委員長、また妹さんが来ているよ。生徒会の女子が笑いながら幹久に言う。
 幹久(みきひさ)は書類から顔を上げて、波の無い調子で返した。
「悪いけど、今日はもう帰るよ」
「はーい」
 生徒会の仕事を丸投げした幹久に、彼女たちはまだ笑っていた。
 生徒会でもクラスメイトの間でも、暗黙の了解になっている。二つ年下の義妹がやって来ると、幹久は何を置いても義妹の元に向かってしまうということ。
 生徒会室は、明治の頃に作られたテラスの中にある。びっしりと壁を埋め尽くす本棚の中に、プラネタリウムの模型が浮く。
 そんな由緒高きテラスの隣に、小さな化学室がある。
 美穂(みほ)はいつもそのどこか閉鎖的な部屋の隅で、所在なさげに立っている。
「美穂、お待たせ」
 幹久が表情を和らげて近づくと、美穂は申し訳なさそうに目を逸らして言った。
「ごめんなさい。忙しいよね」
「いいよ、大した仕事じゃないから」
 義理とはいえ高校生の兄妹が一緒に連れ立って帰るのは、確かに特異だと幹久もわかっている。
 ただ幹久は物心ついた頃から美穂の手を引いて歩いていて、高校生になってもどうにもその習慣をやめようとは思えなかった。
 これって良くないことかな。幹久はそう思って、ふと美穂が窓の外を見たことに気づいた。
 ここからだと、校庭の部活の様子がよく見える。けれど部活に興じている当の本人たちからは、角度からしてこちらが見えない。
 美穂がここから誰を目に留めているのか、幹久は薄々感じ取っている。
 一瞬の沈黙の後、幹久は何気なさを装って問いかけた。
「寄り道する?」
 ただ幹久が問いかけると、美穂は反射のように返すのだ。
「ううん。まっすぐ帰る」
 子どものように「いい子」。悪い子になれない美穂に、幹久はそれ以上の問いは投げられない。
「わかった。帰ろうか」
 今日も幹久は、美穂が誰を気にしているのかはっきりさせないでいる。
「週末は、一緒に実家に行かなきゃな」
 幹久は目を逸らして告げて、美穂の手を取って歩き出した。


 幹久と美穂が一緒に暮らしているマンションから、迎えの車で三十分のところに実家がある。
 実家からでも高校に通える距離だが、幹久が美穂との二人暮らしを切り出したとき、父は奇妙に納得がいったような顔をしていた。
 そのとき、父は親の顔とは違う顔で幹久に告げた。
「側に置いておきたいんだな。いいだろう」
 父には前から見透かされていたから、幹久は目を逸らしただけだった。
 紅く染まった葉が落ちる日の朝、父と義母の暮らす実家は不自然なほど静かだった。
 それはこの家が古い地縁の者たちが住む丘の上にあるからでもあるし、大人しさを装いながらいつも主人たちのふるまいに聞き耳を立てる、使用人たちの気質のせいでもあった。
美里(みさと)に家の中に入るように言いなさい。朝食の時間だよ」
 父は障子を開けていた使用人に、優しいような命令を義母へ伝えるように言った。
 自治会費だけで普通のサラリーマンの給料が吹き飛ぶような、そんな土地の主たる父は、金持ちという名の肥えた醜さがない代わりに、支配者という名にふさわしい傲慢さがつきまとう。
「今日は何度も着替えないといけないからな。朝は楽な格好をさせてやりなさい」
 父は、暴力はふるわないだけで、義母の服から食事から、生活の細々としたことまで支配している。
 義母は貧しい家の子どもで、父の庇護を必要としていたらしい。けれど二十近く年上の男に後妻に迎えられて、いつの時代のことなのかと疑わなかったのだろうか。
 義母は線の細い綺麗な人ではあるが、糸のように頼りない気性の人で、幹久は好きではなかった。
 使用人が足音をひそめるようにして入って来て告げる。
「お食事の用意ができました」
「ああ、行こう。幹久」
 父が応じて、幹久も続く。居間というのは父と義母の関係に巻き込まれる場で、多少好かない気分になる。
 けれど義母と顔を合わせる前に、幹久の目を引いてとらえた姿があった。黒地に紅葉の着物姿の美穂が、あどけなく幹久を見上げたからだった。
