「陛下におかれましては、昨夜は、お妃さまをお召しになられまして、ありがとうございます」
黄玉の間にて、ずらりと並ぶ家臣たちを背に丞相が暁嵐に向かって頭を下げる。
今日も隣には皇太后がいる。
心底安堵したような表情の丞相に比べ、にこやかではあるものの皇太后はどこか探るような目で暁嵐を見ている。閨をともにしたのに暁嵐が無事でいることを訝しんでいるのだろう。
「さらに今宵も百のお妃さまをお召しになられるとのこと。よほどお気に召したようにございますな」
丞相の言葉に、暁嵐は頷いた。
「ああ、気に入った。しばらくは彼女を閨に呼ぶことにする。後宮を開いてくださった義母上に感謝いたします」
皇太后の視線を感じながら、暁嵐が機嫌よく答えると、丞相がはははと笑った。
「これはこれはよほどお気に召したようですな! 百のお妃さまは確か郭凱雲の娘。褒美を取らせる必要がありそうですな」
「ほんに、ありがたいことにございます」
皇太后が扇で口元を覆い答える。
「ではお世継ぎの誕生も近いうちに見られるやもしれませんな」
丞相の言葉に、暁嵐は首を横に振った。
「いやそれはまだ先だ。俺はまだ彼女と閨をともにしていない」
暁嵐がきっぱりと言い切ると、皇太后が桃色に染め上げた眉を上げた。
一方で丞相は笑いを引っ込めて眉を寄せる。
「は? ……閨を……陛下どういうことにございますか?」
「言葉通りの意味だ。俺はまだ彼女を抱いていない」
「へ、陛下……それは」
「案ずるな、男女のことは繊細だと義母上も仰ったであろう? 俺は彼女とゆっくりことを進めたいと思っているだけだ。近いうちに、そうなる」
暁嵐が言い切ると、丞相は一応納得した。
「これはこの場だけの話にしてくれ、それから彼女を責めてはならん」
「も、もちろんにございます、陛下。それほど大切に想われるお方を見つけられたのはよきことにございます。無事にことが成ることをお待ちしております」
かしこまって頭を下げるのを、暁嵐はふっと笑う。
「逐一、報告せよというのか。お前も悪趣味だ」
「い、いえ、その……」
皇帝と丞相の間で交わされる冗談に、他の家臣たち、皇太后も、にこやかに笑った。
寝所での出来事を赤裸々に語るのは、凛風の身に危険が及ぶのを避けるためだ。
閨をともにしていながら、使命を実行できていないとなれば、彼女が皇太后からどのような扱いを受けるかわからない。
――危険な賭けだった。
暁嵐が皇太后の策略に気づいていると、皇太后に悟られるのが先か。
凛風が暁嵐を信頼し心を預けてくれるのが先か。
負ければ、凛風の命はない。
皇太后がにっこりと微笑んだ。
「陛下がこのように女子にお優しい方だとは思いませんでした。無事に百の妃と結ばれることを願います」
暁嵐は彼女の目を見据えたまま微笑んだ。
「ありがとうございます、義母上」
「凛風さま、湯殿の時間にございます」
昼食を食べて半刻が経った頃、女官が部屋へやってきた。
凛風は手習いをしていた手を止めて立ち上がった。
「今まいります」
はじめて暁嵐の閨に呼ばれた次の日から、凛風は昼食を食べた後、人払いされた湯殿でひとりで湯に浸かることを許されるようになった。夜中に外の湯殿に行けなくなった凛風に対する暁嵐からの気遣いだ。
本来は皆で使う湯殿を、ひとりで使うなんてあり得ない。申し訳ないと固辞したが、仮にも寵愛を受ける妃が行水で済ませるつもりかと後宮長に叱られて仕方なく従っている。暁嵐に頼んで以前のように外の湯殿に連れていってもらうことも考えたが、それでは手習いに取れる時間が少なくなってしまう。
「皇帝陛下からおひとりで湯殿を使うお許しがあるほどのお妃さまは、後宮はじまって以来、凛風さまがはじめてだそうですよ」
付き添いの女官が、湯殿への廊下を歩きながらにこやかに言った。彼女は、凛風に外の湯殿へ行くよう勧めた女官だ。はじめて閨に呼ばれた日の次の日の朝、部屋で凛風を待っていて、これからは凛風付きの女官となると告げた。
それから数日、こうやって毎日凛風の湯殿に付き添ってくれる。
