「ねえ、あの簪なに? 悪趣味」
どこかからか聞こえてきたその言葉に、昨夜のことを思い出していた凛風はハッとする。
見回すと何列か前の妃ふたりが、凛風を見ている。
「雪絶花じゃない。あんなのを刺して後宮入りするなんて、あの子正気?」
眉を寄せて、ヒソヒソと話しをしている。さして隠すつもりはないようで丸聞こえである。
皇太后が帰って後、父から聞いたところによると、簪の白い花は雪絶花というらしい。可憐な見た目で衣服などの装飾にはぴったりだが、ひと株につきひとつの花しか咲かないことから、子宝に恵まれないという不吉な意味を持つという。
既婚で、まだ子を産んでいない女は、身に着けてはならないとされている。
皇太后が簪の飾りを雪絶花にしたのには理由があると父は言った。
『後宮は、陛下の寵愛を争うためだけに存在する場所。お妃さま方の間では足の引っ張り合いは日常茶飯事だ。高直な物がなくなることも少なくはない。万が一にでも盗まれぬようにというご配慮だ』
いくら美しい簪でも、不吉な物は盗られない、というわけだ。
「やだ、あなた……そんな簪、いったいどういうつもり?」
ヒソヒソ声に気がついた隣の妃が、ギョッとして凛風に問いかけた。
「……母の形見なんです」
凛風は、父に言いつけられた通りに答えた。
「だからって……。あなたまさか身体検査の時もそのままで?」
「はい」
すると彼女は眉を寄せて、凛風を避けるように座り直し、向こうの妃の方を向いた。
「よかった。少なくとも最下位になることはなさそうね。いくらなんでも、ここまでものを知らない娘に負けるわけがないもの」
その時、どーんどーんと銅鑼が鳴る。
がやがやと話をしていた妃たちが口を閉じると、前に役人が現れた。
妃の数の発表だ。
凛風の胸が痛いくらいに早くなった。
皇太后は、必ず閨にはべらせてやると言っていた。ならば、凛風には若い数が振りあてられるのだろうか。
「名を呼んだら、起立するように」
その場に静寂に包まれる中、役人が声を張り上げる。
「一の妃、李宇春」
すると中くらいの席に座っていた、ひときわ豪華な衣装を纏った少しふくよかな娘が立ち上がる。得意そうに頬を染めている。
「ありがとうございます!」
張りのある声で答えて膝を折り、着席した。
「お父上が、丞相さまだもの。きっともともと決まってたのよ」
「本人のお力ではないわ」
隣の妃たちが悔しそうに囁き合った。
「二の妃、陳花琳」
今度は前の席に座っていた娘が立ち上がる。ひときわ美しい妖艶な身体つきの娘だった。
「あの娘……! たいした家柄でもないくせにっ……」
「どうせあの身体で、お役人さまを誘惑したのよ。ふしだらね。ああはなりたくないわ」
そんなやり取りを繰り返しながら、次々に妃たちの名が呼ばれていく。
――そして。
「百の妃、郭凛風」
一番最後に自分の名を呼ばれた凛風は心の底からホッとした。
よかった。皇太后の力をもってしても、役人の算定を覆すことができなかったのだ。
立ち上がり頭を下げて再び座ると、隣の妃がくすくす笑った。
「百番目なんて、私なら今すぐ死んでしまいたいわ」
「本当、恥ずかしくて実家に顔向けできないわよね。でもあの娘、平気そうなのが、解せないわ。皆泣いてるのに」
実際、順位の低かった娘たちは皆一様に、泣き崩れている。立ち上がり返事をすることすらできない娘もいたくらいだ。
刺客であることを隠すためには、自分も泣き崩れた方がよいのだろうかと思うものの、そのように器用な真似はできなかった。
うつむき、好奇の目に耐えるだけだ。
また銅鑼が鳴り、妃たちが口を閉じる。
「これより、皇帝陛下が参られる。皆、首を垂れて待つように」
突然の宣言に、妃たちが一気に色めき立った。
