誰か教えて。
愛するって…なに?
୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧
会社から外に出た途端、熱を帯びた風が首にまとわりつき、不快指数が跳ね上がる。ネクタイを締めているから尚更だ。今時、クールビズを導入していない会社なんかあるのか。と心の中で毒づきながら俺は家路を急ぐ。
本当はネクタイなんてすぐに外してカバンに突っ込みたいのだが、彼女である天詩はそれを嫌う。
何でも男がネクタイを緩める仕草に魅力を感じるらしい。手フェチというやつかもしれない。
完璧主義で家事も仕事も手を抜くということはない。 しかも、容姿端麗。漆黒の長い髪、少しだけ茶色の大きな瞳。すっと通った鼻筋に、どこか笑っているような唇。まさに、てんしと言う名前に相応しい容姿だ。
彼女と付き合ってもうすぐ3年。最近は結婚の話題も出るようになった。
近いうちにプロポーズしよう。ふとそう考えた。こういう事はきっと、なんでもない日にさりげなく口にした方が上手くいくはずだ。
彼女と俺は、金曜の夜から交代制で互いの家を行き来している。金曜日は、天詩が作ってくれる料理を食べながら、軽く飲み、土曜日は買い物、そして日曜日は家でまったりというのが、お決まりのコースだ。
自宅付近に差し掛かった時、何となく視線を感じ上を見上げると部屋には明かりがつき、ベランダでは天詩が俺を探していた。最寄り駅に着いた時にラインをしておいたから、そろそろ帰ってくる頃だとふんだんだろう。
俺を見付けると満面の笑みで手を振ってきた。「一週間会えなくて寂しかった」そう言っているような彼女の仕草に思わず、頬が緩む。
普通のカップルの普通の日常。
しかし、当たり前という事がどれだけ尊いものであるか、その時の俺は分かっていなかった。
しばらく付き合ったら、プロポーズして結婚。子供が産まれたら、かって恋人だった二人はパパとママに名前が変わる。
俺は、天詩にパパと呼ばれるのには少し抵抗があった。だが自然とそうなっていくんだろう。ほとんどの家庭がそうであるように。
根拠はない。ただそう信じていた。
その夜、俺は天詩に尋ねてみた。子どもは好きかと。すると彼女は一瞬目を見開いたように見えたがすぐに俺にこう返してきた。
「あれ凌ちゃん、小さい子苦手じゃなかった?」
「まぁそうなんだけど…天詩の子どもならきっと可愛いんじゃないかと思ってさ」
「そうかな。自分ではよく分からないけど」
「また、話そう。少しづつでいいから将来のことイメージしていきたいんだ」
まぁ。はじめはこんな感じだろう。何事も準備が大切だ。
୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧
翌朝、目を覚ますと天詩は消えていた。時計を確認
するとまだ6時前。天詩を抱き枕にもうひと眠りしようと思っていた俺は拍子抜けした。
近くのコンビニにでも行ったのだろうか。しかし彼女の荷物が全部、歯ブラシ一本に至るまで無くなっている事に気づき、俺はようやく事の重大さを理解した。
近くに買い出しではない。天詩は自らの意思でここを出たのだ。
大きく深呼吸した後、何が起こったのかを考えてみる。
急用なら、起こすはずだし、メモの一枚くらい置いていくのではないだろうか。スマホにも天詩からの連絡はない。
昨夜もいつも通りの夜だった。一週間ぶりの愛を天詩に注ぎ、彼女もそれを受け入れた。
だだ、何回身体を交わしても彼女はきつく目を閉じ痛みに耐えている様子に見えるのは俺の考えすぎなのだろうか。
すると不安な気持ちを見透かしたかのように天詩が囁く。
「こんなに気持ちいいの凌ちゃんだけだよ」
そして俺たちは眠りに落ちた。何回となく繰り返されてきたありふれた夜の一つ。
朝になれば、食事の用意ができたと、天詩に叩き起され、先週と同じような土曜日が始まる予定だった。
何か彼女を怒らせるような事をしてしまったのだろうか?
寝言で天詩以外の女性の名前を呼んだ。
あるいは、俺の寝相のせいで天詩を蹴り飛ばしてしまった。とか。
答えはどちらもノーだ。
寝相はいたって普通だし、俺が天詩以外の名前を呼ぶなんて考えられない。
それほど、俺の心の中は彼女でいっぱいだし、少しでも動いたら、とめどなく愛の言葉を捧げてしまうくらいなのだから。
だったら一体なぜ?
