夜が顔を出し始める17時半。
空を見上げると、陽はどんどん傾いて、夜の気配が強くなっていた。
ミモレ丈のワンピースに身を包み、肩下まで伸びた髪の毛は、美容室でゆるい巻き髪のハーフアップにセットしてもらったばかり。
この時間にこの装いを見れば、結婚式帰りだと思う人が大半だろう。
けれど、結婚式帰りではない。
これから姉の結婚式に参列するのだ。
式場に到着すると、日中の結婚式とは雰囲気がまるで違っていた。
ほの暗い中、淡く灯されていくキャンドル。会場から見えるガーデンは、ライトアップされていて、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「ナイトウエディングなんて、最初はどうなるか心配だったけど。なんだか幻想的で素敵ね!お母さんも今の子だったらこういうのもよかったなー」
お姉ちゃんから「結婚式はナイトウエディングにする」と聞いて、最初は難色を示していたくせに。
目を輝かせてうっとりするお母さんは、ロマンティックな雰囲気に一気に魅了されているようだった。
ナイトウエディングとは、その名のとおり、夕方から夜に行なう結婚式のことだ。
なんで一般的な昼間の式ではなく、夕方から開催されるナイトウエディングを選んだのかは、詳しくは聞かなかった。
だけどお姉ちゃんは「夜の空気が一番好き」とよく言っていたので、結婚式という一大イベントの会場に、ナイトウエディングを選んだことも自然と腑に落ちた。
きっとお姉ちゃんの意見を尊重してくれたんだろうな。
お姉ちゃんの夫になる人は、優しい人だから。
「新婦様のご家族の方は控室でお待ちください」
式場のスタッフに声をかけられて、一般の参列の方とは別の待合室に案内された。
ふかふかと座り心地のよさそうなソファに、勢いよく腰を下ろした。
結婚式といえば、幸せの象徴のようなものだ。
なのに、式場についても私の心はどんよりとしていた。
「ちょっと、美晴! 今日はお姉ちゃんの結婚式なんだから、少しは愛想よくしてよ?」
どうやら浮かない気持ちが顔に出ていたらしい。
お母さんは、呆れたような言い方で注意をする。
身内のめでたい晴れの日に、どうしてこんなにイライラするんだろう。
そう思いながら、真っ白な天井を見つめた。
本当は原因なんて自分が一番分かってる。
だけど、知らないふりをするんだ。
だって、そうしないと……。
「美晴、なんでそんなに不貞腐れてるの? 今日はお姉ちゃんの結婚式なのよ? 少しは笑いなさい」
天井を見上げて自分の世界に入り込んでいた私は、お母さんの声に現実に引き戻される。
「わかってるよ……」
「もう、二十歳になったていうのに。いつまでも子供みたいに不機嫌を出さないで、今日くらい愛想よくしてほしいわ」
膨れた顔で苦言を言い放つ。
言い返さないのは、お母さんの指摘が正論だと思ったから。
私だって、本当は笑顔で祝福がしたい。
でも、どうしてもうまく笑えないんだ。
挙式は式場の中庭に作られたガーデンで行われた。
暗闇に包まれ始めた空間に、キャンドルやランタンが淡い光を放っていた。
派手な演出はなくても、光と景色を装飾の主役したような空間は神秘的だった。
そんな中で挙式が執り行われ、誓いの言葉、誓いのキスなど。結婚式で恒例なものでも、ナイトウエディングならではの雰囲気に、あちこちから感嘆のため息が聞こえた。
そして、この場にいるみんな幸せを祝福するように、穏やかな表情をしている。
私だけだ。
引きつってうまく笑えないのは。
こんなにロマンチックな挙式を見ても、全く心が揺れ動かない。
みんなの歓声をかっさらったライトアップの光さえも、嫌悪感を募らせる一因となっていた。
誰にでも自分で説明の出来ない感情くらいある。
私だって、この感情がなくなればいいのに。と心底思っている。
挙式が終わると、次は披露宴。
