邪神様は天の花嫁を離さない

 ここは砂の海原を流れ着いた、ある種の楽園なのだ。
 名那がそう気づいたときには子どもの時が終わっていて、楽園に飼われる羊のように暮らしていた。
 ある朝、名那は坑道から顔を出して、照りつける日差しを浴びた。
 この街の日差しは焼け付くように熱く、大人の男でも浴び続ければ半刻もしない内に倒れてしまう。だから人々は土を掘り、迷路のような坑道の中に住処を作っていた。
 坑道は、昔は何か鉱石が取れたらしいが、今は人々が行きかう通路でしかない。古くなってあちこち崩れ始めているから、事故で命を失う住民もいる。
「名那、お入り。そこは暑いだろう」
 名那が坑道に戻ると、岩室で住民たちが甘いお茶を飲んでいた。名那にも差し出された器に、ちょっとずつ口をつける。
「太陽の下は神様の領分だからね。ほの暗いくらいの方が、人にはちょうどいいのさ」
 繰り返し大人たちに言い聞かされた言葉に、名那はこくんとうなずいた。
 ここは、異都(いと)と呼ばれているらしい。昔、砂の海を濁流が襲ったとき、それを辿ってやって来た人々が作った街だという。
 坑道で取れた鉱石を売っていたのは遠い昔の頃。外との交易は途絶え、今は地下水脈でささやかな作物を作って、街の者たちだけで食いつないでいた。
「ほら、また日焼けして。黒耀様に叱られるよ」
 名那の顔をのぞきこんで、壮年の女性が苦笑する。名那は慌てて頬をこすって言った。
「ちょっと顔を出しただけなのに。お、落ちないかな?」
「日焼けは顔を洗うようにしては落ちないからねぇ。ああ、ほら。皮がめくれでもしたらもっと大事だ」
「怒られる……」
「黒耀様が怖いのねぇ」
 一人がからかうように告げると、周りの女性たちも秘めやかに目配せする。
 名那は女性たちが言う彼を思い出して、喉が渇くのを感じた。
 周りの大人たちは、名那がお尻をぶたれたりして痛い目に遭うのを想像しているのかもしれない。でも彼は子どもにするようなそういうお仕置きなどしない。
 最近の名那は、彼と向き合っていると、怖いような、たまらなく落ち着かない気持ちになるのだった。
「岩盤が落ちて……」
「ああ、聞いた。家族全員亡くなったって」
「苔の夫婦に娘が生まれたらしいよ」
「よかったね。灯の夫婦が息子に嫁を欲しがっていたものね……」
 名那はいつものように、朗報も訃報も混じる世間話の渦の中にいた。
 ひんやりとした風が流れ込んだのは、それからまもなくのことだった。
 楽しげに談笑していた周りの大人たちは口をつぐみ、頭を低くして目を閉じる。
 人形のように動かなくなった大人たちの中で、名那も目を閉じて静かにしていた。
「……名那。体に傷をつけてはいけないと教えなかったか」
 冷たい手が名那の頬を包んで上向かせる。独特の低い響きが、すぐ耳元で聞こえた。
 名那は目を開けようとして、ためらった。十六歳になった今、息が触れるような側で異性とみつめあうのは障りがある。
 目を開こうとしない名那に焦れたのか、彼は名那の日焼けした鼻に触れた。びくっとして、名那は思わず目を開いてしまう。
 黒い瞳と目が合った。大地のような褐色の肌と、灰がかった長い黒髪も視界に入ってくる。
「陽の匂いがする。外に出ただろう」
 黒耀様と人々に呼ばれる彼は、この街では特異な存在だった。
 修復を繰り返して迷路のようになっている坑道を、すべて知っている。どこを掘れば水脈があるかも、逆にどこを壊せば滞った土が流れていくかも教えてくれる。
 ただ人々は彼に訊ねることはできず、彼がふらりと現れて落とし物のように情報を与えてくれるのを待つ。
 彼は異界の使いと呼ばれる。砂色の瞳と紙を持つ人々とは違う色彩も、年齢のわからない容貌からも、彼は尊敬と共に恐れの対象だった。
「や……」
 また鼻先に触れられて、名那はくすぐったさとは違うしびれを感じる。
「私から離れてどこに行く?」