悪い予感で頭がいっぱいになる前に俺は自らを奮い立たせた。
考えてばかりいても解決はしない。天詩を探しに行こう。
まずは動くこと。行動あるのみ。
彼女が行きそうな場所には心当たりがあった。俺の家から徒歩で約10分。
大学キャンパスの跡地を整備して出来た公園だ。
ランニングコースやアスレチックなどがあり、休日ともなれば多くの人がやってくる。そのため、路駐の車が後を絶たず、最近ではバスの通行の妨げにもなっているらしい。
そしてこの公園の池に、天詩が気にかけている野鳥がいる。種類はカモ。しかしそれは普通とは異なる姿をしていた。
エンジェルウイング。
別名、プロペラウイング、滑った翼とも呼ばれるが、奇形と言った方が通りが早いだろう。
翼が常に開いた状態であるため、飛ぶ事はほぼ不可能。
原因は人間が与えるパンと言われているが詳しい事はよく知らない。天詩はこの鳥を異常なほど心配していた。
外敵に襲われたりしていないだろうか?
他の鳥にいじめられてはいないだろうか?など挙げればキリがない。
だからもし、彼女がいるとすれば、この池の周辺だ。
俺の推理力は蝶ネクタイの少年のさらに上をいく。
歩くのも、もどかしいので俺は自転車に飛び乗り、公園までただひたすら漕ぎ続けた。
案の定天詩は大きなバッグと共に池の前に佇み、その視線の先には例のカモがいた。
「天詩、探したぞ」
そう声をかけるとなぜか彼女は、怯えたような顔を俺に向けた。いつものハツラツとした様子は全くない。
走って逃げようとする彼女の手を掴み、俺は聞く。
「どうしちゃったんだよ天詩。俺何か気に障るようなことしたかな?」
俺の声を遮りるようにして、天詩が口を開く。
その声は不自然なほど震えていた。
「凌ちゃん。私たちもう別れよう」
驚くと頭の中が真っ白になる。よく聞く言葉だ。しかし実際に体感したのは今回が初めてだった。必死に言葉を絞り出そうとするが、
「理由…理由を教えてほしい」
としか出てこない。まるで壊れた玩具みたいだと自分でも思う。
重苦しい雰囲気の中、天詩が口を開く。
「凌ちゃん昨日、子供がほしい。そう言ったよね」
「言ったけど…」
俺が何気なく発した一言に彼女がこれほど悩んでいたとは、正直意外だった。
「あっ!でも…すぐじゃなくても全然いいんだ。しばらくは、新婚生活満喫したいし。でも時期が来たら」
俺の言葉に天詩は顔を歪めた。泣き出しそうなのを必死で堪えている。
そして俺は、彼女から衝撃的な真実を告げられた。
「凌ちゃん。落ち着いて聞いてね」
息を呑む音がする。
「私、子宮がないの」
「生まれつき子宮というものが備わってない。だから子どもは産めない」
「ここまで言ったんだから分かったでしょ。私もあの鳥と同じ欠陥品。しかも名前も同じなんて、運命感じない?」
「だから凌ちゃんの期待には応えられない」
「付き合ってるだけ時間のムダ」
「バカみたいだよね本当に。凌ちゃんの子どもは苦手って言葉鵜呑みにして」
「教えて。愛するってどういうこと?」
「それとも…あなたは何にもない私でも愛せるっていうの?」
「お願い。答えて…」
「ねぇ!ねぇ!ねぇ…」
「どうして?どうして黙ってるの?」
「天詩、とりあえず落ち着いて」
「そうだ!あそこのベンチまで移動しよう。荷物は俺が持つから」
さらに天詩が続ける。
「何で驚かないの?何で罵らないの?病気の事隠して付き合ったんだよ。私」
彼女と荷物を抱きかかえ移動し、並んでベンチに座る。天詩は浅い呼吸しか出来ていないようだ。大丈夫だからと声をかけ背中を擦る。
彼女が落ち着くまで約20分。俺にとっては永遠かと思うほどの永い永い時間だった。
「凌ちゃんロスタンスキー症候群て聞いたことある?」
「ごめん。初めて聞いた」
「そうだよね。私こそごめんなさい」
「何で天詩が謝るんだよ。知らなかった俺が悪いんだから」
「できたらでいいんだけど、説明してくれないか?彼女の体調を知っておくのも彼氏の務め」
そう伝えると天詩は、思いっきり自分の頬を抓り痛みに顔を歪めた。
