母はずっと寝ていた。病院のベッドでずっと窓の外を見ている人だった。時々お見舞いに行くと薄い笑顔で私の名を呼ぶ。

 母は、胃がんで亡くなった。

 母は病気になって入院する前、ピアノを弾く人だった。私によくピアノを教えてくれて、間違えても決して怒ることなんてなくて、「そこはね」と優しい表情と声で私の手を握る。そういう人だった。

「私が死んでも、ピアノは続けてくれたら嬉しいな。そしたら私は、この世界に何かを遺せたんだなって思えるから」

 私は母の言いつけをやぶった。
 だってそんなの。そんな残酷な願いは。私の心も、一緒に殺してしまいそうだったもの。



「ああ……」

 そうか。この曲は、お母さんが小さかった私によく弾いて聞かせてくれた曲だった。
 無意識に蓋をして閉じ込めた記憶。本当は私、この曲を知っていたんだ。母を思い出したくなくて、苦しみたくなくて、卑怯にも葬り去った過去。その扉が今、ぎぃと音を立てて開いていく。
 頬が濡れる。思い出してしまう。母のあの、儚げな笑顔を。

 背中に冷たい手の感触が広がった。彼の細く骨張った手の静かな温度。いつのまにかピアノの音は途切れて、夜の静寂を私の涙だけが濡らしていく。ゆっくりゆっくり、ささやかな音色を紡ぐように。



「落ち着いた?」

「……はい」

 目元を擦る。熱が宿る目尻はヒリヒリして痛い。だけど涙はやっと止まった。

「1890年か……あ、今って西暦何年か聞いてもいい?」

「え……?」

「西暦? であってるよね、年の数え方って。西暦何年?」

 突然そんなことを言われて、思わず戸惑ってしまう。なんで今年が西暦何年かを知らないのだろう。

「2024年ですけど……」

「おお……」

「あの、なんなんですか……?」

 答えればなぜか隣で感嘆の息を漏らすので、私はいよいよ分からなくなって眉根を寄せた。

「ドビュッシーが月の光を作曲したのが1890年で、改訂が1905年なんだけど……時が過ぎるのは早いなあってさ」

 まるでその年代を見てきたかのような言い方だ。いや、思えば初めて見た時からこの人はどこか俗世離れしているじゃないか。もしかして……うーん、やっぱり……。

「あなたって、幽霊、なんですか? 実は1890年代の人……?」

 おそるおそる尋ねた。青年はふふふ、と怪しげに笑みを深めるばかりで、勿体ぶって口すら開いてくれない。

「教えてくださいよ、どうしても知りたいんです」

「しょうがないなぁ、それじゃあ教えてあげるね、僕の秘密」

 彼は手をサッと振って私を見た。耳を貸して、という合図らしい。どこか緊張したがら耳を寄せると、彼は言った。

 僕は、地球人じゃないんだ。