私室へ入り背後で扉が閉まると、暁嵐は凛風を寝台へ下ろす。自分も隣に座りふーっと深いため息をついた。
いつになく、まいっている様子の彼に凛風の胸は傷んだ。
 あれほど彼が怒りを露わにしたのは、おそらく母親のことを思い出したからだ。自分のせいで彼がつらい思いをしたのだと思うと申し訳なかった。
「暁嵐さま……」
 呼びかけると、暁嵐の大きな手が凛風の頬を包んだ。
「怖がらせてすまなかった」
「私は大丈夫です。ただ……暁嵐さまは皇帝陛下なのに、私のために家臣の方々との間に溝ができないかと心配です。私が舞をうまく舞えなかったから……」
 不安を口にする凛風に、暁嵐が吐き捨てた。
「そのようなことはどうでもよい。愛おしい女ひとり守れず、なにが皇帝だ」
 その言葉に凛風は目を見開いた。
 意味深な言葉を口にされ毎夜口づけを交わしてはいたものの、はっきりと口にされたのははじめてだ。
 その凛風の反応に暁嵐が眉を寄せる。
「なぜ驚く? お前もわかっていたはずだ。俺のこの気持ちは」
「ですが……本当にそうだとは……」
「では今告げる。俺はお前が愛おしい。お前を傷つけるものは誰であっても許さない」
 そう言って彼は、凛風の額に自らの額をくっつけて、至近距離から凛風を見つめた。
「凛風、俺の心はお前だけを求めている」
 真っ直ぐな視線と強い想いに胸を貫かれ息が止まるような心地がした。凛風も彼とまったく同じ気持ちだ。
 凛風の心は彼だけを求めている。
 ――けれどこの彼の愛に応えるわけにはいかないのだ。
 凛風はいずれ彼を殺めなくてはならない立場で、ここにいること自体が彼への裏切り行為に他ならない。そうでなくても、皇帝である彼に、傷だらけで育ちのよくない自分は相応しくない。
 彼の視線から逃れるように、凛風は目を伏せる。
「ですが私は……私は暁嵐さまに相応しくありません」
 とりあえず、言える言葉を口にする。これだけでも、十分な理由になるだろう。
「そもそも身体に醜い傷跡がある妃など……」
「そのようなことを口にするな!」
 鋭く遮られ驚いて口を閉じると、腕を引かれて抱きしめられる。戸惑う凛風の髪に唇を寄せ、暁嵐が囁いた。
「そのように言うのは、たとえお前自身であっても許さない。お前の傷を俺は醜いとは思わない」
「暁……嵐さま……?」
「なにがあったのか、俺からは聞かない。だが身体の傷は、お前が生き抜いてきた証だろう? 俺は傷痕のあるお前と出会い愛したのだ。俺はお前のすべてを美しいと思う。だから今宵、俺でない者たちがお前の身体を嘲笑うのが我慢ならなかったのだ」
 思いがけない彼の言葉に、凛風は自分の耳を疑った。醜い傷痕をこんな風に言われたのははじめてだ。
 寝室に下がる灯篭の橙色の光が滲み、あっという間に熱い涙が溢れ出る。漏れる嗚咽を止めることができなかった。
 傷痕はどう考えても醜いのに。
 それを彼は生き抜いた証だと言ってくれる。いない者として捨て置かれ、その存在を思い出される時は虐げられ過酷な使命を課せられてきた、自分ですら否定し続けてきた凛風という存在を、彼は肯定してくれたのだ。
 いつもいつも彼は凛風にはじめての喜びを教えてくれる。過酷な生い立ちと残酷な使命に凍りついた凛風の心に、光をあててくれるのだ。
 彼の背中に腕を回して彼の服に顔を埋めて声を殺して泣きながら、凛風は自分の運命を呪う。
 どうしてよりによって彼なのだろう。
 彼の腕にすがりつく、こんな資格は自分にはない。
 こんな風に言ってもらう資格などないのに……。
 凛風の頭を暁嵐の手が何度も何度も優しく撫でる。濡れた頬にあてられた手に促されるように上を向くと、揺るぎない力を湛(たた)える彼の瞳が自分だけを映している。
「凛風、お前の心がほしい。俺の皇后になってくれ」
「暁嵐さま……私は……」
 ――そのようなことを言ってもらう資格はない。私はあなたを殺めるためにここにいるのに。
 言えない言葉を頭の中で繰り返しながら、凛風はふるふると首を振る。それが精一杯だった。
 彼の愛を受け入れることはできないが、拒否の言葉を口にすることもできない。
 苦しくてどうにかなっていまいそうだ。
 暁嵐が、凛風を抱く腕に力を込め苦しげに顔を歪めた。
「凛風、俺に心を預けてくれ。俺の妃はこの世でただひとり、お前だけだ。たとえお前がなにものだとしても、これだけは変わらない」
 ――お前がなにものだとしても。
 凛風の正体を知らないはずの彼の言葉が、凛風の心の一番奥に真っ直ぐに届く。
 目の前に、新しい道が開けるのが見えたような気がした。
 彼ならば、凛風の抱えているものを解決してくれるかもしれない。
 凛風の裏切りを受け止めて、弟を救い出してくれるかも……。
 民を思い、心のままに生きられる世を作りたいと言った彼ならば。
 今すぐに見えたばかりのその道を歩む勇気は出ないけれど……。
「……本当に私がなにものでも、受け止めてくれますか?」
 問いかけると、温かい暁嵐の手が頬の涙を拭った。
「ああ、約束する。お前がなにものでも俺の妃はお前だけだ」
「暁嵐さま……私……。だけど……!」
「大丈夫だ。俺はお前をいつまでも待つ。お前が俺に心を預けてくれるなら、お前の言葉だけを信じよう」
 そして、唇を奪われる。
 目を閉じて深く吐息を混ぜ合わせると、出口のない暗闇の中で終わりを待つだけの人生に、ひと筋の光の光が差し込んでいた。
 きちんと考えようと凛風は思う。
 今までは心凍らせて生きてきた。
 そのようにしか生きられなかった。
 それでも今、彼の愛にその心は溶けはじめている。きちんと自分の頭で考えて正しいと思う道を選ぶのだ。
 自分の存在を認め、愛をくれた彼のために。
 強い彼の愛を受け止めながら、凛風はそう決意した。