一日の用事を済ませると、もう日が落ちていた。
凛風は盆に載った食事を持ち、寝床にしている馬小屋へ向かう。食事は一日これだけで、しかも下女のものよりもさらに粗末なものだった。
母屋から聞こえる音楽と笑い声、窓から漏れる温かい光を横目に、足音を立てぬよう外廊下を行く。
部屋から漏れるご馳走の匂いに凛風のお腹がぐーっと鳴った。
用事をこなしている間に小耳に挟んだところによると、都からの使者は、後宮に入る娘の選定に来ているという。
だから継母は、血眼になって髪飾りを探していたとたというわけだ。
彼女にとって美莉を後宮入りさせることは、なにより大切なこと。そのために育てているとことあるごとに口にしている。
後宮がどのような場所か、凛風には知るよしもない。
美莉が後宮入りすることにはなんの感情も湧かないけれど、この邸を出て継母と離れられるというのは羨ましかった。
五歳まで郭家の娘としてなに不自由なく育てられていた凛風の生活が一変したのは、弟の出産で母が亡くなったからだ。
母を失った傷がまだ癒えぬうちに、父の妾だった継母が妹の美莉を連れて邸に乗り込んできて、その日から、部屋も服も髪飾りも、凛風のすべてが美莉のものになったのだ。
政治にしか興味がなく、家族に対する情の薄い父が、幼い凛風をかばってくれるはずもなく、すべて継母に任せきり。
そもそも彼は一年のうち半分ほどを都にある別邸で過ごしていて、邸にあまりいない。
必然的に、この邸では継母が絶対的な存在となり、継母のすることに誰も逆らえなくなっていった。
はじめのうちは凛風をかばってくれていた乳母や下女たちも皆暇を出され、今はもう誰ひとり残っていない。
勝手に邸を出ることも許されず、下女以下の扱いを受ける凛風に、残された希望は……。
「姉さん、姉さん」
小声で呼びかけられて、凛風は足を止める。見回すと廊下の柱の影から、弟の浩然が顔を出していた。
慌てて周囲を確認してから自分も柱の陰に隠れ、浩然に向かって小さい声を出した。
「浩然、ダメよ。こんなところで私に話しかけちゃ。お継母さまに見られたら、あなたまで叱られる」
浩然が肩をすくめた。
「大丈夫だよ。今はお継母さま、お使者さまとの宴にかかりきりだから」
「だけどあなたも宴に出てるんでしょう?」
「今日の主役は美莉姉さんだよ。僕は先に挨拶を済ませて抜けてきた。なにも言われなかったよ」
そう言って懐から包みを出した。
「はい、これ姉さんの分」
受け取ると包みは温かい。中には、包子が入っていた。
「ありがとう……」
粗末なものしか与えられない、凛風にとってはご馳走だ。
「それからこれ」
次に彼は貝の殻を差し出す。中には油で練った薬が入っていた。
「昼間に医師さまのところでもらってきたんだ。手の傷に塗ると痛みが和らぐよ」
「ありがとう……。だけど無理しないでね。私は平気だから」
同じ母から生まれた子でも、父の唯一の息子で後継である浩然は蔑ろにはされてない。
美莉と同じように郭家の子として大切に育てられている。
それでも彼はこうやって継母の目を盗んで、凛風に食べ物や必要なものを持ってきてくれる。
「姉さんにこんな扱いをして、僕はお継母さまを絶対に許さない!」
浩然が拳を握りしめた。
「僕が家を継いだら、姉さんにつらい思いはさせないから。ううん、その前に、僕一生懸命勉強して、科挙を受けようと思ってるんだ。学問で身を立てて家を出る。姉さんを連れ出してあげるからね」
「ありがとう、浩然。でもあなたはこの家を継がなくちゃ。きっとお母さまはそれを願っておられるわ」
もうほとんど覚えていない母の記憶は、彼を身籠っていた頃。大きなお腹を幸せそうに撫でている母の笑顔だ。
『可愛がってあげてね、凛風。あなたのたったひとりの弟か妹になるのだから』
身体が弱かった母は、あの時すでに最後のお産になると気がついていたのかもしれない。まさかそのお産で命を取られるとまで思っていなかっただろうが……。
母のいなくなった浩然の世話は、雇われていた乳母の役目だったが、凛風も一生懸命手伝った。母を知らない浩然のために、母の代わりになれるように。
彼が赤子の頃は、まだ男子の出産を諦めていなかった継母に、浩然も冷遇されていた。味方のいない邸で、姉と弟は身を寄せ合い、絆を育んだのだ。
だが凛風十三、浩然八つになった年、状況は一変する。突如ふたりは口をきくことを禁じられ、凛風は馬小屋で寝起きするよう命じられた。
継母が男児を生むことを諦め、浩然は郭家の後継として継母の手で教育されることになったからだ。
そうして凛風は、十八になった今も変わらず、ずっと馬小屋で寝起きしている。
「こんな家、どうなってもいいよ。亡くなった母さまも大切だけど、今は姉さんの方が大切だ。学問所の老師さまがね、僕ならきっと受かるだろうって言ってくださってるんだ。……問題は父上が科挙を受けさせてくれるかどうかだけど」
「老師さまがそうおっしゃってくれるの? すごいじゃない!」
凛風は声を弾ませる。
彼が、学問所でいい成績を収めているということが嬉しかった。彼が健やかに成長することだけが、凛風の望みだ。
その時、廊下の向こうで扉が開き、誰かが出てくる気配がする。
浩然が囁いた。
「じゃあね、姉さん。また食べ物持っていくから」
素早く離れて、見つからないように建物の中に入っていった。
凛風も急いでその場を離れる。足早に、邸の裏庭にある馬小屋を目指した。
郭家では白竜という馬を一頭飼っている。凛風が戻ってきたことに気がついて、前足でカポカポと地面を蹴った。
「ただいま。飼葉ちゃんと食べた?」
声をかけながら白竜の顔を撫でると、白竜は嬉しそうに凛風の頬を突いた。
「ふふふ、食べたみたいね」
馬小屋の隅の粗末な板を渡し、ぼろ布を敷いただけの寝台、そこが凛風の寝床だ。雨が吹き込む寒い日もここ以外で眠ることは許されない。
そこに食事と包子を置いて、凛風は白竜の身体を櫛で梳く。白竜が気持ちよさそうに目を閉じた。
馬の毛並みは、健やかかどうかの目安になる。どんなに疲れていても朝晩必ず櫛で整え確認するようにしていた。
もともとは年老いた下男が、白竜の手入れを任されていて、凛風に馬のことを教えてくれた。
凛風に同情的だった彼が継母に暇を出されて以来、馬たちの世話は凛風の役割となっている。
浩然と話すことを禁じられ、用がなければ母屋に入れないのはつらいけれど、寝起きするよう言われたのが馬小屋でよかったと今は思う。白竜と一緒なら寂しくはない。
手入れが終わると、凛風は寝台に座り食事をとる。
包子を食べながら浩然のことを考える。
小さな頃は怖がりで泣き虫、夜ひとりで廁へ行くこともできず泣いていたのに、学問所で科挙を勧められるまでに成長したのが嬉しかった。
