後宮入りするために、父とともに生まれ育った家を出たのが四日前。朝早くに人目を避けて出発する凛風を、浩然は満面の笑みで見送った。
『凛風姉さんが、皇帝陛下のお妃さまに選ばれるなんて嬉しいよ!』
 涙を見られぬようギュッと抱きしめると、彼は父に聞こえないように囁いた。
『やっぱり僕、どんな手を使っても科挙を受けるよ。都へ行けばまた姉さんに会えるから』
 彼が都へ来る時はおそらく自分はもうこの世にいない。どうか彼が凛風の死を乗り越えられますように、と願いながら別れの言葉を口にした。
『浩然、身体を大切にね』
 浩然から離れて馬車に乗り込もうとすると、今度は美莉に引き留められた。
『お姉さまなら、きっと陛下の寵愛を受けられるわ……』
 彼女はそう言って凛風に抱きつく。そして意地悪く囁いた。
『後宮妃は誉れな生贄と言うけれど、お姉さまは本当の生贄ね。せいぜい頑張りなさい』
 都へ着いた凛風は、まず身体を綺麗に洗われて髪を整えられ、後宮入りするに相応しい衣を与えられた。そしていよいよ後宮入りする前日、不穏な客を迎えたのだ。
 その女は、透ける薄い布が顎まで下がる傘を被り、でっぷりとした身体に真っ黒な衣装を(まと)っていた。
『そなたか、(わらわ)の願いを叶えてくれるという娘は』
 客が口にした言葉に、凛風は彼女が何者かを悟る。自分に残酷な使命を課した、まさにその人だ。
『痩せておる。貧相な娘じゃ。本当にお主の娘か?』
 皇太后が父に向かって問いかけ、父がやや焦ったように答えた。
『しょ、正真正銘、私の娘にございます。田舎娘ゆえ、都までの道のりで少々疲れてしまいまして。都のものを口にすればすぐにでも……』
『まぁ、よい。ならばそうじゃな……。うむ、むしろ好都合じゃ』
 不可解な言葉を口にして、皇太后は手にしていた(おうぎ)を凛風の顎にあてた。
 薄く透ける布の向こう、自分を見る(へび)のような目に、凛風の背中が粟立った。人を人と思わず、ただの道具としか見ていない者の目だ。
『お主は、必ずあの男の閨へはべらせてやるかの? 妾にはその力があるゆえ』
 そして衣の合わせから、懐紙の包みを取り出して、凛風に差し出した。
『これをお前に授けよう。目的を達するためにはなくてはならぬものじゃ』
 震える手で受け取ると、包みはずっしりと重い。開けると中から白い花の飾りがついた(かんざし)が出てきた。先端が紫色に染まり鋭く尖っている。
『その簪の先には、特殊な術をかけてある。閨の最中、その簪をあの男の喉に突き立てよ。もがき苦しみいずれ絶命する』
 恐怖のあまり凛風の喉から、ヒュッという声が漏れる。動揺のあまり簪を持つ手が激しく揺れ、取り落としそうになるのを、皇太后の両手が凛風の手ごと受け止めた。
 ゾッとするほど冷たい手だった。
 その手が、何年かぶりに結い上げた凛風の黒い髪に簪を挿した。
 頭に感じる簪の重みに、心までは押しつぶされそうな心地がした。
『その簪をいついかなる時も身につけているのじゃ。よいな?』
 そう言って彼女は、凛風の頬を扇でつっと撫でて、ふふふと優雅に(ほほ)()んだ――。