 美穂の着付けの仕方はまだ幼いのに、そよぐ風をまとうようによく似合っていた。
 幹久は微笑んで美穂に問う。
「お義母さんに花は気に入ってもらえた?」
「うん。お兄ちゃんの言う通りだった」
 幹久が選んで持たせた手土産に、美穂はうれしそうにうなずく。
 これでいいかな、喜んでもらえるといいんだけど。たとえ自分の母親のことでも、美穂は幹久にたずねるのをやめない。
「お兄ちゃんはいつも何でもわかるんだね」
 座敷から居間に移る隙間の時間、ぽつりと何気なく言った美穂の言葉が耳に残って、その頃には幹久の憂鬱は吹き飛んでいた。
 団らんと言いながら、いつも幹久は美穂しか気にしない。食が細い美穂を構うのに夢中で、実のところ父や義母がどんな顔をしているのかもどうでもよかった。
 けれど父と義母がいないわけではなく、二人が幹久と美穂を見ていないわけでもない。おそらくだいぶ前から幹久の感情を知っていて、二人が一緒に暮らすのを黙認した。
 ふいに父が幹久に声をかけて、顔を上げた幹久が見たのは、慈愛に満ちたような父の微笑みだった。
 でも幹久は気の無い返事をしただけで、話題はさほど弾まない。
 ただ幹久は父に似た顔をしている自覚をしながら、また美穂の方に目を戻した。


 昼、幹久たちは親類の祝い事に参加していた。
 郊外の海辺に佇むテラスの立食には、昼間だというのにどこか陰の匂いがつきまとう。
 今日は親類に子が生まれたとのことで、普通の親類なら祝い品を贈るだけのところを、幹久の親類は必ず集ってあいさつを交わす。
「商いはどうですか?」
「ありがとう、変わりないわ。娘さんもそろそろ学校を卒業する頃かしら?」
「ええ。じきにこういう集まりにも顔を見せますので、よろしく」
 親類は立ちながらレモネードとクラッカーを手に世間話を交わすが、心の内で笑っているかはわからない。
「美穂さんは、高校はどうかしら? ご両親から離れてお住まいでしょう?」
 遠縁の叔母にたずねられて、幹久の隣に立つ美穂はあいまいに笑った。
「家にいた頃とは何もかも違って、戸惑っています。気楽さとは無縁で」
「そうなの。私は結婚するまで実家を離れたことがなかったのよ」
 叔母は夫を振り向いて苦笑すると、案外優しく言った。
「寂しくなったらいつでもお帰りなさい。昔とは違うのだから」
 彼女はそう言ってあとは一言二言他愛ない話をすると、夫と共に今日の主賓の元に向かった。
 集まりが始まってから、揺り籠に収まっている赤ちゃんの周りには人が絶えない。みな祝福の言葉と歓迎のまなざしを注いで立ち去っていく。
 親類はそれぞれに暗い生業を持つが、それだけでもない。身内をいつもどこからか見守っていて、それは情という呼び方もされる。
 幹久も主賓である新しい一族の元を訪れると、枕元の銀の鈴を鳴らして彼女の誕生を祝った。
 宴の中頃、幹久と美穂はテラスから抜け出した。空は青く、窓から潮風が舞い込む、明るい午後だった。
 二人が向かったのは、美穂のお気に入りの果樹園だった。
 外は絶好の行楽日和だというのに、そこは温室特有のじっとりとした閉塞感があった。
「ここ、好き。空気が甘いの」
 子どものように手を広げてぐるりと辺りを見回して、美穂ははしゃいだ声を上げた。
 美穂の笑顔に目を細めながら、幹久もうなずく。
「この間の誕生日に父さんにもらった。気に入ったなら、美穂にあげるよ」
 ここは父の代で保有した果実園だが、管理は地元の農家に任せている。父は時々一人で散歩に来ることがあるくらいで、利益を出すより見て楽しんでいた。
 幹久は木々の間を遊ぶように歩く美穂を見守っていた。
 温かな箱の中に美穂と二人きりでいる。ふとそう思って、幹久に小さなざわつきのような感情を伝えてくる。
 幹久は美穂の隣に並んで言う。
「美穂、食べてみたら?」
「売り物じゃないの?」
「出荷するには向かないんだって」
 美穂が果実を見上げる目は不思議そうだった。至るところに実ったスモモは、赤く熟れて出荷間近に見えた。
