「この〝我〟という字が、自分という意味だ。〝食〟が食べる。書を読むだけなら、ひとつひとつの字を正しく書ける必要はない。まずは……」
机の隣に座る暁嵐が、凛風の前に広げられた教本を指差し説明する。夜の寝所での手習いである。
自分が教えるのだから、簡単な書物くらいすぐに読めるようになると言った通り、彼の教え方は上手だった。
読みたい書を広げながら、それに沿って進めるので飽きることなく頭に入る。
けれど今宵はさっぱりだった。
「ここを自分で読んでみろ」
そう言われて、凛風は彼の手元を見る。
「えーっと」
けれど、さっき教えてもらったばかりの字なのに、頭に浮かんでこなかった。
「その……」
言葉に詰まり、気まずい思いで彼を見る。
きちんと聞いていたのかと叱られるのを覚悟するけれど、凛風の予想に反して、彼はどこか楽しげな笑みを浮かべていた。
「どうやら今宵は、身が入らないようだな」
ずばりその通りのことを口にする彼に、凛風は「申し訳ありません……」と眉を下げた。
原因はもちろん、昼間の厩での口づけだ。
あの後、後宮へ戻ってからも、彼の唇の感触と熱い視線が頭から離れず、心はずっとふわふわしたままだった。そしてそれは今も続いている。
「どうした? なにか気になることでもあったか?」
そう尋ねる彼は、からかうような目で凛風を見ている。
凛風の気持ちなどお見通しで、その上であえて聞いているのだということに気がついて、凛風の頬は燃えるように熱くなった。
昼間のことをずっと考えていたのだということもバレてしまっているような気がして恥ずかしくてたまらない。
「もう……わかっているのではないですか?」
頬を膨らませてそう言うと、彼はくっくと笑い凛風の頭をぽんぽんと叩いた。
楽しげな様子がなんだか少し悔しかった。
凛風と違って、彼がこんなにも余裕なのは、きっと彼にとっては口づけくらいなんでもないことだからだろう。
彼はこの国の皇子として育ったのだ。今はまだ凛風以外の妃を閨に呼んでいないとはいえ、このくらい……。
とそこまで考えて、凛風の頭にある疑問が浮かんだ。
どうして彼は、妃を閨に呼ばないのだろう?
はじめてここへ来た時は気が動転していて聞き流してしまったけれど、皇帝の行動としては不自然だ。
「あの、暁嵐さま。……お尋ねしてもよろしいですか?」
問いかけると、暁嵐が頷いた。
「どうして暁嵐さまは、他のお妃さまを閨にお呼びにならないのですか?」
暁嵐が眉を上げる。その彼に、凛風はさらに問いかける。
「皆暁嵐さまのために後宮入りされましたのに、そのお妃さまを避けられるのはどうし……!?」
とそこで、暁嵐が突然立ち上がり凛風を抱き上げた。
「きゃっ……! 暁嵐さま!?」
目を白黒させ彼にしがみつく凛風を抱いたまま、部屋を横切り寝台へと歩いていく。そこへ優しく凛風を下ろし、両脇に手をつき不気味なくらいにっこりと笑った。
「俺はどうやら後宮長を罷免しなくてはならないようだ。まったく仕事ができていない」
「え!? ……後宮長さまを?」
彼が口にしたまったく予想外の言葉に凛風は目を丸くする。凛風の疑問と後宮長の役割がどう繋がるのかさっぱりわからなかった。
「どういうことですか?」
驚きながら首を傾げると、暁嵐がやや大袈裟にため息をついた。
「閨に上がる妃の教育は後宮長の役割だ。それなのにお前は、皇帝の寝所にいるというのに他の妃の話を……、しかもまるで自分ではなく他の妃を呼んでほしいというような口ぶりだ」
「え!? そ、そういうわけでは……」
確かに、凛風が寝所にて伽をする本物の妃ならば、やや失礼な発言かもしれない。皇帝に他の妃を呼ばせて、自分は伽を逃れようとしているようにも取れる。
「そういう意味ではなくて……その」
本気で後宮長を罰するつもりなどまったくなさそうな彼に向かって、凛風は言い訳をする。
「そうではなくてただの疑問です。それにこれは私だけではなくて後宮でも皆が疑問に思っていることです。家臣の皆さまにもあれこれ言われるのでしょう? それをわざわざ私を寵愛するふりをしてまで……ん!」
唐突に唇を彼の唇で塞(ふさ)がれてしまう。
そしてはじまった口づけは、昼間よりも熱くて激しかった。あっという間に凛風の疑問は思考の彼方へ吹き飛んで、頭の中が彼への想いでいっぱいになっていく。
どうしてこうなったのか、自分はなにを疑問に思っていたのか、それすらわからなくなるくらいだった。
ぼんやりとする視線の先で、暁嵐の唇が囁いた。
「凛風、これは寵愛するふりか?」
自分を見つめる彼の瞳の奥に赤いなにかがちらついているのを見た気がして、凛風の背中がぞくりとする。胸がドキドキと痛いくらに高鳴った。
少し前から感じていた、まさかという思いがゆっくりと確信に変わろうとしている。けれどそれを知るのは怖かった。
彼の想いを知ってしまったその先、自分の気持ちがどうなってしまうのか、わからなくて怖かった。
「暁嵐さま……」
答えられない凛風を暁嵐はしばらくじっと見つめていたが、やがて息を吐いて目を閉じる。もう一度開いた時には、いつもの優しい眼差しに戻っていた。
「この後もしっかり考えろ」
凛風の頭を優しく撫でて、隣にごろんと横になる。自分の腕を枕にして天井を見つめて口を開いた。
「俺が後宮の妃を閨に呼ばないのは、もともと妃はひとりだけにすると決めているからだ」
先ほどの凛風の疑問に対する答えだろう。だがその内容は、凛風にとっては突拍子もないことに思えた。
皇帝の妃がひとりだなんて聞いたことがない。教養も知識もない凛風だが、そのくらいは知っている。
後宮長からは、閨に上がるのが自分だけなどと欲深いことを考えぬようにときつく言われた。古来より後宮では、たった一度皇帝の手がついただけで生涯を終える妃も珍しくないという話だ。
戸惑う凛風をちらりと見て、暁嵐は言葉を続けた。
「俺の母上は、もともと後宮女官だったんだが、前帝の目に留まり妃の身分に召し上げられた」
その話は、凛風も父から聞いたことがあった。
「ほどなくして子ができたのだから普通なら幸運だったと言えるだろうが、母上にとってはそうではなかった。本当は将来を言い交わした相手がいたようだ」
「将来を言い交わした相手が……」
凛風の胸は痛んだ。
皇帝の目に留まったなら妃になるのは避けられない。将来を言い交わした相手がいながら他の男性の妃になるしかなかったというのは、どれほどつらいことだろう。男性を愛おしく思う気持ちを知った今の凛風にはよくわかる。
「しかも女官の出ということで後宮での立場は弱く、原因不明の死を遂げるまで他の妃たちにいじめ抜かれていた。俺は母上の笑っている顔を覚えていない」
あまりにひどい話の内容に、凛風は言葉を失った。彼ははっきり言わないけれど、凛風の頭には皇太后の蛇のような目が浮んでいた。
原因不明の死と彼は言うけれど……。
暁嵐が長いため息をついて、凛風を見た。
「皇帝に複数の妃がいれば、いらぬ争いを生みつらい思いをする者が出る。だから俺は、同じことを自分の代で繰り返さないと決めている。信頼できる者ひとりだけを妃とし、大切に愛しむ」
凛風を見つめて、強く言い切る彼に、凛風は心が震えるのを感じていた。
皇帝に妃がひとりきりなど本当なら周りが許すはずがない。でも彼ならば自らの意思を貫くだろうと確信する。
はじめてここに来た夜の彼の言葉を思い出し、凛風は口を開く。
「暁嵐さまが己の心のままに生きられる世を作りたいとおっしゃったのはお母さまのことがあったからですね」
「そうだ。必ず実現してみせる。……そしてその時は、信頼できる妃に隣にいてほしいと思っている」
――そばにいたいと強く思う。
己の心のままに生きられる世。
はじめて耳にした時は、それが人にとってよい世なのかどうかすらわからなかった。
けれど今の凛風にははっきりとわかる。
自分の望みを口にできた時の高揚感と幸せな思いが胸に広がる。
そういう世を凛風は望んでいる。
彼ならば、実現できるだろう。そしてその時は自分がそばにいたいと思う。
もちろんそれは実現することのない望みだけれど……。
目を伏せると抱き寄せられ、暁嵐の腕の中にすっぽりと包まれる。
「暁嵐さま」
驚く凛風の耳に温かい声が囁いた。
「凛風、すべて俺の腕の中で考えるんだ。そうすれば、お前にとってよい答えに辿り着く」
自分にとってよい答え……。
心の中で呟いて、重なるふたりの胸の鼓動を聞きながら、凛風はゆっくりと目を閉じた。
「痛っ」