小廊下から大廊下へ出ると、二の妃がたくさんの妃たちを引き連れているのに出会した。凛風に気がつくと彼女たちは会話を止め立ち止まる。
「あら、百のお妃さま、ご機嫌よう」
二の妃がにこやかに挨拶をした。
「ご機嫌よう」
凛風は驚きながら小さな声で答えた。
二の妃から声をかけられるのははじめてだからだ。彼女はいつもたくさんの取り巻きを引き連れて歩いているが、凛風を気にも留めていない。それなのにわざわざ立ち止まり声をかけられたのが意外だった。
二の妃の後ろにいる妃たちも口々に凛風に挨拶をする。だが皆、凛風を見る目は鋭かった。
明らかに友好的ではない雰囲気に、すぐに立ち去りたい気分だがそういうわけにいかなかった。
「湯殿へ行かれますの?」
「はい」
戸惑いながら答えると二の妃はにっこりと笑ってうなずく。そして凛風の隣の女官を見た。
「あなた、百のお妃さまをお綺麗にして差し上げてね。今宵も陛下の閨に上がる方なのだから。汚れなどひとつも残さぬように」
『汚れ』のところに力を込めて彼女が言うと、後ろの妃たちがくすくすと笑った。
「あらぁ、それは無理ですわ、二のお妃さま」
「そうそう。だって百のお妃さまのお身体には、汚れどころか醜い傷がありますのよ」
「綺麗になどなりようがありません。無理なことをさせては女官が可哀想です」
凛風の身体の傷を揶(や)揄(ゆ)する言葉を口にした。
「あら、そうだったかしら」
二の妃がわざとらしく言って、眉を寄せた。
「そもそもその傷痕がある身体でどうして後宮に入れたのかしら?」
凛風の正体にかかわるような言葉だ。凛風の胸が冷えた。
二の妃の疑問に妃のひとりが目を釣り上げて凛風に問いかける。
「本当に身体検査を受けたの? 汚い手を使ってごまかしたんじゃないの?」
「そ、そのようなことは……」
慌てて凛風は首を横に振る。凛風の後宮入りは間違いなく皇后によって仕組まれたものだが、それを言うわけにいかない。
「だけどわからないのは、陛下があの傷を見ても閨に呼び続けることだわ。あんなに汚い傷痕がある身体でとても伽が務まるとは思えないのに」
「本当に、どうして?」
「全然わからない」
妃たちは口々に言って凛風を睨む。
二の妃がにっこりと微笑んだ。
「どうかしら、皆さん、今ここで百のお妃さまに種明かしをしていただいては?」
意味不明な言葉に首を傾げる凛風を、意地悪な目で睨み周りの妃たちに指示を出す。あっという間に凛風は妃たちに取り囲まれて両腕を掴まれた。
「な、なにをなさいます……!」
声をあげる女官を無視して、意地の悪い笑みを浮かべた。
「陛下を夢中にさせているそのお身体を、私たちに見せてくださいな」
つまりここで服を引っぺがして、裸にしてやろうということか。彼女の魂胆に気がついた凛風は真っ青になった。
「なっ……い、嫌です……! は、放してください」
身体の傷痕を揶揄されるくらいの嫌がらせは慣れっこだが、さすがに皆の前で裸になるのは嫌だった。そもそもそれを気にして人目を避けて入浴しているというのに。
けれど二の妃はそれが気に食わないのだ。だから、凛風が一番嫌がるであろうことをあえてここでやろうとしている。
「恥ずかしがることはありませんわ、百のお妃さま。女同士ではありませんか。本当なら、私が湯殿でお背中をお流しして差し上げたいくらいですもの」
優雅に言って、彼女は顎で他の妃たちに指示をする。
凛風の腕を掴む妃が、帯に手をかけた時。
「おやめなさい」
大廊下に凛(りん)とした声が響いた。凛風の衣服を脱がそうとしていた妃たちがぴたりと止まる。
声の主は一の妃だった。彼女も何人かの妃を連れている。
揉み合いになっている凛風と妃たちを蔑むような目で見た。
「そのような真似をするは、慎むべきです。私たちは皆陛下をお支えする身だとご自覚なさい。下衆な振る舞いをすれば陛下の品格を落とすことになります」
二の妃が忌々(いまいま)しげに舌打ちをして、凛風を押さえ込んでいる妃たちに合図をすると凛風は解放された。
「ただの戯れに、大げさですこと。そのようなお固いお考えの女子が陛下のお心を癒やして差し上げることができるかしら」