白い頬に赤い爪痕が生々しい。
「ちょっ…何してるんだよ」
「夢じゃないか確認したの」
「天詩って最っ低だな。そう言われると思ってたから」
「お前、俺の事なんだと思って…」
「凌ちゃん嫌いになってないの?私の事?」
探るような視線を向けてくる。
「これから別れるつもりなら、変な夢見させないで」
「別れないから!絶対、ぜーったい別れない!だいたい、全部調べきってから付き合うとか、俺にはないから」
気がつくと叫んでいた。
「ちょっと声大きすぎ」
周囲の視線が痛い。でもそんなものは今の俺にはどうでもよかった。
「相変わらずだね。凌ちゃん」
「直感力の男だからな」
そう言うと天詩が少しだけ笑ったように見えた。
やがて彼女は話し始めた。自分の気持ちと対話しているかのようにゆっくりと。
「第二次性徴期ってあるでしょ。男の子は声変わりしだり、女の子だったら初潮を迎えるとか」
「私、来なかったの。最初はみんなより遅いんだ。くらいにしか考えなかった。発育とかって個人差だし」
「だけどね、高校に入学しても全然来なくて、さすがにおかしいと思って病院に行ったの」
「天詩、あの…お医者さんて…」
「もしかして凌ちゃんの気になるのそこ?安心して女医さんだから」
「さすがに女子高生が男性の先生の前では、ないでしょ」
「思い出すなぁ。あの時の先生の驚いた様子」
「だってただ一言、子宮がない。そう言って固まっちゃうんだもん」
「こっちは、内診台で恥ずかしい格好しているのに、なかなか降ろしてもらえなくて」
「あの時は大変だった〜」
そう笑う天詩の顔はどこか引きつっていた。
「天詩、辛いなら無理に話さなくても…」
「大丈夫。だって私が凌ちゃんに聞いてほしいから」
深く息を吸い込むと再び彼女は話し始めた。
ロスタンスキー症候群は、4,500人から5,000人に1人の割合で発祥する事。
染色体は正常だから見た目には分からないこと。
大学病院までセカンド・オピニオンに行ったこと。
「そこの先生が詳しく説明してくれて、何となく自分の身体の事を受け入れる気持ちになったの」
「だって、これでもか。ってくらい説明してくれるんだもん」
「時分の腸を利用して膣を作れるから、セックスはできるとか、卵巣はあるから将来的には代理出産も視野に入れていけたらいいね。とか、とにかくありとあらゆる可能性を提示して不安を和らげようとしてくれたの」
「有り難かった本当に。他人の事なのにものすごく親身になってくれて」
「大学1年の夏休みに、手術を受けて膣を作ったの。普通の人よりは短いみたいだけど」
「でも少し安心はした。これで好きな人が出来ても断らなくてすむって」
「やっぱり触れたいし感じたいじゃない?」
そう言うと天詩は視線を自らの手元に落とした。
俺は彼女を抱き寄せると、ずっとずっと伝えたかった思いを言葉にした。
「天詩、俺と結婚してください」
彼女が驚いたように顔を上げる。
「本当に?本当に私でいいの?」
「あのね。同情とかいらないから」
精一杯強がってはいるが、心なしか目が潤んでいるようだ。
「完璧な人間なんていないだろ。天詩は天詩のままでいいんじゃないかな」
「人ってさ、お金があるから愛されるとか、美人だから愛されるとかじゃなくない?」
「例え何もなくても、その無い部分さえも愛おしくてたまらない。それが本当の愛だと思うんだ」
「だからこれからも一緒に年を重ねていこう」
「ありがとう凌ちゃん。本当に…」
後は涙で言葉にならない。
「そろそろ帰ろうか天詩。なんかほっとしたら、お腹すいてきた。朝ごはん食べてないし」
そう言うと天詩は素直に立ち上がり、腕を俺に絡ませた。しかし、何か思い出したように手を離し池に向かって駆け出していった。
そして例のカモに向かって語りかける。エンジェルウイング。天使の翼を持った鳥。
「私、幸せになる!だから、あなたも少しでも長く…生き抜こうね!必ずね!」
天詩の言葉が届いたのか、あるいは本当に奇跡が起きたのか、天使の翼は、俺たちの目の前で少しだけ羽ばたいた。
愛するって…なに?