 捨て子だった名那を拾い、育ててくれた彼にはもちろん感謝している。けれど彼は昔から過剰なほど名那を身の側から離さない。そろそろ彼の家から出て、どこか嫁を欲しがっている洞に入るときなのに、名那はまだ彼のところにいる。
「ごめんなさい」
 彼を困らせようと思って坑道から出たわけではない。ただ母がどんな道を辿ってやって来たのだろうと、時々外を知りたくなるだけなのだ。
「いいよ。お前は可愛い、可愛い、私の子だからね」
 彼は歌うようにつぶやくと、名那を抱き上げてその頬に頬を寄せた。
 異都の坑道の先には無数の(ほら)がある。一つの洞には、一組の夫婦の(ねや)があるという。
 異都の住民の寿命はとても短い。日に当たることができず、乏しい食料しか口にできないのでは、孫を抱くまで生きるのさえ難しい。
 その難しさが、彼らを愛情深くしているのかもしれなかった。ほとんどの子どもは生まれたときに親同士が縁談をまとめ、十代の半ばほどで夫婦となるが、名那は不仲な夫婦というものを聞いたことがなかった。子に恵まれなくとも、早くに死別しても、彼らは夜眠るときは必ず二人が結ばれた洞に戻っていく。
 名那の同い年の少女も、結婚するまでは夫となる少年と喧嘩ばかりしていた。けれど夫婦となってからは、日中の仕事が終わると振り向きもせずに夫との洞へ帰っていく。
 洞では何が行われているのだろう。名那はたまらなくそれを覗いてみたかったが、洞の中のことは夫婦の秘密だった。
「名那、もう一つ」
 声をかけられて、名那ははっと我に返る。
 黒耀の膝の上に乗せられて、名那は果物を口に運ばれていた。赤く甘酸っぱい実が、名那の唇に触れている。
「……お腹いっぱい」
「まだ入るだろう?」
 迷いのない口調は、名那の内心を見透かしているようだった。確かに、お腹は減っている。だからこそ食べたくないのだ。
「みんなに知られたら……」
 この果物は滋養があって喉通りがいい。気がつかない内にたくさん食べてしまう。一粒ずつが貴重な薬で、貧しい家では病気のときにしか買うことはできないのに。
 顔を背けようとした名那に、黒耀はざわつくように喉の奥で笑う。
「洞の中のことを誰かに教えるのか? 悪い子だ、名那」
 ふいに彼の膝をまたぐように座らされている自分が恥ずかしくなる。息が触れる間近でみつめられていると思うと、喉が渇く。
「私とこうしているのはもう飽きたか?」
「そんなこと……ない」
「ならいい」
 くすくす笑いながら首を傾げた彼に、名那は身を固くする。
 養い親にどうしてざわつく胸の熱さを感じるのだろう。そんな自分に、名那は焦げるような罪悪感を抱いていた。
「親は子に栄養を与えるものだよ。たっぷりとね」
 皿に山と盛られた果実。名那の目には氷砂糖を浴びて赤黒く熟れたさまが、禍々しい毒薬のように見えた。
「ゆっくりおあがり。なに、お前が知らないだけで、みんな洞の中で秘密の楽しみを持っている」
 黒耀は一つ果実を取ると、それを名那の口に運ぶ。
 名那はためらいながら、また一つ砂糖菓子を口に受け入れた。
 異都の子どもたちは夏の日暮れ時、先生に連れられて林間学校に出かける。
 異都には古い時代に流れ込んだ海水で、塩の木が乱立する洞窟がある。塩分が多すぎて作物が作れないので、夏の間の子どもたちの避暑地になっていた。
 名那が灯りを持ち上げると、真っ白に結晶化した木立が照らし出される。何度見ても塩の木は細工物のように整いすぎていて怖い。
「お腹が空いても塩をなめてはいけませんよ。とても濃い塩分で出来ているので、子どものみんなは倒れてしまいます」
 先生にそう言われても、子どもたちの多くが塩の木を指先でこすって口に運んでいた。甘くておいしいんだよと彼らは笑う。
 名那は素直な子だった。先生にいけませんと言われたら、きちんとそれを守る子だった。だから憧れるように木立を仰ぐことはあっても、手を伸ばすことはなかった。
「今日は食料保存について学びましょう」
