鼻歌は機嫌がいい時に歌うものだ、なんて。
 いったいどこの誰が決めたのだろう。
 
「ンーンンー……♪」
 
 お世辞にも上手いとは言えない私の鼻歌はか細くて、波と波の擦れ合う音どころか、素足で砂を踏む音にすら簡単にかき消されてしまう。
 
 修学旅行の夜。
 私は宿から抜け出してすぐ近くの、誰もいない海に一人でいた。
 知らない土地の、知らない海。
 都会で見るより大きく見える月が、真っ黒な海に反射してギラギラと光っている。
 暑くもなく寒くもない生ぬるい夜風が吹いて、ザザンと重たい波音が耳をついた。
 
 普通、修学旅行の夜っていう一番楽しいタイミングにわざわざ先生の目を盗んで抜け出して、それも一人で真っ暗な外へ出向こうなんて思わない。
 今頃普通のみんなは枕を近づけて恋の話に花を咲かせたり、こそこそお菓子を分け合ってみちゃったりして、いわゆる修学旅行の夜を満喫しているのだろう。
 普通でいたくなかった普通の私は〝普通に特別な夜〟を敢えて避け、こうして22時を回ろうとしてる砂浜を裸足でザクザクと歩いてみているわけだけれど。
 正直、もう怖い。
 綺麗だけどなんか怖い。
 どうして誰もいない夜の海って怖いんだろう。
 夕日が沈む地平線は腹立たしいほどにロマンチックで、優しかったのに。
 不意にこの修学旅行のために調子に乗って買ったルームウェアから知らない匂いがして、自分が自分じゃなくなっちゃったみたいな感覚がした。

「ンンーンーンー……♪」

 怖さに負けそうになるのをごまかすため、さっきより少し大きめの声で口ずさむ。
 どこかで聞いたコマーシャルのメロディーだけど、なんのコマーシャルだったかは思い出せない。
 そのときちょうど大きめの波が私の足元に届きそうなところまで来て、すぐ近くの砂を攫っていった。

 ……もう戻ろうかな。

「なんでスキー場のCMソング?」
「!」

 なんの前振りもなく聞こえた声に、体が脊髄反射でビクンと跳ねた。
 恐る恐る振り返ると、少し離れたところにひょろりと細長い男の子が立っていた。
 その人は驚きすぎてかたまる私に気をよくしたのか、大きな口をニッと横に広げて笑った。
 喉の奥がキュゥ、としまる。

「てかひとりで何してんの?危ないよ」

 葉住(はずみ)洸太(こうた)
 同級生、幼なじみ、お人よしなクラスの人気者。

「……散歩」
「おじいちゃんなの?」
「せめておばあちゃんにして」

 洸太はハハッと無邪気に笑って私の元に歩いてくる。
 その笑顔は幼稚園の頃からずっと変わらない。

「そっちこそ、何してんの」
「んー、俺も散歩かな」
「……へぇ」

 そんな適当な相槌を打っておきながら本当は、洸太がただの散歩じゃないことをなんとなく察している。

望月(もちづき)さんは?」

 私が聞くと、洸太は困ったように笑った。
 ――修学旅行の夜と言えば。
 我が校のカップルたちはこぞって会う約束をして、こっそり甘い夜を過ごすとか、過ごさないとか。
 当然先月から付き合い出した洸太と望月さんもその〝我が校のカップル〟に該当するわけだけど、洸太はなぜかここにいる。

「あー、いいのいいの。あの人『22時に寝ないと次の日眠くなってしまうので』とか姿勢正して言うやばい人だから」

 でた。〝やばい人〟。
 無意識にため息が漏れた。

「誘ったの?」

 私の質問に、洸太はポケットからスマホを取り出してトーク画面を眺めると、私より大きなため息を返した。

「一応ね。ま、この分だと来ないね。悲しー」
「……ふうん」

 いつも誰かが近くにいる洸太を、今なら独り占めできるんだって気付いた私は、ゆるもうとする頬を必死に戻そうと試みる。でもうまくいかないので、苦肉の策で顔を俯かせて、つま先で砂に弧を描いて誤魔化した。
 こういうとき、自分の性格の悪さを痛感する。
 人の不幸を喜ぶなんて来世でバチが当たりそう。
 そういえばさっきまで感じてたはずの恐怖心はどこへ行ったのだろう。

「……望月さん、洸太が他の女子といても気にしないの?」
「気にしないね、あの子は」

 どこか愛のある呼び方、『あの子』。
 俺の所有物だとでも言いたげな感じが少し鼻につく。

「それに相手が美羽だって分かれば安心するんじゃないかな」

 ザザン。
 泡立つ波が、私たちの足元の砂を攫っていった。

「…………あは、確かに」

 ついさっき緩んだはずの頬が、急速に引き攣ってかたくなる。
 洸太は私の気持ちを弄ぶ天才だ。
 私は洸太の幼馴染みで友達。だから安心。
 信頼してくれてる証拠だ。
 喜ぶべきところなのかもしれないけれど、私が洸太に思う気持ちと、洸太が私に思う気持ちが完全に別物だって突きつけられてるようで、気持ちがどんどん沈んでいく。