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会社から外に出た途端、熱を帯びた風が首にまとわりつき、不快指数が跳ね上がる。ネクタイを締めているから尚更だ。今時、クールビズを導入していない会社なんかあるのか。と心の中で毒づきながら俺は家路を急ぐ。
本当はネクタイなんてすぐに外してカバンに突っ込みたいのだが、彼女である天詩はそれを嫌う。
何でも男がネクタイを緩める仕草に魅力を感じるらしい。手フェチというやつかもしれない。
完璧主義で家事も仕事も手を抜くということはない。 しかも、容姿端麗。漆黒の長い髪、少しだけ茶色の大きな瞳。すっと通った鼻筋に、どこか笑っているような唇。まさに、てんしと言う名前に相応しい容姿だ。
彼女と付き合ってもうすぐ3年。最近は結婚の話題も出るようになった。
近いうちにプロポーズしよう。ふとそう考えた。こういう事はきっと、なんでもない日にさりげなく口にした方が上手くいくはずだ。
彼女と俺は、金曜の夜から交代制で互いの家を行き来している。金曜日は、天詩が作ってくれる料理を食べながら、軽く飲み、土曜日は買い物、そして日曜日は家でまったりというのが、お決まりのコースだ。
自宅付近に差し掛かった時、何となく視線を感じ上を見上げると部屋には明かりがつき、ベランダでは天詩が俺を探していた。最寄り駅に着いた時にラインをしておいたから、そろそろ帰ってくる頃だとふんだんだろう。
俺を見付けると満面の笑みで手を振ってきた。「一週間会えなくて寂しかった」そう言っているような彼女の仕草に思わず、頬が緩む。
普通のカップルの普通の日常。
しかし、当たり前という事がどれだけ尊いものであるか、その時の俺は分かっていなかった。
しばらく付き合ったら、プロポーズして結婚。子供が産まれたら、かって恋人だった二人はパパとママに名前が変わる。
俺は、天詩にパパと呼ばれるのには少し抵抗があった。だが自然とそうなっていくんだろう。ほとんどの家庭がそうであるように。
根拠はない。ただそう信じていた。
その夜、俺は天詩に尋ねてみた。子どもは好きかと。すると彼女は一瞬目を見開いたように見えたがすぐに俺にこう返してきた。
「あれ凌ちゃん、小さい子苦手じゃなかった?」
「まぁそうなんだけど…天詩の子どもならきっと可愛いんじゃないかと思ってさ」
「そうかな。自分ではよく分からないけど」
「また、話そう。少しづつでいいから将来のことイメージしていきたいんだ」
まぁ。はじめはこんな感じだろう。何事も準備が大切だ。
୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧
翌朝、目を覚ますと天詩は消えていた。時計を確認
するとまだ6時前。天詩を抱き枕にもうひと眠りしようと思っていた俺は拍子抜けした。
近くのコンビニにでも行ったのだろうか。しかし彼女の荷物が全部、歯ブラシ一本に至るまで無くなっている事に気づき、俺はようやく事の重大さを理解した。
近くに買い出しではない。天詩は自らの意思でここを出たのだ。
大きく深呼吸した後、何が起こったのかを考えてみる。
急用なら、起こすはずだし、メモの一枚くらい置いていくのではないだろうか。スマホにも天詩からの連絡はない。
昨夜もいつも通りの夜だった。一週間ぶりの愛を天詩に注ぎ、彼女もそれを受け入れた。
だだ、何回身体を交わしても彼女はきつく目を閉じ痛みに耐えている様子に見えるのは俺の考えすぎなのだろうか。
すると不安な気持ちを見透かしたかのように天詩が囁く。
「こんなに気持ちいいの凌ちゃんだけだよ」
そして俺たちは眠りに落ちた。何回となく繰り返されてきたありふれた夜の一つ。
朝になれば、食事の用意ができたと、天詩に叩き起され、先週と同じような土曜日が始まる予定だった。
何か彼女を怒らせるような事をしてしまったのだろうか?
寝言で天詩以外の女性の名前を呼んだ。
あるいは、俺の寝相のせいで天詩を蹴り飛ばしてしまった。とか。
答えはどちらもノーだ。
寝相はいたって普通だし、俺が天詩以外の名前を呼ぶなんて考えられない。
それほど、俺の心の中は彼女でいっぱいだし、少しでも動いたら、とめどなく愛の言葉を捧げてしまうくらいなのだから。
だったら一体なぜ?