昼下がりの自室にて、衣装に腕を通した途端にちくっと鋭い痛みを感じて、凛風は声をあげる。手伝いをしていた女官が、焦ったように凛風を見た。
「凛風妃さま、いかがなさいました?」
「なんでもないわ。少し腕をひねっただけ」
そう言って凛風は、さりげなく自分の腕を刺したと思しき針を抜いた。なんでもなくはないが、騒ぎ立てれば彼女が罰を受けることになるからだ。
彼女は、以前露天の湯殿の使用を勧めてくれた女凛風付きの女官で、後宮では味方のいない凛風に親切にしてくれている唯一の存在だ。罰を受けるのは可哀想だ。
そもそも妃用の衣装に針が残っているなど、本来はありえない。しかも今凛風が身につけているのは、普段着ではなく皇帝の御前にて舞を披露するためのものなのだ。仕立ててから後宮内に運ばれてくるまでに、何度も確認されている。
それなのに、針が残っているということは、後宮内に針を仕込んだ者がいるというわけだ。言うまでもなく、後宮でただひとり寵愛を受ける凛風を妬んだ妃のうちの誰かだろう。
二の妃の取り巻きたちの凛風への嫌がらせは、日に日にひどくなる一方だった。一の妃の目を気にしてか、以前のような乱暴で直接的なものはなくなったが、代わりにより陰湿なものになっていった。物がなくなったりダメにされたり、聞こえるように陰口を言われたりはしょっちゅうだ。
最下位だと馬鹿にされて、もともとのけ者だったのに急に寵愛を受けることになってしまったのだから、無理もない話だ。
暁嵐からは、後宮にてなにかあればすぐに言うようにと言われている。母親が後宮で嫌がらせを受けていたのを見て育った彼には、なんでもお見通しというわけだ。
でも凛風はいちいち報告していない。そこまでではないと思っているからだ。後宮での無視も嫌がらせも実家にいた頃と比べればすべて些細なこと。あの棘のある枝で叩かれる痛みに比べれば、針が刺さった痛みなど蚊に刺されたようなものだ。
それに今の凛風は、それどころではないのだ。
あの厩での口づけから三日。
相変わらず、凛風は毎夜暁嵐の寝所に召されている。彼から字を教わり、美しい絵が描かれた書物を読む。暁嵐が寝台の中で少し先を読んでくれることもあった。
そこまではそれまでと変わらないのだけれど……。
凛風は指で唇をつっと辿る。寝所での彼を思い出して少し甘い息を吐いた。
はじめて口づけを交わし、彼の母の話を聞いたあの日からふたりの関係は少し変わった。暁嵐は毎夜凛風に口づけをし、寝台で眠る時は、凛風を引き寄せ腕に抱く。
彼の香りに包まれて彼の体温を感じると凛風の胸はドキドキと鳴って落ち着かず、寝るどころの話ではない。ここのところ凛風は少々寝不足気味というわけだ。
昼間はあくびばかりしている。
今も、今夜大広間にて開かれる皇帝主催の宴に向けて衣装を身につけている最中だというのに、ふぁとあくびが漏れてしまっているありさまだ。
「凛風さま。ここのところお疲れのご様子ですね。陛下の毎夜のお召しでは仕方がないですが」
女官がにこやかに笑ってそう言った。
「あ……いえ」
『毎夜のお召し』という言葉に、凛風は頬を染める。彼女がどういう意味で言ったのかを理解したからだ。
「そうではなくて……」
慌てて凛風は首を横に振る。凛風の寝不足の理由は彼女が想像しているものではない。でも彼女は納得しなかった。
「あら、凛風妃さま。恥ずかしいことではありせんよ。むしろ後宮においては、よいことにございます。それだけご寵愛が深い証になりますから。先の皇帝陛下の後宮では、陛下のお召しの翌日はわざと疲れた様子を見せるお妃さまもいらっしゃったという話です」
凛風は彼女の話に面食らう。
普段はあまり口数の多くない彼女が、あからさまな言葉を使ったことに驚いたのだ。
「そうなんですね……」
話の内容を聞いているだけでも恥ずかしくて凛風はうつむいた。すると彼女は凛風を覗き込み、少し心配そうに眉を寄せた。
「ですが、顔色がよろしくないような……一度医師さまに診ていただきましょう」
大袈裟なことを言う女官に、凛風は慌てて声をあげた。
「医師さま!? いいえ、私は大丈夫です」
「ですが、ご寵愛を受けておられるお妃さまのお身体の変化は、しっかりと把握しておけと後宮長さまから言われていますし……」
『身体の変化』という言葉に、凛風はまたもやどきりとする。つまり彼女は、凛風の疲れを懐妊の兆しではないかと、思っているのだ。
「そうではないの。私……。寝所に召されてはいるけれど、その……まだ……」
閨をともにしていないとそれとなく告げる。ただの寝不足を大事にしてほしくないという一心だった。今この状況で凛風が医師の診察を受ければ、あらぬ憶測を呼び大騒ぎになってしまう。
女官が「まぁ」と言って目を見開いた。
「……そうなんですか」
「な、内密にお願いします……」
暁嵐との閨事情など本当は誰にも知られなくないが、きちんと話しておかないと今すぐにでも医師を呼ばれてしまう。
「だからこれは本当にただの寝不足です」
女官が物分かりよく頷いた。
「わかりました。ですが意外な話ですわね。陛下はあのような男ぶりの方ですし、毎夜凛風さまをお召しになられているほどのご寵愛の深さですのに……」
「わ、私が至らないから……」
曖(あい)昧(まい)に答えると、女官は優しく微笑んだ。
「きっと凛風妃さまを大切に思っておられるのでしょう。でも今宵の凛風妃さまの舞をご覧になられたら、もう先にお進みになられずにはいられないと思いますよ」
そう言って、凛風の衣装の紐をキュッと締めた。
「舞なんて、私、自信がありません」
彼女の言葉に凛風は眉尻を下げた。
今夜の宴で凛風は皇帝と妃たち、主だった家臣たちの前で舞を披露することになっている。なんでも皇帝主催の宴では恒例のことなのだという。
宴で舞を披露できるのは、皇帝の寵愛を受けている妃のみ。だからこれは後宮の妃にとって、自らの優位を他の妃に見せつける絶好の機会なのだという。
古来から妃たちは、この日のために幼少期から舞を習い、当日は最上級の衣装を身に纏う。
けれどそのようなことに興味がない凛風にとっては、ただただ人前に立つということに恐れを感じるだけだった。
舞などまったく習ったことない凛風は、宴が開かれると決まってから急ぎ習っている。決していい出来でないのが自分でもわかるから、なおさら憂鬱だった。
暁嵐からは気が進まないなら、舞はやらなくていい、なんなら出席しなくていいと言われたが、後宮長に反対されて断念した。
『陛下のお言葉に甘えて、そのような情けないことをおっしゃるものではありません。ご寵姫さまが出席なさらないなど聞いたことがありませんわ。陛下のご威光に傷がつきます』
暁嵐に恥をかかせることになると言われては、わがままを言うわけにいかない。仕方なく凛風は舞の準備をしているというわけである。
「ですが本当なら、今宵舞を披露するのは凛風妃さまだけのはずですのに、他のお妃さままで舞われるのは口惜しいですわね」
女官が悔しそうに言う。
本来なら、舞を舞うのは一度でも寵愛を受けた妃だけなのだが、今夜は凛風の他に一の妃と二の妃も舞を披露することになっている。
凛風だけでは少し華やかさに欠けるからというのが公の理由だが、ここは後宮、裏の思惑がないわけがない。暁嵐が、最下位の妃だけを寵愛しているという状況を面白く思わない者たちの差し金だ。
暁嵐が、舞を舞う美しい妃に目を留めて、凛風以外の妃を寵愛することを期待しているのだろう。
そのことに想いを馳(は)せて、凛風の胸がキリリと締め付けられた。
暁嵐が自分ではない他の妃を寝所に呼ぶなど、想像するだけで胸が焼けるような心地がする。彼は妃はひとりだけと決めていると聞いていても、治らなかった。おそらくこれが嫉妬という感情なのだろう。
――そんなこと考える資格、私にはないのに……。
「凛風妃さま、ご心配なさらなくても大丈夫です。陛下は凛妃に夢中でいらっしゃるのですから」
女官が凛風を勇気づけるようにそう言って、服の中から甘い香りがする貝殻を取り出した。
「もしご不安なら、夜のお召しの際、この香料を耳の後ろにおつけになって、陛下のもとへお上りなさいませ」
「香料?」
「男性のお心を夢中にすると言われている香料にございます。凛風妃さまがこれをおつけになればきっと……」
意味深に言って女官はにっこりと笑う。
つまりは香料を使えば、暁嵐とより深い中になれるかもしれないと彼女は言っているのだ。
「お身体に障るものではありません。歴代のお妃さま方が使われてきたものにございますから」
「……わ、私は結構です」