 林間学校は一年に数日間。普段は両親の農作業を手伝っている、五歳から十三歳までの子が集まる。
 名那は卒業しているので子どもではない。子どもたちに何か教えてあげたくて、先生になりたいと言った。けれど洞の外で夜を明かすのは、今も黒耀に許してもらえない。
「ななおねえちゃん、これでいい?」
「ちょっと詰めすぎているね。上の方、少し出そうか」
 だから先生のお手伝いをして、授業が終わったら洞に帰る。そういう約束で、今も林間学校に通っていた。
 子どもたちが保存食を作るのを見守りながら、ふいに名那は体がうずくのを感じた。
 振り向くと結晶化した木々がある。洞窟の中を迷路のように分けていて、視界が悪い。
 髪を結ってさらしていた首筋に塩の水がしたたり落ちたとき、ぞっとするような心地よさを感じた。
 一瞬、黒耀に首筋を噛まれる想像をした。まさか養い親が子にそんなことをするはずがないのに、それは実感を伴った未来の想像だった。
 最近体のあちこちがそんな様子だった。噛まれたように、空気や水に触れるだけで反応する。喪失感に似た感覚にひどく落ち着かなくて、黒耀を探してしまう。
 そんなことを願ってしまう自分は変で、名那は一生懸命他のことを考えようとしていた。
 一人の女の子が足を投げ出しているのに気付いて、名那は声をかける。
「どうしたのかな?」
 女の子は名那を見上げて無造作に言った。
「塩に漬けたお野菜なんておいしくない。砂糖漬けが食べたいの」
 それは子どもたちにはよくある言葉だったのに、名那はすっと足元が遠くなっていくような感覚がしていた。
 塩を取りすぎるのはよくないよ。黒耀はそう言って、異都で一般的な塩漬けをあまり名那に食べさせない。
 でもお砂糖はぜいたくだもの。黒耀がよく勧める砂糖漬けの果物を名那が断ると、黒耀は楽しそうな笑みを浮かべた。
 では、たっぷりお食べ。そうささやいた黒耀の甘い声音を思い出して、名那は意識を失っていた。
 目が覚めると、黒耀に背負われて歩いていた。名那が目覚めたのに気付いたのか、黒耀は振り向いて問いかける。
「気分は? どこか痛いところは?」
 心配そうな声は、幼いときから聞いていた響きと変わりない。
 黒耀は昔から、過剰なほど名那の体を気遣った。名那が転んだだけで、抱き上げてどこも怪我がないか丹念に確認した。少し熱を出しただけで枕元から離れず、朝まで起きていた。
 子どものときが終わる頃になって、黒耀が怖くなった。名那は黒耀と向き合うと、別の生き物になったような錯覚を覚えた。
「……なんでもない」
 彼はお父さんで、お母さん。壊れゆくこの小さな世界で誰より私を守ってくれた人を、どうしてそんな風に思うのだろう?
 心がさらさらと塩の木のように頼りないのを感じながら、名那は目を閉じた。
 一年で一番昼が長い日、異都の人々は石のように眠って過ごす。
 蛇の毒を調合した香を洞に焚きしめて、無理やりに冬眠状態にする。もちろん体に良いはずはない。子どもなどは体に麻痺が現れることもあり、病人はそのまま目覚めなくなることもある。
 けれど人が暗闇の中で火を焚かずにはいられないように、異都の人々は太陽の力が一番強い一日を眠ることでしか過ごせなかった。
 太陽、神、恐怖。どれも異都の人々には同じものだった。そして夏至はそれらが一番近くに迫る日だった。
 名那が眠れずに夜を越した後、静まり返った朝がやって来た。
 黒耀は名那に朝食を取らせると、手を引いて坑道を歩き出した。荷物といえるほどのものは持っていない。異都の人々が新しい洞に移るときは水や食料を持てる限り持っていくものだが、黒耀の引っ越しはいつも身軽だった。
 人々は眠りにつき、灯りも残らず消えていた。水の音はやんで、植物も色を落としている。
 それは世界が黒耀と名那を残して滅んでしまったようだった。
「……こわい」
 名那がぽつりとつぶやくと、黒耀が足を止めて振り向く。
