心が壊れたなと思った時はよく、夜の街をふらふらと歩いてみることがある。
深夜三時。闇に沈んだ街をあてもなく歩いていた。高校生だから警察に見つかったら終わりだけど、「早朝の散歩です」と誤魔化して切り抜ければいいだろうという安易な考えで足を動かす。それに夜中に街を散歩するのは少しクセになる清々しさがあって、私はよく常習していた。
通っている学校の前を通りかかって、ふと気づく。音楽室の窓が開いているのだ。三階にある音楽室の窓が開いていることにどうやって気づいたのかというと、カーテンが風に揺れていたからである。あんなのを見てしまえば窓の閉め忘れか、音楽室に誰かがいるとしか思えない。たとえば、幽霊……とか。
音楽室の窓が開いているのを不思議に思い学校に忍び込むなんてだいぶ勇気があるというか向こうみずなところがある。だけど好奇に勝るものはなく、何かに引き寄せられるように私は学校の柵をひょいと飛び越えてしまった。
音楽室に近づくにつれて、ピアノの音色がそっと運ばれてきた。聞き覚えがある。曲名も作曲者も知らないけれど有名なメロディーのような気がする。
廊下に差し込む月明かりは幻想的で神秘的で、だけどどこか不気味で。私はやっぱり来るんじゃなかったと後悔する。
だけどここまで来たらもう引き返せなかった。せめて幽霊の存在だけでも、確かめたくて。
音楽室のドアをガラガラと開けた。瞬間、壁一枚に遮られていた音の波が私の顔を撫でる。びっくりして思わず退き、だけど好奇心には勝てずに思い切って足を踏み入れる。
グランドピアノの前には人が座っていた。そこでまず、よかったと胸を撫で下ろす。無人なのにピアノが鳴っていたりしたら、それはもう恐怖以外の何者でもない。
あとはピアノを弾く人物が幽霊などではない普通の人間だと分かればいいのだけど。そう思いながらじっくりとピアノを弾く青年の顔を眺めていた。
「いい夜だね、美しい満月だ」
青年が声を発した。歌うみたいに軽やかで流麗な響き。びっくりして思わず「は、はいっ!」と上擦った声を投げる。
「緊張しなくていいのに。それとも警戒? 僕を幽霊か何かだと思ってるのかな」
かなりの勘の鋭さに思わず「おお……」と声が漏れた。いけない、と思い口を手で押さえると、彼はおかしそうにふふ、と口元だけで笑う。
「なんか君、見覚えあるなぁ……どこかで会ったかな? 会うことは多分ないはずなんだけど……」
この近くに住んでいる人ではないのだろうか、彼はそんな意味深なことを言って顎に手をやる。
「私は、あなたにあった覚えはありませんけど」
「そっか。じゃあ僕の思い違いかな」
彼はあっさりと割り切って言った。不思議な人だ。
「えっと、あなた、どうしてここに? ていうかここの高校の生徒……じゃないですよね?」
透き通るような白い肌は紫外線を浴びているようには思えない、どこか遠い国で生まれた人みたいに見える。瞳は夜の青をはめ込んだような深い色。思わず吸い込まれそうになる。
「君、月って今までにどれくらい見たことがある?」
青年はなぜか私の問いに答えずに新たな問いをよこしてきた。
「えっ……と、月は毎日見ますけど……?」
「そうなんだ。僕は月を見たのはほんの数回くらいでさ。久しぶりに見る月がこんなきれいな満月とは、僕も運がいいよね」
「はぁ……」
頷きかけたけど、すぐに首を傾げた。月を見たのがほんの数回? そんなはずはないでしょう。月というのは常に地球の周りをまわっているものだ。その姿をこの歳になるまでわずかしか見ることがないなんてありえない。そもそも何歳かは、分からないけど。
ピアノを弾く手を止めた彼は微笑をたたえて私を見る。