捨て台詞(ぜりふ)を吐いて、取り巻きを引き連れて去っていった。
一の妃もくるりとこちらに背を向けた。
「あの……!」
凛風は彼女を呼び止めた。
「ありがとうございました」
衣服の乱れを整えながら礼を言うと、彼女は振り返り、眉を寄せて答えた。
「私は、後宮の秩序が乱れぬよう止めたまで。あなたを助けたわけではありませんわ」
凛風を頭の先から足までじろりと見た。
「私も皆さまと同じように、なぜあなたが陛下のご寵愛を受けるのか疑問です。陛下の寵愛を受けるには、この後宮で強くある覚悟がなければいけません。あなたには、そのような覚悟はないように思えます。ただ寵愛を受けるだけが妃の役割ではありませんよ」
そう言って、またこちらに背を向けて去っていった。
「凛風さま、今回のこと陛下と後宮長さまにご報告されますか?」
心配そうな女官からの問いかけに、凛風は首を横に振る。
「そこまでは……」
衣服を脱がされるのは嫌だったが、一の妃があそこまで言ってくれたのだ。もう同じことは起こらないだろう。それ以外のことは、言うほどのことではない。
それよりも……。
去っていく一の妃の背中を見つめながら、凛風は別のことが気にかかっていた。
『なぜあなたが、陛下のご寵愛を受けるのか疑問ですわ』
そう言われて考えてみると、どうして彼は凛風を閨に呼んだのだろう?
ここまで優しくしてくれているのだろう?
はじめは彼は役人としての役割を果たしているのだと思った。でも彼が皇帝だったのならそれは間違いだったということだ。
彼は、伽をさせるつもりはない最下位の妃の湯浴みに付き合ってくれて字を教えた。まさに皇帝としての慈悲深い行いだとは思うけれど、それでもやはり疑問だった。
家臣の手前、妃を寵愛しているふりは必要なのかもしれないが、だとしてもここまで優しくする必要はないはず。
「凛風さま、参りましょう」
女官の言葉に頷いて彼女の後をついて歩きながら、凛風は考えを巡らせていた。
若草色の綺麗な紙の中央に、大きく凛風と書く。止めと跳ねを意識して……。
風の字の最後の跳ねを書き終えて息を吐く。そのまま凛風はすーはーと大きく呼吸をした。知らぬ間に息を止めてしまっていたようだ。
肩を動かして呼吸をしていると、暁嵐が隣でくっくと笑った。
「息を止めるやつがあるか」
「き、緊張してしまって……」
答えると、彼は凛風の書いた紙に視線を送った。
「だがよく書けている。弟も喜ぶだろう」
その言葉に、凛風は嬉しい気持ちでいっぱいになる。彼が『よく書けている』と言うならば、浩然もそう思うはずだ。
凛風が彼の寝所に呼ばれるようになって五日目の夜である。
今宵凛風は、浩然への文をしたためている。
とはいっても、自分の名を書いただけ。
まだ言葉を書くことはできなくとも、自分の名を記すだけでも元気だということを伝えられるのではと暁嵐が言ってくれたのである。
彼がくれた立派な紙は、どう見ても高直なものだった。いつもの紙とはわけが違う。手が震えるほど緊張したが、どうにか書くことができた。
「よく頑張った」
紙を見て満足げに微笑む暁嵐に、凛風の胸はきゅんと跳ねる。その優しい眼差しに、もう十分だ思う。
弟に文を書くという望みが叶った今、これ以上望むことはない。たとえ今ここで命を絶たれたとしても悔いはない、そんな気持ちだった。
できることならこのまま、自分だけが消えてしまいたい。
暁嵐と浩然、どちらの命を選ぶのか決めることなど凛風にはできそうにない。この幸せな気持ちを抱いたまま、自分の存在が消えてしまえばいいのに。
文を見つめて、凛風はそんなことを考える。
その間に、暁嵐が別の書物を持ってきて文台の上に広げた。首を傾げる凛風に、視線で書物を差し示す。開いてみろということか。
「わぁ……! 綺麗」
手に取り、書を開いて凛風は声をあげた。
そこには色とりどりの絵が描かれていたからだ。花が咲き鳥が飛ぶ美しい町、舞いを舞う美しい女性。字が書いてあるから、物語のようだ。
