婚儀の日からひと月が過ぎると、異都の夫婦は男女それぞれの仕事場に戻っていく。男は石切り場から石を運んで坑道を直し、女は農場で仲間たちと作物を作る。
けれどひと月の後もかたときも離れない夫婦がいる。妻が子を宿したときだ。
異都の人々の寿命は短いが、生まれてくる子は奇妙なほど生命力が強い。死産はほぼなく、十四歳で成人するまで病気一つせずに育つ。
その代わり腹に宿った子は、母の生命力を残らず吸い取るようにして生まれてくる。夫が食べ物を与え、甲斐甲斐しく世話を焼かなければ、妻は衰弱して出産のときに命を落としてしまった。
婚儀から三月の後も、黒耀は名那を農場に返さず、洞で世話を焼いていた。人々は洞を覗かなくとも想像を馳せて、名那が子を宿したのだと疑いなく信じた。
ただ黒耀と名那は人々が思うような夫婦の仲ではなかった。二人は古くから異都で続いてきた生活をたどるというよりは、手探りで日々を過ごしていた。
「おはよう、名那」
寝台の上で目を開いた名那を見下ろして、黒耀は首を傾ける。
「少し汗をかいているな。発疹ができるといけない。どれ」
黒耀は名那の上衣の前合わせをほどくと、水で絞った布で丁寧に体を清める。名那はそれをぼんやりと見上げていた。
名那の意識は川面にたゆたう舟のようで、問いかけにはっきりした答えを返すことはない。
体を清め終わると、黒耀は炊事場に向かった。かまどから鉄の鍋を下ろし、山芋をすりつぶして混ぜ、とろみをつけた粥を器に盛る。
「ゆっくりお食べ」
黒耀はさじをすくって一口ずつ粥を名那の口に運ぶ。
名那は、お腹が空いて食べているという様子ではない。けれど激しく拒絶することもない。
頭より先に、名那の体が気づいてしまった。今世では飲まず食わずでも、名那は死なない。朝になれば目覚め、呼吸は続く。
けれど体は治っていっても、心は壊れたままだった。ふいに名那はせき込んで血の混じった粥を吐き出す。
「すまない。まだ固形物はつらかったな」
黒耀は眉を寄せて名那の背をさする。水差しを当てて口をすすがせて、名那が落ち着くまで体を抱いていた。
やがて名那の咳はやみ、停滞した意識の中で水差しに手を伸ばす。それが生きようという意思ではなく、死から切り離された心がさまよっているだけだと黒耀は知っている。
「待っておいで」
黒耀は名那を抱き上げて、洞の奥に向かう。
新しい洞の奥には地下水が湧いている。銀色の砂利を詰めたろ過装置で飲み水に変えていて、水を汲むたびにしゃらしゃらと音が鳴った。
黒耀はそこから冷たい水を汲みなおすと、綿に染みこませては名那に水を少しずつ含ませる。
こういった根気の要る看病を続けて、黒耀は気づいたことがある。
「……ずっと、お前が私を愛してくれないと呪ってばかりいたが」
小さく名那の喉が鳴って、水を飲みこんでいく。その様さえたまらなく愛おしいものだと、黒耀は名那をみつめながら思う。
「今までのように私の手からすり抜けることなく、今世のお前はまだ生きている。だから……その小さな希望を私は、持ち続けても良いだろう?」
黒耀は長い間、希望というものを持つことさえ忘れていた。気が遠くなるような時の中で、痛みも悲しみも忘れていた。
今の名那の瞳は遠いところを見ているが、かつてその視線の先を追うのは黒耀の癖のようなものだった。その澄んだまなざしをねじまげたかったわけではない。
「今日はまだ伝えていなかった。愛している、名那」
黒耀はいにしえの頃の誓いを口にすると、痛みと悲しみを帯びた目で名那を見下ろした。
水が鳴る音が、洞の中に響いていた。
異都の人々が待ち望んだ、収穫の季節がやって来た。
光に当たらずに育った作物は色が乏しく、奇怪な形の実をつけるものではあったが、食料には違いない。坑道の中はにわかに人通りが多くなり、さざなみのような声がこだまする。
人々は自らの洞を出て、空いた洞に入っては中毒性のある草の煙を吸う。煙は普段は大人しい人々の目を濁し、偶然出会った他人の夫や妻を空洞にひきずりこむ。
他人の夫や妻と交わるのは、異都では罪となるものではなかった。それは人々にとって、さほど良いものとは思わないが体の生理現象として自然なものとされた。
