ここではどこにも嶺が見えない。
 名那はどうして生まれたときから一度も見たことがないものを探したのか不思議になって、自分に首を傾げた。
 女官の母が下級仕官に情を注がれ、お仕えする妃の宮で密かに産んだ子、それが名那だった。
 名那は生まれて一度も後宮の外に出たことがなかった。名那にとっては、この後宮こそが世界のすべてだった。
 ここは皇帝の庭、後宮の一隅。
 その頃、まだ皇帝には寵愛する妃がおらず、御子もいなかった。
 後宮には、政争よりも過酷な争いが起きた時代もある。それに比べれば、現帝、黒耀帝(こくようてい)の後宮は箱庭のように整然としていた。
 争いはよくないからね、これで許しておくれ。その涼しげな風貌で、臣下や、寵を乞う側室たちを諭すさまは、理想の君主である反面、どこか不気味でもあった。
 名那は白いりんごの花が枝を離れるのを見上げていて、黒耀帝が隣に立ったことに驚いてしまった。
「その木が好きなのかな」
 慌てて膝をついたら、その前に屈んで問いかけられる。
 名那はもう十六歳になろうという年だ。けれど黒耀帝は少年の頃から、易しい言葉と皇帝らしくない気安い問いかけを名那に向ける。
 名那はどう答えるか迷って、思ったとおりのことを告げた。
「いつまであの花を見上げていられるのだろうと思っていました」
「どうして?」
「ここのりんごの花はすぐに落ちてしまうのです。白く、綺麗ですけれど」
 黒耀帝は名那の心を見抜いてしまうくらいには、名那を幼いときから知っていた。
「失うときが怖いのだね」
 名那を見下ろして思案すると、名那の呑み込んだ言葉を口に出した。
「へ、陛下」
 ふいに黒耀帝は名那の目を大きな手で覆って、慌てた名那に喉で転がすようにして笑った。
「皇帝の力には限りがあってね。世界を入れ替えてあげることはできない」
 黒耀帝は手を外して、澄んだ黒色の瞳で名那に笑う。
「でも人にできないことが、いくつかはできるんだよ」
 彼は名那を助け起こして立つと、ちらと紅葉を見上げた。その目は黒耀帝の常のとおりに涼しげで、どうしてか名那には少しざわついた。
 名那は陽の傾きが気になって、黒耀帝に失礼にならないように目を泳がせた。昼に見送った荷馬車のことが胸をよぎったからだった。
 遠縁のつてを使ってみつけた下女の仕事は、最初から雇い主が乗り気でなかった。早く働き始めたいと一年も前から伝えてあったのに、何かと理由をつけて名那を受け入れる時を遅らせていた。
 ただ今日の荷馬車を見送ってしまったのは、名那自身のせいだった。主が不在のまま名那がずっと暮らしてきた宮、そこで黒耀帝が一夜を過ごすと告げたから。
 寵を争って多くの悲劇が起きた後宮、名那だってその恐ろしさを見たことがあるのに、皇帝の訪れを喜んでしまう心が残っていたなんて。名那は自分自身がわからなかった。
「私はここが好きだけど、君はどうかな」
 去り際に何気なく黒耀帝が告げた言葉に、胸がぎゅっと絞られたことは誰にも言えなかった。
 宮に入って残りの準備を淡々と続けた。本当は今日去るつもりだったから、皇帝の寝所はすでに整えてある。皇帝は別の宮の側室を召すとは告げなかったから、側室をお迎えする準備は要らない。皇帝の夕餉は別室で別の侍女たちが給仕していて、名那にはもうすべきことがほとんどなかった。
 けれど皇帝がお休みになる前に、ここに仕える名那が床に入るわけにもいかない。自室で一つの灯りをともし、窓の外を見ていた。
 ひらりとりんごの花が窓に当たり、落ちていったとき……名那は思わず部屋を出ていた。
 名那は幼い日、目の前で人が亡くなったのを見た。平穏と称される黒耀帝の後宮で、唯一の刀傷沙汰だった。
 今の後宮には寵姫がいない。けれど名那が住む宮は美しく庭が整えられ、調度も豪奢だった。名那が子どもの頃、それに嫉妬した側室が宮に立ち入り、その寝所で横になる戯れをしたほどだった。
 瞬間的な痛みが名那の体を走った気がした。名那は庭に出て泉のほとりでうずくまると、体を抱きしめて震えを収めようとした。
 寵姫はいないのだからいいじゃないの。笑いながら言った側室の前で、少年だったあのひとは無言で剣を抜いた。
 白い手を赤く染めて……あのひとは名那を抱き上げて言った。
「よく来たね。君を愛するためだけの世界へ」
 後ろから抱きしめられて、あのときと同じ言葉が甘く耳朶を打つ。
 振り向いた名那の頬を両手で包んで、黒耀帝は言う。
「この後宮には寵姫がいないと言われた。……確かにそうだ。皇帝は一人の人間をどこにもいないことにできる。誰より愛おしくて、誰にも見せたくない人をね」
 黒耀帝はとっさに逃れようとした名那を腕に封じ込めて、安心させるように背を撫でた。
「清浄な名那。ここなら誰も触れられない。私だけの、名那」
 黒耀帝が虚空をかいた名那の手をとらえて口づけた、それが始まり。
 引きずり込まれたのは寝所か、長き常夜の世界か。名那にはまだ何も見えないまま、愛が人を消してしまえる異界に飲み込まれた。



 後宮が雪景色に覆われる頃、名那は黒耀帝の御子を身ごもった。
 黒耀帝の喜びようは大変なもので、すぐさま国内外から滋養に良い食べ物を取り寄せるよう臣下に命じた。
 もちろん名那には、黒耀帝自ら彼女の手を取ってその身を労わった。