彼は凛風の生きる支えなのだ。
東の森に放り込まれて魑魅魍魎に喰われるのを恐ろしいと思うのは、浩然がいるから。
浩然が成人し、立派にこの家を継いだのを見届けて、それをあの世で母に報告するのが、凛風のただひとつの望みなのだ。
それまでは、どんな扱いをされようとも死ぬわけにはいかない。
そんなことを考えながら食事を終えると、白竜が藁の上に横たわる。凛風を見て首を縦に振っている。こっちへ来いという合図だ。
凛風は寝台の上のぼろ布を手に、白竜のそばに横になった。
夜はよりいっそう冷えるが、こうやって寄り添って寝れば暖かい。艶々(つやつや)の毛並みに身体を寄せれば、途端に疲れが押し寄せてくる。
朝になればまたやるべきことに追い回される一日が待っている。目を閉じて、凛風はあっという間に眠りに落ちた。
母屋へ来るようにという父からの伝言を凛風が受け取ったのは、次の日のこと。使者が都へ帰った後の夜更けだった。
何年かぶりに入る父の部屋は人払いされていて召使いたちはいない。
いるのは、父の他に継母と美莉だけだった。凛風が部屋に足を踏み入れると、ふたりは怪訝な表情になる。
継母が眉を寄せて凛風を睨んだ。
「お前、誰の許しを得てここにいる?」
「わしが呼んだのだ。今宵の話は、凛風にも関わる話だからな」
父が言い、継母が不満げに口を閉じた。
凛風が冷たい床に跪くと、父が腰掛けに座る継母と美莉に向かって話しはじめた。
「今朝、お使者さまが都へと戻られた。お前たちも知っての通り今回の目的は、新皇帝の後宮に入る娘の選定だ。我が郭家も娘をひとり、皇帝陛下への〝生贄〟として差し出すようにとお話があった」
「〝誉れの生贄〟ね! やったわ!」
美莉が声をあげた。
「ついにこの日が来たのね!」
後宮入りする娘が〝生贄〟と呼ばれるのは、この国を治める皇帝が代々、鬼の血を引いているからである。
ここ炎華国は、本来は魑魅魍魎が溢れる荒れた土地。あやかしの能力を持たない人はその昔ただ喰われるだけの存在だった。
現在は、魑魅魍魎の頂点に君臨する鬼を皇帝として崇め奉ることにより、平穏な暮らしを維持している。
新皇帝が即位すると、新たに後宮が開かれて、人は生贄として娘を百人捧げることになっている。
生贄とはいえ、鬼の血を継ぐ子を生むのは、国のためになくてはならないこと。
その仕事を果たした娘の一族は繁栄を極め、家族は皆一生なに不自由ない生活が約束される。
そのため、後宮入りする娘は〝誉れの生贄〟と呼ばれるのだ。
継母もうっとりと目を細めた。
「ああ、嬉しい! さっそく準備をしなくては。明日にでも衣装屋を呼びましょう」
興奮する継母を、父が止めた。
「まぁ待て。わしは美莉を後宮入りさせるとは言っておらん。お使者さまは、郭家の娘ならば、姉妹のうちどちらでもよいとおっしゃった」
そう言って凛風を見る。その視線に凛風は目を見開いた。
この家で、娘といえば美莉のこと。馬小屋で寝起きして、邸の外へ出ることもない凛風は、世間的にはいないものとされているというのに。
なぜ父は自分を見るのだろう?
「なっ……! あなた、まさか……凛風を後宮入りさせるおつもりですか?」
継母がわなわなと唇を震わせた。
「そのつもりだ。だからこの場にこいつを呼んだ」
「な、なれど……どうして!? この子は、このように痩せ細り、教養も身につけておりません。見た目も中身も後宮に相応しくな……!」
「まぁそう興奮するな、これにはわけがある」
唾を飛ばしてまくし立てる継母をうっとおしそうに見て、父は事情を話しはじめた。
「今宮廷は、新皇帝、暁嵐帝と、前帝の皇后さまが対立している状態だ。暁嵐帝は皇后さまのお子ではないからな。皇太后さまには輝嵐さまという立派なお子がおられる。当然、皇后さまは、輝嵐さまが即位されることを望んでおられる」
「そうなのですか……。ではなぜ暁嵐さまが即位されたのですか? 皇太后さまは、宮廷では絶大なお力があると、私のような者でも聞き及んでおりますのに」
継母からの問いかけに、父は渋い顔で首を振った。
「今年二十二歳になられる暁嵐さまが輝嵐さまより二歳年上だからということもあるが、一番の理由は前の帝の遺言だ」
「前の帝の遺言?」
「ああ。暁嵐帝は、鬼としてのお力が輝嵐さまよりお強いようだ。それで後継に指名された。……まぁ、そのあたりはわしら人間にはわからんことなのだが」
国の頂点に君臨する皇帝に必要なのは、なによりも鬼としての力の強さ。
人を狙う魑魅魍魎を押さえ込む力だ。
病がちだった前帝の晩年は、国のあちこちで人が喰われるということが頻発した。
ここ高揚でも、東の森に引きずり込まれた子供が帰ってこないことが続いた。
新皇帝が即位してからはそのようなことはなくなったため、皆安堵していたのだが……。
「輝嵐さまも前帝の血を引く立派な鬼でいらっしゃる。どちらが即位しても問題はないはずだ。なにもよりによって女官に生ませた子を世継ぎに指名せずともよいものを……」
父が苦々しい表情で吐き捨てた。
暁嵐帝の生母は、後宮女官だった女性だという。
「あなたさまは、皇太后さまによくしていただいておりますからね」
継母の言葉に、父は頷く。
「ああ、そうだ。今の郭家があるのは皇太后さまに取り立てていただいたからだ。……そして、今ももっとも信頼をいただいておる」
そう言って父はにやりと笑い、凛風を見た。凛風の背中がぞくりとする。嫌な予感がした。
「女官が生んだ子が皇帝になるなど、本来はあり得ないことだ。皇太后さまは、今の国の状況を大変嘆いておられる。そこで我らをお頼りになったのだ。輝嵐さま即位のため力を貸せ、と……。成功すれば郭家の領地は都近くへ変わるだろう。わしは要職につける」
「んまぁ! 都の近くに? なんてありがたいことでしょう! 私、このような寒い田舎は飽き飽きしておりましたの」
継母が盛り上がり、美莉も嬉しそうにする。
「して、我らはなにをすればよいのです?」
父が声を落とした。
「決まっておるだろう。暁嵐帝暗殺だ。輝嵐さまに即位していただくにはそれしかない」
「ひっ!」
継母が引きつった声を出し、美莉も固まった。世間知らずの女子でも、それがどれだけ恐ろしいことかくらいはわかる。
継母が震える声で尋ねた。
「そんな……。ですが、なぜ我らに? 皇帝のお近くにいらっしゃる皇太后さまなれば、屈強な家臣を使ってすぐにでも成し遂げられそうなものを」
それを、父が鼻で笑った。
「相手は鬼ぞ。普通の人間では敵わん。現に皇太后さまは、暁嵐帝の幼少期から何度も試みられたがすべて失敗に終わっている。暁嵐帝が四つの頃、真冬の夜の池に手足を縛られ沈められても翌朝には戻ってきたという話は、宮廷では有名だ」
