと顔を見合わせて喜んだ。
シバもツアーに行くんだろうか。シバがどこに住んでいるかしらないから、彼がどこのライブに参戦するのかわからない。
あと五曲。
シバおすすめのバンドが出てきた。
イントロから、もう好きだ、と思った。
シバを見上げれば、得意げな表情で私を見ている。口が何か動いてそれは爆音で聞き取れなかったけど「だから言っただろ?」と言われた気がした。
あと四曲。
「まだまだ寝かさないぜー!」とボーカルが叫んで「朝がそろそろやってくるぞー!」とベースも叫んだ。
言われて時計を見てみれば朝の四時半だった。
シバが私の耳元に口を寄せて「そろそろ朝日が見られるよ」と言う。
夏の夜明けが近づいてきている。重く激しいビートと静かな朝の気配と、私のセンチメンタルな気分は、何もかもがチグハグでマッチしなかった。だから、こんなに苦しい。
あと三曲。
スローテンポな曲にハスキーな歌声が乗る。
それは眠りにつく前の歌にも、朝の始まりの歌にも聞こえる。悔しいくらいに私の心情と重なって、涙がにじみ出そうだ。
終わりたくない、この夜を。
都会の喧騒から、疲れから逃げ出したこの夜を終わらせたくない。うつむいた私の手をシバがぎゅっと握った。
あと二曲。
確実に朝は近づいてきて、暗闇が和らいでいく。今どこかで太陽が顔を出しているのだろう。それがわかるほどに空が黒から青に変化していく。
シバとアンコの夜が終わってしまう。
次の曲が終われば、私たちは他人に戻る。
この夜はただの通過駅のように人生を通り過ぎていく。私たちはお互いの人生に影響を与えない。
キスの続きをすれば良かった。小さな後悔が胸に宿る。
歌詞はあまり聞き取れなかった。幸せな恋の歌なのか、切ない失恋ソングなのか、わからない。
でも、胸が痛くて仕方ない。
シバともう会うことはない。だけど十年経っても、この曲を聞けばこの夜に戻ってきてしまう気がした。
初めて冒険した夜、好きな音に囲まれた一夜だけの苦い恋は、強烈に音と刻み込まれていく。
最後の曲が始まった。
「朝がきたらみんなでおはよーするぞ!最後はあかるくしめよう!」
ボーカルの煽りに観客の熱が上がっていく。
最後に畳み掛けてくる花火のように、蝉の最期の鳴き声のように、夏の終わりを感じるような、焦りと切なさがこみ上げてくる。
……終わりたくない、この夜を。
シバが私の耳に唇を寄せた。音が全身を包んでいてシバの声はまったく聞こえなかった。シバを見上げれば言葉のかわりに小さくキスを落とされた。
「俺の名前、柴本慧。シバは嘘じゃないよ」
次は聞き取れた。驚いて顔を上げると、シバは笑顔を返した。
「オールナイトロックフェス最高ー!!!」
ギターをかき鳴らしてボーカルが叫んだ。観客も最後の声を振り絞って叫ぶ。
シバは私を見ていた。一晩だけの恋。十曲だけの恋人。
もう私たちは他人に戻る、はずだけど。
「これで終わりと思ったかー!」
ボーカルが叫べば他の楽器の音もさらに大きくなり、観客の熱量もワンステージ上がった。
「誰にも求められてなくても、勝手にアンコールッ!」
始まるアップテンポのイントロ。ドラムと連動する心臓がうるさい。皆がキラキラした瞳で楽しそうにステージを見ている。
シバは、柴本慧は、私だけを見ていた。
「私の名前はアンコ――杏子って書いて、キョウコって読むの」
アンコールの曲で掻き消されないように告げた声はちゃんとシバに届いたみたいだ。
「あー、杏子。さっきの電話、親だから」
「え?」
「もしかして勘違いされてるかなと思ったけど、俺、彼女いません。ただ、ああいう場面で親の声聞くと、ほら……なんか気まずいだろ」
照れくさそうにシバは笑うと、ステージを向いた。
「ダブルアンコールはないから、ここで全て出し尽くしていけよー! 朝がきたぞー!!!」
アンコール曲はサビに入り、この夜最後のきらめきを皆が受け取る。
それを返すように皆笑顔で叫んだ。
ライブの終わりはいつだって切ない。空は明るくなっていて、夜の終わりを知った。私は離れていた手をもう一度繋いだ。シバがそれに気づき、こちらを見る。
まだ君のことをなんにも知らない。
この曲が終わったら、次はどんな話をしようか。