物語が描かれた書は、妹の美莉の部屋を掃除した時にちらりと目にするくらいだったが、なにが書かれてあるのだろうといつも気になっていた。
「それをお前にやる」
「読んでくださるのですか?」
凛風の胸は弾んだ。この美しい絵に、どんな物語が描かれているのだろう。
だが彼は首を横に振る。
「いや、俺は読まない。これはお前が読むためのものだ」
「……私が?」
「ああ、名を書けるようになったのだから、次は他の字を教えてやる。このくらいならすぐに読めるようになる」
その言葉に、凛風は書に視線を戻した。
難しい字ばかりのように思う。とてもできそうにないと思うけれど、美しい絵を見ていると物語の内容を知りたくなる。
「できるでしょうか?」
尋ねると、彼は力強く頷いた。
「俺が教えるのだから、できないはずがない」
そして書物を見る凛風を後ろから包み込むように抱く。書物を持つ凛風の手に自らの手を重ねて紙をめくる。
「この物語は架空の話だが、舞台になった町は実際の町だ」
耳元から聞こえる彼の声に、身体が熱くなっていくのを感じながら、凛風は問いかける。
「このような美しい町がこの国にあるのですか?」
書物に描かれた町は花が咲き乱れ色とりどりの蝶が飛んでいる。天界か、あるいは頭の中で描かれた場所だと思っていたのに。
「ああ、南の方にある町だな。このあたりは冬がない。一年中暖かいからこのように花が咲き乱れているのだ」
「そのような場所がこの国に……?」
信じられない話だが、皇帝である彼が言うのだから嘘ではない。
「夢のような場所ですね」
凛風はため息をついた。冬が長い地方で育ち、凍える手で洗濯をしていた凛風にとっては、信じられない。
耳元で彼が微笑む気配がした。
「望むなら、いつか連れていってやる」
その言葉に、思わず振り返ると、彼は強い視線で凛風を見つめている。
――望むなら。
なんの希望もない人生を歩んできた凛風には、その言葉は新鮮に耳に響いた。
なにかを望むことなど、自分には許されかったことだ。
「望むなら……」
彼の言葉を繰り返すと、彼は力強く頷いた。
「ああ、凛風。お前が望むなら」
彼は皇帝なのだから、そのくらいわけないのだろう。
それでもそれは叶うはずのないことだった。今この時は凛風にとっての最後の猶予期間、いつまでも続く時間ではない。たとえ彼が本気でもその『いつか』にふたりは存在しない。
――でも。
『望む』と、言いたいという思いが胸の中に芽生えるのを凛風は確かに感じていた。
それははじめてここに来た夜に、彼から聞いた話が影響しているのは間違いない。
己の心のままに生きられる世。
その言葉が、あの日からずっと心に引っかかり、凛風の頭から離れなかったからだ。
もしここが、己の心のままに生きられる世なら。
凛風は、皇帝暗殺などという恐ろしい使命に臨むことはしない。ただ愛する者との平穏な日々を望むだろう。
この夢のような町に行きたいと願うだろう。
今はまだ言えないけれど……。
目を伏せて答えられない凛風の頭に暁嵐の大きな手が乗る。
「今宵はこれで終いにしよう。この書物は部屋へ持ち帰っていいから、昼間に見ているといい。寝るぞ」
そしてそっと離れて、寝台へ行き横になる。枕に肘をついた姿勢で凛風に向かって首を傾げた。
自分の隣へ寝ろという意味だ。だが凛風はすぐに従うことはできなかった。はじめて彼の隣で眠った日から五日目が経ったが、彼と同じ寝台で寝ることにまだ慣れていない。
とはいえずっとこうしているわけにもいかず恐る恐る寝台に上り、隅っこに身体を入れて横になる。皇帝用の寝台は他のものとは比べものにならないくらい広い。こうすれば同じ寝台にいると意識しなくてよいほど距離を取ることができる。
だがそれで暁嵐は納得しない。
「そのように端で寝ては、夜中に転がり落ちてしまうぞ」
「大丈夫です……」
「なにが大丈夫だ。もう少しこっちへ来い。身体が冷える」
なおも躊(ちゅう)躇(ちょ)する凛風に、暁嵐が呆(あき)れたようにため息をついた。
「いつになったら慣れるのだ? 俺は伽をさせるつもりはないとは言ったが、そのように端で寝るのを許すとは言っていない。いつ転がり落ちるかと気になって眠れないではないか」