「ついにこの時がきたのね! いったいどのような方かしら? 角を拝見することはできるのかしら?」
「あら、それはきっと無理よ。鬼の角はお力を使われる時にだけ、生えるという話だから。見た目は人間と変わらないけれど、精悍なお顔と屈強な身体つきは、宦官たちも見惚れるほどだという話よ」
凛風はひとりうつむいたまま、身を固くしていた。まさか皇帝がこの場に来ると思わなかった。
いずれ自分が手にかけなければならない相手を目にする勇気はまだないというのに。
もう一度、銅鑼がどーんと鳴る。
「皇帝陛下の御成」
役人の言葉に皆一斉に首を垂れる。
すると玉座の後ろの扉がギギギと開く音がした。こつこつという靴音を響かせて皇帝が部屋へ入ってきたようだ。しばらくして低い声が大極殿に響いた。
「面を上げよ」
周りの妃たちが言われた通りにする中で、凛風は頭を下げたままだった。どうしても勇気が出なかったからだ。
皇帝の顔を見てしまったら自分がしようとしていることの恐ろしさを実感して、すぐにでも逃げ出したくなってしまうだろう。
凛風がギュッと目を閉じた時。
「ご苦労であった」
皇帝が言って立ち上がり、入ってきた扉から出ていった。ギギギと扉が閉まると同時に、また妃たちがざわざわとする。
「あーん、あれだけ? もう少しお声を聞きたかったわ」
「だけど、噂通り素敵な方ねぇ。実家で拝見した肖像画以上だったわ。精悍なお顔立ちに切れ長の目。わたし、あのような美しい男性ははじめて見るわ。後宮入りしてよかったわぁ」
「本当に。それに驚くほど背が高い方なのね。逞しくて素敵だった……。鬼のお力を使われるところも見てみたいわ」
皆が皇帝の容姿について口々に褒める中、また銅鑼が鳴り、役人が声を張り上げる。
「では、これより後宮入りしていただきます」
周りが一斉に立ち上がる。凛風も皆に従った。
どこかからか聞こえてきたその言葉に、昨夜のことを思い出していた凛風はハッとする。
見回すと何列か前の妃ふたりが、凛風を見ている。
「雪絶花じゃない。あんなのを刺して後宮入りするなんて、あの子正気?」
眉を寄せて、ヒソヒソと話しをしている。さして隠すつもりはないようで丸聞こえである。
皇太后が帰って後、父から聞いたところによると、簪の白い花は雪絶花というらしい。可憐な見た目で衣服などの装飾にはぴったりだが、ひと株につきひとつの花しか咲かないことから、子宝に恵まれないという不吉な意味を持つという。
既婚で、まだ子を産んでいない女は、身に着けてはならないとされている。
皇太后が簪の飾りを雪絶花にしたのには理由があると父は言った。
『後宮は、陛下の寵愛を争うためだけに存在する場所。お妃さま方の間では足の引っ張り合いは日常茶飯事だ。高直な物がなくなることも少なくはない。万が一にでも盗まれぬようにというご配慮だ』
いくら美しい簪でも、不吉な物は盗られない、というわけだ。
「やだ、あなた……そんな簪、いったいどういうつもり?」
ヒソヒソ声に気がついた隣の妃が、ギョッとして凛風に問いかけた。
「……母の形見なんです」
凛風は、父に言いつけられた通りに答えた。
「だからって……。あなたまさか身体検査の時もそのままで?」
「はい」
すると彼女は眉を寄せて、凛風を避けるように座り直し、向こうの妃の方を向いた。
「よかった。少なくとも最下位になることはなさそうね。いくらなんでも、ここまでものを知らない娘に負けるわけがないもの」
その時、どーんどーんと銅鑼が鳴る。
がやがやと話をしていた妃たちが口を閉じると、前に役人が現れた。
妃の数の発表だ。
凛風の胸が痛いくらいに早くなった。
皇太后は、必ず閨にはべらせてやると言っていた。ならば、凛風には若い数が振りあてられるのだろうか。