凛風は手を振り、受け取らなかった。凛風を心配してくれる彼女の心遣いはありがたいが、凛風は暁嵐と深い仲になることを望んでいない。それはすなわち、ふたりの終わりを意味するからだ。
「そのような高価なものをつけるなど、私には分不相応で……」
すると女官は凛風の手を取って貝殻を握らせた。
「まぁそうおっしゃらずに。一度試してごらんなさい」
冷たい手と、ざらりとした貝殻の感触、少し強引な彼女の行動に、凛風は得体のしれない違和感を覚え、どきりとして彼女を見る。一点の曇りもないその笑みに、どうしてか胸が騒ぐのを感じながら、とりあえず香料を受け取った。
皇帝主催の宴は後宮の大広間で執り行われた。謁見の時とは打って変わって、華やかな飾りが施されている空間に、天井から下がるたくさんの灯籠(とうろう)が橙色の光を放ち、まるで昼間のような明るさだ。
緩やかな音楽が流れる中、皆の笑い声があちらこちらから聞こえてくる。目の前には国の各地から集められた馳走が並んでいた。
玉座と向かい合わせの部屋の中央には、舞台が設けられ、妃たちの舞を彼がよく見えるようになっている。
凛風の席は、いつもの末席ではなく、皇帝に一番近い場所だった。暁嵐の目が届かない後宮内では、女官長を含めて凛風への扱いはひどいもの。だがさすがに暁嵐の前では一番の寵姫として扱う必要があるのだろう。
はじめて見る光景に、凛風は居心地の悪い思いで視線を彷徨わせていた。
妃同士の茶会にも呼ばれたことがない凛風にとっては、華やかな場ははじめてだ。このような場で下手な舞を披露すると考えるだけで、緊張でどうにかなってしまいそうだった。
凛風は玉座の暁嵐を見る。
彼が皇帝としての正装でいるところを見るのははじめてだ。朝の謁見の際も寝所に召されるまで凛風は顔を上げなかったし、寝所に召されるようになってからは、欠席していたからだ。
公式な場所で玉座に座る暁嵐は、皇帝の風格を漂わせ、誰も寄せ付けない空気を纏っている。夜に凛風に手習いをしてくれる彼とは別人のようだった。
その彼が唯一、寝所にと望む妃が自分だけだなんて、後宮中の妃たち、いや宮廷のすべての者がおかしいと思うのも無理はない。
視線を送る凛風に暁嵐が気がつき、口元に笑みを浮かべる。控えている女官を呼びなにかを囁くと女官は心得たように頷いて、凛風のところへやってきた。
「凛風妃さま、気が進まないなら無理をしないようにと、陛下よりのご伝言です」
「陛下が?」
女官の言葉に凛風が彼を見ると、暁嵐が心配そうに見ていた。このような場に慣れていない凛風を心配してくれているのだ。
「大丈夫です、とお伝えください」
凛風が女官に囁いた時、その場に歓声があがる。
妃による舞がはじまるのだ。
楽師たちが奏でていた音楽が一旦止まると、まずは一の妃が舞台に上がった。舞の順は、一の妃、二の妃、最後に凛風と決まっている。
一の妃は紫色に金色の刺(し)繍(しゅう)が施された美しい衣装を身につけている。まるで天女の衣のようなその衣装からは腕や肩が見えていた。灯籠の光の中で真っ白な肌が艶めいている。
普段より露出が激しい衣装を身に着けているのは、皇帝の目を意識しているからだろう。ゆったりとした音楽に合わせて、一の妃が舞いはじめる。付け焼き刃でしかない凛風の舞など足元に及ばないほど洗練された舞だった。
「素敵ねぇ」
同じ妃たちの間からもため息が漏れた。
「ご寵姫さまが舞を披露するのは後宮の伝統行事ですもの。きっと小さな頃から習っておられたのよ」
一の妃の舞が終わると、今度は二の妃が舞台に上がる。彼女もまた肌が見える衣装を身につけていた。妃の中でもひときわ妖艶な身体つきの彼女には、女性である凛風でもドキドキするくらいだ。
彼女の舞は、一の妃の洗練されたものとは違い、どこか俗物的な魅惑的な動きをふんだんに取り入れたものだった。軽快な音楽に合わせて腰をくねらせる彼女に、またもや妃たちからため息が漏れる。
「さすがだわ」
「見た目では二のお妃さまには絶対に勝てないわね」
ふたりの妃の素晴らしい舞を目のあたりにして、凛風の心はこれ以上ないくらい沈んでいく。刺客である自分は、彼女たちに嫉妬する資格はないと思ったけれど、そのような使命を負っていなくとも比べものにならないと思う。
「凛風妃さま、ご準備くださいませ」
女官からの囁きに、凛風は浮かない気持ちのまま立ち上がった。
二の妃の舞が終わり、凛風が舞台に上がると、広間は異様な空気に包まれた。
凛風が身につけているのは、先ほどの妃たちのような肌が見えるものではなく、傷痕を隠せるよう手首まで覆われた袖の長いものだ。暁嵐が用意してくれた上質なものには違いないが、他の妃たちからは見劣りするのは間違いない。ましてや肉付きのよくない凛風が着ているのだからなおさらだ。
「ずいぶん不思議な衣装だこと」
「仕方がないわよ、あの身体じゃ」
笑い声と侮辱的な言葉、凛風に注がれる侮蔑の色を帯びた視線。
仮にも皇帝の御前だというのにお構いなしなのは、古来から後宮がそのような場だからだ。
歴代皇帝たちは、妃同士の鞘(さや)のあて合いには無関心。寵愛する妃がどれほどひどくいじめられても、決して助けることはなかったのだという。
緊張で右も左もわからない中、まだ心の準備ができていないというのに音楽が鳴りはじめる。凛風は慌てて、習った通りに身体を動かした。
先ほどの妃たちとは、比べものにならないほど拙(つたな)い動きに、くすくすという笑い声が大きくなりはじめた。
「やだ、あれなに?」
「仮にも寵愛を受けている妃が。恥ずかしくないの?」
あからさまに凛風を馬鹿にしはじめた彼女たちの言葉が、凛風の胸を刺した。
自分が馬鹿にされるのはかまわない。そんなことで今さら傷ついたりはしない。
でも今は、暁嵐の顔に泥を塗らないか心配だった。寵愛する妃がこのような不恰好な妃では、彼の威厳に傷がつく。
とにかく早く終わりたい。
そう願いながら、凛風がくるりと回った時、ツンと袖がひっぱられるような感じがする。途端に衣装の肩のあたりからピリッと裂けて、袖が外れてしまった。
凛風は驚いて振り返る。床までつく長い袖だからなにかに引っかかったのだろうかと見回したが、それらしいものはなかった。
最前列の妃ふたりが顔を見合わせてくすくすと笑っている。彼女たちのどちらが袖を踏んだのだろう。
とっさに凛風は露わになった肩をもう一方の手で覆う。
くすくすという笑い声がいっそう大きくなった。
「はじめて見たけど本当に汚いのね」
「あれじゃ隠したくもなるわ」
傷だらけの肩を皆の眼前に晒してしまっていることが申し訳なかった。舞が粗末だというだけでも暁嵐に恥をかかせてしまっている。それなのに醜い肌を晒してしまうなんて。
舞どころでなくなった凛風が立ち尽くしていると、突然音楽がやむ。
不思議に思って楽師たちの方を見ると、彼らは皆手を止め目を見開いている。意識はあれど身体を動かせないようだ。
尋常ではない状況にハッとして玉座を見ると、暁嵐が楽師たちの方に手を向けている。その頭には、黒い角が現れていた。
彼の角が現れる時は鬼の力を使う時。つまりこの状況は彼の力によるものだ。
皆が固唾を呑み静まり返る中、暁嵐がゆっくりと立ち上がる。表情には明らかに不快感が滲んでいた。
彼は皆を一瞥し、手を振り下ろす。楽師たちの強張りが解けた。
だが誰も再び音楽を奏でようとしなかった。それどころかこの場にいる誰も口開くことができない。妃同士のやり取りには無関心なはずの皇帝の突然の行動に驚いているのだ。
暁嵐は玉座を下りコツコツと靴音を響かせて舞台の上へやってきた。そして自らが身につけていた外衣を脱ぎ、凛風を包み抱き上げた。
皆が目を剥く中、彼は凛風の袖を踏んだと思しき妃に視線を送る。彼女の長い袖の裾にぼうっと赤い炎が上がった。
「ひいっ!」
妃が声にならない悲鳴をあげる。炎に焼かれる恐怖に彼女の目は恐怖の色に染まるが、火は彼女の肌を焼く前に消えた。
暁嵐が怒気をはらむ低い声で問いかけた。
「凛風の衣装は私が贈ったもの。寵姫の美しい肌を誰にも見せたくないゆえ袖の長いものを選んだのだ。その私の心を、そなたは踏みにじるのだな?」
「わ……わざとでは……」
あわあわと言い訳する彼女を無視して、暁嵐は、凛風を嘲笑っていた皆をぐるりと見回した。
「私の意向に逆らい、彼女の肌を目にした者にも、すべからく罰を与えなければならぬ」
彼の目尻が赤く光り、どこかから「ひっ!」という引きつれたような声があがった。
この場にいた者皆が、凛風の肩を見たのだ。罰を与えると言うなら、妃と家臣皆が残らず罰を受けることになる。