「帰りたい。いや。引っ越しなんてしたくない」
 名那の言葉は、子どもがわがままを言うように聞こえただろうか。黒耀は名那の頬を両手で包んで、あやすように問う。
「どうした、名那? 引っ越しなど何度もしただろう?」
 いやいやと首を横に振る名那を、黒耀は不思議そうにみつめる。
「やだ……!」
 とうとう泣き出してしまった名那を抱き上げて、黒耀は彼女の背中をさする。
「よしよし、いい子だ。歩くのはもう嫌か。抱いていってやろうな……」
 名那は小柄ではあるが、十六歳になる。だが人一人の重さなど意に介さないように、黒耀は名那を抱えても足取りを緩めなかった。名那はしがみつくように黒耀に腕を回して、時折しゃくりあげて泣いていた。
 やがてたどり着いた新しい洞は、蒼白く光る壁に四方を塞がれていた。肌が粟立つような冷気が立ち込めていて、名那は震える。
 そこには既に食卓も椅子も置かれていて、生活に必要なものはひととおり揃っていた。けれど冷えた家具が、名那には恐ろしかった。
「新居の祝いだ。お食べ」
 黒耀は名那を敷布の上に座らせると、携えていた唯一の荷物らしい鞄の中から金属の筒を取り出す。
 彼は蓋を開けて中を名那に見せる。筒の中に氷が入っていた。異都では氷は金よりも貴重で、それを甘くして食べるのは子どもたちのあこがれだった。
「食べたくない。眠りたい」
 けれど名那は顔を背けて、まだ涙の跡が乾かない頬を押し付けるようにして膝を抱えた。
 皆と同じように眠りたかった。ぜいたくな甘い菓子がなくてもいい。蛇の毒で割れるような頭痛に苦しんでもいい。そうしたら少なくとも、こんな冷えた静寂の中からは抜けられる。 
 きしっと名那の座る場所が音をたてた。名那は思わず顔を上げる。
 座ったとき、奇妙な感じがしていた。敷布は台の上に広げられていた。椅子よりも広い台で、柔らかい。
「親では私を愛せないか?」
 台がきしんだのは、黒耀が名那の足の間に膝をついたからだった。まるで名那の足を閉じさせないような仕草で、名那はつっと冷たい汗が流れる。
「こ、黒耀……さま」
「私はお前に愛されるためなら、いつでも違うものになる。……今すぐにでも」
 黒耀は名那にのしかかるように組み敷く。
「そういう意味では、私はただの赤子に過ぎないんだ」
 彼がつぶやいた言葉は、子どものように聞こえた。彼のそんな声音は知らなくて、名那は聞き間違いだと思った。
「時が必要なら、思い出してくれ。私たちは何度となく時を重ねて過ごしてきただろう?」
 黒耀は名那と額を合わせて目を閉じる。
 その瞬間、名那に流れ込んだ無数の光景に、名那は息を呑んでいた。
 神の世の出会い、家族として過ごした日々、夫婦として命を終えた夜。
 その長き時の流れが、今の名那をかき消してしまう。
「……ぁ!」
 名那はふいに短い悲鳴を上げて意識を失う。
 黒耀は名那を見下ろして彼女を揺さぶった。
「名那? ……名那」
 名那は涙をあふれさせて意識を落としていた。黒耀がどれだけ呼びかけても、強く揺さぶっても、目覚めるそぶりはない。
「一つの生しか、私たちは共にいられないのか……!」
 黒耀は名那を抱きしめて、呆然と声を震わせていた。
 名那が眠りについて、五日が過ぎた。
 異都では初夜の翌朝、一日も早く子を宿すのを願って閨の中で花嫁に薬草粥を食べさせる。名那はそれを一口含むこともできなかった。
 黒耀が名那の口元に何度水や果物をあてがっても、彼女はそれを飲み込めなかった。意識は一度も戻ることがなく、反応のない人形のようだった。
 黒耀はその間、名那の体を抱いて子どもをあやすようにさすっていた。詫びても、うろたえても、名那の反応は変わらなかった。次第に彼自身も人形のようになって、名那に頬を寄せてうつろに虚空を眺めているだけになった。
 二人の洞の入り口には、毎日のように祝儀の品が届いた。人々は新たな夫婦を外に出すまいとでもするように、うず高く入り口に品を積んだ。
