駅は高架橋の上に在る。遥か下に広がるジオラマのような街には、人の営みが無数に散らばっている。地平線にほどなく近い(きわ)の空は、抗うように白く朱く染まっていた。

 家に帰るのが憂鬱だと友人に言ってみたら、呆れられた。一昨日のその小さな出来事が肺をちくちくと刺しているようで、風船が萎むような力なくも長い溜息が漏れ出た。
 家に帰ると、母と母の恋人がいる。そんな生活が始まって一年と少しが経つが、まだ慣れない。
 父と離婚して、専業主婦だった母がそれからすぐに夜職に就いたのは、ずっと前の話だった。彼女が僕の知らないところで僕の知らない顔をしているであろうことは、もともと想像に難くなかった。浅はかにも、どのみち自分に母として接してくれるのだから、彼女がどこでどんな振る舞いをして何を思おうと、法律と倫理さえ遵守しているのならいちいち気にすることでもないと思っていたのだ。
 母は勿論、母の恋人も暴力を振るったりはしないし、温厚な性格で、僕と仲良くなろうと積極的に声をかけてくれる。だというのに僕は、まるであの空間が自分の家ではないかのように錯覚してしまうのだ。ふたりの善意を陰で躙っているかのような罪悪感と、居場所を失くしたかのような不安感と、自分でもよく分からない焦燥が、僕の全身を巣食っている。

 電車を待つ間、駅のホームのベンチで、いつも決まって隣に座る人がいた。名も知らない推定高校生の少女で、このあたりと比べたらずっと都会の方にありそうな洒落たブレザーを身に纏っていた。
「太宰、読むんですね」
 彼女がおもむろに口を開いて、僕の読みかけの文庫本を指差した。学校の図書館で適当に選んで借りてきた一冊だ。中学に進学してから何を読むべきか分からなくなってしまった僕は、二年ほどの迷走をした結果、近代文学を読むようになった。とはいえ、本の内容は中学生の僕には難しいことが多く、背伸びをしているませた子供のようなものであるから、「嗜む」と形容するにはやや抵抗感があった。
「僕には、ちょっと難しかったです」
 正直に感想を述べると、彼女は柔らかく微笑んだ。
「きっと、そのうち分かるようになりますよ」
 斯く言うこの少女も、よく小難しそうな小説を読みながら電車を待っている。僕はそれを垣間見て、近代文学に手を伸ばしたのだ。この隣席の綺麗な少女がどんなものに目を通しているのか知りたいと、そしてあわよくば話してみたいと思った。
 僕を読書に駆り立てたのは、そんな浅はかな考えだった。
 いつもなら、上から目線のように受け取られる言葉には「将来のことも僕のことも分からないくせによく言う」と思うことが殆どであったが、彼女が言うと本当に言葉通りになるように思えた。どんな言葉も、誰が言うかが大切なのだろう。
「お、お勧めの本とかあったら、聞いてもいいですか」
 少女はしばらく宙を見上げて考えに耽り、そのあと自分の鞄の中をかき回してから一冊の文庫本を取り出した。丁度持ってきていたんですと、はにかむような笑みを浮かべて、僕の手を掴んで本を握らせる。
「これも太宰ですけれど、気が向いたら読んでみてください」
 まさに夢心地といったとこだろうか。コンクリートの地面にしっかりついていたはずの両足が、ふわふわとそわそわとして浮き立っていた。難しくて読む気が滅入っていた太宰作品たちが、途端に煌めき出したように見えてしまうほど、浮かれた。
 まさかその場で貸してもらえるとは思いもしなかったため、僕は熱に浮かされたかのようにぼんやりとしながら、たどたどしく礼を伝えて表紙も見ずにリュックにしまった。この本は絶対に誰にも見つからないようにしようと、奥底に沈めた。

 しかし、それ以降は次第に話題も尽きてしまって、ついには静寂が再来した。
 僕と彼女は止まっては過ぎていく電車の光を幾つも見送った。僕らは空の際まで暗くなっても、立とうとさえしなかった。
「……一駅隣に、ファミレスがあるらしいんです」
 先に沈黙を破ったのは、隣人の方であった。その声が僅かに震えているのに気づいて、しかしその理由までは分からなかった。まだ肌寒いような季節でもない。
「旬のフルーツを使ったパフェが美味しいらしくて」
 今の季節だと何だろう。梨か、葡萄か、林檎か。我が家はあまり裕福ではないのもあって、外食の機会はなかなかない。ましてや、デザートまで注文できた日は今まで一度もなかった。
「一緒に……行きませんか?」
 彼女の指先が僕の手の甲にそっと触れて、そこから明確に熱を感じた。心臓は痛さまで感じそうなほど速く脈打ち、だんだん真っ当な判断ができる気がしなくなってきた。確実に冷静さを欠いている。僕は恋愛経験に乏しかった。
「私が奢るので、どうでしょうか。……独りじゃ行きづらいんです」
「ぼ、僕でよければ」
 その時の僕がどんな顔をしていたのか考えたくもない。顔を赤らめ、眉をハの字に曲げ、きっと情けない表情だったに違いない。
 彼女は心底嬉しそうに微笑み、まだ目的地にさえ着いていないというのに「ありがとうございます」と小さな声で礼を告げた。
 次に来た電車に二人で乗って、ガラスに反射する自分の顔をまじまじと見た。少なくとも今は、顔は赤くなく、鼻の下がだらしなく伸びているなんてこともなく、辛うじて平静を装えていた。
 外はすっかり暗く、それに対して車内は眩しいほどに明るいため、窓には乗客たちの顔がはっきり映っている。帰宅ラッシュからやや過ぎた電車には、それでもサラリーマンが多く乗っていて、つまり窓には疲れてくたびれた表情ばかりがショーケースの中身みたく並んでいた。それらに混じって並べられた僕らの姿は若干浮いていた。
 隣の少女は俯いていた。だから僕は反射で窓に映った像から彼女の表情を窺い知ることができなかった。

