湿気が足に絡みつく。水の澱んだ匂いもした。
沢はもうすぐなはずだ。足元はぬかるんでいて、歩きづらかった。
「うっそ! 武川君? こんなところで何してるの?」
突然、女の声が聞こえた。
暗闇と藪と闘いながら、スマホのライトを頼りに歩いていたので、 僕はぎょっとした。
「やっぱり武川君だ……」
心臓が飛び跳ねた。
「なんだ、柊か。こんなところで何してんの?」
「わたし、仕事で来たの。久しぶり!」
柊はカメラを首から下げていた。
「何? 雑誌のバイトでもしているの? さすがだな。カメラ好きって言っていたもんな。よかったな」
「大学に通いながらバイトだけど、出版社で下積みさせてもらえることになったの。でもね、いろいろあってね、きょうはそれとは別の仕事。武川君はどうしてここに来たの? やっぱり蛍を見に来た?」
「ああ、蛍でも有名だけど、この沢はお化けが出るって、噂を知ってた?」
「ええ! やめてよ。知らなかった……」
柊の顔が青くなった。
「まあまあ、だいたいそういうのって、デマだし」
高校時代と変わらず、柊は怖がりだな。
肩をすくめて言うと、柊はほっとした顔をする。
「武川君は何してるの?」
「ああ、僕は……まあ、あれだ。その、怖いもの見たさっていうか……」
「やだ、信じられない……。そんなことしてるの? 武川君、君も大学生だよね? しかも大学四年生。来年から社会人よ」
柊は呆れた声をだした。
二人で藪の中を歩いていくと、水音が聞こえた。
暗闇の中に蛍の光がついたり、消えたりしている。
昔もこうやって二人でじゃれ合いながら話をしていたな。
柊は女子の中でも話しやすくって、でも、僕以外の男子とは親しくしているところはみたことがなかった。柊はモテていたのに、僕だけ特別だった。
どちらかが好きと言えば、付き合うことになりそうだなという雰囲気があったと思う。思い違いがなければ。
柊は目がクリっとしていて、表情がくるくる変わる。相変わらず可愛かった。
高校を卒業しても、二人の関係はずっと変わらないと思っていて、連絡をしなかったのが間違いだった。大学が違っていたということ、大学生活に慣れるまで余裕がなかったというのもある。そうしたら連絡するきっかけがなくなっていた。
でも、ずっと後悔していた。
忙しいなんて言い訳せず、毎日メッセージのやりとりをすればよかった。あの時の僕は、柊の大切さを分かっていなかったのだ。
大学に入って、女子と話したり、付き合うこともあった。でもいつも柊と比較していた。
不完全燃焼というものは後を引く。昔と変わらない柊を見て、僕はまだ柊が好きだという気持ちを確認した。
なんで高校生の時、自分から告白しなかったんだろう。
青臭いプライドに囚われて、自分から好きだというのをカッコ悪いと思っていた。
でも、今度こそ、間違えない。
「柊は一人?」
「え? あ、一人だよ」
柊は笑った。
恋人がいるか聞いたつもりだったが、柊はどんな意味で応えたんだろう。一人で来たってことなんだろうか。
でも、恋人がいてもいなくても関係ない。
僕は柊がほしい。
柊との仲を復活させて、できたら付き合えるところまで持っていきたい。
僕は柊をぜったい堕とすと決めた。
「こんなにいっぱいの蛍の光があると、なんとなく風情ってものがないな」
「え?」
「でも、夜景より蛍の光のほうがロマンチックか?」
「何ブツブツ言っているのよ?」
「いや、何でもない」
柊に僕の計画がばれたのではないかと思い、若干居心地が悪くなる。ようやく柊のことが好きだったと自覚したのも後ろめたかった。
僕は頭を掻いた。
「武川君は一人で来たの?」
「いや、幽霊を探しに友達と来たんだけど。あれ、なんでいないんだ? 先に来ていると思ったんだけど。迷子か? まあ、スマホで連絡が取れるし、たぶん、大丈夫だよ」
僕は周りを見る。もしかすると友達も蛍に見惚れているのかもしれないし、むしろ告白するなら僕一人がいい。このチャンスを逃してはいけない。
「肝試しとか、風情がないとかひどいわ。ここは日本最後の蛍の楽園といって、蛍がたくさんいることで有名なのに……。友達って霊感が強い山内君とか?」
「ははは。悪い悪い……。たしかに、綺麗だけど。そうそう、あいつ、浄霊とかできるんだって。すごいよな」
