白嶺に住む神々は、白銀の山羊の手足を持つ美しい女性の姿をしていた。
けれど末妹の名那だけは、下界に生きる人間のような頼りない手足を持って生まれ、信じやすい素直な心で、いつも動物たちと無邪気に遊んでいた。
限りなく空に近い白嶺に上って来る者はめったにいない。だから姉神たちは名那を心配して口々に言った。
「見慣れない者がいたら、近づかないこと。話しかけてもいけない」
「どうして?」
「白嶺の外には、私たちに似ているけれど、私たちとは違う者たちがいる。その者たちは、私たちを下界に落とそうとしている」
「下界は悪いところなの?」
名那には姉神たちの言葉がよくわからなかった。名那は姉神たちと一緒にいたいと思うが、下界に住む者たちが悪いとも思っていない。
美しい姉たちは眉をひそめて繰り返した。
「決して近づいてはいけないよ、名那。……邪神は、悪いものだ」
姉たちに逆らいがたいものを感じて、名那はそれ以上たずねることができなかった。
ある日名那が一人、泉で水浴びをしていたときだった。
太陽の傾きが変わったような気がして、名那は顔を上げた。
「水と遊ぶのは楽しい?」
その声は春風のような姉たちの声と違って、夜中に木々をしならせる冷たい風のような響きをしていた。
名那は辺りを見回したが、声の主は見えなかった。声はなお続ける。
「足もつかないところまで潜ったら、もっと楽しいんじゃないかな」
名那が震えたのは、水で体が冷えたせいではなかった。それが言ったのは名那が水に潜っているときにちらと思っただけのことで、どうして知られているのかわからなかった。
名那は見えない誰かを見ないように、水から離れてすみかに帰った。
近づかなかった、話しかけなかった。自分に言い訳をするように心で繰り返して、夕食に赴くこともなく、空腹のまま眠りについた。
それからたびたび、見えない誰かは名那に話しかけてきた。
初めての言葉とは違い、他愛ない話題が多かった。木にりんごが実っているとか、動物の赤ちゃんが生まれたよとか、夜那が喜ぶ優しい話だった。
でも名那はその声が不意に低くなるとき、胸の奥がいつもと違う音を立てているのに気づいた。
声の主を探そうとしている自分が、姉たちの言う悪いもののように思えた。
白嶺は変わらず常春の楽園のまま、嵐に踏み荒らされることもなく、姉神たちは笑って過ごしていた。
でも名那は次第にうつむくようになり、ある日、影を辿るようにしてあの泉にやって来た。
あの声が名那にたずねたのは、そんなときだった。
「どうしたのかな」
名那は話しかけてはいけないと姉たちに言われたことを思い出した。
でも誰かに話すのではなく、独り言を泉に離すのだと自分に言い訳して、名那は口を開いた。
「自分の気持ちがわからないの」
「どんな気持ち?」
「夜の泉に潜ってみたい。姉さまたちにだめと言われているのに」
名那は暗い気持ちで言ったのに、それを聞いた声はくすっと楽しそうに笑った気配がした。
名那は慌てて顔を上げて言う。
「笑わないで。悪い子だって叱られてしまう」
「私は名那の姉さまではないよ」
名那と呼ばれたとき、名那はどうしてか心が跳ねた。名那が思ったことを見通されたときの驚きとは違う、まぎれもない嬉しさだった。
声は楽しげに名那に問いかける。
「叱ってほしいのかな。お尻を叩いてほしい?」
かあっと顔が赤くなった名那に声は笑った気配がしたが、しばらくするとそれは黙ってしまった。
名那が声を待っていると、冷たい風が足元からのぼってくる。
空に夜が訪れようとしていた。すぐ手の届くようなところにあった天が遠ざかって、すみかに帰る時間がやって来る。
でも名那は帰りたいとは思わなかった。声がもう一度何かを告げる、その一言だけを待って立ちすくんでいた。
声はため息をつくように言う。
「天に限りなく近いところにいるのに、地の底が恋しいのだね」
声はいつかのように不意に声を低くして続けた。
「なんて可愛いのだろう。……なんて愛おしい」
影が動いたような気配がして、名那は震えた。
声は、あるいは影は名那に告げる。
「下をのぞいてごらん。私はそこだよ」
名那はそれに応じてはいけないことを、姉たちに聞くより遠い昔に教えられた気がする。
心安らかに、楽しく過ごせ。暗く汚れたものを見てはいけない。……天の母がそう言っていた。母が作った楽園から、女神たちは出てはならないと教えられていた。
でも末妹の名那は、母よりも心のざわめきを選んだ。名那は影の言う通り、泉の下を見る。
「あ……」
そこに名那は、自分に似て自分と違う形を見た。名那より一回り大きな体、張った肩、名那と同じ人の手足を。
それは泉から上がって名那の前に立った。
彼は名那の頬に手を触れると、名那の身を引き寄せて笑った。
「来たよ、名那」
邪神が名那に触れたとき、地響きが聞こえた。
どこかで雷が落ちて、岩山が崩れた。名那が母の怒りに怯えると、邪神は名那を腕に包んだまま、楽しげに喉を鳴らす。
「天が怒ろうと、私はもう君を離さない。……神界を下ろう、名那。私の故郷まで君を連れていくよ」
雷は鳴り続け、岩山は砕け続ける。天の怒りは近づき、恋に落ちた二人の元まであとわずかに迫る。
ひときわ大きな雷鳴と落雷の後、音は消え、世界は闇に落ちた。
何も見えなくなった名那は自分を包んでいる彼だけが頼りの気がして、下へ下へと落ちていった。