「おっと、もうこんな時間だ。僕もそろそろ帰らなきゃいけないんだけど……そうだ。君、ピアノを習ってみる気はない?」
かと思えば突然そんなことを言うものだから、私は思わず拍子抜けしてしまった。
「帰らなきゃいけないなら帰ってくださいよ、なんなんですかピアノを習うって」
「帰る前に、ちょうどいいから君にピアノを教えてあげるよ。僕の大好きな曲」
彼は話を聞く耳がないのか、私の言葉に全く噛み合わない言葉で応える。
「ここ、座りなよ。夜風に吹かれながら弾くピアノは、なんとも風情があるよ?」
彼は自分の座る椅子をトントンと叩いてスペースをあけた。彼が何を思ってそんなことを提案したのかは知らないけど、私は大人しくその場所に座る。
彼の隣は温度がなかった。普通はこれくらい近づけば人の体温というものを感じてもおかしくないはずなのに。それともあまりに私の感覚が鈍ってしまったのだろうか。
彼はそっと、音を紡ぎ始めた。優しい音色が耳に届く。
「これ、なんていう曲なんですか?」
「『月の光』」
月の光。たしかに夜の闇を淡く照らす月のように優しく、儚く、美しい曲だ。
「作曲はドビュッシー。聞いたことある?」
「ああ……あるかも、しれません」
クラシックの素養などなく有名なクラシックの曲名も創造者も知らない。それは少し恥ずかしいことかもしれないけれど、出会いとは知らないからこそのものだ。知らないからこそ美しい。
「美しい、曲ですね。なんていうか……優しくて、泣きたくなる」
心に空いた穴を広げるでも埋めるでもなく、ただそっと、しなやかに撫でるような音だった。それはどんな慰めよりも私の心を癒やし、包み込んでくれる。
得体の知れない彼に、今ならなんでも打ち明けられる気がした。自分の心が崩れ去ってしまう前に、誰かに打ち明けたい。目の前の彼に。
「お母さんが、死んだんです」
深夜三時。闇に沈んだ街をあてもなく歩いていた。高校生だから警察に見つかったら終わりだけど、「早朝の散歩です」と誤魔化して切り抜ければいいだろうという安易な考えで足を動かす。それに夜中に街を散歩するのは少しクセになる清々しさがあって、私はよく常習していた。
通っている学校の前を通りかかって、ふと気づく。音楽室の窓が開いているのだ。三階にある音楽室の窓が開いていることにどうやって気づいたのかというと、カーテンが風に揺れていたからである。あんなのを見てしまえば窓の閉め忘れか、音楽室に誰かがいるとしか思えない。たとえば、幽霊……とか。
音楽室の窓が開いているのを不思議に思い学校に忍び込むなんてだいぶ勇気があるというか向こうみずなところがある。だけど好奇に勝るものはなく、何かに引き寄せられるように私は学校の柵をひょいと飛び越えてしまった。
音楽室に近づくにつれて、ピアノの音色がそっと運ばれてきた。聞き覚えがある。曲名も作曲者も知らないけれど有名なメロディーのような気がする。
廊下に差し込む月明かりは幻想的で神秘的で、だけどどこか不気味で。私はやっぱり来るんじゃなかったと後悔する。
だけどここまで来たらもう引き返せなかった。せめて幽霊の存在だけでも、確かめたくて。
音楽室のドアをガラガラと開けた。瞬間、壁一枚に遮られていた音の波が私の顔を撫でる。びっくりして思わず退き、だけど好奇心には勝てずに思い切って足を踏み入れる。
グランドピアノの前には人が座っていた。そこでまず、よかったと胸を撫で下ろす。無人なのにピアノが鳴っていたりしたら、それはもう恐怖以外の何者でもない。
あとはピアノを弾く人物が幽霊などではない普通の人間だと分かればいいのだけど。そう思いながらじっくりとピアノを弾く青年の顔を眺めていた。