 閨に焚きしめる香、血止めの油。そろって禍々しい赤い紐で縛られたそれらは、異都の人々の祝福の形で、欲望でもあった。
 他人の洞で何が起ころうと構わない。けれどできるなら身震いするほど残酷で、みだらな仲でありますように。異都の人々は夢見るように笑んで、挨拶をすることもなく洞から立ち去って行った。
 また一人入り口にやって来て、立ち去った気配を確かめた後、黒耀はゆっくりと目を開いた。
 やせ細った名那の呼吸を頬に受けていた。黒曜が額をなでても、名那は動かない。
「お腹が空かないか、名那」
 星が最後にまたたいて消えるように、名那の体はひどく熱かった。黒耀は波のない調子で問うと、名那を抱えたまま洞の入り口に向かう。
 蜜月の夫婦は、食料に困ることはない。もちろん異都の人々の差し出すものは、体にいいものばかりとは限らないが。黒耀は先ほど置かれた祝儀が喉通りのいいものであることを期待しながら、紗をかきあげて入り口を覗き見た。
 けれどその新たな祝儀は、食べ物ではなかった。底から編み上げた、食べ物を入れるには大きすぎる籠。
 赤ん坊をあやすゆりかごの前で、黒耀は足を止めた。腕に抱いた存在がそこに入っていたときを、ちらと思った。
 名那が無心に手を伸ばして黒耀に笑っていた姿が目の前をよぎる。
 瞬間、黒耀はゆりかごを蹴飛ばして洞を出ていた。始めは早足だったが、次第に走り出す。
 通り過ぎた人々がいたのなら、何事かと思っただろう。いつも滑るように足を進める黒耀が坑道を走っていく。それも蜜月にある妻を抱えて、まるで怒っているように前を睨みつけていた。
 けれど黒耀は誰とも出会うことはなかった。真夜中、人々は自らの洞の中で閉ざされた愉しみにふけっている頃だった。
 坑道から外に出ると、黒々とした空が二人を包んだ。光のない夜、黒耀は名那を揺さぶる。
「どこへ行くというんだ。どこへも行けるはずがないだろう。私は何度でもお前をみつけて捕まえる」
 黒耀の言葉は憤りのようで、懇願のようでもあった。
「名那、目を覚ましてくれ。私はお前のために綺麗なものをかき集めてきただろう?」
 唇をかんで、黒耀は名那をかき抱く。
「どうして私に怯えるんだ。どうして……何度も私から離れていく?」
 そのとき、空を光が走った。閃光が夜空を一瞬だけ明るく染めて、遠いところに消えていく。
 後には何も残らないその様を見て、黒耀の体が震えた。胸が不自然な音を立てて、指先から力が抜けていく感覚。それは名那が時々話す「恐怖」だということを、おぼろげに理解した。
「……名那」
 黒耀は土の上に膝をついて、うわごとのように名前を呼ぶ。
「私は何度生を繰り返しても邪神なんだ。何度生まれても美しいお前とは違う。けれどお前に恋した日から、私は幸福でたまらないんだ……」
 黒耀の頬から、名那の頬に一粒の涙が落ちた。
 そのわずかな水が植物の最初の恵みとなるように、名那のまぶたがぴくりと動いた。
 婚儀の日からひと月が過ぎると、異都の夫婦は男女それぞれの仕事場に戻っていく。男は石切り場から石を運んで坑道を直し、女は農場で仲間たちと作物を作る。
 けれどひと月の後もかたときも離れない夫婦がいる。妻が子を宿したときだ。
 異都の人々の寿命は短いが、生まれてくる子は奇妙なほど生命力が強い。死産はほぼなく、十四歳で成人するまで病気一つせずに育つ。
 その代わり腹に宿った子は、母の生命力を残らず吸い取るようにして生まれてくる。夫が食べ物を与え、甲斐甲斐しく世話を焼かなければ、妻は衰弱して出産のときに命を落としてしまった。
 婚儀から三月の後も、黒耀は名那を農場に返さず、洞で世話を焼いていた。人々は洞を覗かなくとも想像を馳せて、名那が子を宿したのだと疑いなく信じた。
 ただ黒耀と名那は人々が思うような夫婦の仲ではなかった。二人は古くから異都で続いてきた生活をたどるというよりは、手探りで日々を過ごしていた。