怒りを露わにする彼に、凛風も言葉を失い彼を見つめる。
「へ、陛下……お静まりくださいませ……!」
年嵩の家臣が意を決した様子で進み出て、彼を諌(いさ)めようと試みる。
「これは、事故にござ……」
「痴(し)れ者! 私がこの目で見たものを否定するつもりか?」
一喝する鋭い声に空気がビリッと引き裂かれる。皇帝の激しい怒りを目のあたりにして家臣は頭を抱えてうずくまった。
「も、申し訳ありませぬ……」
「暁嵐さま」
凛風は彼の服を掴み呼びかける。
はじめて見る彼の姿が怖くないと言ったら嘘になる。でも彼が怒りを露わにしているのは、凛風のためなのだ。黙っているわけにいかなかった。
自分のことで家臣たちと対立してほしくない。
「私は大丈夫です」
思いを込めてそう言うと、彼は訝しむように凛風を見つめる。凛風の言葉が本心か考えているのだろう。
「暁嵐さま」
凛風がもう一度呼びかけると、暁嵐は息を吐いて目を閉じる。次に開いた時は目尻の赤と角は消えていた。
そして皆に向かって口を開く。
「私と凛風妃はこれにて退出する」
足早に舞台を下り、清和殿に向かって歩き出した。
私室へ入り背後で扉が閉まると、暁嵐は凛風を寝台へ下ろす。自分も隣に座りふーっと深いため息をついた。
いつになく、まいっている様子の彼に凛風の胸は傷んだ。
あれほど彼が怒りを露わにしたのは、おそらく母親のことを思い出したからだ。自分のせいで彼がつらい思いをしたのだと思うと申し訳なかった。
「暁嵐さま……」
呼びかけると、暁嵐の大きな手が凛風の頬を包んだ。
「怖がらせてすまなかった」
「私は大丈夫です。ただ……暁嵐さまは皇帝陛下なのに、私のために家臣の方々との間に溝ができないかと心配です。私が舞をうまく舞えなかったから……」
不安を口にする凛風に、暁嵐が吐き捨てた。
「そのようなことはどうでもよい。愛おしい女ひとり守れず、なにが皇帝だ」
その言葉に凛風は目を見開いた。
意味深な言葉を口にされ毎夜口づけを交わしてはいたものの、はっきりと口にされたのははじめてだ。
その凛風の反応に暁嵐が眉を寄せる。
「なぜ驚く? お前もわかっていたはずだ。俺のこの気持ちは」
「ですが……本当にそうだとは……」
「では今告げる。俺はお前が愛おしい。お前を傷つけるものは誰であっても許さない」
そう言って彼は、凛風の額に自らの額をくっつけて、至近距離から凛風を見つめた。
「凛風、俺の心はお前だけを求めている」
真っ直ぐな視線と強い想いに胸を貫かれ息が止まるような心地がした。凛風も彼とまったく同じ気持ちだ。
凛風の心は彼だけを求めている。
――けれどこの彼の愛に応えるわけにはいかないのだ。
凛風はいずれ彼を殺めなくてはならない立場で、ここにいること自体が彼への裏切り行為に他ならない。そうでなくても、皇帝である彼に、傷だらけで育ちのよくない自分は相応しくない。
彼の視線から逃れるように、凛風は目を伏せる。
「ですが私は……私は暁嵐さまに相応しくありません」
とりあえず、言える言葉を口にする。これだけでも、十分な理由になるだろう。
「そもそも身体に醜い傷跡がある妃など……」
「そのようなことを口にするな!」
鋭く遮られ驚いて口を閉じると、腕を引かれて抱きしめられる。戸惑う凛風の髪に唇を寄せ、暁嵐が囁いた。
「そのように言うのは、たとえお前自身であっても許さない。お前の傷を俺は醜いとは思わない」
「暁……嵐さま……?」
「なにがあったのか、俺からは聞かない。だが身体の傷は、お前が生き抜いてきた証だろう? 俺は傷痕のあるお前と出会い愛したのだ。俺はお前のすべてを美しいと思う。だから今宵、俺でない者たちがお前の身体を嘲笑うのが我慢ならなかったのだ」
思いがけない彼の言葉に、凛風は自分の耳を疑った。醜い傷痕をこんな風に言われたのははじめてだ。
寝室に下がる灯篭の橙色の光が滲み、あっという間に熱い涙が溢れ出る。漏れる嗚咽を止めることができなかった。
傷痕はどう考えても醜いのに。
それを彼は生き抜いた証だと言ってくれる。いない者として捨て置かれ、その存在を思い出される時は虐げられ過酷な使命を課せられてきた、自分ですら否定し続けてきた凛風という存在を、彼は肯定してくれたのだ。
いつもいつも彼は凛風にはじめての喜びを教えてくれる。過酷な生い立ちと残酷な使命に凍りついた凛風の心に、光をあててくれるのだ。
彼の背中に腕を回して彼の服に顔を埋めて声を殺して泣きながら、凛風は自分の運命を呪う。
どうしてよりによって彼なのだろう。
彼の腕にすがりつく、こんな資格は自分にはない。
こんな風に言ってもらう資格などないのに……。
凛風の頭を暁嵐の手が何度も何度も優しく撫でる。濡れた頬にあてられた手に促されるように上を向くと、揺るぎない力を湛(たた)える彼の瞳が自分だけを映している。
「凛風、お前の心がほしい。俺の皇后になってくれ」
「暁嵐さま……私は……」
――そのようなことを言ってもらう資格はない。私はあなたを殺めるためにここにいるのに。
言えない言葉を頭の中で繰り返しながら、凛風はふるふると首を振る。それが精一杯だった。
彼の愛を受け入れることはできないが、拒否の言葉を口にすることもできない。
苦しくてどうにかなっていまいそうだ。
暁嵐が、凛風を抱く腕に力を込め苦しげに顔を歪めた。
「凛風、俺に心を預けてくれ。俺の妃はこの世でただひとり、お前だけだ。たとえお前がなにものだとしても、これだけは変わらない」
――お前がなにものだとしても。
凛風の正体を知らないはずの彼の言葉が、凛風の心の一番奥に真っ直ぐに届く。
目の前に、新しい道が開けるのが見えたような気がした。
彼ならば、凛風の抱えているものを解決してくれるかもしれない。
凛風の裏切りを受け止めて、弟を救い出してくれるかも……。
民を思い、心のままに生きられる世を作りたいと言った彼ならば。
今すぐに見えたばかりのその道を歩む勇気は出ないけれど……。
「……本当に私がなにものでも、受け止めてくれますか?」
問いかけると、温かい暁嵐の手が頬の涙を拭った。
「ああ、約束する。お前がなにものでも俺の妃はお前だけだ」
「暁嵐さま……私……。だけど……!」
「大丈夫だ。俺はお前をいつまでも待つ。お前が俺に心を預けてくれるなら、お前の言葉だけを信じよう」
そして、唇を奪われる。
目を閉じて深く吐息を混ぜ合わせると、出口のない暗闇の中で終わりを待つだけの人生に、ひと筋の光の光が差し込んでいた。
きちんと考えようと凛風は思う。
今までは心凍らせて生きてきた。
そのようにしか生きられなかった。
それでも今、彼の愛にその心は溶けはじめている。きちんと自分の頭で考えて正しいと思う道を選ぶのだ。
自分の存在を認め、愛をくれた彼のために。
強い彼の愛を受け止めながら、凛風はそう決意した。
昼下がりの大廊下は妃たちで賑わいをみせている。町から商人が来ているからだ。商品がずらりと並ぶ様子は、まるで市のようだった。後宮から出られない妃たちの月に一度の楽しみだ。
凛風も女官に誘われて大廊下にやってきた。途端にきゃあきゃあと騒いでいた妃たちが静かになる。だが、以前のようにヒソヒソとなにかを言われるわけではない。
宴の夜に暁嵐が怒りを露わにしたことが尾を引いているのだ。あれ以来、嫌がらせや陰口はぴたりと収まった。
「凛風妃さま。お気に召したものがあれば、おっしゃってくださいまし」
隣の女官がにこやかに凛風に声をかける。色とりどりの布や、宝石を見ながら凛風は首を横に振った。
「私、金子がありませんから」
「ご心配には及びません。後宮長さまからは凛風妃さまは好きにお買い物してくださって大丈夫とお伺いしております」
「でも……」
そんな会話をしながら廊下を進む凛風はあるものに目をとめる。籠に入れられた白い小鳥だ。
「……それは? 部屋で飼うのですか?」
誰ともなく尋ねると、そばに座っていた商人が答えた。
「部屋で飼ってもよろしいですし、逃してもよろしいですよ」
「逃す……?」
少し不思議な答えに凛風が首を傾げると、今度は女官が説明する。
「善行を積むためにございます。よい行いをすれば、自分にもよいことがあるというではないですか。伝統的に後宮では陛下のお召しがあるようにと願うお妃さま方は競って鳥を空に放つのです」
籠の鳥を自由にしてやることで善行を積んだことになるとは、こじつけのような道楽みたいな話だ。まじないのようなものか。
そんなことを思いながら、白い鳥を見つめる凛風に商人が口を開いた。