「なれど、我らも人には変わりありません。皇太后さまにできないことが、できるとは思えませぬ」
継母の言葉に、父が不適な笑みを浮かべ、一段低い声を出した。
「平素ならばそうだ。だがひと時だけ鬼の力が弱まる時があるのだ」
「鬼の力が弱まる……?」
「ああ、これは皇帝にごくごく近しい者しか知らぬことだが、鬼の力は誰かと褥をともにしている時……つまり女を抱いている時は半減する」
「まぁ!」
ふたりのやり取りを聞きながら、凛風にもようやくこの話の着地点が見えてきた。美莉も同じことを思ったのか、不安げに眉を寄せている。
皇太后が、郭家に要求していること……それはつまり。
「すなわち、皇帝の寵愛を受ける妃のみに暗殺の機会がある。我が家の娘にそれを実行させよ、と……」
「わ、私は嫌よっ!」
美莉が真っ青になって声をあげる。
凛風もまったく同じ気持ちだが、あまりのことに身体が震えて声が出なかった。
父が美莉を冷たい目で見る。
「お前にやれとは言っておらん。無事にことを成し遂げた暁には、郭家は輝嵐帝の恩人として盛り立てると皇太后さまからはお約束いただいている。だが、手を下した本人は無事では済まん。鬼の力は弱まるだけでなくなるわけではない。道連れにするくらいの力はあるだろう。万が一生き残れたとしても、皇族に手を下した者は死罪だ。美莉、お前には輝嵐さまが即位された際に後宮入りしてもらわねばならないからな」
その言葉に、美莉はホッと胸を撫で下ろし、勝ち誇ったように凛風を見た。
美莉、継母、父の視線が凛風に集まった。
家のために、命をかけて皇帝を暗殺する……その過酷な運命を課せられるのは。
「やれるな? 凛風」
目の前が暗くなるような心地がした。
どこまでも自分は、父にとって価値のない存在なのだと思い知る。
「なれど、成し遂げる自信がありませぬ……」
凛風は声を絞り出す。それが精一杯だった。
「やらねばならぬ。失敗すれば、我が家は破滅。わしとお前の大切な浩然も責任を取らされ、無事では済まぬ」
「ハ、浩然が……?」
まさかこれが、浩然に関わることだとは思わなかった。けれど、よく考えてみればその通りだ。皇太后の機嫌を損ねた家臣が無事で済むわけがない。
浩然が立派に成長するのを見届けて、亡き母に報告するのが、凛風の唯一の望みだというのに……。
父が立ち上がり、凛風の前へやってくる。
しゃがみ込み、床に膝をつく凛風の肩に手を置いた。
「お前は、浩然が可愛い。そうだろう? 成功すれば、郭家は繁栄を極める。浩然はお前に感謝するだろう。家の功労者としてお前の墓は、邸が見える場所に立ててやる」
それであれば死してなお、立派に成長した浩然を見続けることができるのだ。
彼は凛風にとっての生きる望み。彼の命と自分の命、比べることなどできない。
「凛風、できるな?」
「凛風?」
両親に囲まれる凛風を、美莉が蔑むような目で見ている。
どちらにせよ、凛風に選択肢などないのだ。
自分は、父と継母の命に逆らうことは許されぬ身。
否と言えば、すぐにでも棘のある枝で虫の息になるまで打たれるだろう。そしてその後、東の森に放り込まれる。
自分の行く末が黒に塗りつぶされていくのを感じながら、凛風はゆっくりと頷いた。
どーんどーんと銅鑼の音が鳴る中、今日はそこに百人の女が集められていた。国中から選抜された、皇帝の妃たちである。
到着してすぐに身元の確認と宦官による身体検査が行われた。その後、後宮に入る前に百人の妃の順位が言い渡されるという。凛風は他の九十九人の妃とともにその時を待っていた。
「あー、胸が鳴って痛いわ。二十以内に入らなければ、望みはないわよね」
隣に座る妃が、向こう隣の妃に話しかけている。
「あら、でも先の皇帝陛下は、後宮女官との間にもお子ができたじゃない。あまり数は関係ないのかも」
「でも、皇太后さまは、一のお妃さまじゃない? やっぱり賜る数が後だと、お顔を拝見する機会も少ないんじゃないかしら? 五十より下なら陛下の目に留まるなんて、目をつぶって針に糸を通すより難しいってお父さまから言われたわ」
後宮に入る妃は、百人と決められていて、一から順番に数を賜るという。
皇帝は気に入る娘が見つかるまでは、一の妃から順番に閨に呼び、寵愛する娘を選ぶのだ。
当然ながら、有力家臣の娘や見目麗しい娘から、若い数を賜ると言われていて、先ほど受けた身体検査の結果も加味される。
皆がなるべく若い数をと願う中、凛風だけは、真逆のことを考えていた。賜る数が若ければ、それだけ計画を実行する時が早まるからだ。
父は下級貴族で、自分は特別美しいわけではない。本来ならば、若い数を賜ることはなさそうだけれど……。
そう願う凛風の頭に、今朝までの出来事が浮かんだ。
後宮入りするために、父とともに生まれ育った家を出たのが四日前。朝早くに人目を避けて出発する凛風を、浩然は満面の笑みで見送った。
『凛風姉さんが、皇帝陛下のお妃さまに選ばれるなんて嬉しいよ!』
涙を見られぬようギュッと抱きしめると、彼は父に聞こえないように囁いた。
『やっぱり僕、どんな手を使っても科挙を受けるよ。都へ行けばまた姉さんに会えるから』
彼が都へ来る時はおそらく自分はもうこの世にいない。どうか彼が凛風の死を乗り越えられますように、と願いながら別れの言葉を口にした。
『浩然、身体を大切にね』
浩然から離れて馬車に乗り込もうとすると、今度は美莉に引き留められた。
『お姉さまなら、きっと陛下の寵愛を受けられるわ……』
彼女はそう言って凛風に抱きつく。そして意地悪く囁いた。
『後宮妃は誉れな生贄と言うけれど、お姉さまは本当の生贄ね。せいぜい頑張りなさい』
都へ着いた凛風は、まず身体を綺麗に洗われて髪を整えられ、後宮入りするに相応しい衣を与えられた。そしていよいよ後宮入りする前日、不穏な客を迎えたのだ。
その女は、透ける薄い布が顎まで下がる傘を被り、でっぷりとした身体に真っ黒な衣装を纏っていた。
『そなたか、妾の願いを叶えてくれるという娘は』
客が口にした言葉に、凛風は彼女が何者かを悟る。自分に残酷な使命を課した、まさにその人だ。
『痩せておる。貧相な娘じゃ。本当にお主の娘か?』
皇太后が父に向かって問いかけ、父がやや焦ったように答えた。
『しょ、正真正銘、私の娘にございます。田舎娘ゆえ、都までの道のりで少々疲れてしまいまして。都のものを口にすればすぐにでも……』
『まぁ、よい。ならばそうじゃな……。うむ、むしろ好都合じゃ』
不可解な言葉を口にして、皇太后は手にしていた扇を凛風の顎にあてた。