けれど末妹の名那だけは、下界に生きる人間のような頼りない手足を持って生まれ、信じやすい素直な心で、いつも動物たちと無邪気に遊んでいた。
限りなく空に近い白嶺に上って来る者はめったにいない。だから姉神たちは名那を心配して口々に言った。
「見慣れない者がいたら、近づかないこと。話しかけてもいけない」
「どうして?」
「白嶺の外には、私たちに似ているけれど、私たちとは違う者たちがいる。その者たちは、私たちを下界に落とそうとしている」
「下界は悪いところなの?」
名那には姉神たちの言葉がよくわからなかった。名那は姉神たちと一緒にいたいと思うが、下界に住む者たちが悪いとも思っていない。
美しい姉たちは眉をひそめて繰り返した。
「決して近づいてはいけないよ、名那。……邪神は、悪いものだ」
姉たちに逆らいがたいものを感じて、名那はそれ以上たずねることができなかった。
ある日名那が一人、泉で水浴びをしていたときだった。
太陽の傾きが変わったような気がして、名那は顔を上げた。
「水と遊ぶのは楽しい?」
その声は春風のような姉たちの声と違って、夜中に木々をしならせる冷たい風のような響きをしていた。
名那は辺りを見回したが、声の主は見えなかった。声はなお続ける。
「足もつかないところまで潜ったら、もっと楽しいんじゃないかな」
名那が震えたのは、水で体が冷えたせいではなかった。それが言ったのは名那が水に潜っているときにちらと思っただけのことで、どうして知られているのかわからなかった。
名那は見えない誰かを見ないように、水から離れてすみかに帰った。
近づかなかった、話しかけなかった。自分に言い訳をするように心で繰り返して、夕食に赴くこともなく、空腹のまま眠りについた。
それからたびたび、見えない誰かは名那に話しかけてきた。
初めての言葉とは違い、他愛ない話題が多かった。木にりんごが実っているとか、動物の赤ちゃんが生まれたよとか、夜那が喜ぶ優しい話だった。
でも名那はその声が不意に低くなるとき、胸の奥がいつもと違う音を立てているのに気づいた。
声の主を探そうとしている自分が、姉たちの言う悪いもののように思えた。
白嶺は変わらず常春の楽園のまま、嵐に踏み荒らされることもなく、姉神たちは笑って過ごしていた。
でも名那は次第にうつむくようになり、ある日、影を辿るようにしてあの泉にやって来た。
あの声が名那にたずねたのは、そんなときだった。
「どうしたのかな」
名那は話しかけてはいけないと姉たちに言われたことを思い出した。
でも誰かに話すのではなく、独り言を泉に離すのだと自分に言い訳して、名那は口を開いた。
「自分の気持ちがわからないの」
「どんな気持ち?」
「夜の泉に潜ってみたい。姉さまたちにだめと言われているのに」
名那は暗い気持ちで言ったのに、それを聞いた声はくすっと楽しそうに笑った気配がした。
名那は慌てて顔を上げて言う。
「笑わないで。悪い子だって叱られてしまう」
「私は名那の姉さまではないよ」
名那と呼ばれたとき、名那はどうしてか心が跳ねた。名那が思ったことを見通されたときの驚きとは違う、まぎれもない嬉しさだった。
声は楽しげに名那に問いかける。
「叱ってほしいのかな。お尻を叩いてほしい?」
かあっと顔が赤くなった名那に声は笑った気配がしたが、しばらくするとそれは黙ってしまった。
名那が声を待っていると、冷たい風が足元からのぼってくる。
空に夜が訪れようとしていた。すぐ手の届くようなところにあった天が遠ざかって、すみかに帰る時間がやって来る。
でも名那は帰りたいとは思わなかった。声がもう一度何かを告げる、その一言だけを待って立ちすくんでいた。
声はため息をつくように言う。
「天に限りなく近いところにいるのに、地の底が恋しいのだね」
声はいつかのように不意に声を低くして続けた。
「なんて可愛いのだろう。……なんて愛おしい」
影が動いたような気配がして、名那は震えた。
声は、あるいは影は名那に告げる。
「下をのぞいてごらん。私はそこだよ」
名那はそれに応じてはいけないことを、姉たちに聞くより遠い昔に教えられた気がする。
心安らかに、楽しく過ごせ。暗く汚れたものを見てはいけない。……天の母がそう言っていた。母が作った楽園から、女神たちは出てはならないと教えられていた。
でも末妹の名那は、母よりも心のざわめきを選んだ。名那は影の言う通り、泉の下を見る。
「あ……」
そこに名那は、自分に似て自分と違う形を見た。名那より一回り大きな体、張った肩、名那と同じ人の手足を。
それは泉から上がって名那の前に立った。
彼は名那の頬に手を触れると、名那の身を引き寄せて笑った。
「来たよ、名那」
邪神が名那に触れたとき、地響きが聞こえた。
どこかで雷が落ちて、岩山が崩れた。名那が母の怒りに怯えると、邪神は名那を腕に包んだまま、楽しげに喉を鳴らす。
「天が怒ろうと、私はもう君を離さない。……神界を下ろう、名那。私の故郷まで君を連れていくよ」
雷は鳴り続け、岩山は砕け続ける。天の怒りは近づき、恋に落ちた二人の元まであとわずかに迫る。
ひときわ大きな雷鳴と落雷の後、音は消え、世界は闇に落ちた。
何も見えなくなった名那は自分を包んでいる彼だけが頼りの気がして、下へ下へと落ちていった。