「おはよう、名那」
 寝台の上で目を開いた名那を見下ろして、黒耀は首を傾ける。
「少し汗をかいているな。発疹ができるといけない。どれ」
 黒耀は名那の上衣の前合わせをほどくと、水で絞った布で丁寧に体を清める。名那はそれをぼんやりと見上げていた。
 名那の意識は川面にたゆたう舟のようで、問いかけにはっきりした答えを返すことはない。
 体を清め終わると、黒耀は炊事場に向かった。かまどから鉄の鍋を下ろし、山芋をすりつぶして混ぜ、とろみをつけた粥を器に盛る。
「ゆっくりお食べ」
 黒耀はさじをすくって一口ずつ粥を名那の口に運ぶ。
 名那は、お腹が空いて食べているという様子ではない。けれど激しく拒絶することもない。
 頭より先に、名那の体が気づいてしまった。今世では飲まず食わずでも、名那は死なない。朝になれば目覚め、呼吸は続く。
 けれど体は治っていっても、心は壊れたままだった。ふいに名那はせき込んで血の混じった粥を吐き出す。
「すまない。まだ固形物はつらかったな」
 黒耀は眉を寄せて名那の背をさする。水差しを当てて口をすすがせて、名那が落ち着くまで体を抱いていた。
 やがて名那の咳はやみ、停滞した意識の中で水差しに手を伸ばす。それが生きようという意思ではなく、死から切り離された心がさまよっているだけだと黒耀は知っている。
「待っておいで」
 黒耀は名那を抱き上げて、洞の奥に向かう。
 新しい洞の奥には地下水が湧いている。銀色の砂利を詰めたろ過装置で飲み水に変えていて、水を汲むたびにしゃらしゃらと音が鳴った。
 黒耀はそこから冷たい水を汲みなおすと、綿に染みこませては名那に水を少しずつ含ませる。
 こういった根気の要る看病を続けて、黒耀は気づいたことがある。
「……ずっと、お前が私を愛してくれないと呪ってばかりいたが」
 小さく名那の喉が鳴って、水を飲みこんでいく。その様さえたまらなく愛おしいものだと、黒耀は名那をみつめながら思う。
「今までのように私の手からすり抜けることなく、今世のお前はまだ生きている。だから……その小さな希望を私は、持ち続けても良いだろう?」
 黒耀は長い間、希望というものを持つことさえ忘れていた。気が遠くなるような時の中で、痛みも悲しみも忘れていた。
 今の名那の瞳は遠いところを見ているが、かつてその視線の先を追うのは黒耀の癖のようなものだった。その澄んだまなざしをねじまげたかったわけではない。
「今日はまだ伝えていなかった。愛している、名那」
 黒耀はいにしえの頃の誓いを口にすると、痛みと悲しみを帯びた目で名那を見下ろした。
 水が鳴る音が、洞の中に響いていた。
 異都の人々が待ち望んだ、収穫の季節がやって来た。
 光に当たらずに育った作物は色が乏しく、奇怪な形の実をつけるものではあったが、食料には違いない。坑道の中はにわかに人通りが多くなり、さざなみのような声がこだまする。
 人々は自らの洞を出て、空いた洞に入っては中毒性のある草の煙を吸う。煙は普段は大人しい人々の目を濁し、偶然出会った他人の夫や妻を空洞にひきずりこむ。
 他人の夫や妻と交わるのは、異都では罪となるものではなかった。それは人々にとって、さほど良いものとは思わないが体の生理現象として自然なものとされた。
 罰する者などいなくとも、体から異物が出尽くせば自らの洞に帰る。たとえ他人との間で子が出来ていても、確かめる者などいない。子は常に夫婦の子で、異都では夫婦は絶対だった。
 その頃、名那は起き上がって自力で食事を取ることができるくらいには回復していた。食事中でも眠ってしまうほど体力はなかったが、時々は言葉らしいものを口にした。
「名那?」
 黒耀が糸を紡いで織物をしていると、眠っていた名那が身を起こして彼を見上げた。
 名那は呼吸の音のような声で何かつぶやく。ほとんど言葉とは聞こえないそれに黒耀はうなずいて、織物には短すぎる糸束を名那の手に握らせた。
