月を見上げるフェイスラインに、恋に落ちた。
 これがきっと一生に一度の、運命だ。
 魔法に掛かったように、俺の目は、彼女に吸い寄せられて、離れない。

 月の白い光が、まるでスポットライトみたいだった。
 彼女は塀の上で足をぷらぷらと揺らしながら、夜空を目に映してる。
 月が薄く照らした白い首筋に、ごくりと喉が鳴った。
 
 どれくらい経っただろうか。
 すぐ近くに立つ俺に気づいた彼女は、ちらりとこちらを見つめた。

 一瞬、彼女の瞳が星のように瞬いて見えた。
 彼女は一度目を細めて、ぴたりと固まる。
 そして、俺の輪郭を確かめるように目で確かめてから、小さく呟いた。
 
「こんばんは?」
 
 不意に聞こえた声は、少し掠れてるような響だった。
 俺も小さく、挨拶を返す。

「こんばんは」

 俺の声が届いて、にぃっと微笑んだ姿はまるで猫みたいだ。
 トンっと軽く舞うように、地面に降り立つ姿も。
 俺の前に立って、口元を指で遊ぶ。
 涙ぼくろが、美しいと思った。

「夜のおでかけ?」

 彼女の言葉に、ハッとする。
 眠れなくて、どこかに行きたかった。
 眠れない理由は、わからなかった。

「そう、かもな」

 曖昧に答えれば、彼女は小さく「ふーん」と笑う。
 くすくすと笑った唇の下にもほくろを見つけて、愛しくなった。

「お揃いだね」
 
 胸が掻き乱されるような、痛むような、この熱は、きっと恋だ。
 名前を知りたい。
 もっと彼女のことを知りたい。
 突き動かされるように、唇は勝手に言葉を放つ。

「名前は?」
「月夜」

 彼女に、これほど似合う名前は、他にないだろう。
 頷きながら、口の中で転がすように「月夜」と名前を呼んでみる。
 甘いキャンディのようで、何度も何度も、つい口にしていた。

「君は?」
「あぁ、彩陽」

 答えてから、ずきんっと心臓が狭まる。
 俺に、死ぬほど似合わない名前。
 苗字を言えばよかったと後悔しながら、薄暗いアスファルトを見つめる。
 月夜の反応が、怖かった。
 見たくなかった。

「彩陽、いい名前だね!」

 朗らかな声に、つい顔を上げてしまう。
 目に入る月夜の唇は、やわらかく孤を描いていた。
 安堵に胸を撫で下ろして、月夜と目線を合わせる。

「何してたの?」
「月を見てたの」
「なんで?」

 塀の上に登って、月を見ていた。

「物思いに耽るときは、月でしょ? 月に行きたいなぁって見てた。うさぎの作るお餅って何味なんだろうね?」
 
 月夜の語り口に、かぐや姫が脳裏に浮かぶ。
 あまりの美しさに、月夜がかぐや姫と言われても納得できる気がした。
 それくらいに、月夜は異次元の輝きを放ってる。

「彩陽?」
「あぁ、きなことか?」
「彩陽が好きなだけじゃなくて?」

 きょとんとしながら、また月を見上げる。
 そして、また目をきらめかせて、まぶたを伏せた。
 
「じゃあ、月夜はなんだと思うんだよ」
「きなこだといいな! 私も好きだから!」
「一緒じゃねーか」
「やっぱり、きなこ好きだから言ったんじゃん!」

 はははっと声をあげて笑いながら、瞳に浮かんだ雫を人差し指で拭いとる。
 その仕草すら、俺の目を惹きつけて離さない。

「彩陽はこの後、暇?」
「暇、だけど」
「じゃあ、あの山に、一緒に上らない?」

 月夜が指差した先には、市民なら誰でも知ってる街の中心にある山だった。
 春には桜祭りがあるし、人間将棋として、全国的にも知名度があると思う。
 一時間くらいで登れる程度だったはず。

 月夜の真剣そうな声に、こくんと小さく頷く。
 嬉しそうに満面の笑みを浮かべて、俺の右手を取った。

「よし、行こうー!」

 夜が似合うと思ったけど、話してると朝が似合う気がする。
 俺の彩陽という名前が、月夜のものだったらピッタリだったのに。
 俺みたいに名前負けすることもなく、美しい名前としてみんなに認識されただろう。

 想像して、嫌な記憶が胸の奥から蘇ってくる。
 振り切るように、軽く握られた月夜の手を握り返す。
 まっすぐ見上げてみれば、生い茂る木々が、不気味だった。
 俺の心の中を読んだかのように、月夜は小さく口にする。

「夜って、ちょっと怖いよね」
「お化け出そうだなぁって?」
「それもある。小さい頃、夜の木々って怖くなかった?」

 俺の右手を握る月夜の力が、強くなった気がする。
 今でも怖いというのは隠して、ふっと笑ってみせた。

「これくらい怖くねーよ」
「私はちょっと怖い」
「俺は大丈夫だからな!」