薄く透ける布の向こう、自分を見る蛇のような目に、凛風の背中が粟立った。人を人と思わず、ただの道具としか見ていない者の目だ。
『お主は、必ずあの男の閨へはべらせてやるかの? 妾にはその力があるゆえ』
そして衣の合わせから、懐紙の包みを取り出して、凛風に差し出した。
『これをお前に授けよう。目的を達するためにはなくてはならぬものじゃ』
震える手で受け取ると、包みはずっしりと重い。開けると中から白い花の飾りがついた簪が出てきた。先端が紫色に染まり鋭く尖っている。
『その簪の先には、特殊な術をかけてある。閨の最中、その簪をあの男の喉に突き立てよ。もがき苦しみいずれ絶命する』
恐怖のあまり凛風の喉から、ヒュッという声が漏れる。動揺のあまり簪を持つ手が激しく揺れ、取り落としそうになるのを、皇太后の両手が凛風の手ごと受け止めた。
ゾッとするほど冷たい手だった。
その手が、何年かぶりに結い上げた凛風の黒い髪に簪を挿した。
頭に感じる簪の重みに、心までは押しつぶされそうな心地がした。
『その簪をいついかなる時も身につけているのじゃ。よいな?』
そう言って彼女は、凛風の頬を扇でつっと撫でて、ふふふと優雅に微笑んだ――。
「ねえ、あの簪なに? 悪趣味」
どこかからか聞こえてきたその言葉に、昨夜のことを思い出していた凛風はハッとする。
見回すと何列か前の妃ふたりが、凛風を見ている。
「雪絶花じゃない。あんなのを刺して後宮入りするなんて、あの子正気?」
眉を寄せて、ヒソヒソと話しをしている。さして隠すつもりはないようで丸聞こえである。
皇太后が帰って後、父から聞いたところによると、簪の白い花は雪絶花というらしい。可憐な見た目で衣服などの装飾にはぴったりだが、ひと株につきひとつの花しか咲かないことから、子宝に恵まれないという不吉な意味を持つという。
既婚で、まだ子を産んでいない女は、身に着けてはならないとされている。
皇太后が簪の飾りを雪絶花にしたのには理由があると父は言った。
『後宮は、陛下の寵愛を争うためだけに存在する場所。お妃さま方の間では足の引っ張り合いは日常茶飯事だ。高直な物がなくなることも少なくはない。万が一にでも盗まれぬようにというご配慮だ』
いくら美しい簪でも、不吉な物は盗られない、というわけだ。
「やだ、あなた……そんな簪、いったいどういうつもり?」
ヒソヒソ声に気がついた隣の妃が、ギョッとして凛風に問いかけた。
「……母の形見なんです」
凛風は、父に言いつけられた通りに答えた。
「だからって……。あなたまさか身体検査の時もそのままで?」
「はい」
すると彼女は眉を寄せて、凛風を避けるように座り直し、向こうの妃の方を向いた。
「よかった。少なくとも最下位になることはなさそうね。いくらなんでも、ここまでものを知らない娘に負けるわけがないもの」
その時、どーんどーんと銅鑼が鳴る。
がやがやと話をしていた妃たちが口を閉じると、前に役人が現れた。
妃の数の発表だ。
凛風の胸が痛いくらいに早くなった。
皇太后は、必ず閨にはべらせてやると言っていた。ならば、凛風には若い数が振りあてられるのだろうか。
「名を呼んだら、起立するように」
その場に静寂に包まれる中、役人が声を張り上げる。
「一の妃、李宇春」
すると中くらいの席に座っていた、ひときわ豪華な衣装を纏った少しふくよかな娘が立ち上がる。得意そうに頬を染めている。
「ありがとうございます!」
張りのある声で答えて膝を折り、着席した。
「お父上が、丞相さまだもの。きっともともと決まってたのよ」
「本人のお力ではないわ」
隣の妃たちが悔しそうに囁き合った。
「二の妃、陳花琳」
今度は前の席に座っていた娘が立ち上がる。ひときわ美しい妖艶な身体つきの娘だった。
「あの娘……! たいした家柄でもないくせにっ……」
「どうせあの身体で、お役人さまを誘惑したのよ。ふしだらね。ああはなりたくないわ」
そんなやり取りを繰り返しながら、次々に妃たちの名が呼ばれていく。
――そして。
「百の妃、郭凛風」
一番最後に自分の名を呼ばれた凛風は心の底からホッとした。
よかった。皇太后の力をもってしても、役人の算定を覆すことができなかったのだ。
立ち上がり頭を下げて再び座ると、隣の妃がくすくす笑った。
「百番目なんて、私なら今すぐ死んでしまいたいわ」
「本当、恥ずかしくて実家に顔向けできないわよね。でもあの娘、平気そうなのが、解せないわ。皆泣いてるのに」
実際、順位の低かった娘たちは皆一様に、泣き崩れている。立ち上がり返事をすることすらできない娘もいたくらいだ。
刺客であることを隠すためには、自分も泣き崩れた方がよいのだろうかと思うものの、そのように器用な真似はできなかった。
うつむき、好奇の目に耐えるだけだ。
また銅鑼が鳴り、妃たちが口を閉じる。
「これより、皇帝陛下が参られる。皆、首を垂れて待つように」
突然の宣言に、妃たちが一気に色めき立った。
「ついにこの時がきたのね! いったいどのような方かしら? 角を拝見することはできるのかしら?」
「あら、それはきっと無理よ。鬼の角はお力を使われる時にだけ、生えるという話だから。見た目は人間と変わらないけれど、精悍なお顔と屈強な身体つきは、宦官たちも見惚れるほどだという話よ」
凛風はひとりうつむいたまま、身を固くしていた。まさか皇帝がこの場に来ると思わなかった。
いずれ自分が手にかけなければならない相手を目にする勇気はまだないというのに。
もう一度、銅鑼がどーんと鳴る。
「皇帝陛下の御成」
役人の言葉に皆一斉に首を垂れる。
すると玉座の後ろの扉がギギギと開く音がした。こつこつという靴音を響かせて皇帝が部屋へ入ってきたようだ。しばらくして低い声が大極殿に響いた。
「面を上げよ」
周りの妃たちが言われた通りにする中で、凛風は頭を下げたままだった。どうしても勇気が出なかったからだ。
皇帝の顔を見てしまったら自分がしようとしていることの恐ろしさを実感して、すぐにでも逃げ出したくなってしまうだろう。
凛風がギュッと目を閉じた時。
「ご苦労であった」
皇帝が言って立ち上がり、入ってきた扉から出ていった。ギギギと扉が閉まると同時に、また妃たちがざわざわとする。
「あーん、あれだけ? もう少しお声を聞きたかったわ」
「だけど、噂通り素敵な方ねぇ。実家で拝見した肖像画以上だったわ。精悍なお顔立ちに切れ長の目。わたし、あのような美しい男性ははじめて見るわ。後宮入りしてよかったわぁ」
「本当に。それに驚くほど背が高い方なのね。逞しくて素敵だった……。鬼のお力を使われるところも見てみたいわ」
皆が皇帝の容姿について口々に褒める中、また銅鑼が鳴り、役人が声を張り上げる。
