坂道をゆっくりと上がりながら、夏になりかけの夜の風を顔に受ける。
 まだかすかに、冷たさを含んだ空気だった。
 月夜はそれっきり、何か考えてるように黙り込む。
 俺もただ黙々と、坂道を登り続けた。

 月が地面を照らす道標のように見える。
 あと少しで、頂上に着く。
 そんな手前で、月夜が口を開く。

「ねぇ、彩陽はどうして夜中に歩いてたの?」
「家に居たくなくて?」

 疑問系になってしまったのは、自分でもよくわからない。
 両親は、優しい、と思う。
 妹を目に入れても痛くないくらい可愛がってる分、少し俺の方が損をすることが多いけど、嫌いではない。
 理不尽に怒られることはないし、大切にされてるとも思う。

 それでも、時々、俺はいらなくて、妹だけいれば良かったんだろうなと思ってしまう日がある。
 妹の好きなものばかりが食卓に並ぶとか。
 テストの点数だって悪くても、妹は怒られないとか。
 本当に小さい事ばかりだけど。

 両親は、友達もいない俺のことを心配してくれてはいるけど。

「もうちょっと明るくなったらね」
「自分から声を掛けるくらいできるだろ?」

 と、俺が悲しくなるような提案をしてくる。
 自分でもわかってる。
 それが出来たら、一人で悩んだりはしない。
 そんな気持ちには、寄り添ってくれはしなかった。
 
 それに、名前だって、妹は両親が考え抜いて付けた名前で。
 俺の名前は、ばあちゃんが付けたいと決めていた名前だ。

 たかだか命名くらいで、という気もする。
 それでも、クラスメイトたちが陰で「名前負け」や「陰っぽいのに」と言ってるのを聞くと、両親が考えて付けてくれていれば……と恨み節が出そうになった。

 思うことは、たくさんある。
 でも、それを話すのには、かなりの時間が必要になってしまう。
 だから、答えるなら、家に居たくないが正解だと思った。

「あるよね、そういうこと」

 否定も肯定もせず、ただ普通のことのように月夜は受け止める。
 そして、うんうん頷きながら坂道を上がっていく。
 俺も遅れを取らないように、登る。

 駐車場が目に入ったあたりで、月夜は俺の手をパッと離した。
 自販機までタッタッタと軽快に走って行ったかと思えば、くるんっと振り返る。
 そして、大声を出して、俺に問いかけた。

「ね、ジュース買ってあげる、どれがいい?」
「いいよ、別に」
「付き合ってもらってるんだから、奢らせてよ! で、どれ?」

 俺の遠慮をバサリと切り、小銭をチャリンチャリンと自販機に入れていく。
 渋々、適当にお茶を押した。
 月夜は、微糖のコーヒーを買って、お茶を俺の手に押し付ける。

「はい、プレゼント!」
「ありがとう」
「よし、もうちょっとだね」

 展望台の方を指さして、月夜はまだまだ進むと意気込む。
 一時間も坂道を登ってきた俺の足は、正直パンパンに膨れてる。
 歩み始めようとする月夜を引き止めるように、先ほどの会話に戻す。

「月夜は、どうして物思いに耽ってたんだ?」

 月夜は俺の方を振り向いて、首を横に傾げた。
 そして、微かな声で「明日には居なくなるから」と呟く。
 ありえない話なのに、明日には月に帰ってしまう気がした。
 御伽話じゃない。
 現実だ。
 わかってるのに、月夜が本当にかぐや姫で、明日には、月に帰ってしまう。
 そんな予感が、どくんっと胸を鳴らす。

「月に?」
「月だったら、良かったかも」

 ふふふっと微笑む月夜に、言葉を飲み込む。
 月明かりが照らした、頬が、瞳が、唇が、やっぱり美しいと思った。

「とりあえず、行こう!」

 月夜は、言い切るか否かのところで、もう走り出す。
 俺も追いかけるように、小走りでついていく。
 薄暗い月明かりも届かない木々の間を通り抜けて、街を一望できる展望台に辿り着いた。
 生い茂りすぎた木々が、ところどころ隠してるけど。

