一年で一番昼が長い日、異都の人々は石のように眠って過ごす。
蛇の毒を調合した香を洞に焚きしめて、無理やりに冬眠状態にする。もちろん体に良いはずはない。子どもなどは体に麻痺が現れることもあり、病人はそのまま目覚めなくなることもある。
けれど人が暗闇の中で火を焚かずにはいられないように、異都の人々は太陽の力が一番強い一日を眠ることでしか過ごせなかった。
太陽、神、恐怖。どれも異都の人々には同じものだった。そして夏至はそれらが一番近くに迫る日だった。
名那が眠れずに夜を越した後、静まり返った朝がやって来た。
黒耀は名那に朝食を取らせると、手を引いて坑道を歩き出した。荷物といえるほどのものは持っていない。異都の人々が新しい洞に移るときは水や食料を持てる限り持っていくものだが、黒耀の引っ越しはいつも身軽だった。
人々は眠りにつき、灯りも残らず消えていた。水の音はやんで、植物も色を落としている。
それは世界が黒耀と名那を残して滅んでしまったようだった。
「……こわい」
名那がぽつりとつぶやくと、黒耀が足を止めて振り向く。
「帰りたい。いや。引っ越しなんてしたくない」
名那の言葉は、子どもがわがままを言うように聞こえただろうか。黒耀は名那の頬を両手で包んで、あやすように問う。
「どうした、名那? 引っ越しなど何度もしただろう?」
いやいやと首を横に振る名那を、黒耀は不思議そうにみつめる。
「やだ……!」
とうとう泣き出してしまった名那を抱き上げて、黒耀は彼女の背中をさする。
「よしよし、いい子だ。歩くのはもう嫌か。抱いていってやろうな……」
名那は小柄ではあるが、十六歳になる。だが人一人の重さなど意に介さないように、黒耀は名那を抱えても足取りを緩めなかった。名那はしがみつくように黒耀に腕を回して、時折しゃくりあげて泣いていた。
やがてたどり着いた新しい洞は、蒼白く光る壁に四方を塞がれていた。肌が粟立つような冷気が立ち込めていて、名那は震える。
そこには既に食卓も椅子も置かれていて、生活に必要なものはひととおり揃っていた。けれど冷えた家具が、名那には恐ろしかった。
「新居の祝いだ。お食べ」
黒耀は名那を敷布の上に座らせると、携えていた唯一の荷物らしい鞄の中から金属の筒を取り出す。
彼は蓋を開けて中を名那に見せる。筒の中に氷が入っていた。異都では氷は金よりも貴重で、それを甘くして食べるのは子どもたちのあこがれだった。
「食べたくない。眠りたい」
けれど名那は顔を背けて、まだ涙の跡が乾かない頬を押し付けるようにして膝を抱えた。
皆と同じように眠りたかった。ぜいたくな甘い菓子がなくてもいい。蛇の毒で割れるような頭痛に苦しんでもいい。そうしたら少なくとも、こんな冷えた静寂の中からは抜けられる。
きしっと名那の座る場所が音をたてた。名那は思わず顔を上げる。
座ったとき、奇妙な感じがしていた。敷布は台の上に広げられていた。椅子よりも広い台で、柔らかい。
「親では私を愛せないか?」
台がきしんだのは、黒耀が名那の足の間に膝をついたからだった。まるで名那の足を閉じさせないような仕草で、名那はつっと冷たい汗が流れる。
「こ、黒耀……さま」
「私はお前に愛されるためなら、いつでも違うものになる。……今すぐにでも」
黒耀は名那にのしかかるように組み敷く。
「そういう意味では、私はただの赤子に過ぎないんだ」
彼がつぶやいた言葉は、子どものように聞こえた。彼のそんな声音は知らなくて、名那は聞き間違いだと思った。
「時が必要なら、思い出してくれ。私たちは何度となく時を重ねて過ごしてきただろう?」
黒耀は名那と額を合わせて目を閉じる。
その瞬間、名那に流れ込んだ無数の光景に、名那は息を呑んでいた。
神の世の出会い、家族として過ごした日々、夫婦として命を終えた夜。
その長き時の流れが、今の名那をかき消してしまう。
「……ぁ!」
名那はふいに短い悲鳴を上げて意識を失う。
黒耀は名那を見下ろして彼女を揺さぶった。
「名那? ……名那」
名那は涙をあふれさせて意識を落としていた。黒耀がどれだけ呼びかけても、強く揺さぶっても、目覚めるそぶりはない。
「一つの生しか、私たちは共にいられないのか……!」