ガーデンが一望できる会場に移動した。
全面ガラス張りの作りは、夜景とイルミネーションを背景にしたような空間だった。
案内されるがまま、親族席に腰を下ろす。
私の席はちょうど窓際で、顔を横に向ければ、夜空と光の世界が視界を覆って別世界のようだった。
聞きやすい透った声の司会者により、披露宴は進行されていく。
新郎新婦の入場。ウエディングケーキ入刀。
会場が一番の盛り上がりを見せる中、運ばれてくる料理をただひたすらに口に運んでいた。
みんなが新郎新婦に注目する中、私だけは窓の外の夜空を見入っていた。
「では、スクリーンにご注目ください」
司会者の声に、やっと私の視線も前を向いた。
二人の生い立ちや、出会い。写真や動画を使った余興ムービーが流れ始めた。
そこには、私の知らない幸せが詰まっていた。
疲れてるのかな。
映像が流れるたびに心臓あたりが痛い。
幸せそうに笑う二人の写真が流れるたびに、その痛みは強くなっていくんだ。
次々と流れていくと、夏祭りの写真がスクリーンに映し出された。
浴衣姿で笑いあう二人の写真。
次の瞬間、胸がざわつきはじめた。
私が初めて優くんに会ったのは、祭囃子をBGMに、空一面に星々が輝いていた夜だった。
瞬時に懐かしい記憶が脳裏に浮かぶ。
「あれ! 美晴じゃん」
「……お姉ちゃん」
高校2年の夏、友達と夏祭りに来ていた私は、男性と二人で来ていたお姉ちゃんと偶然遭遇する。
「あ、美晴に紹介するのは初めてだよね。彼氏の優くん。少し前から付き合ってるんだ」
「初めまして。美晴ちゃんの話は聞いてるよ」
そう言って彼は、にこりと柔らかく笑った。
「どうせ、いい話じゃないでしょ。私お姉ちゃんみたいに優等生じゃないから」
「またー。美晴はすぐひねくれたこと言う!」
「可愛い妹ちゃんって聞いてたよ」
「あっそ……」
お姉ちゃんの彼氏なんて、どうでもよかった私は、素っ気なく返す。
「友達は? もしかして迷子?」
図星をつかれて、どきっとする。
夏祭りに友達と来ていたのだが、はぐれて一人になってしまっていたのだ。
「ちょっと! 迷子とか子ども扱いやめてよ。ただはぐれちゃっただけ」
急に恥ずかしくなって、言い返すと返事を待たずに、お姉ちゃんたちの前から駆け出した。
本当は夜の人込みの中、友達とはぐれて怖かった。
だけど子ども扱いされるのが嫌で、飛び出してしまったんだ。
スマホで友達に電話をかけてみるが、呼び出し音が鳴るばかりで一向に出る気配がない。
急に不安になってきて、自分の行動をすぐに反省した。
「あれ、女の子一人でなにかあった?」
20代前半くらいだろうか。ラフな服装をした男性が話しかけてきた。
「あっ、えっと」
優しそうな人ならば、正直に言って助けてもらおうか。
そう考えたが、男性と視線を合わせるとぞわりと身震いがした。
柔らかい口調で話しかけてくるが、目の奥が笑っていないような気がして怖い。
「あっ、大丈夫です」
お祭りで人はあふれかえっている。何かされたら叫べば大丈夫だろう。
そう思ったけれど、恐怖で足がすくんだ。
お姉ちゃんに電話しよう。
すぐにスマホで通話ボタンを押そうとしたが、ぐいっと手首を掴まれた。
一瞬、何が起きているのか分からなかった。
出会ったばかりの男の人に腕を掴まれた経験なんてない。
叫ぼうかと息をのんだ次の瞬間。
「ちょっと! なにしてんすか?」
掴まれた腕をグイっと引き戻された。
そして、男性と距離を置くように、私の前に立ちはだかった。
「美晴ちゃん、大丈夫だった?」
焦ったような声をあげたのは、お姉ちゃんの彼氏の優くんだった。
優くんに会ったのだって、今日が初めてだったのに。
一気に気が抜けるように安心した。
「なんだよ。彼氏いたのかよ……」
ぼそっと呟く男性に、わたしは反応してしまう。
「いや、彼氏じゃないです」