 全然笑えてない私のひどい顔なんか全く見えてない洸太は、サンダルを脱いで膝丈ズボンをたくし上げ、海の浅瀬に入り波を蹴って遊び始める。

「ちょっとくらい気にしてくれてもいいのになー。ま、いいんだよ。そういうちょっとズレてるやばいとこが好きで付き合ってるから」
 
 パチャパチャとはねる水飛沫が宝石みたいに光るのを、私はただぼんやりと見守る。

 気分はさらに落ちて泣きそうになるほどなのに、月明かりを浴びるその広い背中に見惚れてしまって、鎖骨のあたりがくすぐったくなる。

 洸太はちょっと変な望月さんが大好きで、同じクラスになった春から何度も告白してはフラれていた。
 それを半年ほど繰り返して、ようやく望月さんが折れて付き合い出したのが先月のこと。
 正直に言うと私は、望月さんにしょっちゅう話しかけに行く洸太を見て、クラスで浮いてる望月さんに親切心で構ってあげてるんだろうと思っていた。
 だから洸太に『望月さんのこと好きになった』って言われた時は本当に驚いたし、望月さんのことを好きになるはずないだろうってたかを括ってた自分の陰険さに気がついて、色んな意味で消えてしまいたくなった。
 望月さんと付き合い出してからというもの、自由な望月さんに振り回される洸太はよく私に愚痴みたいな惚気を吐くようになった。
 洸太の話を聞いてると、望月さんがいかに変で、いかに魅力的な人に見えてるかがいやでもわかった。
 事実、望月さんには唯一無二の独特な空気があって、洸太がそういう部分に憧れる理由もよくわかった。
 だから私も、独特になりたいと思った。
 やばいやつって、笑われたかった。
 一度でいいから、洸太にキラキラした目で見られてみたかった。
 ……だけど。
 臆病で、大人しくて、教室ではいつも誰かに合わせて作り笑顔のしすぎで疲れ果てるような〝その辺によくいる女子〟が望月さんみたいな逞しい人になれるわけがなかった。
 洸太は、きっとこれからも私を見ることはない。
 たとえ望月さんと別れたって、私を見ることはないのだ。

「それで?美羽はどうしたんだよ」

 洸太がそう言ったのは、私が洸太に倣って海に入り、寄せては返す透明な波に踊らされる足元の砂を眺めていたときのことだった。
 
「どうしたって、なにが?」
「美羽が鼻歌歌うときって、しんどいときだろ」
 
 ドキリとして、思わず顔を上げた。

「え?」

 洸太は指折り数え始める。

「幼稚園でリュウキにいじめられた日、小学校んとき大縄大会で足引っ掛けた日と、中学最後の引退試合で負けた日も。ひとりでどっかにいなくなったと思ったら、みんなから見えないとこに行ってちっちゃい声で鼻歌歌って。泣きたい気持ちをこっそり紛らわしてるんだろ」

 そんなに見られていたことを、いま初めて知った。
 信じられなくて口をあんぐりと開ける私を、洸太が笑う。

「で?今日はなにがあったの」

 その笑顔に、胸がギュッと締め付けられた。
 私は心の中で、その質問の答えを言う。


 ――夕方、あなたが彼女と抱き合ってるところを見ちゃったんだよ


「ん?」

 ねぇ洸太。
 私が辛いのはね。
 ちょっとでも気を抜いたら泣いてしまいそうに苦しいのはね。
 
「……っ」
 
 そうやって色んなことに気づいてくれる洸太が、こうして辛い時に寄り添ってくれようとする洸太が、私の心をどうしようもなく揺さぶってくるからだよ。

 そう口にしなくても切ない気持ちが私の瞳に出てしまっていたのだろう、洸太が心配そうな顔をする。

「どうした?誰かにいじめられた?」
「……別に、なにもない」

 私はずっと逃げ続けてきた。
 洸太と気まずくなりたくなくて、自分の気持ちから逃げ続けてきた。
 多分、これからもずっと逃げ続ける。

「嘘だ」
「ほんとだよ」
「ほんとのほんとに?」

 洸太は私の真意を探ろうと、体を近づけて顔を覗き込ませてきた。
 洸太の髪から、シャンプーの爽やかな香りが潮の香りに混ざってして、心拍数が上がった。

 ……彼氏みたいな距離感だ。

 そう思った瞬間、幼い頃に洸太に恋してからずっと心の内に溜め込んできた様々なイガイガが、濁流のように溢れ出した。

「いい加減にして!!」

 感情に任せて叫んだ声が、静かな海に轟いた。
 バカみたいに目を丸くする洸太を睨みつける。
 嫌いだ。大っ嫌いだ。
 無自覚なところも優しいところもよく気がつくところも。
 彼女の話をする時だけ見せる顔も、時折見せる大人っぽい仕草も、いつだったか私をいじめっ子から守ってくれたその背中も。