 背負っていたリュックから、月夜は小さいレジャーシートを取り出す。
 そして、ベンチに敷いて、俺を呼んだ。

「座って、一休みしよ!」

 山に登ったからか、先ほどよりも月が近く見える。
 淡い光を発しながら、月はキラキラと光を地上に降り注いでいた。
 月夜の隣に座って、お茶の蓋を開ける。
 一口飲めば、喉が渇いていたようでごくごくと流し込んでしまう。

 微糖のコーヒーを一口、飲み込んでから月夜は遠くを眺める。
 そして、本当に微かな声で呟く。

「彩陽と出会ったのは、運命かもしれないな」
「へ?」
「私、誰かと一緒にいたかったの。今日くらい」

 月夜の言葉は震えていて、含まれる思いはわからない。
 俺は、明日も月夜と会えたらいいなと思う程度には、好きだった。
 一目惚れというと、恥ずかしいけど。

「今日くらいって」
「明日には、もうこの街にはいないの私。でも、友達としんみりするのも違うし、誰かと一緒にはいたいけど、一緒にいるような人も思いつかなかった」

 月夜は友達も、たくさん居そうに見える。
 それなのに、そんな悲しそうなことを言うから。
 つい、隣の月夜の手を握っていた。

「彩陽みたいな優しい人と、こうやって山まで登って、ちょっと特別な思い出ができて良かったなぁって」

 月夜の言葉に、返答に詰まる。
 もっと、他に人はいただろ。
 俺みたいな、何もできない、名前負けしてるような、ダメなやつじゃなくて。
 自分に自信がなくて、親から愛されてないと思い込んで、夜の中でふらふら行くあてもなく歩いてる俺なんかじゃなくて。

 考えてるうちに、ネガティブが心を締め付けていく。
 
「彩陽ともっと早く出会ってたら、好きになっちゃってたかも!」

 急な月夜の声が、わざとらしくふざけた声になった。
 悶々としていた自分のことは置いておいて、星を見上げる月夜の横顔を見つめる。
 やっぱり、美しいと思った。
 そして、そんな月夜の瞳には、うっすらと雫が溢れている。

「月夜は、行きたくないんだな」
「ううん、どっちかっていうと、新しいところが怖い、かな?」
「知らないところに行くのは、誰だって怖いよな」

 一般論でしか、返せない自分が歯痒い。
 涙を浮かべる、この美しい月夜を慰める言葉すら、俺は持ちえていない。

「彩陽は優しすぎるって言われない?」

 泣いていたことを無かったことのように振る舞う月夜に、ますます思いが胸の奥に迫る。
 もう会わない他人なんだから、もっと、辛いことを辛いと言えばいいのに。

「優しくなんかないよ」

 今だって、月夜を慰める言葉一つ、出てこないんだから。

「普通知らない女の子に、付き合ってここまで登らないよ」

 冷たい風が俺たちの間を通り抜けて、言葉を奪っていく。
 月夜の言葉も、俺の言葉も、もう何も出てきやしなかった。
 素直に、一目惚れしたからだよ、と言ってしまえば、気持ち悪がられるかもしれない。
 そう思うと、勇気は出なかった。

 月夜はコーヒーの缶を傾けて、ごくんっと、最後の一滴を飲み干す。
 そして、不意に立ち上がった。

「付き合ってくれて、ありがとう。満足した!」
「決心ついたって事?」
「うん! 新しい街でも、彩陽みたいな優しい人と出会えるかもって思えたし」

 月に照らされた月夜の顔には、もう迷いはなかった。
 不安そうに、切なそうに月を見ていた顔とは裏腹に、美しい夜空を瞳いっぱいに映してる。
 月夜は瞳に映すものを空から、俺に変えた。

「彩陽は、帰れる気分になった?」

 家に居たくないということは、もうすっかり忘れていた。
 夜風に当たってるこの時間、ずっと月夜のことばかり脳内を占めていたんだ。

「おう」
「よし、じゃあそれぞれの世界に帰りますか」

 セリフっぽい口調に、ふっと笑う。
 月夜が俺の前に立ちはだかって、ぎゅっと一度ハグをした。

「あったかーい! 本当に、ありがとう彩陽」
「こちらこそ」

 行き場のない手が、月夜の背中を空気越しに抱きしめる。
 手を回す勇気は、やっぱり俺には無かった。
 優しい、という評価は初めてだったけど。
 勇気がないことを、月夜が、そう思ってくれるなら、そのままでもいい気がした。