「最近はそれがお気に入りだな」
 ここのところ名那は短い糸を丸めては引いて、結び目を作っていた。編み物というには拙く、子どもの戯れのようだった。
 けれどたとえそれが仕事には至らなくとも、名那が元気に過ごしているなら喜ばしい。黒耀は名那の頭をなでて、名那の思うままにしていた。
「……その形」
 黒耀は名那の作った拙い結び目を見て思案すると、名那を抱いて立ち上がった。
 名那を洞から連れ出すのは久しぶりだった。名那の弱った体では自力で歩けなかったし、今の時期、余所の洞では有害な煙が立ち込めている。黒耀は煙を吸わないように名那の口元に布を当てて、なるべく空洞を通らない道筋を頭の中で思い描いた。
「目を閉じておいで」
 名那を隠すように羽織で包みながら、黒耀は坑道を滑るように歩いた。何人かとすれ違ったが、黒耀とその妻とわかるとさっと目を逸らした。異都では夫婦が連れ添っているときは声もかけないのが決まりだった。
 黒耀は半刻ほど無言で歩いて、やがて一つの空洞に入った。
「ここを覚えているか?」
 そこは人が住んでいる気配もなく確かに空洞なのだが、蜜のような甘い匂いが漂っていた。その正体は洞の壁から張り出した枝で、白く濁った樹液がそこからこぼれていた。
「お前が赤子のときに住んでいた洞だ」
 異都の赤子は母の乳では育たない。もっと粘性の強く、甘みのある食事を欲しがる。そのような赤子たちのために、異都の夫婦は子どもが幼い内は白い樹液の取れる洞に住んでいた。
「お前は結局一滴も樹液を飲んでくれなかった。他の子どもよりずっと痩せていて、病ばかり拾って……なぜなのか、あの頃はわからなかったが」
 黒耀は洞の壁に近づいて、そこで化石になっているものに触れる。
 美しく羽を広げたまま石となった無数の蝶。きっと幹にとまったときは、それが異都中に根を張る食虫植物だとは知らなかっただろう。
「怯えていたのだな。自分も食べられてしまうと」
 実際は、この食虫植物は人間に危害を加えることはない。赤子にとっては何よりの恵みだが、名那には別のものに見えていたに違いなかった。
「お前は臆病で、病弱なのだと人に言われてきたが」
 黒耀は石になった蝶々を見上げて、独り言のように名那に言う。
「……お前は清浄なんだ。とても綺麗な生き物なんだよ」
 結局、名那は壁を一度も見ることはなく、黒耀の胸に顔を押し当てたまま動かなかった。
 異都の四季はいびつで、収穫の秋の後に冬が来るわけではない。
 秋の後、坑道にはどこからか暖かくも冷たくもない霧が流れ込む。濃厚な白色をしていて光を通さず、灯りが役に立たない。人々は道に迷い、時には岩場で足を踏み外して命を落とす。
 けれど霧に惑い命を落とした者は、むしろ幸運だと言われた。異都の冬は厳しい。飢えと寒さで心身ともにやつれて最期を迎えるよりは、誰かに命の灯を吹き消されるように終わるのもそれほど悪くないと人々は言った。
 今年も霧が坑道に立ち込める時期になった。坑道の中は手を伸ばしてもその手の先が見えず、人々はめったなことで出歩くことはなくなった。
「こちらに行きたいか?」
 分かれ道で立ち止まった名那に、黒耀が訊ねる。
 去年まで、黒耀もまた霧が満ちる頃は名那を外に出すことはなかった。けれど今年は、必ず黒耀が手をつないでいるものの名那に自由に歩かせていた。
 名那はうつろな目で右の坑道を見やって、そちらに足を向ける。黒耀はそれを止めることなく、今日も二人は坑道を往く。
「……呼んでる」
 名那の言葉に黒耀は目を細めるだけで答えない。誰にと問い返すこともなく、名那が時々思い出したようにつぶやくままに任せた。
 名那は半刻ほどなら歩き続けられるようになった。水さえ自力で飲めなかった頃に比べればめざましい回復だった。
 名那は同じ道を何度も通り、しばしば来た道を引き返す。何かを探しているように目をこらすこともあれば、何かに怯えたように表情を強張らせることもある。