「いい夜だね、美しい満月だ」
青年が声を発した。歌うみたいに軽やかで流麗な響き。びっくりして思わず「は、はいっ!」と上擦った声を投げる。
「緊張しなくていいのに。それとも警戒? 僕を幽霊か何かだと思ってるのかな」
かなりの勘の鋭さに思わず「おお……」と声が漏れた。いけない、と思い口を手で押さえると、彼はおかしそうにふふ、と口元だけで笑う。
「なんか君、見覚えあるなぁ……どこかで会ったかな? 会うことは多分ないはずなんだけど……」
この近くに住んでいる人ではないのだろうか、彼はそんな意味深なことを言って顎に手をやる。
「私は、あなたにあった覚えはありませんけど」
「そっか。じゃあ僕の思い違いかな」
彼はあっさりと割り切って言った。不思議な人だ。
「えっと、あなた、どうしてここに? ていうかここの高校の生徒……じゃないですよね?」
透き通るような白い肌は紫外線を浴びているようには思えない、どこか遠い国で生まれた人みたいに見える。瞳は夜の青をはめ込んだような深い色。思わず吸い込まれそうになる。
「君、月って今までにどれくらい見たことがある?」
青年はなぜか私の問いに答えずに新たな問いをよこしてきた。
「えっ……と、月は毎日見ますけど……?」
「そうなんだ。僕は月を見たのはほんの数回くらいでさ。久しぶりに見る月がこんなきれいな満月とは、僕も運がいいよね」
「はぁ……」
頷きかけたけど、すぐに首を傾げた。月を見たのがほんの数回? そんなはずはないでしょう。月というのは常に地球の周りをまわっているものだ。その姿をこの歳になるまでわずかしか見ることがないなんてありえない。そもそも何歳かは、分からないけど。
ピアノを弾く手を止めた彼は微笑をたたえて私を見る。
「おっと、もうこんな時間だ。僕もそろそろ帰らなきゃいけないんだけど……そうだ。君、ピアノを習ってみる気はない?」
かと思えば突然そんなことを言うものだから、私は思わず拍子抜けしてしまった。
「帰らなきゃいけないなら帰ってくださいよ、なんなんですかピアノを習うって」
「帰る前に、ちょうどいいから君にピアノを教えてあげるよ。僕の大好きな曲」
彼は話を聞く耳がないのか、私の言葉に全く噛み合わない言葉で応える。
「ここ、座りなよ。夜風に吹かれながら弾くピアノは、なんとも風情があるよ?」
彼は自分の座る椅子をトントンと叩いてスペースをあけた。彼が何を思ってそんなことを提案したのかは知らないけど、私は大人しくその場所に座る。
彼の隣は温度がなかった。普通はこれくらい近づけば人の体温というものを感じてもおかしくないはずなのに。それともあまりに私の感覚が鈍ってしまったのだろうか。
彼はそっと、音を紡ぎ始めた。優しい音色が耳に届く。
「これ、なんていう曲なんですか?」
「『月の光』」
月の光。たしかに夜の闇を淡く照らす月のように優しく、儚く、美しい曲だ。
「作曲はドビュッシー。聞いたことある?」
「ああ……あるかも、しれません」
クラシックの素養などなく有名なクラシックの曲名も創造者も知らない。それは少し恥ずかしいことかもしれないけれど、出会いとは知らないからこそのものだ。知らないからこそ美しい。
「美しい、曲ですね。なんていうか……優しくて、泣きたくなる」
心に空いた穴を広げるでも埋めるでもなく、ただそっと、しなやかに撫でるような音だった。それはどんな慰めよりも私の心を癒やし、包み込んでくれる。
得体の知れない彼に、今ならなんでも打ち明けられる気がした。自分の心が崩れ去ってしまう前に、誰かに打ち明けたい。目の前の彼に。
「お母さんが、死んだんです」