「いかがです? お妃さま。逃さずともお部屋で飼っていただくだけでもよい行いをしたことになりますよ。なにしろこの鳥は、今日売れなければ、今夜の私の夕食になるのですから」
抜け目のない彼の答えに、女官が眉を寄せた。
「まぁ。そのように脅かすような物言いはおやめください」
「ははは、これは失礼」
商人の話が本当かどうかはわからないが、凛風は白い小鳥を買うことにした。他にほしいものはなかったから、籠を抱えて部屋へ戻る。
窓辺に籠を置いて考えた。
「この鳥、放った方がいいかしら?」
小鳥は凛風の部屋に来てもおとなしくしている。ふわふわの羽を籠の隙間から指を入れて撫でてみると、嫌がりもせずおとなしくしていた。
あのまま商人のもとへ置いておくのが可哀想で買ってきたはいいけれど、どのようにするのがいいかわからなかった。
「このまま凛風妃さまが可愛がってやればいいじゃありませんか? 自由にしてやるのがよい行いと言いますが、本当のところこの鳥は逃してやっても長くは生きられませんから」
「……どういうこと?」
少し不穏な言葉に、凛風は眉を寄せる。
「餌の獲り方を知らない籠の鳥は、外の世界では長く生きられません。ほとんどが他の鳥の餌食になります」
ならばこのままここで飼う方がいいという意味で彼女は言ってくれたのだろう。
凛風はじっとしている小鳥を見つめて考える。
籠の中にいれば、自由はなく飛べないまま。だが少なくとも今は生きながらえることができるのだ。でも凛風が使命を果たした暁には処分されるだろう。
窓の外は雲ひとつない晴れ渡った空だった。小鳥の天敵となる大きな鳥は飛んでいない。
しばらく空を見上げていた凛風は、籠の扉をそっと開ける。どちらも危険な道ならば、小鳥自身に決めさせたいと思ったのだ。
扉が開いたことに気がついて、小鳥は首を傾げる。そして止まり木から下り、ちょんちょんと飛び跳ねながら、籠の外に出てきた。
窓枠にとまり、不思議そうに空を見ている。
「あなたは、どうしたい?」
凛風が声をかけると、小鳥は黒い瞳で凛風を見る。そして、白い羽を羽ばたかせて、真っ青な空へ飛び立っていった。
瓦の屋根が並ぶ後宮の建物の上を大きく旋回し、ぴーっと鳴く。その小さな体から出たとは思えないほど力強い鳴き声に、凛風の胸は震えた。
――あのように、私も羽ばたきたい。
自らの羽を動かして、自分の心ままに飛んでいきたい。たとえその先が危険に満ちていても、凛風はそれを望んでいる。
自分で考え、望むことを口にすれば、きっと彼はこの大空のように凛風を受け止めてくれるはず。
――暁嵐さま。
青い空に凛風が暁嵐を思い浮かべた時。
「逃しておしまいになったんですね」
呼びかけられて、ハッとする。振り返ると女官がにこやかに笑っていた。
「鳥を逃すお妃さま方の中には、どこへでも飛んでいける鳥が羨ましいとおっしゃる方もいらっしゃるとか」
まるで、胸の内を読まれたような女官の言葉が、凛風の耳にざらりと聞こえる。
いつもと同じように見えるその笑顔にどうしてか不穏なものを感じて、胸がざわざわとした。
「私はなにも……」
口ごもると、女官が貼り付けたような笑顔のまま口を開いた。
「凛風妃さま、さるお方よりお会いしたいとの伝言をお預かりしております。これより参りましょう」
女官に連れられて、凛風がやってきた小部屋は、人気のない長い廊下をいくつも曲がった先にあった。
窓を幕で覆われた中に下がる小さな灯籠。その灯りだけが頼りの薄暗い部屋には、甘ったるい香りが充満している。この香りには覚えがあった。
「おお、ずいぶん見られるようになったではないか」
背後の扉が静かに閉まったと同時に、部屋の中央に座るでっぷりとした女性が口を開いた。
「皇太后さま、お連れしました」
女官が彼女に告げるのを凛風は血の気が引く思いで聞いていた。いつの頃からそばにいた彼女が、皇太后と通じていたという事実に胸が騒ぐ。つまりはずっと監視されていたということか。
彼女と過ごした日々、交わした言葉の数々を思い浮かべようと試みるが、動揺しすぎてなにも思い浮かばない。ただ冷たい汗が背中を伝うのみである。
あまりの衝撃に立ってはいられず床に跪いた凛風のそばに皇太后がやってくる。
静かな部屋に衣擦れの音がはっきりと響いた。
彼女の持つ扇が凛風の顎に添えられる。ぐいっと上を向かせられると、蛇のような目が自分を見ていた。
「女子は男を知ると美しくなるというからのぅ。もはやあの男に可愛がってもらったか?」
「わ、私は……。まだ……」
ガタガタと身体が震えだすのを感じながら凛風が答えると、彼女はふふふと嫌な笑みを浮かべた。
「そなたがまだ深い仲になっておらぬのは知っておる。じゃが、とりあえず気に入られておるのは確かなようじゃ、褒めてつかわす。ふふふ、それにしてもうまくいったのぅ。わらわの読みがあたったというわけじゃ」
皇太后が凛風の隣の女官向かって満足げに言っている。言葉の意味がよくわからない凛風に、心底嬉しそうに種明かしをした。
「あの男は、哀れななりをした者に優しいじゃろう? 百の妃という惨めな位置もあの男の好みじゃ」
意味深な言葉に、凛風の背中をぞくりと嫌な感覚が走りぬけた。
隣に跪く、無表情な女官を見ると、はじめて彼女と言葉を交わした時のことが蘇る。
百の妃に選ばれたこと。暁嵐と出会った露天の湯。
まさか偶然だと思っていたあのはじまりから、すべて仕組まれたことだったのだろうか……?
「そなたは、わらわが課した役割を今のところ完璧にこなしておる。さすがは郭凱雲の娘じゃ」
その言葉に、凛風は目を閉じる。
胸が鋭利な刃物でえぐられたように痛んだ。そこから溢れ出た凛風の血が、凛風と暁嵐のふたりの間に起こった温かな思い出を、どす黒い赤に染めてゆく。
はじめて目にした自分の名の字。
はじめて目にした彼の笑顔。
身体の傷を生きた証だと言ってくれた言葉も。
互いを愛おしく想い合うこの心も。
なにもかも、皇太后が描いた絵に過ぎなかったのだ。
「お主は優秀な刺客ぞ」
皇太后の扇が凛風の頬を辿る感触に、凛風の心が絶望に染まっていく。
知らなかったとはいえ、はじめて愛した唯一無二の男性を、陰謀に巻き込んでしまっていた自分の愚かさが憎かった。
「あの男が、気に入った妃に手を出せぬ腰抜けとは知らなかったが、もはや時間の問題なのであろう? 男はのう、寝所にて好きな女にしなだれかかられればいちころじゃ。つまりはもはやいつ使命を実行するのか、お前しだいというわけじゃ」
そう言って皇太后は懐から、黒い布に包まれたなにかを出し、にっこりと微笑んだ。
「だがお前も不安じゃろう? なにしろ相手は鬼なのじゃから。皆でお前を助けてやる」
「皆で……?」
暗殺は閨でひっそりと行われるのではなかったかと、凛風は首を傾げる。すると皇太后が手にしている黒い包みの布を解く。中から簪が出てきた。凛風が刺しているものと同じように先が尖り、紫色に変色している。
「これは……?」
「新たな簪じゃ。明後日、炎華祭が都の端の離宮にて執り行われる。皇帝の治める世が穏やかなことに感謝して国中の民が、感謝の品を皇帝に捧げるという毎年恒例の国家行事じゃ。皇帝は、離宮に妃をひとり連れていき、一夜を過ごすことになっている。今年は間違いなくそなたであろう」
そこで皇太后は言葉を切り、鋭い視線で凛風を見る。
「その夜、必ず使命を実行せよ。わらわに組みする家臣たちが離宮に攻め入る手筈を整え、お前が手を下すのを待っている。やつを確実に仕留めるためじゃ。この簪で喉を突けば致命傷になるはずじゃが、念には念を入れてのことじゃ」
「そんな……」
あまりにも恐ろしい話に絶句する凛風に、皇太后は楽しげに言葉を続ける。
「この簪にはやつを絶命させる術の他にもうひとつ術がかけてある。そなたがこの簪をやつの喉に突き立てて簪が血を吸えば、我が息子輝嵐がそれを感じるようになっておる。それを合図に家臣たちは離宮に攻め入る。そしてやつの亡骸をわらわのもとへ持ってくるのだ」
血塗られた恐ろしい計画を口にしているというのに、彼女はまるで歌うようにうっとりと目を細めた。
皇帝を暗殺し、謀反を起こし家臣同士を戦わせれば、暁嵐だけでなく多くの者の血が流れるというのに。
皇太后が、凛風が刺している簪を引き抜き、新たな簪を刺す。そしてなにかを思い出したように声をあげる。
「おお、そうじゃ」
そしてまた、懐から紙を出し、凛風に見せるように広げた。
「お主の弟から預かっておった文じゃ」
その言葉の通り、文のようだった。字を習いたての凛風にわかるのは、『凛風』の文字と『浩然』の文字。