「では、これより後宮入りしていただきます」
周りが一斉に立ち上がる。凛風も皆に従った。
大極殿の裏に位置する清和殿と呼ばれる建物が、皇帝が普段過ごす場所である。
建物全体に人間にはわからない結界が貼ってあり、不審な者が足を踏み入れると皇帝である暁嵐にわかるようになっている。
暁嵐が外廊下を足早に進み私室へ入ると、側近の秀宇が首を垂れて待っていた。
扉が閉まると同時に、漆黒の外衣を脱ぎ捨てる。腰掛けに身を預け、長い脚を組む。黒い髪をかき上げ、切れ長の目で側近を見ると、彼は口を開いた。
「暁嵐さま、お妃さま方との顔合わせ、お疲れさまにございます」
「ああ」
「いかがでしたか」
「べつにどうということはない。いたのはわずかな時間のみだ」
顔を合わせといっても、暁嵐は妃たちに興味があるわけではない。ただ国の慣例に則って足を運んだまでのこと。
「ですが、少々意外でした。皇太后さまがご用意された後宮の儀式に暁嵐さまが参加されるとは」
含みのある側近からの言葉に、暁嵐はふっと笑った。
「茶番に付き合うくらいはするさ、相手は一応皇太后だ」
「ですが、これまでのいきさつを考えると、なにもないわけがありませぬ」
「まぁな」
暁嵐は肘をついて頷いた。
息子を帝位につけたいと願う皇太后が、自分の命を狙っているのは宮廷では知らない者はいない。
皇太后は、先帝の力が衰えた頃からやりたい放題しはじめた。
お気に入りの取り巻きたちを要職につけ、賄賂で私服を肥やし贅沢三昧。宮廷には腐敗が蔓延り国は乱れた。
皇帝の力が弱まったことにより、国の端で魑魅魍魎に人が喰われてもなんの対策も立てなかったのだ。
今も、自分の息子を帝位につけて、さらに権力を維持し続けたいと暁嵐の命を虎視眈々(たん)と狙っている。
暁嵐が即位してまず取りかかったのは、魑魅魍魎の平定だ。
自ら国境へ出向き、結界を張り直した。そちらについては落ち着いたといえるだろう。
そして次に、宮廷内に蔓延っている腐敗の一掃に取りかかっているが、これについては未だ道半ば。たくさんいる家臣のうち、どの人物が皇太后と通じているのか確たる判断がつかずにいる。
皇太后を排除するのが一番手っ取り早いのだが、明確な証拠がない状態ではそれもできない。
のらりくらりやりながら、相手が尻尾を出すのを待っている。
「こちらから潜り込ませている間者からの話によると、昨夜皇太后さまは秘密裏にどこかへ行かれたご様子。この時期を考えると後宮と無関係ではないでしょう。妃の中にあなたさまの命を狙う刺客を紛れ込ませたのではないかと……」
秀宇からの報告に、暁嵐は笑みを浮かべた。
「まぁそんなところだろう」
幼い頃からずっと命を狙われ続けてきた自分が、こうして生きながらえているのは鬼の力が強いからだ。
暁嵐の力は父を遥かに超えていて、だからこそ父は一の妃だった皇太后の意見を退けてでも暁嵐を後継に指名した。
もし皇后の望み通り、弟の輝嵐が即位したらまた国は荒れるだろう。彼はその器ではない。
だがそんな自分でも、妃と褥をともにしている時だけは力が弱まるとされている。
国の中でも皇族とごく近しい者しか知らないことだが、当然皇太后は知っている。その時を見逃すはずがない。
「今、どの妃が皇太后の息がかかった者なのか、調べておりますゆえ、それまでは陛下……」
「わかっている」
暁嵐は、秀宇の言葉を遮った。
「どの妃も寵愛するつもりはない。そもそも女にかまっている暇は今の俺にはないからな。国を立て直すのが先だ」
人間から捧げられる生贄の娘など、無駄な決まりごとだと心底思う。後継を残すことは国にとって必要だが、複数の妃は必要ない。
複数の妃に複数の子があれば、今のような争いごとになるのは目に見えている。
皇帝の寵を争う女たち。
暁嵐がもっとも嫌悪するもののひとつだ。
暁嵐の母は、後宮女官だった人物で父から閨へと望まれたことにより、妃の身分に召し上げられた。
だが本当は、故郷に将来を約束した相手がいたという。女官の仕事を勤め上げ、あとひと月で実家に戻るというところで皇帝の目に留まった。
許嫁がいるからと指名を拒めるはずもなく、閨へはべり子ができた。
その後は、当時一の妃であった皇太后にいじめ抜かれたという。
女官から妃になったことで後宮では厳しい立場に追いやられたのだ。暁嵐は母が笑うのを見たことがない。
その母は、暁嵐が十になる年に亡くなった。表向きは、病死ということになっているが、皇后による毒殺で間違いないだろう。なにせ食事を口にした直後にもがき苦しみ息絶えたのだから。
皇帝の寵を争い、相手の命を狙うなど、心底くだらないと暁嵐は思う。
自分の代では同じ悲劇は起こさせない、後宮の妃は寵愛しないと決めている。
「とはいえ、いずれはお妃さまをお迎えいただかなくてはなりませんが……」
秀宇が遠慮がちにそう言った。
正直なところ暁嵐は、女に興味が持てなかった。いやそれどころかどこかで嫌悪しているようにも感じるくらいだ。
おそらく後宮にて虐め抜かれて命を落とした母を目の当たりにした経験がそうさせるのだろう。
自分が女と心を通い合わせ愛し合うなど、想像もつかない。
そうはいっても、国のために血を残すのは必要だ。
いずれは、信頼できる女性をめとることになる。
その時は、愛することはできなくとも、ただひとりの妃として、大切にすると決めている。信頼できる……そのような女がいれば……の話だが。
「わかっておる。しかるべき時が来たら、しかるべき相手を妃に迎える」
ため息まじりにそう言って、政務に戻るため立ち上がった。
後宮は、巨大な樹木のような形をした建物である。真ん中に広い大廊下が真っ直ぐに通っていてそこからいくつもの細長い廊下、小廊下が枝のように伸びている。
その廊下に葉が連なるように妃たちの部屋が並んでいるのだ。
根元の部分は、皇帝と妃が謁見する時に使う大広間になっていて、その先は皇帝の住まいである清和殿。
一の妃から順に若い数の妃たちが清和殿に近い部屋を割りあてられる。
当然凛風は、木で言う先っぽの一番奥の部屋だ。
後宮入りして二十日が過ぎた日の午後、凛風は自分の衣服を抱えて小廊下を小走りで女官たちの詰所を目指している。
妃たちの衣服は、夜、籠に入れて部屋の前に出しておけば、女官たちが回収して洗濯してくれる決まりである。
昨夜も凛風は決まりに従いそうしたのだが、朝起きると籠とともに部屋の中へ投げ入れられていたのである。しかも上から泥水がかかっていた。
そのため仕方なく凛風は自分で洗おうと思ったのだ。
小廊下から大廊下へ合流する場所に凛風が通りかかった、その時。
「つっ……!」