この人は彼氏じゃない。お姉ちゃんの彼氏だから。
場の空気を読まずに正直に答えてしまった。
やってしまったな。と言った後で気づく。
「お兄さん、もしかして人を助けると見せかけたナンパ? 善人ぶるのって立ち悪いよ?」
この場から逃げようとしていた男性は、強気に優くんに絡み始める。
私が正直に答えてしまったせいだ。
「はあ? この子は彼女だから、どっかいけよ」
優くんは優しい見た目からは想像できないくらい低い声で吐き捨てた。
男性も驚いたのか、すぐにその場から逃げるようにいなくなった。
「彼女」出てきた言葉に、心が動揺してしまった。
分かってる。ただ、ナンパから守ってくれようと出てきた台詞だってことくらい。
けれど、鼓動が慌ただしく鳴り響いたままだ。
「ごめん! なんかしつこそうだったから、他にワードが出てこなくて」
申し訳なさそうに両手を合わせて謝ってきた。
「……そこは妹でよかったんじゃないですか? 現に彼女の妹なんだし」
「あー! そうだよ。妹でいいじゃん!」
大発見をしたかのように目を丸くさせ、次の瞬間には柔らかく笑った。
こんな人がお姉ちゃんの彼氏で大丈夫だろうか。一抹の不安が残る。
同時に、悪い人ではないんだろうな。そう思えた。
「なんで……ここに」
「恵美が心配してたから。慌てて後を追いかけたんだ。でもスマートに助けられなくてかっこ悪かったなー」
悔しそうに顔を歪めた。
そしてころっと笑顔に変えて続ける。
「次はもっとかっこよく助けられるように頑張る」
「今度って……もうできれば助けてもらうような場面にあいたくないです」
「そりゃそうだ! でも危険っていつあるかわからないからね。彼氏に助けてもらうんだよ?」
彼氏がいる前提で話されたことに、少しむっとしてしまう。
「彼氏なんていないし。私お姉ちゃんみたいに、かわいくないから」
我ながらかわいくない返事だったと思う。
けれど、彼はにこりと微笑んだ。
「だったら、美晴ちゃんに彼氏ができるまで、なにかあったら守ってあげる。それに恵美に似てかわいいよ?」
可愛いなんて、言われ慣れてなくて、どきっとしてしまう。
それから、優くんは週に数回うちで晩御飯を一緒に食べるようになった。
最初は家族以外の人と食卓を囲むことに、嫌悪感を覚えた。
せっかく安らげる時間なのに、他人がいたんでは、心も身体も落ち着かない。
不機嫌な態度もとってしまった。
わかりやすく不機嫌な態度を見たら、話しかけるのをためらうのが普通だろう。
しかし、優くんはそんなことお構いなしに、どんどん話しかけてきた。
高く作った壁を越えてこようとするんだ。
心が広いというのか、何も考えてないのか、彼の気持ちはわからないけれど。
気づけば、壁を越えてくるどころか、壊されてしまっていた。
優くんも一緒に食卓を囲むことが普通になり、夜ご飯の後、優くんとお姉ちゃんと三人でよく一緒にゲームをした。
彼がいない日があれば「あれ、今日は優くんこないの?」なんて、彼が来てほしいと言っているような言葉が、自然と口から出たこともあった。
どこか悪いところがあるくらいの方が都合がよかったのに。
知れば知るほど、嫌味がなくて素敵な人だった。
今思えば、この時から私は優くんに特別な感情を抱いてしまったのかもしれない。
お姉ちゃんの彼氏だということを知りながらも――。
懐かしい記憶に思いを馳せていると、ぱちぱちと手を打つ拍手の音が鼓膜を刺した。
会場内を包む拍手の音に、はっと現実に引き戻される。
どうやら上映が終わったらしい。
周りに合わせるように、慌てて拍手を送った。
今日はお姉ちゃんの結婚式だというのに、私はなにをしているんだろう。
まるで自分が主役かのように、優くんとの思い出を頭の中で蘇らせていた。
気付けばいつも自分のことばかり考えている。
そんな自分が嫌になり逃げ出すように席を立った。
