*  *  *

 すらっとした手足で、ランウェイを歩いていく。
 ゆるっとしたシャツが風で靡いて、スタイルの良さを際立たせていた。

 真ん中で立ち止まったかと思えば、舌をぺろっと出してシャツをはためかせて戻っていく。
 目が、点になった。
 ざわざわとした体育館の空気の中で、私の時間だけが止まっている。

 ひゅっと喉の奥に生ぬるい空気が流れ込んで、やっと呼吸ができた。
 でも、体が動かない。
 シャツの人に、目が釘づけになっていた。

 サークル紹介後、体育館では交流会が開かれる。
 お菓子やジュースが並べられて、立食形式で気になるサークルの先輩に声を掛けれるというものだった。
 自分の中のどこにそんな勇気があるのか、知らなかった。

 食べ物も、飲み物も、全て無視して、まっすぐあの人に向かっていく。
 楽しそうにサークルメンバーと談笑してる輪に近づけば、パッとコチラを見て微笑んでくれた。

 目が合っただけで、胸がぎゅうっと締め付けられる。
 私は、この人を好きになってしまう。
 そんな予感が頭の中で流れる。

 私の肩に当たり前のように腕を掛けて、顔がほぼゼロ距離。
 薄い色素の瞳も、頬にくすぐる柔らかい髪の毛も、爽やかな香りも、全て忘れないように必死に脳内に焼き付けた。

「新入生の子? 服飾興味ある?」
「サークル、入りたくて! あの、一目惚れしました!」

 自分でも何を言ってるのか、わからないまま口にする。
 先輩は私の隣で「そっかそっか」と嬉しそうに笑って、スマホをポケットから取り出す。

「じゃあ、サークルのグループ招待するから、教えて」
「は、はい!」

 慌ててズボンのポケットからスマホを取り出そうとして、うまく掴めない。
 ポケットの中でスマホは逃げるように滑っていく。

 なんとか、取り出せば「慌てすぎ」と笑われた。
 その声すら、低く甘く耳の奥に響く。
 この人に近づけるならなんでもいい。

 急に、自分のダサい格好が恥ずかしくなった。
 メイクはしていないし、髪の毛は黒髪のまま切りっぱなしで肩まで伸びてきてる。
 服だって、お母さんが買ってきてくれたズボンとTシャツ。

 それでも先輩は連絡先を交換してから、「一緒に楽しもうね」と言ってくれた。

「あ、また新入生〜!」

 他の先輩が捕まえてきたらしい新入生の子は、私と違っておしゃれな服で、髪の毛もピンク色に染め上げられていた。
 とても、服飾サークルにぴったりな子だと思った。

 先輩の腕が私から離れて「おー! 入る? じゃあ連絡先教えてー」と、その子に近づいていく。
 錯覚してしまいそうになったけど、これが先輩のふつうなんだ。
 勘違いしてはいけないと自分を律しながら、肩に残る先輩の重みと暖かさを手のひらで確かめた。

 *  *  *

 先輩が後輩に恋をしてるらしい、というのを風の噂で聞いた。
 聞かなくても、SNSの投稿が明らかに浮き足立っている。

 『映画一緒に観にいきたいな』とか、『このアーティスト好きかな』とか。
 先輩のタイムラインは、誰かに向けられた言葉ばかりが、埋め尽くされる。

 今まではファッションのことや、ヘアスタイルのこと。
 それに対する、自分の感情ばかりだったのに。

 先輩のいない部室で、SNSの投稿を一通り読み直してから、ため息を吐く。

「幸せが逃げるぞって、古いか。俺がすっとこー!」

 音もなく入ってきた先輩が、私の横に立ってわざとらしく深呼吸をする。
 私の吐いた息が先輩の体に巡っているという事実だけで、目眩がしそうになった。

「どしたんだよ、なんかイヤなことあった?」
「ため息じゃないです! 残念でした」

 おどけてみせれば、先輩は「そっかそっか」と呟いて私の頭をわしゃわしゃと撫でる。
 ハーフアップにしていた髪の毛が、乱れた。
 そっと直せば、ますます乱れるように手を動かされてバレッタがズレる。