なにかにつまずいて、そのままバタンと洗濯物とともに派手に転んでしまう。手と膝の痛みに顔を歪めながら起き上がると、くすくす笑う声が聞こえる。
振り返ると九十九番目の妃を含む数人の妃たちが凛風を見下ろしていた。
「あら、ごめんなさい。足が引っかかってしまったわ。だけど、そんな風に走るなんて、はしたなくてよ」
九十九の妃が、意地悪く言った。
「仕方がないわよ、この娘にたいした教育も受けてないのでしょうし」
別の妃が答えた。
「本当、こんな娘を後宮入りさせるなんてご実家はどういうおつもりなのかしら?」
「田舎貴族だもの仕方がないわ」
嫌みを聞きながら凛風は散らばってしまった衣服を拾い集める。
くすくす笑いながら彼女たちは去っていった。
凛風は立ち上がり、衣装を抱え直しまた歩きだした。
後宮入りした時から、百番目である凛風は他の妃たちからどこか敬遠されていた。
最初のうちはいない者として扱われていたのだが、十日を過ぎた頃からこのようなあからさまな嫌がらせが始まった。
理由は、たくさんあるのだろう。
凛風がどう見ても後宮に相応しくない娘であること。
最下位の妃であること。
だが一番の理由は、皆が後宮に入って以来、皇帝が一度も後宮の妃を閨に呼んでいないことだろう。
毎朝、皇帝と妃たちは大広間にて謁見を行う。その際に、その日の夜に寝所に呼ぶ妃を皇帝の口から指名する。
なにも言わなければ、若い数の妃から順に寝所を訪れる決まりになっている。
だが彼はこの二十日間一度も妃を指名しなかった。それでいて順番通りの妃の訪れも拒否している。
はじめは戸惑うばかりだった妃たちも、次第に苛立ち、不満に思うようになっていった。
どうなっているのかと宦官に詰め寄る者もいるくらいだ。
おそらくはその苛立ちが、凛風に向かっているのだ。
でも凛風はそれをつらいとは思わなかった。除け者にされるのは慣れている。ちゃんとした食事ができて、雨風がしのげる部屋があるのだ。実家よりは格段にいい。
女官詰所にて、水場を借りて洗濯してもいいかと尋ねると、年嵩の女官は迷惑そうに眉を寄せた。
「そのようなこと、お妃さまにしていただくわけにまいりません。どうぞお任せくださいませ」
立場は凛風の方が上だが、彼女にとって最下位の妃など、敬うに値しない相手なのだろう。
「申し訳ありません、お願いします」
凛風が洗濯物を渡すと、彼女は思い出したように口を開いた。
「百のお妃さま、ちょうどようございました。湯殿の件でお話がございます。女官たちから、百のお妃さまはこちらに入られてから一度も湯殿を使われていないと聞いております。なぜですか? 常に身綺麗にしておくのはお妃さまの義務ですよ」
後宮妃が使う湯殿は、源泉から湯をひいている広いもので、朝から晩まで皆が自由に入ることが許されている。
そこで身体を磨き、髪を梳き、皇帝からの閨へのお召しに備えるのが、後宮妃の務めである。
でも凛風はまだ一度も湯殿を使ったことはない。身体の傷を見られたくなからだ。
恥ずかしいというよりは、そんな傷がある妃が後宮にいることを怪しまれ、刺客だということを気づかれてはいけないと思ったのだ。
「私、身体に少しだけ傷があるところがありまして……。部屋で毎日行水しておりますので、清潔にはしております。お許しくださいませ」
凛風は控えめに事情を明かす。
「行水を……」
呟いて、女官は凛風をじろじろ見た。そして清潔にしているという凛風の言葉が本当だということを確認して一応納得した。
「ならまぁ、よいでしょう」
凛風は頭を下げてその場を立ち去る。
部屋へ戻ろうと、今来た廊下を歩いていると声をかけられて足を止める。
「もし、百のお妃さま」
この二十日間で見かけたことのない女官だった。
「湯殿をお使いになれないのであれば、露天の湯殿をお使いになられてはいかがですか?」
「露天の湯?」
「はい、何代か前の皇帝陛下が、後宮妃と一緒に湯浴みをされるのがお好きでして、その際に使われていた場所にございます」
唐突な提案に、凛風は戸惑う。皇帝と妃のための湯殿を自分が使っていいとは思えない。
「今はもう閉鎖されておりますので、人はまいりません」
「ですが……」
凛風としては行水でもなんの問題もない。
女官がにっこりと微笑んだ。
「古来より温泉の湯は傷を癒やすと言われます。毎日入れば、お身体の傷も目立たなくなるでしょう」
『傷を癒す』という言葉に凛風の心が少し動いた。
「後宮長さまには、私からお許しをいただいておきますゆえ。お叱りを受けることはございません」
その言葉に背中を押されて、凛風はためらいながら頷いた。
「陛下、今宵はどのお妃さまを望まれますか?」
妃たちが一同に介する広間にて。玉座に座った暁嵐に、丞相が問いかけた。毎朝恒例の皇帝によるその日の夜閨にはべらせたい妃の使命である。
「呼びたい妃はない」
答えると、丞相が心得たように頷いてまた口を開く。
「かしこまりました。では今宵は一の妃さまにお渡りいただきます」
皇帝に希望がなければ、一の妃から順に皇帝の寝所に召される決まりになっている。歴代の皇帝があたりまえに受けてきた慣習を、暁嵐は即座に拒否した。
「私は今宵、どの妃も望まない」
はっきりと言い切ると、その場が微妙な空気に包まれた。
「な、なれど、陛下……」
「皆大義であった」
丞相の言葉を遮り暁嵐は立ち上がり謁見を終了した。
大広間を出ると、政務に向かう前に一度清和殿へ寄る。正装から少し緩い服装に着替えるためだ。私室では秀宇が出迎えた。
「暁嵐さま。お疲れさまにございます」
「ああ」
答えながらため息をつき舌打ちをする暁嵐に、秀宇が口を開いた。
「お苛立ちのご様子。後宮の件にございますか?」
「ああ、毎朝毎朝、同じやり取りをするのがうっとおしくてたまらない。しばらく女はいらんからあのやり取りをなくせと丞相に言ったのだが、決まりを破るわけにいかないと拒否された」
「丞相さまは、決まりごとを大切にされる方ですから」
「茶番に付き合うとは言ったものの、予想以上に面倒だ」
腰掛けに座り、秀宇を見る。
「どの妃が刺客か調べはついたか? さっさと見つけ出し皇太后もろとも宮廷から追い出してやる」
「申し訳ございません。あちらも相当用心深く……。かの夜、皇太后さまが誰の邸を訪れたのか、知っている従者に、あと少しでつなぎをつけられるというところまで行ったのですが、変死してしまいました」
その言葉に、暁嵐は眉を寄せる。
「……死んだ?」
「ええ、おそらくは皇太后さまに処分されたのでしょう」
暁嵐は深いため息をついた。
たとえ皇太后側の人間だとしても死んだと聞けば胸が痛む。亡くなった母を思い出すからだ。
国が乱れれば、弱き者が割を食う。声をあげられぬまま命を落とすのだ。