焦った僕は余計なことを言った。二人の間に静けさが走る。僕は暗闇に浮かぶ小さな光たちを見つめた。
「武川君、変わってないね」
柊は苦笑する。
僕は柊をじっと見た。
高校生の頃より綺麗になっていた。黒くつややかな、長い髪。唇はふっくらピンク色。ほほが少し赤いが、肌は色白い。というか、ちょっと不健康か?  痩せすぎ? バイトのし過ぎだろうか。
きょうの白っぽいワンピースは柊によく似合っていた。足場の悪いところなのに、ワンピースで来たからだろう。 裾の方は泥だらけだった。
「なんか痩せた? 具合でも悪いのか?」
「忙しくってね」
「わかった、けっこうブラックなんだろう? 顔色わるいぞ」
「まあ、ブラックと言えばブラックかな」
柊はファインダーをのぞきながら、答えた。
「でも、カメラマンになれたんだな。よかったな」
柊は僕の言葉に悲しそうな顔をした。
「仕事は大変でね。やめたければ新しい人を連れて来いって。でも武川が来ちゃった。会えてうれしいけど。運命って残酷ね」
カメラをカバンの上に置いて、柊は僕を見つめた。
「ブラックなの? 人手不足? 代わりの人を連れて来いってひどいよな」
「ある意味ブラックよね。私の代わりなんてさせたくないもの」
蛍は僕らの周りを静かに飛んでいた。
大きい光も小さな光も点滅している。まるで会話をしているようだった。
柊は僕を獲物を見るかのように見ていたと思うと、目を細めて口角をあげた。
僕はなぜか柊の視線が怖くなった。背筋がぶるっとする。
これから告白をしないといけないからだろうか。
武者震いに違いない。
僕は二年越しの恋の決着をつけるのだ。
「山内、どこ行ったかな。その辺にいると思うんだけど、覚えてる?」
「覚えてる、覚えてる。高校の時、君たち目立ってたもんね。大学生になっても楽しそうだね?」
「そうか?」
「うん、女の子たちが武川君たちのこと、キャーキャー言いながらあとを追いかけたり、群がっていたじゃない?」
「そうかな。僕のそばにいたのは、柊だけだよ」
柊が手を伸ばせば触れる距離にいる。
その事実が僕の胸を高まらせる。
「そんなことない。武川君は絶対モテてた。武川君を好きな女子から、私、嫌味言われたんだよ」
柊はちょっと怒ったようにいうと、蛍が一斉に光るのをやめた。
突然暗くなって、僕は鳥肌が立った。
「僕は、モテた覚えないね。誰からも好きっていわれなかったし。僕が目当てじゃなくて、たぶん、山内あたりじゃないか? 女子のお目当ては。山内は毎週のように告白されていたからな」
「え? そうなの? 告白されていたのは武川君じゃないの?」
「うん、全くモテなかったよ。山内に伝えてほしいと言われて、山内を呼び出すのが僕の仕事。ああ、柊にモテない黒歴史を暴露され、悲しくなってきた。ねえ、柊、責任取ってよ」
僕はわざとらしく頭を抱えて地面に座った。
「責任って……。ごめん。わたし、てっきり」
「高校の時、僕のこと、気にしてくれてた? なんてね。そんなわけないか」
僕が顔を上げると、柊の顔がすぐそばにあった。
今こそ告白だ。がんばれ、自分。
「あのさ、僕、柊のことがずっと」
好きだと言おうとしたら、柊は突然立ち上がった。
タイミングが悪い。告白失敗である。
藪がガサガサと動いた。山内かと思ったら、静かになった。
柊は藪を睨んだままだ。
「もう少しだけ、時間をちょうだい」
柊がつぶやく。
「柊? こわくないよ。大丈夫、僕がいるから」
「……うん。そうだね」
柊は苦笑した。
「僕だって、男だからね。好きな女の子くらい守るよ」
「え?」
「あ、あああ」
僕は血が逆流するのを感じた。
うっかり言ってしまった。
柊はクスクス笑う。
「笑うな! 真剣だったんだぞ」
「うん。そうだよね。ありがとう」
ありがとうってことは、ダメだったか。
僕は眉根を寄せて、口を引き結ぶ。気持ちが一気に急降下した。
「そうじゃない、そうじゃないの」
柊が困ったような顔で笑った。
「そうじゃないって、つまり? 好きってこと? 真面目に言っている?」
「嘘なんてつかないわ」
「すごい、嬉しい」
やったぞ。高校時代の僕の思いが成就した瞬間だった。
僕の気持ちが晴れ渡る。