「ですが……」
暁嵐がじろりと凛風を睨む。
「聞き分けのない妃は、腕の中に閉じ込めてしまおうか。そうすれば身体も冷えぬだろう」
彼の言葉に凛風は耳まで赤くなる。そんなことをされては寝るどころの話ではない。
急いで身体を起こしそろりそろりと移動して、彼の身体に触れるか触れないかのところで再び横になった。
暁嵐がくっくっと笑った。
「俺の腕に抱かれると聞いてようやく従うとは、あいかわらず失礼なやつだ」
『失礼なやつだ』と言いながら心底愉快そうだ。そして、近くなった距離に熱くなる頬を隠すため掛布を鼻のあたりまで引き上げる凛風の頭を大きな手で撫でる。前髪を長い指で梳く、その手つきも言葉とは裏腹に優しかった。
凛風の頭に少し前に一の妃から言われた言葉が浮かぶ。
「暁嵐さま、お尋ねしてもよろしいですか?」
「なんだ」
「暁嵐さまは、どうしてここまで私に親切にしてくださるのですか?」
暁嵐が凛風の言葉に眉を上げる。そして、呆れたように口を開いた。
「……無垢すぎるのも困りものだな。後宮では、男女のことはなにも教えないのか」
意味不明な呟きに凛風が首を傾げると、続きを口にする。
「男が女子にここまでしておいて、下心がないわけがないだろう?」
「え……? それってどういう……?」
下心などという、考えてもみなかった言葉に瞬きを繰り返す凛風に、暁嵐はため息をつく。
「それくらいは自分で考えろ」
面白くなさそうにそう言って、彼はこちらに背を向ける。
「もう寝ろ」
その広い背中を見つめて、凛風の鼓動がとくとくとくと速くなった。
思ってもみなかった彼の言葉の意味を考える。
もしかして彼も自分と同じ気持ちなのだろうかという甘い期待が胸に広がっていく。
目を閉じると、先ほどの書物に描かれていた花が咲き乱れる町が広がっていた。
自分が置かれている状況には、なんの変化もない。先行きが絶望的であるのには変わりはないけれど、それでも今夜だけはこのふわふわとした気持ちを抱いたまま眠りにつきたかった。
せめて夢の中でくらいつらいことは忘れていたいから……。
そんな思いを胸に、凛風は眠りについた。
凛風の寝息が規則的になったのを感じて暁嵐はゆっくりと振り返る。眠る彼女の口もとには、うっすらと笑みが浮かんでいた。
のんきに眠る姿に、暁嵐は苦笑する。
無垢にもほどがあるだろう。
ついさっき〝下心がある〟と口にした男の隣にいるというのに、無防備に寝息を立てているのだから。
手を伸ばして黒い髪を撫でる。指先に感じるさらさらとした感覚に、なにかが込み上げるような心地がした。
真っ白い柔らかい頬に、思わずそっと口づけると、どこか懐かしいような甘い香りに包まれる。暁嵐は、ふーっと息を吐いて、自分の中の激情をやり過ごした。
その気がない妃には伽をさせないと言った自分の言葉を後悔しそうになってしまう。
鬼の力は女と閨をともにしている時は半減する。今まではどうとも思っていなかったその現象を、恨めしいと思うくらいだった。
今宵の彼女の、書物に目を輝かせていた姿が暁嵐の衝動を駆り立てた。
皇帝として家臣に贈り物をすること自体は珍しくないが、自ら選んだのははじめてだった。相手の反応が気になるのもはじめてで、彼女が喜ぶ姿に、心底安堵し自分も同じ気持ちになった。
あの町へ彼女を連れて行きたいと強く思う。彼女が望むならどのようなことも叶えてやりたい。
焦りは禁物とわかっていながらも、彼女の口から望む言葉を聞きたいと思う。
くうくうと可愛らしい寝息を立てる彼女を見つめながら、暁嵐は口元に笑みを浮かべる。細い肩に、掛布をかけ直した時、あることに気がついて振り返った。
凛風を起こさぬようそっと寝台を下り、寝室と前室と隔てる観音扉を開いた。
「悪趣味だな、秀宇」
前室に跪き頭を下げている側近に声をかける。凛風を起こさぬよう自分も前室へ入り扉を閉めた。
「皇帝と妃がいる寝屋に聞き耳立てるとは」
彼を見下ろし冗談を言った。