暁嵐が、早く皇太后の尻尾を掴み、無用な権力争いを終わらせたいと思う理由のひとつだった。国を安定させ、弱き者が意に沿わぬことを強いられることのない世を作りたい。
黙り込む暁嵐に、秀宇が笑みを浮かべて口を開いた。
「早急に特定を急いでおりますので、しばしお待ちくださいませ」
「ああ、だが無理はするな。こちらから潜り込ませた間者が命を落としては意味がない。おおかた閨にはべる可能性が高い妃だ。一の妃は露骨すぎるが、数の若い娘から調べれば」
「ですが皇太后さまは、陛下が後宮の妃たちを拒否されることなどご承知のはず。そのようなわかりやすいことはならさらないでしょう。陛下のご気性をよくご存じですから」
秀宇の言葉を疑問に思い、暁嵐は聞き返す。
「俺の気性?」
「はい、弱き者にお優しい」
胸の内を読んだような秀宇の言葉に、暁嵐は彼から目を逸らした。
秀宇は、母亡き後暁嵐の養育してくれた母の古い友人だった女官の息子だ。一緒に育ったようなものだから、暁嵐のことはなんでも知っている。
「権力を傘に着る者を嫌悪されることもご存じのはず。一の妃は丞相の娘です。二の妃も同じようなもの……むしろ、私は、順位が低く無欲に見える妃があやしいと踏んでおります。偶然を装い近づき、何食わぬ顔で陛下に取り入ろうとするかと……」
「あいわかった。だがいずれにせよ後宮妃と会わなければ問題ないのだろう」
「はい、そうしていただけるとありがたいです」
そこで言葉を切り、口もとに笑みを浮かべた。
「しばらく、お寂しい夜になると存じますが、こらえてくださいませ」
秀宇からの冗談を暁嵐は鼻で笑った。
「俺は夜も忙しい。妃などに会っている暇はない」
すると今度は渋い表情になる。
「黒翔の世話にございますか」
「ああ、この季節はよく湯に浸けてやらないと」
黒翔とは、暁嵐の愛馬である。どの馬にも負けない脚を持っているが、この季節は、脚に血が溜まりやすい。
毎晩、源泉から引いてきた湯に浸けてやり、血が溜まらないようにしているのである。
気性が荒く、主人と認めた者にしか触らせないため、世話は厩の役人ではなく、暁嵐自らがする。
「またあの使われていない湯殿に通っておられるのですね。ですが、なにも夜中でなくとも。昼間にされてはいかがですか。従者を連れて」
「夜中しか暇が取れん。従者がいては黒翔が嫌がる。案ずるな、俺に力で敵う者などいない」
「それはそうですが……。とにかく近づく女子にお気をつけを」
側近からの忠告に、暁嵐は頷く。そして考えながら呟いた。
「順位の低い無垢な娘、か……」
女官に教えてもらった湯殿は、城の敷地のはずれにあった。かつては皇帝と妃が湯浴みを楽しんだ場所だからだろう。
うっそうとした木々に囲まれて周囲からは見えないようになっている。
今は放っておかれているという話の通り、人気はまったくない。
女官に渡された案内図がなければ、そこに湯殿があるなど気がつかなかっただろう。
木々に囲まれた湯殿の先は小川のようになっていて、たっぷりの湯がそこから注ぎ込まれている。
もうもうと立ち込める湯気に、凛風の胸は高鳴った。行水でもなんの問題もないとは言ったものの、やはり湯に浸かれるのは嬉しい。
周囲を見回し、誰もいないことを確認してから衣服を脱いで岩場に置き、そっと足先をつける。
少し熱めの湯が気持ちよかった。
ゆっくりと入り、肩まで浸かって目を閉じると、湯の温もりが身体の芯まで染み渡る。
白い息を吐いて見上げると、頭上には満天の星。煌めく星を見つめながら、凛風は不思議な気持ちになる。
後宮入りしてからの凛風は想像していたよりも平穏な日々を過ごしている。
他の妃に虐められはするものの、食事と暖かい寝床が用意されている。
いつ、継母に呼びつけられて叩かれるかと怯えることのない安心な生活だ。
やりきれない用事を言いつけられて一日中走り回りくたくたになることもない。
こうしていると、自分に過酷な使命が課せられていることを忘れてしまいそうになる。
このまま時が過ぎ去って、皇太后が皇帝暗殺を諦めてくれればいいのにと願わずにはいられなかった。
そしたら、またいつか浩然と会えるかもしれない。大切な弟を抱きしめることができるかもしれないのだ。
――多くを望むのは危険だ。叶わなかった時に、つらい思いをすることになるから。
それはわかっているけれど……。
そんなことを考えながら湯に浸けて温かくなった両手を、凛風が顔につけた時。
「何者だ」
ガサッという音とともに、背後から低い声が鋭く凛風に問いかける。ビクッとして振り返ると、湯気の向こうに大きな黒い馬を連れた背の高い男性が立っていた。
「きゃ!」
思わず凛風は声をあげて顎まで湯に浸かる。突然のことに驚きすぎて、問いかけに答えられなかった。
女官からここは誰も来ないから大丈夫と言われていたのに……。
馬を連れている男性は、宦官の証である三つ編みはしておらず、役人の服ではない部屋着のような簡易な服装だ。
馬を連れているのだから、厩の役人のようにも思えるが、それにしても雰囲気が普通の人とは異なっていた。
漆黒の髪と切れ長の目、スッと通った鼻筋。
これほど端正な顔つきの男性を目にするのははじめてだ。
しかも背が高く逞しい身体つきではあるもののどこか高貴な佇まいでもある。射抜くような鋭い視線に、心が震えるような心地がする。
「答えろ。お前は誰だと聞いている」
再び威圧的に問いかけられて、凛風は慌てて震える唇を開いた。
「郭凛風と申します……! 百の妃にございます」
相手が誰かもわからないうちに、身元を明かすべきではないのかもしれない。
だが、とにかくこちらがあやしい者でないと示す必要がありそうだ。そうでなければ、すぐにでも命を取られかねない、そんな考えが頭をよぎるほどに、男性が放つ空気がぴりぴりと張り詰めている。
男が眉を寄せて呟いた。
「……百の妃?」
「こ、後宮長さまの許可を得て湯浴みをしておりました」
「なぜこのような場所で湯浴みをする。後宮には妃のための湯殿があるだろう」
「そ、それはその……。私は身体に醜い傷がありますので、他のお妃さま方のお目汚しにならぬようにと思いまして……」
凛風は、問われるままに事情をすべて口にする。その内容に、男性が目を細めた。
「傷? 後宮で揉めごとでもあったか?」
「え? い、いえ。そうではありません。古い傷でございます」
「……なるほど」
ようやく男性は納得して口を閉じる。そしてそのまま形のいい眉を寄せて考え込んでいる。
凛風の胸がドキドキとした。
実家の敷地からほとんど出してもらえずに育った凛風にとっては、彼くらいの男性と話をするのははじめてだからだ。