「美羽……?」

 そうやって私の名前を呼び捨てするその声さえ、毎日のように私の心を揺さぶっては痛めつけてきた。
 それに全く気づかないところも、嫌い。すっごく嫌い。
 でも、なにより、好きな人の幸せを素直に祝福できない自分が、

「もう、嫌だ……!」

 世界で一番、大嫌いだ。

 私は洸太の手にあったスマホを奪い取って、横から洸太を力いっぱい蹴った。

「!?」

 見事にバランスを崩した洸太は、海にダイブした。
 洸太の体と水面のぶつかった音が夜空に鳴り響き、笑っちゃうぐらい大袈裟な水飛沫が上がった。
 その瞬間、少しだけ胸がすくような感覚がした。
 
 洸太は水の中でゴボッと一瞬苦しそうにしてすぐ、細かい水飛沫を振り撒いて海から起き上がり、私を振り返って困惑の目で見る。

「え……?なんで……?」

 何が起こったのか理解できないって顔。無理もない。だって普段の私は、ふざけて人を海に落とすようなタイプじゃない。
 
 質問を無視した私は目を丸くする洸太にスマホの画面を向けて、顔認証のロックを解除する。そして勝手にトーク履歴から望月さんを探し出して通話ボタンを押した。
 スマホを耳に当てて呼び出し音を聞きながら、びしょ濡れで呆然と私を見上げる洸太をただ見下ろす。
 こんなふうに堂々と見つめ合えるのは後にも先にも今この瞬間だけかもしれないと思うと、皮肉なものだ。
 濡れた姿もやっぱりかっこよく見えて、また腹が立った。
 しばらくして呼び出し音が途切れて《はい》と声がする。

「もしもし、望月さんですか?」
《え……だれ?》

 彼氏だと思って出たら女の声がしたのだ。当然の反応だ。

「おたくの彼氏さんが海でびしょ濡れになりました」
《……はい?》
「服を着たまま海に入ったので、今びしょ濡れになりました」
《え?なぜですか?》
「私が突き落としたからです」
《……》
 
 何を思ったか、望月さんからの返事はない。

「とにかく、今すぐ海の方に来てください。このままじゃ風邪ひいちゃうんで、タオルお願いします。じゃ」
 
 ぶつり、返事を待たずに通話を切って、洸太にスマホを返した。
 
「……美羽、なんで――」
 
 と、洸太が話し出した瞬間、私は息を止めて、自ら海の中に入った。
 無重力の世界に身を預けながら、ゴワゴワと洸太の困惑が聞こえた。
 怖かったはずの海の中は思ったより暖かくて、優しくて、とても静かで。なんだか安心した。
 しばらくして水の中から体を起こして、思い切り酸素を取り込む。
 
「……っ、はー……」
 
 不思議だ。海水で髪や服がピッタリと纏わりついて気持ち悪いはずなのに。
 
「スッキリしたー……」
 
 これまで自分の内にあった汚いものが、少しだけ海に流れ出したようだった。
 唖然とする洸太をよそに、私はズッシリと重くなったルームウェアをなんとか持ち上げて立ち上がり、踵を返した。
 バシャバシャと水をかき分けながら砂浜に戻る。
 はやく行かないと望月さんが来てしまう。
 必死に足を運んでいると、洸太がクハッと笑いだした。
 
「アッハハ!なんだこれ!お前、やばいよ!」
 
 その瞬間、時間が止まったように動けなくなった。
 胸が震えて、喉の奥が苦しくなった。
 ずっとずっと、欲しかった言葉だった。
 それなのにこんなにも虚しいのは、その言葉をもらっても何にもならないんだってわからされてしまったから。

「優しいな、美羽。ありがとー」

 わかってるようでわかってない洸太に、なにか言葉を返そうにも出来なくて唇を噛んだ。
 頬にまとわりついた海水に、目からこぼれた私の感情が混ざる。
 私はそのまま振り返らずに歩き出した。
 砂浜に足を取られながらも、一歩一歩、前に進んでいく。

「気をつけて戻れよー!風邪引くなよー!」

 洸太は、このあとやってくる望月さんとの甘い夜に私とのことをどんなふうに話すだろう。
 ありのまま全部を話さずとも、嘘がつけない洸太のことだから、面白いことがあったって顔を隠せないかもしれない。
 それを見る望月さんは少なからず胸に黒いモヤを作るだろう。
 ……ざまあみろ。


 もう洸太の姿なんか見えないほど遠くまで来ると、息を吐きながら空を見上げた。
 数多の星が煌めく藍色の空が見えた。
 ため息が出るほど綺麗なそれを見上げながら、口ずさむ。

「ンーンンー……」

 聞く人が聞けば、歌じゃなくてうめき声。
 カスカスだし鼻声だし、音程は取れないしひどいものだけど、さっき歌ったときより、ずっといい歌に聞こえた。

 この鼻歌は、誰にもあげない。
 これからもずっと、私だけのもの。