「お主の弟は大変優秀だそうじゃ。科挙を受けるための予備試験を見事最年少で突破した。今は、本試験を受けるため都におる。わらわの実家で預かり、勉学に励んでおる。よい後継ぎがいて郭家の先は明るいな。そなたがきちんと役目を果たしたあかつきには弟の道は開けるじゃろう」
つい先ほど見た、大空に飛び立っていった白い小鳥、自由に羽を羽ばたかせていた光景が、黒い墨でぐちゃぐちゃに塗りつぶされていくのを感じた。
暁嵐に抱きしめられて夢を見た、もうひとつの道など自分にはなかったのだと思い知る。
浩然が皇太后の手の内にいるならば、今この時にでも消すことができるのだ。炎華祭の次の日の夜明けを暁嵐が生きて迎えたら……。
暁嵐と浩然、ふたりの大切な存在に身を引き裂かれるようだった。どちらかを選ぶなど、絶対にできないのに選ばなくてはならないのだ。
「よいな、弟の命はお前にかかっておるのだぞ」
そう言い残し、皇太后は部屋を出ていった。
残された凛風はしばらくそこで灯篭の灯りを見ていた。
「凛風妃さま、そろそろ戻りませんと。他の女官たちに不審に思われてしまいます」
女官が少し苛立った様子で凛風を急かす。正体を知られた今、もはや凛風を妃扱いする必要はないということだろう。
凛風は立ち上がり、女官に続いて部屋を出た。いつのまにか日は傾き、長い廊下の窓が橙色に染まっていた。
その光が、絶望に染まる凛風の心を照らす。不意に凛風は先をゆく女官に向かって呼びかける。
「あなたはなぜ皇后さまに付き従っているの?」
自らの願いのためならば、血を流してもかまわないと考える残酷な皇太后に。彼女にとっては女官もまた凛風と同じようにいつ切り捨ててもかまわない存在だ。
女官が驚いたように足を止めて振り返る。
「皇后さまは、必要ならば忠誠を誓う者もためらわずに始末される方だわ。恐ろしくはない?」
「答える必要はありません」
女官が感情のない声で答える。その表情は陽の光を背にしていて見えなかった。
「あなたさまは、ご自身の使命を果たすことのみをお考えください」
「私が使命を果たし後の輝嵐さまが治める世は、あなたにとっていい世なのかしら?」
凛風からの問いかけに彼女は沈黙し、こちらに背を向ける。
「そのようなこと、考えたこともございません」
そしてまた歩き出した。
凛風も彼女について歩きながら、夕陽を見つめていた。
自分を騙し、皇太后の策にはめたこの女官を憎む気持ちにはなれなかった。少し前の凛風も彼女と同じだったのだ。
自分の果たす役割がいったいどのような結果をもたらすのか、考えることもしないで、凍りついた心のままただ流されるだけ。
――でも今は、もうそんなことはできなかった。
暁嵐が凛風の心を動かしてくれたから。
自分の頭で考える力をくれたから。
己の心のままに生きられる世を作ると語ってくれたから。
たとえ自分が見られなくとも、暁嵐が存在する限りその世が広がっていると凛風は信じたい。
そのために、自分ができることはなんなのか。
赤い夕陽を見つめて、凛風は考え続けた。
その夜、凛風が暁嵐の寝所へ行くと珍しく彼はおらず、政務が長引いているから先に寝ているようにと、伝言があった。
いつも彼と手習いをする椅子に座り、凛風は部屋を見回した。
炎華祭が明日ということは、今夜が凛風にとってこの寝所で過ごす最後の夜だ。
彼のための調度品は、凛風が手習いをするための机を除けば、椅子と大きな寝台のみ。皇帝の寝所にしては簡素なこの部屋は、彼の性格を表しているように思えた。
机の上に並べられた文箱と紙に、凛風の胸は締め付けられる。ここで彼にたくさんのことを教わった。
字だけでなく、自分の頭で自分の行く末を考えること。
望むことを口に出すこと。
そして誰かを愛することの喜び。
実家にいた時の弱い自分はもうどこにもいなかった。ずっと止まっていた凛風の刻を彼は動かしてくれたのだ。
自分の置かれている状況は変わっていない。むしろ悪くなっていると言えるだろう。
彼を愛してしまったから、自分が突き進むしかない悲劇的な結末に、耐えがたい苦しみを感じてしまう。
彼とともに生きたかったという思いに苛まれるのだ。
それでも、以前の自分に戻りたいとは思わなかった。
心を凍らせ自分の頭で考えることはせず、ただ言われたことに『否』と言わず従うだけ。そして重い罪を犯し一生を終える。
そんなことのために自分は生まれたのではないと強く思う。暁嵐に凛風の存在を認めてもらった今、それだけは確信している。
悲劇的な結末は、変えられないかもしれない。けれどそれでも流されるのではなく自分で決めたいと思う。
「寝ていなかったのか」
声をかけられて、凛風は顔を上げる。物思いにふけているうちに、暁嵐が来ていたようだ。
「暁嵐さま。遅くまで政務、おつかれさまでございました」
「ああ、遅くなってすまない。炎華祭の支度で少しな」
彼の口から出た炎華祭の言葉に、凛風の胸がどきりと鳴る。
「……国中の人たちが、暁嵐さまに感謝の品を捧げるためのお祭りだとか」
思わず目を伏せてそう言うと、彼は頷いた。
「そうだ。まぁ、実際は捧げ物のためにやっているわけではない。各地の作物の出来具合を俺が直接見るためだ。作物の出来がよくない地域は、民の生活が脅かされる。各地の様子はその地を治める家臣たちの報告で把握しているが、そういうものは真実ではない場合もある」
「そうなんですか」
やはり……と凛風は思う。
彼はこの国に必要不可欠な存在だ。彼が作る世が、民にとっては必要だ。
そして凛風自身もそれを強く望んでいる。
どのような理由でも、彼を失うことなど絶対にあってはならない。
たとえ凛風自身が彼の作る世を見られなくとも……。
「各地の伝統舞踊も披露されるから、お前も楽しめるだろう。華やかな場は苦手だろうが、明日は俺がそばにいる」
「私も連れていってくださるのですか?」
「離宮へは妃をひとり連れていくことになっている。お前以外誰がいる? 俺の妃は後にも先にもお前だけだ」
そう言って彼は柔らかく微笑んだ。
もうこの言葉だけでいいと、凛風は思う。この言葉が、自分が決めた道へのほんの少しの恐れを吹き飛ばしてくれた。
『俺の妃はお前だけ』
その言葉を胸に、凛風は自分の頭で考えた正しいと思うことを実行する。
唇をキュッと噛みうつむいたまま暁嵐の衣服をそっと掴む。
「暁嵐さま。その……少し灯りを落としてもらえますか?」
頬が熱くなるのを感じながらそう言うと、暁嵐が訝しむように目を細めた。
唐突に意外なことを言う凛風に、暁嵐の戸惑いが空気を通して伝わってくる。恥ずかしくて顔を上げることもできなかった。
彼からの答えはない。
けれどしばらくして灯りは落ち、部屋が薄暗くなった。
どきんどきんと鼓動がうるさく鳴るのを聞きながら、凛風は髪に刺している雪絶華の簪をゆっくりと引き抜いて、そばにある台にコトリと置く。
今宵だけは、この簪を外して彼と過ごすと決めたのだ。これだけ部屋が暗ければ、彼が紫色に染まる先端に気がつくことはないだろう。
暁嵐が、台の上の簪を無言で見つめている。
自分がこれからしようとしていることを考えると、とても平常心ではいられない。妃の方から皇帝に愛を求めるなど、してはいけないことなのかもしれない。それでも凛風が正しいと思う道を進むためには、どうしても必要なことなのだ。
こくりと喉を鳴らして、凛風は暁嵐に歩み寄り、意を決して彼の胸に抱きついた。
「暁嵐さま……」
「……凛風?」
突然の凛風の行動に、暁嵐が掠れた声を出した。恥ずかしくてたまらないけれど、どうしても今の私には必要なのだと、自分自身に言い聞かせる。
彼の衣服に顔をうずめて、凛風はその言葉を口にした。
「私を……暁嵐さまの本当のお妃さまにしてください」
これで想いが伝わるのか、彼が受け入れてくれるのか、凛風にはわからない。けれどこれが自分にできる精一杯だった。
足りないところはあるだろうが、それでも凛風の望みは正確に伝わったようだ。彼の腕が凛風の身体を包み込み、低い声が甘く耳に囁いた。
「凛風」
その声音に、誘われるままに顔を上げると、熱を帯びた瞳が凛風を見つめていた。
こんな彼ははじめてだ。
そう思った瞬間に、彼も自分と同じ気持ちなのだと確信して、凛風の胸は喜びに震えた。
「暁嵐さま、私の心は暁嵐さまだけを求めています。私……暁嵐さまのものになりたい」
暁嵐の目尻が赤みを帯びる。その赤い光を綺麗だと思ったその刹那、熱く唇を奪われた。
はじめから深く入り込む彼に、拙い動きで応えながら凛風はゆっくり目を閉じる。