 お茶とコーヒーを買った自販機の横のゴミ箱に、缶とペットボトルを捨てる。
 月夜が、右手を俺に差し出す。

「最後まで、手は繋ぎたい、な、って、あ、馴れ馴れしかった?」

 今更な質問に、つい口が緩んだ。
 その馴れ馴れしさすら、俺は嬉しかった。
 だから、月夜の右手を握りしめる。

「こんな時じゃないと恥ずかしくて、きっと出来ないから」
「そっかそっか。よし、あとはゆっくり降りよう」

 二人で手を繋いだまま、坂道を下る。
 月夜が何が好きで、どんな友達がいるかを聞きながら。
 俺はただ、ひたすら月夜の話に相槌を打つ。

 月夜の話はまるで、俺と全然違う世界の人のように聞こえた。
 学校が終われば友達とクレープを食べに出かけること。
 男女混合でカラオケに行くこと。
 ゲームセンターもちょっと遠いけど、自転車で遊びに行くこと。

 俺は、いつだって一人だった。
 自分から話しかけるのは怖かったし、話が合う人間がいるとも思えなかった。
 こんなにジメジメした俺に付き合ってくれる人間は、いないだろうし。

「彩陽は、聞き上手だね、いっぱい喋っちゃった!」

 そう言って月夜は、むっと黙り込む。
 俺の話を聞こうとしてくれてるのかもしれない。
 でも、俺は、話すことは思いつかなかった。

「友達いないから」

 自虐のように取られたかと思って、こっそり月夜の顔を盗み見る。
 月夜は家に帰りたくないと言った時と同じように、否定も肯定もせず、ただ「そうなんだー」とのんびり答えた。
 居心地の良さに、ふわふわとする。
 
 月夜とまだ、一緒にいたい。
 月夜が友達だったら良かった。
 二人でゲームセンターに行ったり、カラオケに行ったり。
 遊びに出掛けてもっと仲良くなって、恋人になれたらいいのに。

 繋いだ手を握る力が、つい強くなっていく。
 この街を離れる決心をした月夜を、まだ離したくなかった。
 それなのに、終わりはもうすぐそこまで来てる。
 あと数歩進めば、この山を降り切ってしまう。

 引き止める言葉を、この関係を続ける言葉を、何か言わなくちゃ。
 それでも、喉はつっかえたように動かない。

 月夜が俺と繋いでいた手を離して、俺の方を向いた。

「彩陽と出会えてよかった! ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
「もし、また会えたら、お話ししようね」

 月夜は小声で「ばいばい」と言って、手を振る。
 まだ、まだ、別れたくない。
 だって、この街から、遠い場所に行くんだろ?
 今別れたら、もう会えない。
 わかってるのに、引き止める言葉は、まだ思いつかない。

 少しずつ遠ざかっていく月夜の背中に、必死に脳みそを回す。

「あのさ」

 俺の微かな勇気は、言葉に載る。
 小さかったし、震えていたけど。
 数歩前を歩いていた月夜は、振り返った。

「一目惚れしました。また会えたら、付き合ってくれますか!」

 言いたいことは、そんなことじゃなかったのに。
 友達になりたい。
 また会いたい。
 また話したい。
 でも、どれも叶わない。
 ネットを使えば、きっと、繋がることはできるけど。
 会えなくなった、一夜限りの俺は、きっと月夜の中から薄れて消えていく。
 
 だから、少しでも、俺を残したかった。
 なんだっていい、月夜の中に存在していたかった。

 月夜は俺の言葉に、恥ずかしそうに顔を隠す。
 そして、パッと手を離して、俺を見つめた。
 唇の動きは「ありがとう」と動いている。
 お世辞に受け取られたかもしれない。

「もし、また、会えたら、ね」

 またが、無いことはわかってるのに。
 胸の奥が熱くなる。
 俺はきっと、月夜を一生忘れない。
 そして、月夜も俺を一生心の中に置いてくれていればいいなと思ってしまった。

 くるりと髪の毛を揺らして、前を向いて進んでいく月夜の背中を、月が照らしている。
 今日は、やけに月がキレイだ。

<了>