「名を呼んだら、起立するように」
その場に静寂に包まれる中、役人が声を張り上げる。
「一の妃、李宇春」
すると中くらいの席に座っていた、ひときわ豪華な衣装を纏った少しふくよかな娘が立ち上がる。得意そうに頬を染めている。
「ありがとうございます!」
張りのある声で答えて膝を折り、着席した。
「お父上が、丞相さまだもの。きっともともと決まってたのよ」
「本人のお力ではないわ」
隣の妃たちが悔しそうに囁き合った。
「二の妃、陳花琳」
今度は前の席に座っていた娘が立ち上がる。ひときわ美しい妖艶な身体つきの娘だった。
「あの娘……! たいした家柄でもないくせにっ……」
「どうせあの身体で、お役人さまを誘惑したのよ。ふしだらね。ああはなりたくないわ」
そんなやり取りを繰り返しながら、次々に妃たちの名が呼ばれていく。
――そして。
「百の妃、郭凛風」
一番最後に自分の名を呼ばれた凛風は心の底からホッとした。
よかった。皇太后の力をもってしても、役人の算定を覆すことができなかったのだ。
立ち上がり頭を下げて再び座ると、隣の妃がくすくす笑った。
「百番目なんて、私なら今すぐ死んでしまいたいわ」
「本当、恥ずかしくて実家に顔向けできないわよね。でもあの娘、平気そうなのが、解せないわ。皆泣いてるのに」
実際、順位の低かった娘たちは皆一様に、泣き崩れている。立ち上がり返事をすることすらできない娘もいたくらいだ。
刺客であることを隠すためには、自分も泣き崩れた方がよいのだろうかと思うものの、そのように器用な真似はできなかった。
うつむき、好奇の目に耐えるだけだ。
また銅鑼が鳴り、妃たちが口を閉じる。
「これより、皇帝陛下が参られる。皆、首を垂れて待つように」
突然の宣言に、妃たちが一気に色めき立った。
「ついにこの時がきたのね! いったいどのような方かしら? 角を拝見することはできるのかしら?」
「あら、それはきっと無理よ。鬼の角はお力を使われる時にだけ、生えるという話だから。見た目は人間と変わらないけれど、精悍なお顔と屈強な身体つきは、宦官たちも見惚れるほどだという話よ」
凛風はひとりうつむいたまま、身を固くしていた。まさか皇帝がこの場に来ると思わなかった。
いずれ自分が手にかけなければならない相手を目にする勇気はまだないというのに。
もう一度、銅鑼がどーんと鳴る。
「皇帝陛下の御成」
役人の言葉に皆一斉に首を垂れる。
すると玉座の後ろの扉がギギギと開く音がした。こつこつという靴音を響かせて皇帝が部屋へ入ってきたようだ。しばらくして低い声が大極殿に響いた。
「面を上げよ」
周りの妃たちが言われた通りにする中で、凛風は頭を下げたままだった。どうしても勇気が出なかったからだ。
皇帝の顔を見てしまったら自分がしようとしていることの恐ろしさを実感して、すぐにでも逃げ出したくなってしまうだろう。
凛風がギュッと目を閉じた時。
「ご苦労であった」
皇帝が言って立ち上がり、入ってきた扉から出ていった。ギギギと扉が閉まると同時に、また妃たちがざわざわとする。
「あーん、あれだけ? もう少しお声を聞きたかったわ」
「だけど、噂通り素敵な方ねぇ。実家で拝見した肖像画以上だったわ。精悍なお顔立ちに切れ長の目。わたし、あのような美しい男性ははじめて見るわ。後宮入りしてよかったわぁ」
「本当に。それに驚くほど背が高い方なのね。逞しくて素敵だった……。鬼のお力を使われるところも見てみたいわ」
皆が皇帝の容姿について口々に褒める中、また銅鑼が鳴り、役人が声を張り上げる。
「では、これより後宮入りしていただきます」
周りが一斉に立ち上がる。凛風も皆に従った。