でもなぜお洒落なワンピースを着てここにいるんだろう? 誰かと来ていた? それに、いつから僕のことが好きだったんだろう。
だんだん不安がもたげてくる。
「あのさ、取材って一人で来るもんなの? 危なくない? 女の子一人で、いくらブラックでも夜は危ないでしょ。僕を呼んでくれれば今度こそ一緒にいくから」
「女の子扱いされたわ。一緒にいってくれるの?」
柊は嬉しそうに笑う。
「うん。一緒に行くよ。あのさ、高校の時、僕のこと、好きだった? なんてね。そんなわけないか」
僕が顔を上げると、柊の顔がすぐそばにあった。
「高校生の時からずっと好きだったよ、武川君のこと」
「え? マジ? ほんと?」
「私の気持ち、知らなかったの?」
「なんとなくだけど。じゃあ、僕の気持ちは知っていた?」
「まあね、なんとなくだけど」
柊は僕の口調を真似てくすりと笑った。
「僕たちは遠回りしたな。もったいないことをした」
「本当だね」
柊と僕はまた光り始めた暗闇を見つめる。
「柊はいま、誰か付き合っている人、いるの?」
大事なことを聞くのを忘れていた。
柊は今誰が好きなのか。
僕は柊の手を握った。
柊はすごい勢いで横に首を振った。
「よかった。僕もいないんだ」
柊の顔は真っ赤になっている。
「柊、こっちを向いて? ちゃんと言うから、ちゃんと聞いて」
「は、はい」
僕はまっすぐ柊の目を見る。
「僕は柊のことが好きです。付き合ってください。ずっと一緒にいたい」
「え? いいの?」
柊はびっくりして、地面に置いていたカバンにぶつかった。カバンの上のカメラが滑って、斜面へ向かって転がりそうになる。
「あ!」
僕はあわてて落下するカメラを手で受け止める。バランスを崩した僕は、もう少しのところで沢のがけから落ちそうになった。
「だめ! 危ない」
柊は僕の手をひっぱった。僕は何とかカメラを拾い上げることができた。
「もう、武川君はやっぱり生きていてよ」
柊は泣きそうになる。
「大げさだな」
「カメラなんていいのに。せっかく両思いになったのに。やっと会えたのに……」
「でも、柊の大事なものだろう?」
柊は僕に抱きついた。柊の身体は冷え切っていた。それに水の匂いがした。
「柊、大丈夫? 風邪ひくよ」
僕は「そろそろ一緒に帰ろう」と柊を誘った。
柊は寂しそうに笑う。
「武川君、ほんと大好きだよ」
柊は半べそをかいている。
「これからはずっと一緒だから、泣かないで。またデートしよう。ここにもう一回来たっていい。僕たちの再会の場所だから」
「……うん」
柊はぽたぽたと涙をこぼした。
柊に僕のジャケットをかけてあげた。これでいくらか彼女の身体も温まるに違いない。
「具合悪くなったら、しばらくデートできないぞ」
僕の言葉に柊は小さく笑った。
柊の冷たくなっている手に僕は息を吹きかけて、両手でこすった。
「武川君はあったかいな……」
「涙もろいのは具合が悪くなってきてるんだよ。早く帰ろう」
「ごめん。一緒に行けない。だって……」
柊は頭を横に振る。
「どうして? なんで一緒に帰れないの?」
僕は柊の涙を手で拭い、柊の顔を見た。
両手で柊の頬を包んだ。柊の顔は氷のように冷えていた。
柊は悲しそうな顔をする。
柊のまぶたに唇が触れると、柊は少し驚いて泣くのをやめた。
「今……」
「ごめん」
ちょっとばつが悪くなってそっぽを向く。
「嬉しかったよ……。武川君、それとも、私と一緒に来る?」
柊は僕のシャツの裾をつかむ。
「それもいいかもね」
照れ臭かったけど、柊と手をつなぎたくて、後ろにいる柊に向かって手を出した。おそるおそる柊は僕の手を握った。柊の手も冷たかった。
蛍はもういなくなっていて、真っ暗だった。
「僕は柊と一緒にいくよ。心配しないで」
柊は小さく頷いた。
遠くで街の明かりが見える。
僕たちは藪の中をガサガサと移動する。
あの橋をわたると、街へ行くはずだ。
だんだん柊は歩くのが遅くなっていった。僕は柊に合わせてゆっくり歩く。
まだ二人きりの世界に浸っていたかった。
柊は僕の方を見た。
僕は新しい彼女にほほ笑んだ。
明るいところで見た柊は、やっぱりとにかく可愛かった。
「さあ、一緒に帰ろう」
僕が言うと、柊は俯いて黙ったままだ。