「名那、何でも欲しいものを言ってごらん。君が心安いでいられるなら、天の果物だろうと取り寄せてみせるよ」
 黒耀帝は数日前から、名那のためだけに後宮中を花で飾らせていた。だから後宮は、冬だというのにそこだけ天人の世界のように華やいでいた。
「名那? どうしたの?」
 喜び湧き立つ後宮で、名那だけは寝台で身を小さくして所在なさげにしていた。
「具合が悪いのか。医師を呼ぶか?」
 黒耀帝が表情を硬くすると、名那は首を横に振って黒耀帝を見上げた。
「私は……陛下の御子を産んでよいのでしょうか」
「何を言うの」
 黒耀帝は名那の言葉に驚いて、その肩に触れながら言う。
「宝物のような子だ。生まれる前から愛している。君には初めてのことだから、不安に思うのも無理はないが……」
 黒耀帝は名那の目をのぞきこんで、不安に揺れた瞳をみつめながら諭した。
「どうか君は私の腕に、愛しい子を抱かせてくれないか」
 その日から、名那の身の回りは皇帝並みの身辺警護がなされて、名那に害なすものは鳥の一羽も後宮に入れないほどの徹底ぶりだった。
 名那の身に触れるものは女官一人一人から絹の一本まで選別され、名那に不安を与えるものは潮が引くようにすぐさま遠ざけられた。
 黒耀帝は名那の身を労わるかたわら、生まれてくる子のためにも次から次へと支度を始めていた。
「衣は百着、(くつ)も五十は揃ったが……宮は一つでは足りないかもしれないな。男児だったら良い馬も必要だし、女児だったら髪飾りや宝石もたくさん贈ってやらなければ」
 名那はうろたえて、喜び話す黒耀帝にたずねる。
「陛下、まだ歩けない子に沓は必要でしょうか……。それに馬に乗れるのもずいぶん後なのでは」
「子どもの成長は早いんだよ、名那。今は惜しむときではないんだ」
 黒耀帝は寝台に横たわる名那のお腹に耳を当てながら、繰り返し話しかける。
「父君だよ、わかるかい? 君と会える日を焦がれるように毎日待っているんだ」
 黒耀帝はふいに名那を見上げて笑う。
「あっ。今、少し動いたよ。賢い子だ。父君がわかるんだよ」
「はい……私も感じました」
 名那は子を宿してから、よく笑うようになった。遠くからみつめていただけの黒耀帝が、側で名那を支えてくれたからだった。
 けれど名那はお腹の中の存在に日に日に愛おしさを感じながら、不安も抱いていた。
 男児であったら、母の身分の低さゆえに将来苦労するのではないか。女児であったとしても、何かの政略に巻き込まれてしまわないかと憂えていた。
 名那の憂いが体調に影響したのか、名那のつわりは安定期を過ぎてもひどいままだった。
「名那?」
 朝、名那は目覚めてすぐに枕元に手を伸ばす。身の回りのものは絹しかなくてもったいないと思いながら、名那は少し吐いた。
 黒耀帝も隣で起き上がって名那の背中をさすると、名那が落ち着くまで腕に抱いていた。
 黒耀帝は医師を呼んで名那を診せると、二人きりになったときに心配そうにたずねた。
「子は大きく、元気に生まれてほしいが、名那はずいぶん痩せてしまった。何か心配事があるなら、どんなことでも私に話してほしい」
 名那は黒耀帝の腕の中で、どう言うべきか迷った。
 里下がりをして、密かに生まれた子を遠くに養子に出すことも考えた。
 生まれた子が政争に使われないためには、また黒耀帝のためには自分もいない方がいいのではないかと思った。
 時は巡り、後宮に再び冬が訪れる頃、名那は出産のときを迎えた。
 黒耀帝は夜中起きて待っていて、産声を聞くなり部屋に飛び込んできた。
「名那、名那っ。子は……!」
 控えていた産婆はそっと赤子を抱くと、黒耀帝に差し出す。
 生まれてきた子は、女児だった。少し小さいが、元気に声を上げていた。
 黒耀帝はまだ血で濡れている赤子の頬に迷わず頬を寄せると、声を震わせて喜ぶ。
「可愛い……こんな可愛い子は見たことがない。大事に大事に育てなければ。名那、よくやってくれた」
 名那は黒耀帝に答えようとして、力なく寝台に沈んだ。
「……名那?」
 黒耀帝は名那の血の気の失せた顔色を見て息を呑む。
 名那は弱弱しく黒耀帝に微笑みかけて言った。
「陛下に喜んでいただけたなら……私の役目は終わったのかもしれません」
「何を……」
「この十月十日陛下を独占できて、私は幸せでした。もう、望むものはありません……」
 名那は黒耀帝の頬に手を触れて言った。
「愛しています、陛下。ずっと……」
 それきり、名那の手は力を失って地に落ちた。
 動揺する医師たちの中、黒耀帝だけが静かに名那の側にたたずんでいた。
 黒耀帝は愛おしそうに名那の体を引き寄せて、もう命を失った体にささやく。
「……私もだ。すぐにそちらに行くよ」
 暗闇と同色をした声で、黒耀帝は独り言のようにつぶやく。
「子どもは私を遠ざけてしまったか。……そのようなものは要らない」
 黒耀帝はどこか冷静に断じてみせた。あれほど喜んだ子も今は見えていないように、名那だけをみつめていた。
 黒耀帝は長いこと考えに沈んで、ぽつりと言う。
「結局」
 ふいに黒耀帝は喉の奥で笑った。
「君の故郷から一番遠い場所に、連れて行くか」
 ざわめくほどに弾んだ暗黒の声は、もうこの世のものではなかった。