しかも湯気でよく見えないとはいえ、自分は肌を晒している状況。これ以上耐えられそうない。
なんとかあがれないだろうかと考える。
とりあえず湯の中で着替えと手拭いが置いてある岩場に近い場所まで移動して……。
だがその時、男性の隣の馬がぶるんとひと鳴き、かっぽかっぽと歩いてくる。
そのままざぶざぶと湯の中までやってきて、岩場と凛風の間に膝を折り身体まで浸かった。
凛風は目を丸くする。馬が湯に浸かるところなど見たことがない。
「黒翔、お前……」
男性にとってもこの行動は意外だったようだ。驚いたように問いかけ、手綱を引く。
だが黒翔と呼ばれた馬はどこ吹く風で気持ちよさそうに目を閉じて動く気配はなかった。
黒い艶のある毛並みと締まった身体つき、濡れたような黒い目の美しい馬だった。
「気持ちいい?」
思わず凛風は問いかける。久しぶりに馬をすぐ近くで見られて、少し心が浮き立った。黒翔は瞼を上げて凛風をちらりと見る。そしてまた目を閉じた。
口元に笑みを浮かべる凛風に、男性が訝しむように問いかけた。
「お前、馬が怖くはないのか?」
ハッとして、凛風は慌てて笑みを引っ込めた。
「こ……怖くはございません。実家では馬の世話をよくしておりましたから」
「馬の世話を? お前がか?」
そこで凛風はしまったと思い口を閉じる。後宮に上がるよう育てられた娘は普通は馬の世話はしない。不審に思われ、刺客だということがバレたら大変だ。
どう言えばこの場を切り抜けられるのか、凛風は一生懸命考えを巡らせる。だが頭が茹で上がるような心地がしてうまく考えがまとまらなかった。
のぼせてきたのだ。
パタパタと手で顔を扇ぐ凛風に、男性が眉を上げる。岩場に置いてある凛風の手拭いを取り、目線だけで合図してから、凛風に向かって放り投げた。
受け取ると、さりげなくこちらに背を向ける。今のうちにあがれということだろう。
凛風は素早くあがり衣服を身につけた。
彼から放たれる空気は異常なまでに威圧的だが、悪い人物ではないのかもしれない。
「ありがとうございました」
広い背中に声をかけると、彼は振り返り、湯から出てきた黒翔の脚を拭いてやっている。
言動はやや威圧的だが、その手つきは意外なほど優しかった。彼は馬に湯浴みをさせるためにここへ来たのだろうか。
「都では、馬も湯に浸かるのですか?」
脚を拭いてやった後、立髪を撫でる様子を見つめながら尋ねると、男性はちらりとこちらを見て口を開いた。
「血瘤をできにくくするためだ。熱い湯に浸かると血が流れやすくなる」
血瘤とは馬の脚にできる出来物だ。それで命を失うことはないが、場所によっては走るのに支障をきたす。
凛風も、実家では白竜にできないように気をつけていた。
「湯に浸かって……確かによい方法ですね」
男性が凛風を見て目を細めた。
「本当に異な妃だ。馬の病にまで精通しているとは」
「え!? あ……いえ、その……」
「まあよい。……血瘤は、なってしまったら針で刺して溜まった血を出すしかないからな」
「針で!? それはいけません」
凛風は思わず声をあげた。
「傷が膿んで脚を失う馬もおります。それよりも、脚を指圧してやる方が……」
「指圧を?」
頷いて、凛風はそっと黒翔に近寄る。自分を見つめる大きな黒い目に、問いかけた。
「少し脚を触らせてもらってもいい?」
黒翔がふんっと鼻を鳴らす。
「ありがとう」
凛風は脚にそっと触れ、実家の下男から教わった通りに、脚を指で押してゆく。
黒翔は抵抗することなく気持ちよさそうにしていた。
男性が驚いたように目を見開き、そのままじっと凛風と黒翔を見ている。
その視線に、やはり不審に思われているだろうかと凛風は思う。
後宮入りするような娘が、馬の指圧をするなど本来はあり得ない。
今すぐにやめるべきだ。でもそれよりも凛風にとっては、黒翔の脚の方が大切に思えた。漆黒の毛並みを持つこの賢い馬が脚を失うなど耐えられない。
「予防にもなりますから、毎日湯からあがった後してあげてください」
凛風は、前脚、後脚すべてに指圧を施していく。
最後の脚を終えると、黒翔はぶるんと鳴いて、凛風の頬を鼻で突いた。礼を言っているのだろう。
凛風も艶々の毛並みに頬を寄せた。
「気持ちよかった?」
こうしていると故郷の白竜を思い出す。
凛風がいなくても大切にしてもらえているだろうか? 馬は一家の財産だから、心配ないと思うけれど……。
頬の温もりを心地よく感じながら目を開くと、男性が口を開いた。
「明日もこの時刻に」
「……え?」
「明日からも湯浴みに来るのだろう。今宵と同じ時刻にしろと言っている。ここは俺以外は誰も来ないはずだが、夜更けに妃がひとりで湯浴みをするなど物騒だ」
では彼は、明日から凛風が湯浴みをする間、なにごとも起こらぬよう見張っていてくれるつもりなのだろうか。
威圧的に言い放ってはいるものの、ずいぶん親切な内容だ。
でもそれに甘えるわけにはいかない。見ず知らずの人にそこまでしてもらう理由はない。戸惑いながら、凛風は首を横に振った。
「け……結構です。明日からは後宮内の湯殿にて湯浴みをしようと思います」
「それができぬから、お前は今宵ここへ来たのだろう」
「それは……そうですが。そのようなことをお願いするわけには……」
異様なまでの風格とはいえ、間違いなく彼はここの役人だ。
ならばさまざまな役割に従事しているはず。凛風のためにわざわざ時刻を合わせてもらうのは申し訳ない。
そう思い凛風は断ろうと思ったのだが。
「代わりにさっきの指圧を黒翔にしてやってくれ。こいつは気性が荒く、俺以外の者には身体を触らせない。俺がやればいい話ではあるが、お前の方が効果がありそうだ」
「他の者には身体を触らせない……」
呟きながら黒翔を見ると、まるで会話の内容がわかっているかのように、濡れた目が凛風を見ている。その目にまるで黒翔自身に頼まれているような気分になるが……。
「この時刻だ。わかったな」
迷う凛風に男性はそう言って、黒翔とともに踵を返す。
「あ……!」
凛風の答えを聞かずに、暗闇の木立の向こうへ去っていった。
予想外の出来事と、思いがけない成り行きに、唖然として凛風はその場に立ちつくした。
若い男性と言葉を交わすのもはじめてだったというのに、明日も会うという約束をしてしまったのだ。鼓動はドキドキと鳴ったまま一向に収まる様子がない。
やはり身分を明かしたのは間違いだった。
最下位とはいえ凛風も一応皇帝の妃。役人である彼は、放っておくことができなかったのだろう。役目の一環として、湯浴みの見張りを買って出た。
申し訳ないのひと言だ。明日きちんと断ろう。
凛風はそう心に決めて、自分も後宮への道を歩きはじめた。