悪い予感で頭がいっぱいになる前に俺は自らを奮い立たせた。
考えてばかりいても解決はしない。天詩を探しに行こう。
まずは動くこと。行動あるのみ。
彼女が行きそうな場所には心当たりがあった。俺の家から徒歩で約10分。
大学キャンパスの跡地を整備して出来た公園だ。
ランニングコースやアスレチックなどがあり、休日ともなれば多くの人がやってくる。そのため、路駐の車が後を絶たず、最近ではバスの通行の妨げにもなっているらしい。
そしてこの公園の池に、天詩が気にかけている野鳥がいる。種類はカモ。しかしそれは普通とは異なる姿をしていた。
エンジェルウイング。
別名、プロペラウイング、滑った翼とも呼ばれるが、奇形と言った方が通りが早いだろう。
翼が常に開いた状態であるため、飛ぶ事はほぼ不可能。
原因は人間が与えるパンと言われているが詳しい事はよく知らない。天詩はこの鳥を異常なほど心配していた。
外敵に襲われたりしていないだろうか?
他の鳥にいじめられてはいないだろうか?など挙げればキリがない。
だからもし、彼女がいるとすれば、この池の周辺だ。
俺の推理力は蝶ネクタイの少年のさらに上をいく。
歩くのも、もどかしいので俺は自転車に飛び乗り、公園までただひたすら漕ぎ続けた。
案の定天詩は大きなバッグと共に池の前に佇み、その視線の先には例のカモがいた。
「天詩、探したぞ」
そう声をかけるとなぜか彼女は、怯えたような顔を俺に向けた。いつものハツラツとした様子は全くない。
走って逃げようとする彼女の手を掴み、俺は聞く。
「どうしちゃったんだよ天詩。俺何か気に障るようなことしたかな?」
俺の声を遮りるようにして、天詩が口を開く。
その声は不自然なほど震えていた。
「凌ちゃん。私たちもう別れよう」
驚くと頭の中が真っ白になる。よく聞く言葉だ。しかし実際に体感したのは今回が初めてだった。必死に言葉を絞り出そうとするが、
「理由…理由を教えてほしい」
としか出てこない。まるで壊れた玩具みたいだと自分でも思う。
重苦しい雰囲気の中、天詩が口を開く。
「凌ちゃん昨日、子供がほしい。そう言ったよね」
「言ったけど…」
俺が何気なく発した一言に彼女がこれほど悩んでいたとは、正直意外だった。
「あっ!でも…すぐじゃなくても全然いいんだ。しばらくは、新婚生活満喫したいし。でも時期が来たら」
俺の言葉に天詩は顔を歪めた。泣き出しそうなのを必死で堪えている。
そして俺は、彼女から衝撃的な真実を告げられた。
「凌ちゃん。落ち着いて聞いてね」
息を呑む音がする。
「私、子宮がないの」
「生まれつき子宮というものが備わってない。だから子どもは産めない」
「ここまで言ったんだから分かったでしょ。私もあの鳥と同じ欠陥品。しかも名前も同じなんて、運命感じない?」
「だから凌ちゃんの期待には応えられない」
「付き合ってるだけ時間のムダ」
「バカみたいだよね本当に。凌ちゃんの子どもは苦手って言葉鵜呑みにして」
「教えて。愛するってどういうこと?」
「それとも…あなたは何にもない私でも愛せるっていうの?」
「お願い。答えて…」
「ねぇ!ねぇ!ねぇ…」
「どうして?どうして黙ってるの?」
「天詩、とりあえず落ち着いて」
「そうだ!あそこのベンチまで移動しよう。荷物は俺が持つから」
さらに天詩が続ける。
「何で驚かないの?何で罵らないの?病気の事隠して付き合ったんだよ。私」
彼女と荷物を抱きかかえ移動し、並んでベンチに座る。天詩は浅い呼吸しか出来ていないようだ。大丈夫だからと声をかけ背中を擦る。
彼女が落ち着くまで約20分。俺にとっては永遠かと思うほどの永い永い時間だった。
「凌ちゃんロスタンスキー症候群て聞いたことある?」
「ごめん。初めて聞いた」
「そうだよね。私こそごめんなさい」
「何で天詩が謝るんだよ。知らなかった俺が悪いんだから」
「できたらでいいんだけど、説明してくれないか?彼女の体調を知っておくのも彼氏の務め」
そう伝えると天詩は、思いっきり自分の頬を抓り痛みに顔を歪めた。