「二名様ですね、空いている席にどうぞ」
 店員はそれだけ告げると、慌ただしく厨房に戻っていった。夜だというのに、否、夜だからなのか、店内の人口密度は想像以上だった。
「金曜日の夜は、人が多いですね」
 同じようなことを考えていたのか、彼女もそんなことを呟いて、近くの空席に腰を掛けた。
 窓際のテーブル席の、本来二人掛けであろうソファを独りで占有する。広々としていて居心地が良い。正面に座っている彼女の方を窺い見ると、早速メニュー表を眺めていた。
「お目当てのものは見つかりましたか?」
「あ……はい、このパフェにしようかなと。ちょっと値が張るけれど……」
 彼女はメニューをこちらに向けて開き直す。ラ・フランスのパフェ。何だか高級そうな名前だ。貧しい僕の家とは縁遠いもののような気がした。
「そちらは何か決まりましたか? 私が奢るので、何でも好きなのを頼んでください」
「え、ええと、特に決まっていなくて……」
「なら、もしよければ同じものにしませんか? これは間違いなく美味しいと思います。あ、アレルギーとか大丈夫ですか」
 アレルギーはないと伝えると、ほっとした表情の笑みが返ってくる。備え付きのタブレットを手慣れた様子で操作した彼女は、注文が済んだのか、「少しお話をしませんか」とこちらを見つめた。それだけで僕の心臓は跳ねる。
「ずっと電車も乗らないでいたから、何かあったのかなって。こんな見ず知らずの私に話せることなんて少ないとは思いますが……」
 ずっと駅のホームで座っていたのはそちらも同じだろう、と思わず口を挟みたくなったが、その気はすぐに萎んだ。彼女の心優しさで、意地を張る僕の情けなさが際立って見えたのだ。
「母が恋人を連れてきて……今は一緒に暮らしているんです。夏彦さんって言うんですけど、とても出来た人で、母も幸せそうだし、僕も嬉しいんです。だけど、……二人にどう接するべきか分からなくなってしまって」
 それで家に帰りづらかったのだと、赤裸々に明かす。後ではっとして、「こんなこと話してしまっても困りますよね」と取り消そうとした。しかし彼女は穏やかな表情のまま、「こういうのは、親しい間柄であればあるほどかえって言い出しづらいですから」と微笑んだ。確かに、彼女とは今日初めて言葉を交わした。親しい関係ではない。僕の一方的な憧れにすぎないのだ。
「今私に話したみたいに、お二人に話せるのが一番だとは思います。対話は大切ですからね、ましてや話の通じない相手ではないのだし。ですが、貴方だって私に言われなくとも腹を割って話すのが一番だとは分かっているでしょうから、別の手段を考えてみましょう」
 時間が解決するのを待つ、距離を取る、いっそ強引に距離を縮めてみる。結局挙がったのは自分一人でも思いつくようなありふれた選択であったが、僕は何より彼女が親身になって一緒に考えてくれたのが嬉しかった。