幸せしかない空間から飛び出して、引き込まれるようにテラスに足が向いた。
外の空気に触れたくて、一歩踏み出すと、暗闇に包まれた空を見上げて深呼吸をする。
夜の匂いを纏った風が、やたらと心地よかった。
「美晴ちゃん? 大丈夫?」
突然声をかけられて驚いて振り向くと、披露宴会場にいるはずの優くんだった。
「もしかして、酒に酔って夜風にあたりに来た?」
「酔ってないよ。ただ、外の空気を吸いたかっただけ」
なにかを感じ取ったのかもしれない。私が元気がない時は、いつも気づいてくれるんだ。
「主役は戻った方がいいよ。みんな待ってるよ」
「少し気分転換に外の空気吸おうと思ってさ。美晴ちゃん、今日体調でも悪い?」
「なんで……」
「なんだか元気なさそうだったから」
自分が主役になるこんな日まで、他人のことを心配する優くんに、ちくりと胸が痛んだ。
お人好しなくらい優しい人なんだ。
「別に……普通だよ。こんな日くらい他人の心配しないで、自分のこと考えなよ」
「ははっ。他人じゃなくて大切な妹なんですけど」
キャンドルやライトの淡い光に照らされた優くんをみつめると、胸がどくんと鳴った。
暗闇に包まれた空とライトの幻想的な雰囲気は、私の思考を狂わせる。
まるで、この世界に優くんと二人きり。
そんな夢みたいな、主人公にでもなったかのような錯覚をしてしまう。
幻想を振り払うように、顔を左右に振った。
目の前で微笑む彼は、姉の夫になる人だから。
「なんでお姉ちゃんにプロポーズしたの? まだ若いし、急いで結婚しなくてもよかったのに……」
こんなこと聞いても誰も得をしない質問だということくらいわかってる。
けれど、今聞かないと永遠に聞けない質問だと思うと、自然に口が開いた。
「うーん。明確な理由は……失いたくなかったんだ」
そう言って夜空を見上げて、また続ける。
「もう、恵美以上に好きになれる人と出会えないと思ったから。出会えなくていいと思えたから……かな」
ああ。やっぱり聞かなければよかった。
心が痛くて仕方がない。
「そっか。お互いに好き同士で、2人は運命だね」
目の奥に込み上げてくるものがあったけど、グッと押し返した。
今日だけは、涙を流してはいけない日だったから。
「美晴ちゃん、お祝いに来てくれてありがとう」
この時ハッと気づいた。私はまだ「おめでとう」と一度も言えていないことに。
今がその時だ。おめでとうと言えるチャンスだと頭が理解しているのに、喉の奥で言葉が詰まったままだ。
「おめでとう」たった五文字だ。
簡単に吐き出してしまえばいいのに、どうしても重くて出てこない。
「俺一人っ子だったから、可愛い妹ができて嬉しいよ」
「全然……可愛い妹なんかじゃないよ」
本当なんだ。私は最低な妹だから。
申し訳なくて顔が俯く。
「恵美も美晴ちゃんのこと、可愛い妹だっていつも自慢してるよ?」
彼の言葉に胸がちくりと痛んだ。
お姉ちゃんは、優しくて、明るくて。
私たちは、周りから羨ましがられるくらい仲が良い姉妹だった。
なのに、素直にお祝いができなくて。
そんな自分が心底嫌になる。
「ごめん! そろそろ俺は戻るわ」
そういって足早に戻っていった。
「おめでとう」と伝えられるチャンスを、また逃してしまった。
席へ戻ると、みんな笑顔を浮かべている。
他の人から見れば幸せな結婚式。
だけどこの幸せが満ちていくほど、私は苦しい。
こんな私なんて、この場にいない方がいいに決まってる。自己嫌悪に押しつぶされそうだった。
「新婦様の妹の美晴様、スピーチの時間となりますので、準備のほどよろしくお願いします」
スタッフさんにこそっと伝えられた。
そうだった。私は二人にスピーチを頼まれていたんだ。
鞄から数日前に書いた手紙を出して握りしめる。
大丈夫。ネットや本で調べながら書いたんだもん。
きちんとお祝いのスピーチになっているはず。
