「……昨日は……」
 蘭先輩はよほど頭痛が酷いのか、顔をしかめながら考え込んでいる。どうやら思い出せないようだ。
「えっと……。
私、帰るね!」
 そう言って勢いよく立ち上がった蘭先輩は、一歩踏み出して見事に布団を踏みつけ、その場に倒れた。
「きゃ!」
 思いっきり顔を絨毯にぶつけた蘭先輩。僕は言葉を失った。とっさに動いて助けられなかった自分が情けない。
「……」
 蘭先輩はそのまましばらく動かなかった。
「……大丈夫ですか?」
「……い、痛い……。
でも大丈夫!」
 蘭先輩は気丈に言ったが、力が入らないのかなかなか起き上がれないでいる。 
 なんだか可愛いと思った。
 蘭先輩を起こすために僕は近づき、両手を掴んで、とりあえず座らせた。
「あ、ありがと……」
 お酒の香りに混じって、蘭先輩のいつもつけている香水の香り、そして、ほの甘くて温かい女性の香りが鼻をかすめる。
 女の人ってこんなにいい香りだったんだ。昨日はなんだか大変で気付く間もなかった。
「しゅ、しゅう君?」
 おでこと鼻がぶつけたせいか赤くなっている蘭先輩が困ったように僕を呼んだ。
 掴んでいる蘭先輩の手首の細さが、ひんやりとした体温が、なんだか心地よい。そして、やっぱり白い首筋に目がいってしまう。
「おーい、しゅう君?」
 まずいなと思った。触れてみたいと思ってしまった。思ったときには、右手で首筋を撫でていた。温かくて吸い付くような白い肌。こんなに綺麗な肌だったんだ。
「しゅ、しゅう君?!」
 ああ、いい香り……。
「……」
 鼻腔を刺激された僕は誘われるように蘭先輩の首筋を舐めてしまっていた。ほの甘いようなしょっぱいような味がする。
「ひゃっ! ちょ、ちょっと、しゅう君! 何してんの?!」
 蘭先輩の自由になった左手が僕の頭をポカリと叩いた。僕はそれで我に返った。
 しまった。これじゃ、単なる変態だ。
「え、えっと ……」
「……」
「す、すみません。まだ酔ってるのかも……」 
 僕はとっさに嘘をつく。
「そ、そう……。私もなんだか二日酔いで、頭が痛い。
あの、右手。手首痛いから、放してくれる?」
 耳まで赤くした蘭先輩が遠慮がちにそう言った。口からアルコールの香りがした。
 言われてなんだか寂しく感じた。手を放したら蘭先輩は帰ってしまうような気がした。当たり前のことなのに。
「しゅう君?」
「あ、すみません」 
 右手を放す。
「昨日は、迷惑をかけたみたいで、ごめんなさい。ありがとう」
「いえ……」
 ふらつきながらも蘭先輩は一人で立ち上がった。僕はなんだか切なくなった。まだ一緒にいたいと思った。
「大丈夫ですか? 送っていきましょうか?」
「大丈夫。
と言いたいところだけど、ここがどこだかわからない。知っている駅までお願い」
「はい」
 僕たちは朝日の中を無言で近くの駅まで歩いた。すずめの鳴き声が平和な朝を演出している。蘭先輩と二人で、朝、こうして歩いているなんて不思議な気分だ。おぼつかない足取りなのに、手をかりようとしない蘭先輩はいつもの凛とした蘭先輩だ。だけど、そんな姿までもが今は可愛いと思えた。
「駅ね。ありがとう」
「いえ……」
「昨日のことは……記憶がないの。しゅう君も忘れてくれるとありがたい」
 蘭先輩はソッポを向きながら言った。その耳が赤い。
「……はい」
 僕はそう返事をしたけれど、今日を含めて忘れることなど出来るわけがない。蘭先輩をこんなに可愛らしいと思った気持ちも。
「じゃあ、また研究室でね」
「はい」
 一度手を振って地下鉄の駅への階段を降りていく蘭先輩を見送りながら、やっぱり僕は寂しさを感じていた。
 研究室で、か。そう、だよなあ……。
 きっと何もなかったような毎日がまた始まるのだろう。少なくとも蘭先輩はそうだろう。
 でも。