今夜だけはなにもかも忘れて彼の愛だけを感じていようと心に決める。
この出会いが皇后によって仕組まれたことならば、今こうしていることも間違いだ。
けれど今はこれでよかったと心から思う。
彼と過ごした時間が、凛風に心を与えてくれた。自らの意思で前に進む力をくれたのだ。
「凛風、お前が愛おしい」
暁嵐の唇が愛を囁き、傷だらけの肌を辿る。それだけで強くなれるような気がした。
彼の吐息が、熱い想いが、凛風の心を刺激して身体が燃え上がるように熱くなっていく。
――覚えていよう、と凛風は思う。
彼の唇の感触を。
髪を優しくなでる大きな手の温もりを。
彼がくれたたくさんの愛を。
たとえこの身体が消えてしまっても、強く願えば想いは残ると思うから。
もうすぐ迎える最期の時に、幸せな人生だったと胸を張って言えるから。
「暁嵐さま……暁嵐さま」
目を閉じると、いつかの夜、彼が連れていくと約束してくれたあの花の町が広がっている。
怖くはない。
私はもう弱くないから。
都が初夏の香りに包まれていたその夜に、凛風は愛する人の妃となり、たったひと夜の幸せを心と身体に刻み込んだ。
胸に、ある決意を秘めながら。
炎華祭が行われる離宮へは早朝に出発した。
豪華な籠に乗せられて、凛風は都の端にある離宮までの道をゆく。沿道は集まった人たちでごった返していた。
皇帝である暁嵐をひと目見ようと詰めかけた人々だ。
凛風には政のことはわからない。
それでも暁嵐が即位してからは、魑魅魍魎に人が喰われることはなくなった。皆暁嵐を見て口々に感謝の言葉を口にしている。
御簾を下ろした籠の中で凛風はそれをじっと見つめていた。
暁嵐の到着を待ち、離宮ではじまった炎華祭は、まずはじめに皇帝と皇后が鎮座する前で、各地から集められた特産品が捧げられた。民から皇帝への感謝の念が示されるのだ。
それが終わると各地の伝統舞踊が披露される。ここからは、凛風も暁嵐から少し離れた席に座り参加する。
家臣たちにも食べ物や飲み物が振る舞われ、賑やかな雰囲気になる。
目の前で披露される国中から集まった者たちの舞いや、音楽、歌を聞きながら凛風は目を丸くしていた。祭など凛風にとってははじめてだし、そもそも歌や舞を近くで観ることもほとんどない。
そしてつくづく自分は世間知らずだったのだと思い知る。どの演目も、出る人の身につけている衣装は見慣れないし、歌も舞も見たことがない雰囲気のものばかりだ。
その中のひとつ、まさに今はじまったばかりの演目に、凛風は目を奪われていた。
赤い衣装を身につけて、長い髪をひとつにまとめた女性が舞う様子は、まるで花の間をひらひらと飛ぶ蝶のようだ。
この衣装はどこかで見たことがあるような……。
「凛風妃さま」
控えの女官に声をかけられて、うっとりと観ていた凛風は、振り返った。
「はい」
「陛下よりご伝言を賜って参りました」
そう言う彼女は皿に盛られた橙色の果実を手にしている。
凛風は首を傾げた。
「ご伝言?」
「はい。今舞っているのが、以前凛風妃さまにお話しした、町の者たちにございますと……。こちらは、かの地の特産品にございます」
凛風は驚いて、目の前で舞い踊る女性に視線を戻す。
以前話をした町とは、暁嵐が連れていくと約束した花の町のことだろう。では彼女はあの書物に描かれていた町から来たのだ。そう言われれば書物の中で舞っていた女性と衣装がとてもよく似ている。
きっと書物の中の女性もこのように舞っていたのだと思うと、凛風の胸は弾んだ。
「そうですか、この方たちが……」
呟くと、凛風の胸は嬉しい気持ちでいっぱいになる。かの町へ暁嵐とともに行くことは叶わなかった。それでも舞を見ることはできたのだ。
「美しい舞と衣装ですね」
目尻の涙を拭いながらそう言うと女官が微笑んだ。
「炎華祭にて、舞を舞うのは名誉なことにございます。すべての地域のものが披露できるわけではありませんから。毎年選抜された者だけが、この場に呼ばれるのです。今年は陛下たってのご希望で、かの地の者が舞を披露することになったとか……」
では今、かの地の女性が凛風の目の前で舞っているのは、凛風のためというわけだ。
暁嵐からの伝言の内容から女官もそれを察したのだろう。にこやかに笑って果物を差し出した。
「本当に陛下は、凛風妃さまを大切に思われているのですね。こちらはかの地の特産品にございます。どうぞ今お召し上がりくださいませ」
女官の言葉に頬を染めて、凛風は果物に手を伸ばす。食べやすいよう小さく切られた橙色のかけらを口にして、目を見開いた。
「甘い!」
女官がにっこりと微笑んだ。
「古来より、皇帝陛下からご寵姫さまへの贈り物として献上されてきた果物だそうですよ。その甘さは天にものぼる心地がするとか」
「はい、すごく……美味しいです!」
今まで食べたどんな食べ物よりもまろやかな甘さで美味しかった。こんなに美味しい作物がこの世にあることが信じられないくらいだ。
「お気に召したなら、こちらのものはすべて凛風妃さまにお食べいただくようにと陛下がおっしゃっておられます。ささ、どうぞ」
凛風はもうひとつ果物を口にする。そして女官の向こう、玉座に座る暁嵐がこちらを見ていることに気がついた。
声こそ聞こえなくとも、凛風が果物を喜んでいるのはわかるのだろう。はしゃいでしまったのが恥ずかしくて、凛風が口を押さえると、彼はふっと笑って目を細める。そしてまた前を向いた。
その精悍な横顔に凛風の胸はきゅんと跳ねた。
皇帝としての揺るぎない強さを湛える堂々とした風格だ。昨夜寝所で一夜をともにした彼と同一人物だということが信じられないくらいだった。
凛風の胸は愛おしい彼への想いでいっぱいになる。
けれど、その向こう。
皇太后の席に鎮座する皇太后がこちらを見ていることに気がついてどきりとした。口元を扇で隠し凛風を探るように見ている。今宵の計画を忘れていないだろうなと確認しているようだった。
その視線に、凛風の背中が泡だった。身体中の傷痕がじくじくと疼きだす。課せられた使命に背くことに、身体が拒否を示しているのだ。呼吸が浅くなるのを感じて、凛風は慌てて目を閉じた。
心を落ち着けて昨夜の出来事を思い出す。
昨夜、暁嵐は凛風をこれ以上ないくらい大切に扱ってくれた。身体に残る無数の傷痕のひとつひとつに口づけて、愛の言葉をくれたのだ。
――大丈夫、私は私の決めたことを実行する。
心の中で言い聞かせ目を開くと、傷痕の疼きは治まった。
皇太后から目を逸らし、凛風は真っ直ぐに前を向く。晴れ渡った空のもと国中から集まった人たちが、暁嵐を崇め奉っている。
きっと彼らが望むのは、愛する者との平穏な日々。暁嵐の治世が、穏やかであることを願っているのだろう。
青い空を白い鳥が飛んでいくのを見つめながら、凛風は今宵自分が取るべき選択を心の中で確認した。
離宮にある皇帝のための寝所は、大きな池の中央に浮かぶように建てられていた。水鳥が羽を休め眠る水面に、黄金色の月が映っている。ゆらゆらと輝く光を凛風は窓から眺めている。
祭を終えて、寝支度を整えた今、暁嵐を待っている。
皇太后がこの場所で謀反を起こすと決めた理由が、わかるような気がした。
ここならば、寝所からの逃げ道はひとつしかない。寝所から陸へと続く橋には人気はないように見えるけれど、おそらくはすでに皇太后の息がかかった家臣たちに押さえられているのだろう。袋の鼠というわけだ。
夜の空を見上げながら、凛風は今日一日のことを思い返していた。
今日は、本当に幸せな一日だった。
国中の伝統舞踊を目の前で見られたというだけでなく、正真正銘の暁嵐の妃として、彼と肩を並べたのだ。それが嬉しくて幸せだった。
皇太后と通じている自分には本来ならそのような資格はない。けれど今夜を成功させれば、そうではなくなるのだ。そして必ずそうなるという自信が凛風にはある。
「疲れていないか」
声をかけられて振り返ると、いつの間にか暁嵐が部屋へ入ってきていた。
「はい、暁嵐さま。今日は素晴らしいものを見せていただきありがとうございます」
凛風が心から礼を言うと、暁嵐はこちらへやってきて凛風を抱き上げる。
「きゃっ!」
凛風は声をあげ彼の衣服を握った。
唐突に近くなった距離に鼓動が飛び跳ね戸惑う凛風に、暁嵐はふっと笑う。そして熱くなる凛風の頬に柔らかい口づけを落とした。
それだけで、凛風は頭の中が茹で上がるような心地がする。濃くなった彼の香りと頬に感じる彼の吐息と唇の感触、寝所でふたりきりという状況に、どうしても昨夜のことを思い出してしまったからだ。