黒耀は名那を抱きしめて、呆然と声を震わせていた。
蛇の毒を調合した香を洞に焚きしめて、無理やりに冬眠状態にする。もちろん体に良いはずはない。子どもなどは体に麻痺が現れることもあり、病人はそのまま目覚めなくなることもある。
けれど人が暗闇の中で火を焚かずにはいられないように、異都の人々は太陽の力が一番強い一日を眠ることでしか過ごせなかった。
太陽、神、恐怖。どれも異都の人々には同じものだった。そして夏至はそれらが一番近くに迫る日だった。
名那が眠れずに夜を越した後、静まり返った朝がやって来た。
黒耀は名那に朝食を取らせると、手を引いて坑道を歩き出した。荷物といえるほどのものは持っていない。異都の人々が新しい洞に移るときは水や食料を持てる限り持っていくものだが、黒耀の引っ越しはいつも身軽だった。
人々は眠りにつき、灯りも残らず消えていた。水の音はやんで、植物も色を落としている。
それは世界が黒耀と名那を残して滅んでしまったようだった。
「……こわい」
名那がぽつりとつぶやくと、黒耀が足を止めて振り向く。
「帰りたい。いや。引っ越しなんてしたくない」
名那の言葉は、子どもがわがままを言うように聞こえただろうか。黒耀は名那の頬を両手で包んで、あやすように問う。
「どうした、名那? 引っ越しなど何度もしただろう?」
いやいやと首を横に振る名那を、黒耀は不思議そうにみつめる。
「やだ……!」
とうとう泣き出してしまった名那を抱き上げて、黒耀は彼女の背中をさする。
「よしよし、いい子だ。歩くのはもう嫌か。抱いていってやろうな……」
名那は小柄ではあるが、十六歳になる。だが人一人の重さなど意に介さないように、黒耀は名那を抱えても足取りを緩めなかった。名那はしがみつくように黒耀に腕を回して、時折しゃくりあげて泣いていた。
やがてたどり着いた新しい洞は、蒼白く光る壁に四方を塞がれていた。肌が粟立つような冷気が立ち込めていて、名那は震える。
そこには既に食卓も椅子も置かれていて、生活に必要なものはひととおり揃っていた。けれど冷えた家具が、名那には恐ろしかった。
「新居の祝いだ。お食べ」
黒耀は名那を敷布の上に座らせると、携えていた唯一の荷物らしい鞄の中から金属の筒を取り出す。
彼は蓋を開けて中を名那に見せる。筒の中に氷が入っていた。異都では氷は金よりも貴重で、それを甘くして食べるのは子どもたちのあこがれだった。
「食べたくない。眠りたい」
けれど名那は顔を背けて、まだ涙の跡が乾かない頬を押し付けるようにして膝を抱えた。
皆と同じように眠りたかった。ぜいたくな甘い菓子がなくてもいい。蛇の毒で割れるような頭痛に苦しんでもいい。そうしたら少なくとも、こんな冷えた静寂の中からは抜けられる。
きしっと名那の座る場所が音をたてた。名那は思わず顔を上げる。
座ったとき、奇妙な感じがしていた。敷布は台の上に広げられていた。椅子よりも広い台で、柔らかい。
「親では私を愛せないか?」
台がきしんだのは、黒耀が名那の足の間に膝をついたからだった。まるで名那の足を閉じさせないような仕草で、名那はつっと冷たい汗が流れる。
「こ、黒耀……さま」
「私はお前に愛されるためなら、いつでも違うものになる。……今すぐにでも」
黒耀は名那にのしかかるように組み敷く。
「そういう意味では、私はただの赤子に過ぎないんだ」
彼がつぶやいた言葉は、子どものように聞こえた。彼のそんな声音は知らなくて、名那は聞き間違いだと思った。
「時が必要なら、思い出してくれ。私たちは何度となく時を重ねて過ごしてきただろう?」
黒耀は名那と額を合わせて目を閉じる。
その瞬間、名那に流れ込んだ無数の光景に、名那は息を呑んでいた。
神の世の出会い、家族として過ごした日々、夫婦として命を終えた夜。
その長き時の流れが、今の名那をかき消してしまう。
「……ぁ!」
名那はふいに短い悲鳴を上げて意識を失う。
黒耀は名那を見下ろして彼女を揺さぶった。
「名那? ……名那」
名那は涙をあふれさせて意識を落としていた。黒耀がどれだけ呼びかけても、強く揺さぶっても、目覚めるそぶりはない。
「一つの生しか、私たちは共にいられないのか……!」
黒耀は名那を抱きしめて、呆然と声を震わせていた。