そう自分に言い聞かせながら、ある疑問が浮かぶ。
『きちんと』ってなんだろう。
私は嘘や綺麗ごとを並べたお祝いの言葉を二人に伝えようとしているのだ。
だって、仕方がない。
本音は言えるはずがないのだから。
吐き出せず秘めた感情は、自然消滅なんてしてくれなくって。
心の中を支配するこのもやもやは、感情を口にすれば解消されるのだろうか。
言葉にしたところで、誰も救うことができない感情。
人知れず彼に恋していたこの気持ちを。
この夜の幻想的な雰囲気に飲まれてしまったのかもしれない。
私は今、必死に隠し続けた想いを、言いたい衝動に駆られている。
「では……新婦の妹、美晴様からお手紙がございます」
司会の通る声が会場に響き渡る。
マイクスタンドの前に立つと、一気に緊張感が駆け巡る。
参列した人の視線が集まっているのがわかった。
手が少し震えながらも、書いた手紙を広げた。
書かれたものは、ネットで調べたありきたりなお祝いの言葉を繋ぎ合わせたものだ。
言い換えれば、私の言葉ではなく、一般的なお祝いの祝辞だった。
「今日は……」
わたしは思いとどまる。
本当にこれでいいのだろうか。
ぐしゃり。
疑念が浮かぶと同時に、手に持っていた手紙を握りつぶした。
近くにあったマイクが音を拾い、会場内に響き渡る。
一気にどよめきが会場内に広がった。
スピーチの途中で無言になり、おまけに突然手紙を握りつぶすのだから、驚くのも当然だろう。
ざわざわと空気が騒がしくなる。
完全にやらかしてしまった。
心拍数が早くなった胸元を押さえて、深く息を吸う。
「この手紙は、ネットで検索した祝辞の言葉を集めたものです。ありきたりな言葉じゃなくて、私のありのままの気持ちを伝えたいと思います」
ほっとしたようにざわつきが消えた。
視線が集まる中、ゆっくり口を開く。
「お姉ちゃんは、昔から人に好かれ、息をするだけで人が集まってくるような人でした。子供の頃から、お姉ちゃんはいつも私の模範でした」
明るくて人が自然と集まるお姉ちゃんがずっと羨ましかった。
「そんなお姉ちゃんを、優しく包んでくれる優くん。2人は世界一お似合いだと思っていました」
饒舌な嘘が、さらっと出てくる。
なんでお姉ちゃんの彼氏なんだろう。
どうして私のことを好きになってくれないんだろう。
そう考えたことだって何回もあるくせに。
なにきれいごとを並べているんだろう。
心の声と裏腹に、きれいごとが並べられた言葉たちが会場に放たれていく。
「優くんみたいな優しいお兄さんができて、とても嬉しく思っています」
本音で伝えようと、手紙を握りつぶしたくせに、出てくる言葉は全部準備されたものだった。
だってこんなお祝いの席で本音を言えるはずがない。
私が彼に恋心を抱いていたという事実は、今も、これからも決して口に出せはしない。
でも、これが正解のスピーチだ。その証拠に参列された人たちは、感化されたようにうなずいたり、ハンカチで目元を抑えている人までいる。
だから伝えたいことも言えないまま、綺麗ごとを並べ続けた。
私の視線が、新郎新婦へと移る。
優くんと目が合うと、急に胸が苦しくなってきた。
ずっと近くにいたのに、言えなかった気持ち。
この行き場のない感情のせいで、私の心は縛り付けられている。
「私は――」
彼の瞳を見つめると、思わず本音が零れ落ちそうになり、慌てて息をのんだ。
言葉の代わりに涙がぽろりと頬を伝うと、心が締め付けられたように痛い。
きっと、参列している人はみんな。
この涙の理由を知らない。
二人の結婚を祝福してる涙だと信じて疑う人はいないだろう。
まさか、新婦の妹が新郎に恋心を抱いていたなんて、誰も予想できるはずがない。
祝福の声が集まるこの場に似合わない涙。
私の心が悲鳴をあげているだけ。
ずっと誰にも言えずに閉じ込めてきた。
そんな叶わない恋をしてどうすんの?