「名那」
 ふいに黒耀は名那の手を引いて引き寄せる。カラリと名那の足元の小石が転がって、見えなくなった。
 気づけば二人は崖の縁に立っていた。崖の下からは白い霧が湧き出て、化け物が吐息をこぼしているようだった。
 名那は崖の下に目をこらして、恐れと恋しさがないまぜになったような声で言う。
「姉さまたち」
 黒耀はうなずいて、名那と同じように霧の生まれる先を見やる。
「ここより下は、「黄泉(よみ)」というんだ」
 霧を頬に受けながら、黒耀は懐かしそうに話し始める。
「黄泉は私の兄たちが住んでいる。昔々から続く、世界の果てだよ」
 黒耀はつっと目を伏せて声を落とす。
「私の兄たちは欲深く、残酷でね。たびたび天の世界の女神を引きずり込む」
 見上げた名那の頬をなでて、黒耀は言う。
「決して振り向いてはもらえない女神たちにすがりつくのが幸せか、私にはわからないが」
 揺れた名那の目に気づいたのか、黒耀はほほえんで首を傾けた。
「けれど私は、名那に恋をしたことに後悔はない。地底に繋がれていた邪神の私が……こんな美しい子と、出口の見えない輪廻をさまよう」
 名那の額と自らの額を合わせて、黒耀は優しく話しかける。
「名那、天の世界が恋しいか?」
 黒耀は名那をみつめながら言う。
「私は化け物だが……出会ったときからお前に焦がれて焦がれて、今も狂っている」
 名那は涙をこぼして、黒耀に手を伸ばした。
 無言で黒耀の背に腕を回した名那を、黒耀はそっと抱きとめた。
 椿の花が落ちるように、異都の冬は唐突にやって来る。
 昨日まで茂っていた植物は枯れ、洞の壁は氷と同じ温度になる。外には灰に似た雪がしんしんと降って、音も生命の色もかき消していった。
「今年も冬が来たな」
 名那は顔を上げていろりの向こうの黒耀を見た。敷布に片膝を立てて座っていた黒耀は、鍋の煮え具合を見ながら言う。
「またずいぶんと寒い。それに長いだろう。……さ、もっとお食べ」
 黒耀に勧められて、名那は椀に口をつけた。鼻先にきのこの香ばしさが漂う。あと数日で植物はしおれて、これも食べられなくなるだろう。
 二口ほど飲んで、名那は椀を下ろす。みつめる黒耀の視線を感じながら、名那は口を開いた。
「黒耀さまは覚えている?」
 黒耀は首を傾ける。名那は眉を寄せて言った。
「出会った頃のあなたが思い出せないの」
「私はどんなささいなことも覚えているよ。だからお前が覚えている必要はない」
 黒耀は立ち上がって名那の横に席を移すと、彼女の隣からいろりの火を見やる。
「お前は何度も赤子からやり直して、何度となく私から離れていった」
 うつむいた名那に、黒耀は苦笑する。
「長い時の中で、お前と共有できないことはたくさんあると知った。だがお前と同じでないから、一緒にいられる」
「黒耀さま?」
 名那の手から椀を下ろして、黒耀は彼女の手のひらを眺める。
「私はお前にいろいろなものを贈ったな。きらめく宝石も、至福に酔う氷菓子も。……けれど今世だからこそ、お前に贈ることができるものがある」
 黒耀はうなずいて、名那の手を自らの手で包んだ。
「綺麗なだけの箱庭の世界。中身のない、空っぽの底の国」
 黒耀は身を屈めて名那に口づけた。
 名那を胸に収めて、黒耀は背をさする。
「ここはどこにも逃れられない地獄で、何に怯えることもない楽園なんだよ。……もう少しだけ、ここで私と共に過ごそう」
 黒耀が口づけたとき、名那の体は奥底がうずいた。
 少しずつ変わりながら時を重ねて、今この時に至っている。
 暗い歓喜のような矛盾した感情の間で、名那は黒耀の体に身をすり寄せる。
 ……結局、結ばれたのはいつで、眠りに落ちたのもいつだったか。
 名那は邪神の彼と、今も箱のような世界で共に過ごしている。

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