「もー、嫌がらせですか!」
「違う違う」
「じゃあ、なんですか、もー」

 嫌じゃないのに可愛くない言葉ばかり、出てきてしまう。
 先輩が少し言いづらそうに、息を飲み込んだのがわかった。
 真剣な表情で私をまじまじと見つめるから、息が止まる。
 まさか、と、期待のもしかしてが胸の中で暴れ回る。

「ミウ、あのさ」
「はい」
「ミウの学年で人気のカフェとかない? 教えて欲しいんだけど」

 それは、好きな人を連れていくためですか。
 告白でも、する気ですか。

 もしかしてはあっさりと打ち砕かれて、胸の痛みに悶え苦しむ。
 先輩には見つからないように胸をぎゅっと押さえた。
 先輩を見上げていた顔を慌てて、スマホに向けて考え込んでいるフリをする。

 やっぱり、その好きな人は、私じゃないんですね。

 涙が目の奥から溢れ出しそうになって、うまく言葉が出ない。

「カフェ、よくわかんないですね」

 急にトーンダウンした私の声に、先輩が顔を覗こうとしゃがんだ。
 もう涙は、目の奥深くから湧き上がっている。

「やっぱ何かあったんじゃん。聞くよ、言って」
「先輩には、関係のないことなので。大丈夫です」
「ミウの大丈夫は、大丈夫じゃないって俺知ってるんだけど」

 あまりにも優しく甘い声でそう呟くから、私は涙を堪えられなくなってしまった。
 私が授業や友人関係で悩んだ時だって、いつも先輩が聞いてくれた。

 先輩の悩みだって、聞いてきた。
 就活がうまく行かない、と嘆いて凹んでいるのを慰めたのも私。
 先輩が、講義行きたくないと駄々を捏ねてるのを宥めたのも私。
 ずっと、隣に居たのは私だったはずなのに。
 
 私が悩んでることを見抜いて、しつこいくらいに聞かせろって言ってきて、一緒に悩んでくれる。
 そんな先輩が、私は、大好きでしょうがなかった。

「失恋でもした?」

 不意な的を得た問いかけに、うまく唇が動かない。
 たった今、失恋が確定したばかりだ。

「恋だけが全てじゃないよ。ミウは、服作るの楽しいんだろ? それに没頭してみたらいいよ」

 一緒に放課後話すたびに、先輩の優しさに私は惚れてしまっていた。
 だから、聞きたくなかった。
 先輩の口から「恋だけが全てじゃない」なんて言葉。

 先輩だけが、私の世界の全てなのに。

 *  *  *

 店員さんが、深いため息を吐いたかと思えば、箱を差し出す。
 ジュエリーケースに使われてるような黒いベルベッド生地のケース。

 服飾サークルに入ったおかげで、今までは知らなかったことが増えた。
 それに、ファッションやメイクに興味を持てた。
 昔の自分より、今の自分の方が好き。

 なのに、先輩は私を好きになってくれない。
 
 先輩を好きになってから、美しいものを、美しいと思えるようになった。
 オシャレだって、勉強だって、先輩に繋がるなら、全部楽しくて。
 自分なりに努力してきた、はずだった。

 先輩の恋心を見つけるたびに、私の胸は張り裂けて、心はバラバラに割れてしまう。
 だから、もう先輩への恋心を消し去ろうと決めた。
 なのに、店員さんは呆れた目で私を見つめている。

「先輩そのものの、記憶消したら」
「でも同じサークルだし、それに……」
「このやりとりも、何回目なんすかね。まったく……先輩みたらまたどうせ恋に落ちて、すきーってなって、傷ついてまた、記憶売りに来るんすよ、二束三文で」