白い頬に赤い爪痕が生々しい。
「ちょっ…何してるんだよ」
「夢じゃないか確認したの」
「天詩って最っ低だな。そう言われると思ってたから」
「お前、俺の事なんだと思って…」
「凌ちゃん嫌いになってないの?私の事?」
探るような視線を向けてくる。
「これから別れるつもりなら、変な夢見させないで」
「別れないから!絶対、ぜーったい別れない!だいたい、全部調べきってから付き合うとか、俺にはないから」
気がつくと叫んでいた。
「ちょっと声大きすぎ」
周囲の視線が痛い。でもそんなものは今の俺にはどうでもよかった。
「相変わらずだね。凌ちゃん」
「直感力の男だからな」
そう言うと天詩が少しだけ笑ったように見えた。
やがて彼女は話し始めた。自分の気持ちと対話しているかのようにゆっくりと。
「第二次性徴期ってあるでしょ。男の子は声変わりしだり、女の子だったら初潮を迎えるとか」
「私、来なかったの。最初はみんなより遅いんだ。くらいにしか考えなかった。発育とかって個人差だし」
「だけどね、高校に入学しても全然来なくて、さすがにおかしいと思って病院に行ったの」
「天詩、あの…お医者さんて…」
「もしかして凌ちゃんの気になるのそこ?安心して女医さんだから」
「さすがに女子高生が男性の先生の前では、ないでしょ」
「思い出すなぁ。あの時の先生の驚いた様子」
「だってただ一言、子宮がない。そう言って固まっちゃうんだもん」
「こっちは、内診台で恥ずかしい格好しているのに、なかなか降ろしてもらえなくて」
「あの時は大変だった〜」
そう笑う天詩の顔はどこか引きつっていた。
「天詩、辛いなら無理に話さなくても…」
「大丈夫。だって私が凌ちゃんに聞いてほしいから」
深く息を吸い込むと再び彼女は話し始めた。
ロスタンスキー症候群は、4,500人から5,000人に1人の割合で発祥する事。
染色体は正常だから見た目には分からないこと。
大学病院までセカンド・オピニオンに行ったこと。
「そこの先生が詳しく説明してくれて、何となく自分の身体の事を受け入れる気持ちになったの」
「だって、これでもか。ってくらい説明してくれるんだもん」
「時分の腸を利用して膣を作れるから、セックスはできるとか、卵巣はあるから将来的には代理出産も視野に入れていけたらいいね。とか、とにかくありとあらゆる可能性を提示して不安を和らげようとしてくれたの」
「有り難かった本当に。他人の事なのにものすごく親身になってくれて」
「大学1年の夏休みに、手術を受けて膣を作ったの。普通の人よりは短いみたいだけど」
「でも少し安心はした。これで好きな人が出来ても断らなくてすむって」
「やっぱり触れたいし感じたいじゃない?」
そう言うと天詩は視線を自らの手元に落とした。
俺は彼女を抱き寄せると、ずっとずっと伝えたかった思いを言葉にした。
「天詩、俺と結婚してください」
彼女が驚いたように顔を上げる。
「本当に?本当に私でいいの?」
「あのね。同情とかいらないから」
精一杯強がってはいるが、心なしか目が潤んでいるようだ。
「完璧な人間なんていないだろ。天詩は天詩のままでいいんじゃないかな」
「人ってさ、お金があるから愛されるとか、美人だから愛されるとかじゃなくない?」
「例え何もなくても、その無い部分さえも愛おしくてたまらない。それが本当の愛だと思うんだ」
「だからこれからも一緒に年を重ねていこう」
「ありがとう凌ちゃん。本当に…」
後は涙で言葉にならない。
「そろそろ帰ろうか天詩。なんかほっとしたら、お腹すいてきた。朝ごはん食べてないし」
そう言うと天詩は素直に立ち上がり、腕を俺に絡ませた。しかし、何か思い出したように手を離し池に向かって駆け出していった。
そして例のカモに向かって語りかける。エンジェルウイング。天使の翼を持った鳥。
「私、幸せになる!だから、あなたも少しでも長く…生き抜こうね!必ずね!」
天詩の言葉が届いたのか、あるいは本当に奇跡が起きたのか、天使の翼は、俺たちの目の前で少しだけ羽ばたいた。