「きっと僕たちは結婚して、子どもができて……、あ、子どもがいなくても別にいいけど。とにかく僕は柊と一緒に歳を取っていくんだ。楽しそうだろう?」
山の端が朝日で明るくなってきた。
結局僕らは蛍の沢で一晩すごしてしまった。柊も寒かっただろう。
柊は黙って首を小さく横に振った。
「ごめんなさい。そっちには帰れないの」
柊の言葉に驚いた。
「武川君はこのまま帰って……?」
わけが分からなくなった。
「どうしてそんなこというんだ……。本当は結婚しているとか? 恋人がいるとか?」
柊を抱きしめると、また水の匂いがする。ワンピースが濡れていた。
柊はまた涙をこぼした。
「帰ったら一緒にお風呂に入って寝よう。あったかい布団に二人でくるまって、何があったか聞いてやるから。大丈夫。二人なら何でも解決できる。やっと両思いになったんだから」
僕は柊をきつく抱きしめる。
「ねえ、武川君は、私のこと、もうわかってるよね?」
柊は僕の胸を強く押しのけ、一歩退いた。
「なんのこと?」
柊の顔は涙で濡れている。
「武川君はわかってる。ほんとはわかってるはずよ。私、ここまでしか行けない」
「え? いっしょに橋を渡って、僕の家に行こう。ここから近いから。一緒に暮らしてもいいし」
「武川君……ありがとう。もっと早く会いたかった。どうしてこんなことになっちゃんたんだろう」
やめろ。そんなこというな。聞きたくない。
僕は抵抗する柊の唇をふさぐ。
柊は僕を押しのけようとしていたが、やがてあきらめたように抵抗しなくなった。
「武川君のこと、本当に好きだった。最後に思い出したのが武川君のこと。会いたかった……。死ぬ前に、もう一度会いたかったの。神様、ほんとうに再会させてくれてありがとう。でも、私、武川君を殺すなんてできない。だから、もう消えるね」
「なんだよ、おかしなこと言うな。やめろ」
柊の身体が透けていく。
僕は抱いている柊の感触が減っていくのを感じた。
「ほんとに、ほんとに大好きだった。一緒に蛍が見ることができてうれしかったな。生きているうちに会いに行けばよかった。私がこの場所から解放されるには誰かと交代することだったの。これが今の仕事。武川君を殺して、武川君の魂をここに縛り付けるところだったの。ブラックでしょ? でも、山内君のおかげね」
僕を殺す? 魂を縛り付ける? 山内が何をしたんだ?
僕はついていけなかった。
柊の姿が何重にも淡く重なって、空気中に消えていく。
ダメだ。柊、いかないで!
僕は柊を捕まえようと手をだすが、つかめない。
「武川君、大好き。ありがとう」
橋に朝日が差し込むと同時に柊は消えた。
柊は笑っていた。
朝日をあんなに憎いと思ったことはない。
僕は橋の上に力なく座りこんだ。
僕のジャケットは、彼女の身体の形に濡れていた。
柊は……、柊はたしかにここにいたんだ。
僕は、泣いた。
「おーい、武川!」
遠くから声が聞こえた。
山内が僕を見つけてくれた。
「無事だったか! よかった」
山内は喜んだけれど、僕の心には大きな穴が空いたままだった。
街に向かって僕らは無言で歩き出す。しばらくすると、鳥の鳴き声が聞こえた。新聞を運ぶ自転車やスーツを着た人とすれ違う。人間の世界だ。
「武川は柊さんが成仏したのを見届けたか?」
山内が重い口を開いた。
「お前がやったのか。お前が柊を浄霊したのか!」
山内の襟首をつかんで揺する。
山内は抵抗しなかった。
「ごめん。お前と柊さんを守るには、それしかなかったんだ」
「どうして、どうしてなんだ。柊は消えてしまったんだぞ」
僕は空を見つめる。瞬きをすると涙がこぼれそうだった。
「柊さんは去年あそこで足を滑らせて亡くなって、地縛霊になっていたんだ。自由になるには、誰かと交代しなくてはいけなかったんだ」
「そうしたら、僕が来たってわけか」
山内は小さく頷いた。
「柊さんは武川を殺したくなかった。あそこの土地に縛りたくなかったんだ。そして、僕に浄霊されることを選んだんだ。柊さんの気持ちをわかってやれよ」
「僕の初恋だったんだ。ずっと柊といっしょにいたかったんだ。もっと早く会いに行けばよかった」
僕の肩に山内は手を置いた。
「いつかまた会えるよ」
山内が口角を上げる。
朝焼けの中、辛うじて見える星が一瞬輝いたように見えた。