 はぁああと大きなため息を吐きながらも、心配そうな顔をしてる気がしてしまう。
 それは、あまりにも、自分に都合がいい妄想だろうか。

「だから、先輩の記憶消したら? もういい加減に」
「先輩そのものの記憶……」

 サークルは楽しいけど、私以外に作ってる人はいないし。
 自分用のミシンだって、バイトして買ったから行かなくたって困りはしない。

 それでも、未練がましく先輩を思い浮かべてしまう。
 私にとっての全てだった。
 恋心が無くても、近くにいたいと思うのが浅はかな考えなのだろうか。

「何回も恋に落ちて傷つきたいなら、別にいいんすけど。どっちにすんの」

 店員さんはズイズイっと私に迫るように、ベルベッド生地のケースを突き出す。
 先輩への恋心を、消せば楽になれると思っていた。

 でも、毎回私はこのやりとりを繰り返していたとすれば……
 何度先輩に恋に落ちたんだろう。
 先輩が存在する限り、私は先輩に恋してしまう。
 だって、先輩はあまりに素敵な人すぎる。
 優しくて、かっこよくて、バカみたいに人たらし。

 先輩を思い返すたびに、胸が痛いと、好きだと、叫び続けてる。

「今は決められません……」
「そうっすか、じゃあまた」
「それだけ?」
「めんどくさ、慰めてくれって?」

 そういうわけではないのだけど、もうちょっと優しくしてくれても……と考えて、首を横に振る。

「決めたら、また来ます」
「はーい、おまちしておりまーす」

 感情のこもってない言葉。
 店員さんの雑さが、少しだけ楽だった。

 一人きりの部屋で先輩との思い出を、振り返る。
 一緒に行った合宿、先輩が好きそうでブックマークしたファッションサイト、何度も見返した先輩のSNS。

 見返すほどに、先輩への想いが溢れ出てくる。
 先輩のSNSには、相変わらず彼女の写った写真ばかり載っていた。

 どこに行ったというつぶやきも、全て彼女が写真の端に見切れている。
 先輩の全てが、彼女に塗りつぶされていた。
 恋心を消すか、先輩の存在を消すか。

 悩んで、悩んで、悩んで、涙が止まらなくなってきた。

 私は、先輩が居たから。
 先輩に可愛いって言われたい一心で、メイクも始めた。
 先輩に追いつくために、勉強も頑張ってる。
 先輩と話すためだけに、服飾を学んだ。

 SNSのホームにいつのまにか戻っていたらしく、私のタイムラインには同じように服を作っている人たちの作品が並ぶ。
 服への興味や関心も失われるんだろうか。
 クローゼットを開ければ、色鮮やかな服たちが並んでいる。
 前まではお母さんが買ってきたものばかりだったのに、今では自分で作った洋服ばかりだ。
 
 誰が言ったか覚えていない「恋だけが全てじゃない」が脳裏に浮かぶ。
 急に心臓がバクバクとしてきた。
 記憶もないのに、変な汗が止まらない。

 でも、真実だと思う。
 私は先輩のことが好きで好きで、先輩のことばかり考えているのに、服を作り始めればすっかり忘れ去れるんだから。
 出来ることだって、増えた。
 オシャレを勉強し始めてから、新しい友達も、仲間もできた。
 私の世界には、もう先輩一人だけじゃない。

 深呼吸を繰り返して、心に決める。
 私は、先輩を心から消す。
 恋心だけでなく、先輩ごと。

 後戻りができないようにサークルグループを開いて、メッセージを打ち込む。
 タッタッと人差し指が、動いて『お世話になりました。抜けます』簡単な文章が並ぶ。
 送信すれば、先輩がいち早く返信をくれた。