そう批判されるのが怖くて友達にも言えなかった。
誰にも言えなくて、一人で抱え込んできたんだ。
もう、いいんじゃないかな。
ずっと隠し続けてきたこの感情を解き放っても。
「私は可愛い妹なんかじゃない……」
ゆっくりと優くんに視線を向けると、隣で微笑むお姉ちゃんの姿も自然と視界に入る。
ずきん。また胸が張り裂けるように痛い。
ずっとこの痛みと共に隠していた感情。
最後くらい、本音を伝えよう。
「私は――」
決意を固めるように、息をのむ。
「……好きです」
相手に伝わることのない、独りよがりの告白。
「優くんと……お姉ちゃんのことがだいすきです」
この「好き」の本当の意味は伝わらなくていい。
この涙の理由は気づかれなくていい。
だけど、最初で最後にするから。
閉じ込めていた想いを吐き出させてほしい。
「本当に……っ、だいすきでした」
言えなかった想いを吐き出せて、自然と顔が綻んだ。
涙で視界がぼやけたせいで、二人の表情がかすむ。
彼の感情を汲み取ることはできないけれど、優しく笑ってくれている。なんだかそんな気がした。
溢れる涙は拭いても拭いても流れてくる。
自分でも、この涙の理由がわからない。
恋が叶わなかったから?
お姉ちゃんに申し訳ないから?
結婚してお姉ちゃんが遠くにいくようで寂しいから?
感情がぐじゃぐじゃで、どれが正解かわからない。
だって、全部の感情がある気がするから。
私はどうしようもなく寂しかった。
二人が離れていくのが寂しくて、素直に祝福ができなかった。
お姉ちゃん、こんな妹でごめん。
あなたの大切な人を好きになってごめん。
お姉ちゃんの結婚を全力で祝福できなくてごめん。
ハンカチで目元を抑えるお姉ちゃんに、謝罪の念を込めて視線を向ける。
目が合うと、お姉ちゃんは口を動かした。
『ありがとう』
心ではこんなことを思っている私は、お礼を言ってもらえるような妹じゃない。
でも、最後にこれだけは言わせてほしい。
「絶対に、幸せになってね。結婚おめでとう」
やっと伝えられた「おめでとう」の言葉は、嘘偽りのない本音だ。
優くんが好きだった。
でも、それ以上にお姉ちゃんが大好きなんだ。
盛大な拍手に包まれると、一気に緊張感が溶けた。
そして、自然と笑みが浮かぶ。
私の告白は誰にも伝わっていない。
涙が流れた理由は、誰も知らない。
それでいいんだ。
だって、のしかかっていた何かが消えて、心がスッキリとしてる。
優くん。
好きだったよ。あなたはそんなこと知らないだろうけど。
絶対に教えてなんてやらないけど。
この切なく淡い感情は、世界でたった一人私だけの記憶として残すから。
「美晴、スピーチ良かったよ。お母さん、泣いちゃったよ」
拍手に背中を押されながら席へと戻ると、隣の席のお母さんが目を真っ赤に染めていた。
「うん。ずっと伝えたかったこと、伝えられてよかった」
なんだか夜空を眺めたくて、窓の外に視線をうつす。
すると、ガラスに反射した自分の顔がみえた。
なんだ、ちゃんと笑えてるじゃん。
そうだ。この恋は、この夜においていこう。
広くどこまでも続く夜空なら、私の秘めた恋なんて簡単に飲み込んでしまうだろう。
そう思いながら、窓に反射して映った私は、清々しいような優しい笑みを浮かべていた。