思わず両手で顔を覆った。真っ赤になってしまっているのが恥ずかしくてたまらなかった。
「なんだこのくらいで。昨夜はもっと深く触れ合ったというのに」
暁嵐は機嫌よく言って、部屋を横切り凛風を寝台へ下ろした。そして凛風の頬を大きな手で包み込む。
「今日の祭りを凛風が楽しんだのならよかったが、まだ身体がつらくはないかと俺は気が気じゃなかった」
「だ、大丈夫です……。美味しい果物も食べさせてもらいましたし」
熱を帯びた彼の視線から逃れるように目を伏せて、少し話題を逸らす。
昨夜は無我夢中だったから、普段の自分ならしないことをして、言えない言葉を口にできた。
でも今は、彼の口から昨夜の出来事の片鱗が見えるのは耐え難いほど恥ずかしい。
「かの地の舞を見られたのが嬉しかったです。本物は想像をはるかに超えるものなのですね」
「ああ、次はかの地にてあの舞を見せてやる」
力強く約束する暁嵐に、凛風の胸がギュッとなった。
その日は……絶対に来ないのだ。
「……はい。楽しみです」
お腹に力を入れて涙が出そうになるのをこらえた。
そしてうつむき唇を噛む。いよいよ自分のするべきことを実行する時が来たと自分自身に言い聞かせる。意を決して顔を上げ彼を見た。
「暁嵐さま、お話ししたいことがあります」
真剣な目で彼を見つめる凛風に暁嵐もまた笑みを消し、真っ直ぐな眼差しを返した。
「私、暁嵐さまに隠していることがあります。今宵はそれをお話ししたいと思います」
突然はじまった凛風の告白を、暁嵐は驚く様子もなく静かな眼差しで受け止める。その視線に大丈夫だと確信する。
彼はきっと、凛風の言うことを信じてくれる。
「私が、今ここにいるのは……」
そこでいったん言葉を切る。緊張で息苦しさを感じたからだ。
愛する人への裏切りを口にするのはつらかった。けれど、言わなくては。
「ここにいるのは、こ、皇后さまと父に命じられたからなのです……」
とても彼の目を見ていられなくて、凛風は目を伏せる。あとは、何度も頭の中で繰り返し練習した通りに言葉を続ける。
「私は、皇太后さまと父から、ね、閨の場で暁嵐さまを殺めるよう使命を受けた、刺客なのです。後宮入りしたことも、湯殿で出会ったことも、すべて暁嵐さまを亡き者にするための計画だったのです……」
凛風にとって大切な彼との出来事をこんな風に言葉にするのはつらかった。溢れる涙が頬を伝い膝の上で握った手に、ぽたりぽたりと落ちた。
「だ、だけど、だけど私は……!」
「凛風」
温かい声に遮られて凛風が驚いて彼を見ると、暁嵐はいつもと変わらない優しい目で凛風を見つめている。そして驚くべきことを口にした。
「知っていた」
「…………え?」
「お前が刺客だということは、はじめからわかっていた」
「暁嵐さま……?」
彼が口にした言葉の内容に、あまりに衝撃を受けすぎて、凛風の思考が停止する。
刺客であることは誰にも知られていないはず。だからこそ凛風は暁嵐の寝所に上がることができたのだ。寵愛を受けることになったのだ。
それなのに、彼がはじめから知っていた?
答えられない凛風に、暁嵐がふっと笑う。そして種明かしをはじめる。
「俺は生まれた時から皇太后に命を狙われてきた。身の回りの変化には常に気を張っている。皇太后が絡んでいるかどうかは、だいたい勘でわかるんだ。湯殿で凛風と出会った時から、あやしいと踏んでお前のことはすぐに調べた。そして後宮入りするには不自然すぎる生い立ちを知った」
「出会った時から……」
唖然としながら凛風は呟く。では彼は、凛風自身が仕組まれた出会いだったと知る前から気がついていたというわけか。
信じられないと思うけれど、彼が鬼であるということ、これまでの皇太后との経緯から考えると納得だ。
「ああ、だいたいの予測はついていた。お前自身が皇太后の差し金だと気が付かぬまま、俺と会っていることもな」
そう言って彼はくっくと笑う。
それに凛風はますます唖然として、呆れてしまうくらいだった。
そこまでわかっていたのならどうして彼は今まで黙っていたのだろう?
皇太后の策略に乗るような危険な真似をしているのだろう?
「暁嵐さま、ならどうして……?」
まったく彼の考えがわからなかった。
己の心のままに生きられる世を作りたいと語った彼にとって、皇太后は最大の障害だ。凛風が刺客だと見抜いていたならば、捕らえて皇太后を糾弾すればよかったのだ。
それがこの国ためになるというのに。
「どうして私を捕らえなかったのですか?」
問いかけると、彼は一瞬沈黙する。凛風を見つめる目を細め、温かい声で答えた。
「お前を愛しいと思うようになったからだ」
「暁嵐さま……?」
「お前を失いたくないと思ったのだ。なんとしてもこの手で救いたかった。だから俺は皇太后の策略に乗せられたふりをしてお前が俺に心を預けてくれるのを、真実を話してくれるのを待っていた」
彼の言葉に、凛風の目に再び涙が浮かび頬を伝う。
こんなにも深い愛に包まれていたのだという、幸せな想いで胸がいっぱいになった。
「凛風、俺はこの日を待っていた」
力強く抱きしめられて彼の胸に顔を埋める。喜びの涙は後から後から流れ出た。
言葉にできないほどの過酷な生い立ちも、刺客として過ごしたつらい日々も、なにもかもが吹き飛び、この世で一番幸福な一生を送ったのだと思うくらいだ。
――本当にもう十分だ。これ以上望むものはない。
凛風はそっと彼から身を離し、もうひとつ言わなくてはならないことを口にする。
「暁嵐さま、今宵この離宮は、皇太后さまに組みする者たちが取り囲んでおります。暁嵐さまに謀反を起こすために」
暁嵐が頷いて、話の続きを促した。
「私が皇太后さまに合図すれば、皆この寝所を目がけて乗り込んで来る手筈になっております。その際は、皇后さまへの忠誠の証として、それぞれの家紋が描かれた旗を高く掲げているでしょう。彼らを一網打尽にすれば、宮廷に平穏をもたらすことができます」
暁嵐が凛風の肩を掴み、大きく息を吐く。
「わかった。話してくれてありがとう。後は俺に任せろ」
力強い言葉に、凛風は心底安堵する。
今宵は彼が皇太后一派を一掃できる絶好の機会。だが刺客だと明かしてもなお彼が凛風の話を信じてくれるかどうかだけが心配だったのだ。
この国が、己の心のままに生きられる世になると確信する。
――私は見られないけれど。
「凛風、皇太后への合図というのは?」
暁嵐からの問いかけに、凛風はこくりと喉を鳴らす。いよいよ、この時が来た。
自分を見つめる暁嵐の目を見つめ返すと、彼と自分の間に起こったことが頭の中を駆け巡る。幸せだったと確信して、凛風は口を開いた。
「――合図は、これです」
言うと同時に、素早く頭の簪を引き抜いて、握り直し一気に自分の喉を突く。鋭い衝撃を身体全体で受け止める。
「凛風!!」
驚愕の表情で暁嵐が叫んだ。
「この……簪が血を吸うと輝嵐さまが感じ取るよう術がかけてあります。……それを合図に……」
痛みは感じないけれど、簪が刺さった箇所が燃えるように熱くて、うまく声が出なかった。
身体の力が抜けて寝台に手をつくと、暁嵐の腕に抱かれる。
「どうしてこんなことを!!」
暁嵐の怒号が寝所に響く。こんなに怒りを露わにする彼ははじめてだ。彼の腕に身を預ける凛風の目尻から涙がつっと伝う。
「弟を……人質に取られています。今は皇太后さまのすぐそばに……。今宵私が失敗すれば、即座に処分されてしまう」
凛風は、暁嵐を選んだのだ。
この国のため民のためと言いながら、ただ愛する人に刃を向けられなかっただけなのかもしれない。
いずれにしても。
「ひとりで逝かせるわけには……いきません……。たい、せつな弟なのです。私の生きがいだった……」
「凛風……」
痛ましげに眉を寄せる暁嵐の服を、もうあまり力の入らない震える手で掴む。
「暁嵐さまは、私に……心をくださいました。私に、考える力をくださいました……。お、己の心のままに……生きら……」
苦しくてゴホッと咽せると、大量の血が口から溢れた。
「凛風! しゃべるな。今俺が……!」
凛風は被りを振って言葉を続ける。
「己の心のままに、生き……られる世を作って……もう、私みたいな者を出さぬ世を」
必死の形相で覗き込む暁嵐が霞んでいく。もう自分の声が出ているのかすらわからなかった。相変わらず痛みもなにも感じない。ただ暁嵐の声だけははっきりと聞こえた。
「凛風、わかった。約束する、約束するから、頼むからもう……」
その言葉に心底安堵して、凛風の体から力が抜ける。同時に世界は真っ黒な闇に閉ざされた。