罰する者などいなくとも、体から異物が出尽くせば自らの洞に帰る。たとえ他人との間で子が出来ていても、確かめる者などいない。子は常に夫婦の子で、異都では夫婦は絶対だった。
その頃、名那は起き上がって自力で食事を取ることができるくらいには回復していた。食事中でも眠ってしまうほど体力はなかったが、時々は言葉らしいものを口にした。
「名那?」
黒耀が糸を紡いで織物をしていると、眠っていた名那が身を起こして彼を見上げた。
名那は呼吸の音のような声で何かつぶやく。ほとんど言葉とは聞こえないそれに黒耀はうなずいて、織物には短すぎる糸束を名那の手に握らせた。
「最近はそれがお気に入りだな」
ここのところ名那は短い糸を丸めては引いて、結び目を作っていた。編み物というには拙く、子どもの戯れのようだった。
けれどたとえそれが仕事には至らなくとも、名那が元気に過ごしているなら喜ばしい。黒耀は名那の頭をなでて、名那の思うままにしていた。
「……その形」
黒耀は名那の作った拙い結び目を見て思案すると、名那を抱いて立ち上がった。
名那を洞から連れ出すのは久しぶりだった。名那の弱った体では自力で歩けなかったし、今の時期、余所の洞では有害な煙が立ち込めている。黒耀は煙を吸わないように名那の口元に布を当てて、なるべく空洞を通らない道筋を頭の中で思い描いた。
「目を閉じておいで」
名那を隠すように羽織で包みながら、黒耀は坑道を滑るように歩いた。何人かとすれ違ったが、黒耀とその妻とわかるとさっと目を逸らした。異都では夫婦が連れ添っているときは声もかけないのが決まりだった。
黒耀は半刻ほど無言で歩いて、やがて一つの空洞に入った。
「ここを覚えているか?」
そこは人が住んでいる気配もなく確かに空洞なのだが、蜜のような甘い匂いが漂っていた。その正体は洞の壁から張り出した枝で、白く濁った樹液がそこからこぼれていた。
「お前が赤子のときに住んでいた洞だ」
異都の赤子は母の乳では育たない。もっと粘性の強く、甘みのある食事を欲しがる。そのような赤子たちのために、異都の夫婦は子どもが幼い内は白い樹液の取れる洞に住んでいた。
「お前は結局一滴も樹液を飲んでくれなかった。他の子どもよりずっと痩せていて、病ばかり拾って……なぜなのか、あの頃はわからなかったが」
黒耀は洞の壁に近づいて、そこで化石になっているものに触れる。
美しく羽を広げたまま石となった無数の蝶。きっと幹にとまったときは、それが異都中に根を張る食虫植物だとは知らなかっただろう。
「怯えていたのだな。自分も食べられてしまうと」
実際は、この食虫植物は人間に危害を加えることはない。赤子にとっては何よりの恵みだが、名那には別のものに見えていたに違いなかった。
「お前は臆病で、病弱なのだと人に言われてきたが」
黒耀は石になった蝶々を見上げて、独り言のように名那に言う。
「……お前は清浄なんだ。とても綺麗な生き物なんだよ」
結局、名那は壁を一度も見ることはなく、黒耀の胸に顔を押し当てたまま動かなかった。
異都の四季はいびつで、収穫の秋の後に冬が来るわけではない。
秋の後、坑道にはどこからか暖かくも冷たくもない霧が流れ込む。濃厚な白色をしていて光を通さず、灯りが役に立たない。人々は道に迷い、時には岩場で足を踏み外して命を落とす。
けれど霧に惑い命を落とした者は、むしろ幸運だと言われた。異都の冬は厳しい。飢えと寒さで心身ともにやつれて最期を迎えるよりは、誰かに命の灯を吹き消されるように終わるのもそれほど悪くないと人々は言った。
今年も霧が坑道に立ち込める時期になった。坑道の中は手を伸ばしてもその手の先が見えず、人々はめったなことで出歩くことはなくなった。
「こちらに行きたいか?」
分かれ道で立ち止まった名那に、黒耀が訊ねる。
去年まで、黒耀もまた霧が満ちる頃は名那を外に出すことはなかった。けれど今年は、必ず黒耀が手をつないでいるものの名那に自由に歩かせていた。
名那はうつろな目で右の坑道を見やって、そちらに足を向ける。黒耀はそれを止めることなく、今日も二人は坑道を往く。
「……呼んでる」
