「乗れ。その足で歩くのは厳しいだろう」
「ゆっくり歩けば大丈夫です。先に戻って下さい……」
「昨日も運んでいるから問題ない。軽量なお前一人くらい、屋敷まで運ぶのはお安い御用だ」

 このままでは昨晩と同じように押し問答になるだけだと悟ると、海音は素直に蛍流の背に掴まる。そして昨日と同様に「軽いな」と蛍流が呟いたのだった。

「振袖を着てもこの重さか。まるで羽根のようだな。この世界に来てからまともに食べていなかったんじゃないか。朝餉もほとんど残していただろう」
「昨日の朝までは灰簾家に居候の身でしたので……。女中さんと同じものを食べていました……。冷めた料理と残り物を少々」
「女中と同じ扱いだったのか?」
「私が女中さんと同じでいいって言ったんです。灰簾家の人たちも、青龍の伴侶になれたのなら毎日贅沢三昧が出来るって言っていたので、今だけだと思って……。それに……」
「それに?」
「……太ったら、白無垢が着られないので」

 滝壺に向かう道すがら話していた二人だったが、気まずそうに囁いた海音の言葉でその場が水を打ったようにしんとなってしまう。

「……着たいのか? 白無垢」
「家に飾られていたお父さんとお母さんの神前式の写真をずっと眺めて育ったので……。ウエディングドレスにも憧れていますが、この世界にはなさそうですし……」

 母親の仏壇には幼い海音を抱いた母親の写真と一緒に、両親の神前式の写真も飾られていた。父親に聞いたところ、ウエディングドレスの写真もどこかにあるらしいが、母親の療養で引っ越しを繰り返している内に、どこかに紛れて分からなくなってしまったという。

「この世界での、というより、七龍の形代との婚礼は基本的に書面だけで終わる。豪華な衣装の用意や儀礼は行わない」
「そうなんですか……」
「せいぜい角隠しに留振か振袖を合わせて、お神酒を酌み交わすくらいだな。希望があれば、伴侶側の親族ぐらいは呼ぶが……」

 どこか申し訳なさそうに教えてくれるのは、期待を膨らませて身代わりを演じた海音に気を遣ってくれているのか。伴侶になれないと分かっていながら、海音の憧憬を壊さないようにしてくれる蛍流の優しさがどこか居心地悪い。

「残念です……」
「あくまで七龍の形代と婚姻を挙げる場合の話だ。他の男と式を挙げる場合は望み通りの神前式が出来るだろう。この先、輿入れ相手に頼むといい」
「蛍流さんはやってくれないんですか? その、伴侶から頼まれても……」
「伴侶が望むのなら、おれはやってもいい。途方もない長い時間、人生の苦楽を七龍の形代と共に過ごすんだ。些細なことで波風は立てない方が良い。その代わり、七龍の形代はここから離れられないので、斎主を呼んであの屋敷で執り行うことになるが」

 歴代の青龍とその伴侶はどうしていたのか、尋ねようと口を開きかけた時、先程の滝壺まで戻ってきてしまう。何を思ったのか、蛍流は水際近くの岩の上に海音を下ろすと、「少し待っていろ」とだけ短く言って離れてしまう。

「先に足首だけ冷やしてしまおう。そのままではますます悪化して、立つことさえ辛くなってしまう」

 蛍流は懐から取り出した手巾を滝壺の冷水に浸すと、土埃と枝葉でボロボロになった海音の足袋を脱がして、昨晩捻った足首に巻いていた包帯も外してしまう。

「やはり腫れが酷くなっているな。しばらくは安静にした方がいい。指の間の傷は草履か? 大きさの合わない草履を履くと、鼻緒で擦れて切り傷になってしまう」

 鈍痛が悪化しているところから、ある程度は予想していたものの、包帯下の足首は見るからに赤く腫れていた。そんな足首に蛍流が濡らした手巾を当てたので、海音は飛び上がってしまう。

「ひゃあ!?」
「冷たいだろうが、今だけ我慢してくれ」
 
 苦笑しながらも、蛍流は湿布代わりの手巾と一緒に手早く包帯を巻き直してくれる。その手際があまりにも良いので、これには看護師を目指す海音でさえ、惚れ惚れと見入ってしまったのだった。

「明朝、行商人に来てもらうように手配している。お前の着替えや治療に必要な医薬品を持参してもらうつもりだ」
「行商人が来るんですか?」
「おれはここから離れられないからな。七日に一回程度、必要な物品や食料を届けてもらう。この国に流通している物なら大体揃えてもらえる。ついでに情報もな。ここに来ている行商人は情報屋と各地の七龍の形代たちとの連絡役も兼ねている。お前も必要な物があれば頼むといい。火急の要件も、都合次第では聞いてもらえることがある……その分、高く吹っ掛けられるが」
「私は大丈夫です。この世界のお金を持っていないので……」
「七龍の形代とその伴侶の生活費は、全て国の政務を司る政府から支払われるから心配ない。万が一にも、国を守護するおれが行き倒れなんてことになったら、この国は大変なことになるからな。そして今のお前はおれの客人だ。七龍の形代の客人にもしものことがあったら、守護龍とひいてはこの国に影響を及ぼしかねない。政府だってお前のことを悪しざまに扱わないだろう。伴侶に与えられる支度金の話をされた時に聞かなかったか?」
「いえ……。私は灰簾家の人じゃないので、お金の話なんて無かったのかもしれません……」
「……そうか。それならこれからは遠慮しなくていい。おれの客人としてあの屋敷で好きなように過ごしてくれ」

 ほっと安堵の息を吐く。明日もここに居て良いと言われただけで、こんなに胸が熱くなるとは思わなかった。住む場所があることを当たり前だと思っていた元の世界では到底思えなかった感情にゆっくりと笑みを浮かべると、改めて衣食住の有難みを噛みしめる。
 すると、突然滝壺の中心部が泡立ち始めたので、海音は身体を仰け反りかける。噴水の水が噴射する直前にも似た光景にあんぐりと口を開けて見ていると、蛍流はなんともないように「やっぱりな」と独り言ちたのだった。

「ここまで騒いだら、さすがに姿を現すと思っていた」