『なんかあった?』

 言い訳を考えていなかった。
 引き止められるとも思っていなかった。
 引き止められてるわけではないけど。
 それに近しい意味に、私には見えた。

 取り繕った文章を考えて、メッセージを打ち込む。
 打ち込む指はプルプルと震えて、抵抗する。

『ミシンも持ってるし、サークルにいる意味あんまりないかな、と思って』

 先輩はそれ以上、返信はくれなかった。
 それだけの関係と言われてるようで、胸の奥がずきんずきんと痛む。

 スマホ上では他のサークルメンバーが他人事のような、感情の乗っていない『寂しくなるね』という言葉を書き連ねていた。

 真っ暗な夜に飛び出せば、涼しい風が髪の毛をふわりと揺らす。
 先輩は今も、彼女と通話中ですか。
 先輩は、私が居なくなっても、何も感じませんか。
 覚悟を決めたのに、未練だらしく、先輩のことばかり夜空に浮かぶ星みたいに、ちらちら脳裏に浮かんでは消えていく。

 いつもの、一箇所だけあかりの灯るお店。
 なんでも買い取ってくれる、すこし無愛想な店員さんのいる買取屋さんが目に入って、駆け込む。

「決めたの」

 店員さんは私の顔を見た途端に、レジ裏をゴソゴソと漁ったかと思えばあのケースを取り出した。
 昨日と違うのは、ケースの上に雫型の石が何個も並べられている。

「これは?」
「あんたから買い取った恋心」

 透き通った青色、紫と青のグラデーション、赤に混じった紫。
 遠くで輝く星みたいだった。
 悲しい色にも見えるし、美しいとも思う。
 今の胸の痛みもこんな色なんだろうか、と他人事のように考えて実態。

「今のあんたなら、買い取らなくても大丈夫かもしれないけどね」

 店員さんの不器用な言葉に、ふふっと笑う。
 私でも、そう思った。
 それでもこれは、儀式だ。
 先輩とのお別れの。
 失恋をしたら、髪を切るみたいな。
 ジンクスのようなもの。

 今までの恋もただ、辛いままにこのお店に来たのかもしれない。
 私は先輩に彼女ができても、まだどこかで期待していたのだ。

 私が悩んだり、泣いていたら、きっと先輩は私の方を見てくれる、と。
 辞めると告げた時にあれ以来返信が来なかったのは、明確な失恋だった。

 私はただの同じサークルの後輩でしかない、と突きつけられた。

 胸の痛みは、夜道を歩くうちにすこしマシになっていた。
 まだ奥の方で、疼いて重くのし掛かってはいるけど。

 サークルのグループメッセージは退会したし、先輩のSNSはもう見れないように履歴を消した。
 覚えていなければ、見つけることもないだろう。

 学科だって違うから、サークル室に行かなければ会うこともきっとほとんどない。
 だから、会いに行かなければ、会うこともない。

 店員さんが差し出したケースを受け取れば、胸の奥がすうっと軽くなっていく。

――私何をしに来たんだっけ。

「はい、お売りいただきありがとーございまーす」

 店員さんが手に持っていたケースを奪い取るように、私の手から取り上げる。
 そして、手のひらに押し付けられた五千円札を見つめた。

「これは?」
「記憶の買取です」
「どんな?」
「思い出すきっかけになりかねないんで、答えられないんすよ。さーせん」

 そっかそっか、と言葉にしてから頷く。
 売りに来たくらいだ、大した記憶じゃない。
 もしくは、思い出さない方がいい記憶だろう。

 五千円札を見つめて、何に使おうか考える。
 秋に向けて欲しかったベルベット生地でも、買いに行こうか。

「ありがとうございました、あ、この店出たら忘れるんでお気をつけてー」

 取ってつけたような言葉に、ふふっと笑ってしまう。
 言葉遣いは雑だけど、優しい人なんだろう。

 店から出れば、強めの夜風が体に吹き付けられる。
 自分で作ったスカートが、ふわりと浮かび上がった。
 上手くできた。
 そう思ったのに、じわりと涙が頬に伝っていく。
 私は、なんで泣いてるんだろう。

 風が収まって、顔を上げれば、色とりどりの星が輝いている。
 どこかで見たような色に、目が離せない。
 寒さに体が震えて、ようやく、足が動いた。
 何かを失ったような感覚で、バランスが取れない。

 ゆっくりと崩れ落ちそうになりながら、進めば、月明かりは優しく私を照らしていた。
 
<了>