名那の言葉に黒耀は目を細めるだけで答えない。誰にと問い返すこともなく、名那が時々思い出したようにつぶやくままに任せた。
名那は半刻ほどなら歩き続けられるようになった。水さえ自力で飲めなかった頃に比べればめざましい回復だった。
名那は同じ道を何度も通り、しばしば来た道を引き返す。何かを探しているように目をこらすこともあれば、何かに怯えたように表情を強張らせることもある。
「名那」
ふいに黒耀は名那の手を引いて引き寄せる。カラリと名那の足元の小石が転がって、見えなくなった。
気づけば二人は崖の縁に立っていた。崖の下からは白い霧が湧き出て、化け物が吐息をこぼしているようだった。
名那は崖の下に目をこらして、恐れと恋しさがないまぜになったような声で言う。
「姉さまたち」
黒耀はうなずいて、名那と同じように霧の生まれる先を見やる。
「ここより下は、「黄泉」というんだ」
霧を頬に受けながら、黒耀は懐かしそうに話し始める。
「黄泉は私の兄たちが住んでいる。昔々から続く、世界の果てだよ」
黒耀はつっと目を伏せて声を落とす。
「私の兄たちは欲深く、残酷でね。たびたび天の世界の女神を引きずり込む」
見上げた名那の頬をなでて、黒耀は言う。
「決して振り向いてはもらえない女神たちにすがりつくのが幸せか、私にはわからないが」
揺れた名那の目に気づいたのか、黒耀はほほえんで首を傾けた。
「けれど私は、名那に恋をしたことに後悔はない。地底に繋がれていた邪神の私が……こんな美しい子と、出口の見えない輪廻をさまよう」
名那の額と自らの額を合わせて、黒耀は優しく話しかける。
「名那、天の世界が恋しいか?」
黒耀は名那をみつめながら言う。
「私は化け物だが……出会ったときからお前に焦がれて焦がれて、今も狂っている」
名那は涙をこぼして、黒耀に手を伸ばした。
無言で黒耀の背に腕を回した名那を、黒耀はそっと抱きとめた。
椿の花が落ちるように、異都の冬は唐突にやって来る。
昨日まで茂っていた植物は枯れ、洞の壁は氷と同じ温度になる。外には灰に似た雪がしんしんと降って、音も生命の色もかき消していった。
「今年も冬が来たな」
名那は顔を上げていろりの向こうの黒耀を見た。敷布に片膝を立てて座っていた黒耀は、鍋の煮え具合を見ながら言う。
「またずいぶんと寒い。それに長いだろう。……さ、もっとお食べ」
黒耀に勧められて、名那は椀に口をつけた。鼻先にきのこの香ばしさが漂う。あと数日で植物はしおれて、これも食べられなくなるだろう。
二口ほど飲んで、名那は椀を下ろす。みつめる黒耀の視線を感じながら、名那は口を開いた。
「黒耀さまは覚えている?」
黒耀は首を傾ける。名那は眉を寄せて言った。
「出会った頃のあなたが思い出せないの」
「私はどんなささいなことも覚えているよ。だからお前が覚えている必要はない」
黒耀は立ち上がって名那の横に席を移すと、彼女の隣からいろりの火を見やる。
「お前は何度も赤子からやり直して、何度となく私から離れていった」
うつむいた名那に、黒耀は苦笑する。
「長い時の中で、お前と共有できないことはたくさんあると知った。だがお前と同じでないから、一緒にいられる」
「黒耀さま?」
名那の手から椀を下ろして、黒耀は彼女の手のひらを眺める。
「私はお前にいろいろなものを贈ったな。きらめく宝石も、至福に酔う氷菓子も。……けれど今世だからこそ、お前に贈ることができるものがある」
黒耀はうなずいて、名那の手を自らの手で包んだ。
「綺麗なだけの箱庭の世界。中身のない、空っぽの底の国」
黒耀は身を屈めて名那に口づけた。
名那を胸に収めて、黒耀は背をさする。
「ここはどこにも逃れられない地獄で、何に怯えることもない楽園なんだよ。……もう少しだけ、ここで私と共に過ごそう」
黒耀が口づけたとき、名那の体は奥底がうずいた。
少しずつ変わりながら時を重ねて、今この時に至っている。
暗い歓喜のような矛盾した感情の間で、名那は黒耀の体に身をすり寄せる。
……結局、結ばれたのはいつで、眠りに落ちたのもいつだったか。
名那は邪神の彼と、今も箱のような世界で共に過ごしている。