「でもおいしいらしい。……食べてごらん」
 どこか悪いことに誘うような気分になりながら、幹久は美穂に言った。
 美穂はひときわ大きな実を手に取ると、そろそろと口をつけようとして……幹久を振り向いた。
 幹久は不思議そうに問いかける。
「どうかした?」
「だって」
 美穂は聞き分けのいい子どもの顔をして、幹久に言う。
「お兄ちゃんより先には食べられないよ」
 その大人しさにつけこんでしまいたいと、幹久は何度となく思ったことがある。
 子どもの頃、家族も使用人も目を離していたほんの短い間、美穂さえも覚えていないだろう記憶がある。
 スモモをおいしそうにかじる美穂が、あんまりにおいしそうに見えた。だからそんな美穂の頬に……一度だけ口づけたことがある。
 幹久だけの秘密の時間を振り払うように、幹久は言った。
「出よう。戻らないと」
 美穂は幹久の言う通りに、一緒に果樹園を出た。
「……あ」
 けれど二人にとって幸いなのか不幸なのか、外はいつの間にか雨が降り始めていた。


 二人が安っぽいホテルに入ったのは、夜の帳が下りてくる頃だった。
 普段、迎えの車で移動するばかりの二人だから、携帯で車を呼べばそれで済むことだった。
「帰りたくない」
 だから今の状況は、幹久が子どものようなことを言って繁華街に入った挙句、体を冷やしてしまったからだった。
 二部屋借りる金だって持っていたのに、幹久はそれもしなかった。そうなると、お互いバスルームで交代にお湯を使うことになる。
 幹久は美穂がバスルームを使う間、上半身だけを脱いでベッドに座っていた。
 何でこんなことをしてしまったんだろう。そんなことを繰り返し思ううちに、美穂がバスルームから出てきた。
「お兄ちゃん、次……」
 美穂が横を通り過ぎるとき、幹久は彼女の手をつかんでいた。
 きょとんとした美穂の顔が、ちょっと憎らしかった。
 その間に迷ったわけは、チープな言い方でいけば、欲情だった。
 たぶん美穂の方からは幹久に抱いていない熱が、瞬間的にあふれ出ようとした。
 それを留めたのは、化学室で外を見ていた美穂のまなざしだった。
 美穂は大人しく、いつもいい子で、彼女を囲む内向きの世界に文句さえ言ったことがない。
 けれどここのところ、彼女は外ばかり見るようになった。
 自分ではない……自分だったら、よかったのに。
 次の瞬間には、幹久は自分の首にかけていたタオルを彼女の頭にかけていた。
「……よく拭かないと、風邪ひくよ」
 美穂の頭の上からタオルをわしゃわしゃと動かして、幹久は言った。
 泣く直前のように口の端を下げた幹久の顔は、頭二つ分小さな美穂には見えない。それをいいことに幹久が好き勝手にタオルを動かすと、逆に美穂は笑っていた。
「くすぐったい」
 美穂は幹久に、危機感なんて持たないらしかった。それは信頼なのか、男として見られていないからなのか、幹久は問い詰めようとは思わなかった。
 だから幹久はベッドに腰を沈めて、ぽんと隣を叩く。美穂は大人しくその隣に腰を下ろした。
「美穂、お願いがあるんだ」
「なに?」
「今日は、隣で寝て」
 幹久の言葉に、美穂は笑いながら答える。
「どうしたの、お兄ちゃん。なんだか子どもみたい」
「そうだな。子どもの気分なんだ」
 幹久も笑って、頭の後ろで手を組む。
「こんな気持ち、十年経ったら忘れてる」
 自分で口にした言葉は、少なくとも今は嘘だった。
 子どもの頃から美穂に恋をしていたことは、無色の鎖のように心を縛ってきた。これから十年経って自由になっているとは、自信がなかった。
 美穂は一つしかないベッドの上で、幹久を見上げて言う。
「いいよ。じゃあ私も子どもの気分で、お兄ちゃんと一緒に寝る」
 ……君はどこか楽天的で、残酷で、手を焼くほど可愛い。だから俺はきっと、君を忘れないのだろう。
 外はまだ雨降る夜だった。けれど更けてきた空にはいつか星が巡る。
「初めてって、苦いのな」
 独り言のようにつぶやいて、幹久は少しにじんだ目を閉じた。