 配膳ロボットがパフェをふたつ運んできた。噂には聞いていたが、猫の手も借りたいというのをこうも体現されているのを見ると、思わず笑みが零れた。
 メニュー表の写真より少しショボい実物を、スプーンで掬って味わう。なかなか美味しかった。正面の彼女もおよそ満足そうに頷いていた。
「僕も訊いていいですか、電車に乗らなかった理由」
 カツンとカップにスプーンが当たる音が向こうからして、何となく食べる手を止めてそちらを見る。彼女は変わらず微笑みを浮かべていたが、表情がいささか固くなっている気がした。何気なく投げた質問であったが、何か地雷でも踏み抜いたのだろうか。背筋がすっと冷えた。
「似たようなものですよ。家庭内で、色々あって」
 彼女はそう言ったきり口を閉ざしてしまって、僕はこの状況をどう回復させるべきか分からなかった。何を言っても失敗してしまいそうな気がしてならなかった。その間にパフェはどんどん溶けていく。
「……これ、私の最後の晩餐になるかもしれないんです」
「最後の、晩餐」
「門限を守らなかったので」
 彼女は自分の意志で座っていた。意図的に電車を逃したのだろうか。そもそも、門限を守らなかっただけで最後の晩餐になるなんて大袈裟な話だ。もしかすると僕よりも厭世的な思考をしているのではないか、と彼女を見つめる。しかし、その目は思わず避けたくなるほどまっすぐで、僕はその衝動通りに目を背けた。彼女は鬱屈とは真反対にいた。
「これが私の反抗です。ささやかだとは、自分でも思いますが」
 飄々とした様子で言ってのける。
 何故これほど真っ直ぐなのだろう。覚悟などとうに決まっていたと言わんばかりの様子だ。どれほど酷い家庭だったのだろう。彼女は自分のことについて話してくれない。親しい間柄ではないのに。それとも、これでも話している方なのだろうか。
 門限を守れないという理由で我が子さえ殺してしまうような親なのか。それとも死に等しい仕打ちを受けるのか。あるいは、自ら命を手放そうというのか。僕の方から問うのは躊躇いがあった。
「……最後が、ファミレスのパフェなんかでいいんですか」
「充分ごちそうですよ」
 僕と彼女が知らないだけで、もっと美味しい食事がこの世には沢山あるはずだ。
「最後に話した相手がこんなよく知らない中学生でいいんですか」
「一緒にお話しできて楽しかったですよ」
 もっと話し上手や聞き上手がこの世には五万といるはずだ。彼女を救える人間だって、探せばいるはずだ。
 最後の晩餐──要は死が近いと彼女は言っている。死を前に、何故これほど穏やかでいられるのだろう。
 分からない。僕には分からなかった。それこそが幸せであることの証明なのだと、彼女は笑顔で僕を宥めた。
「……もう、どうにもならないよ」
 諦めに近い言葉。今日話した中で一番本心に近そうな呟きであった。
 僕は、覚悟の決まった人間を無理にでも引き留める手段を知らない。

「一緒に来てくださってありがとうございました。心強かったです。……じゃあ、またいつか」
 そう言って静かに笑みを浮かべる彼女の姿は、僕がこれ以上踏み込むのを拒絶している以外の何ものでもない。僕は言葉を詰まらせた。一度黙ってしまうと、止まってしまうと、体が鉛のようになってしまって動かなくなる。
 彼女は僕を一瞥して、繁華街の奥へと早足で行ってしまった。
 彼女は何を求めていたのだろうか。逃避行かロマンスの真似事か、人の言葉か、それとも。
 来ないであろう『いつか』に期待したいという自分の必死さに、体が燃えるように火照った。
 引き留めもできなかったくせに。

「こんな時間までどこに行っていたの!」
 概ね予想通りであるが、帰宅した僕を見て母は開口一番に怒号を散らした。
「まあまあ、芳ちゃん、一旦落ち着こう。ほら、まずは話を聞かないと」
 奥から現れた夏彦さんに宥められて、母は「早く上がっておいで」とだけ乱雑に言い放ってリビングルームに戻っていった。
「おかえり、拓くん。何も連絡がないって、お母さんが心配していたよ」
 言われてようやく、母に帰りが遅いことを知らせていなかったと気づく。
「わ、忘れてた……」
 まあ無事で何よりだよ、と夏彦さんは苦笑して、彼もまた玄関を去った。
 玄関でひとり、呆然と立ち尽くす。母の怒号に驚いて放心しているわけではない。夕方から夜にかけての怒涛の展開に、想像以上に疲弊していた。
 おもむろに拳を握った。僕の脳裏には、去っていく少女の後姿ばかりが色濃く残っている。彼女は今どうしているのだろう。これから死にに行くのか、それともどうにかして生きていくのだろうか。
 あの瞬間、強引にでも彼女を引き留めることができたのら、果たしてどうにかなったのだろうか。
 どうにもならないよと微笑む彼女の、至る所から諦念を感じ取ることができた。目を逸らした時に見えた、長袖の下に隠れていた傷はどれもできたばかりのようで見るに堪えないほど痛々しいものだった。
 僕に、何か変えられるだけのものがあるだろうか。きっと、多分、そんなものはないのだろう。
「馬鹿みたいだなあ、僕」
 そういえば彼女に借りた本はどうするべきなのだろう。本がリュックに入っているのを思い出すと、途端に身体が重くなった気がしてしゃがみ込む。自虐の言葉を呟けば、「そこで一人反省会してないで、早く上がってらっしゃい」と母の声が飛んできた。独り言を独り言にさせてくれない。せめて今だけは放っておいてほしいと思ってしまった僕は、未熟で幸せ者なのだろう。

 あの夜から、彼女の姿は見ていない。