凛風を迎え入れている時は、暁嵐は寝所に特殊な結界を張っている。どれほど大声をあげようが、外からは聞こえないようになっている。
「申し訳ありません」
押し殺したような声で、秀宇が答えた。
「まぁ、いい。先日は俺も熱くなって悪かった」
声を和らげてそう言うと、秀宇が安堵したように顔を上げた。
「暁嵐さま……」
凛風への対応について意見が分かれて言い合いになってから、彼はしばらく暁嵐の前へ顔を見せなかった。
皇帝の逆鱗に触れたから、会わせる顔がないということだろう。暁嵐も彼の意見を汲まずに動いていることに後ろめたさを感じてそのままにしていた。
今夜様子をうかがうため清和殿に姿を見せたのは、それでも暁嵐が気になるということ。兄弟のように育った忠実な側近のその気持ちを暁嵐は心底ありがたいと思う。
「今の宮廷の状況で俺の側近でいることは、気苦労が絶えないだけでなく命も危険に晒される。それでもそばにいてくれるのを俺はありがたいと思っている」
「暁嵐さま……。私は、私のことはよいのです。私はただ暁嵐さまに危険が及ぶことが心配なだけにございます」
秀宇が目に涙を浮かべる。
暁嵐は沈黙し、深い息をついた。
「凛風が刺客だという確たる証は確認した。彼女が常に挿している雪絶花の簪に術がかけてある。あの術をかけられるのは輝嵐しかいない。皇太后が彼女を刺客として閨に送ったという証になるだろう」
暁嵐の報告に、秀宇が静かに確認をする。
「ですが、暁嵐さまはそうなさるおつもりはないのですね?」
暁嵐はまた沈黙する。
凛風の簪を証として皇太后を糾弾するためには、皆が見ている前で凛風を捕らえて簪を抜いてみせる必要がある。しかしそこまですれば、彼女は、皇帝暗殺未遂の罪から逃れることはできないだろう。皇帝に刃を向けようとした者は死罪である。
「暗殺は彼女自身の意思ではない。そのように育てられたか、あるいはなにかを盾にそう仕向けられている」
凛風の生い立ちを自分の目で確認してきた秀宇はそれには反論しなかった。
「彼女もまた俺と皇太后の権力争いに巻き込まれた被害者だ」
「ですが、皇太后一派を一掃する千載一遇の機会でもあります。多少の犠牲を払ってでも……とは思われませんか?」
あくまでも冷静に秀宇は言う。暁嵐はそれを取り立てて非情な意見だとは思わなかった。そうすることでこの後出てくる犠牲をなくすことができるのだから。
「秀宇、俺が父上の遺言に従い即位することを決断したのは、権力が欲しかったからではない。ただ母上のような者を出さぬ世を作りたいと思っただけだ」
「存じ上げております」
「そのような世は、できるだけ犠牲を出すことなく実現したいと思っている。身分の上下にかかわらず命の重さは皆同じだ」
そのことは身に沁(し)みてわかっている。
暁嵐の母親が死んだ時、妃の身分であったにもかかわらず詳細な調査はされなかった。所詮女官出身の女だと陰で言われていたのを聞いた時の悔しさが暁嵐の胸に焼きついている。
「御意にございます」
暁嵐は目を閉じて深い息を吐いた。
「……この場合は、皇帝としてはお前の言う通りにするべきだろう。彼女は犠牲になるが、この先起こりうる悲劇は避けられる。……それでも」
暁嵐はそこで言葉を切り、拳を握りしめた。
「俺は、凛風が俺に心を預けるのを待ちたいと思う」
「郭凛風が、こちらに寝返るという確証はありますか? 皇太后さまが暁嵐さまの思惑に気づかれる前に。もし気づかれてしまえば、即座に消されるでしょう」
そして暁嵐は皇太后を追い詰める証を失い、また振り出しに戻るのだ。
だがそれしか凛風の生きる道はない。どれほど危うい橋でも渡るしかないのだ。
「秀宇、馬鹿なことをしているのはわかっている。この件に関しては、完全にお前が正しい。それでも俺は、これだけは思うようにしたいのだ」
強い決意を口にして、暁嵐は秀宇を見つめた。
「暁嵐さま……」
今まで暁嵐は常に判断を間違えることなく正しい道を歩いてきた。正しいと思うことのみを行ってきた。それが皇帝としての姿であり、そうある責務を負っている定めなのだ。
その暁嵐が間違っていてもその道を進みたいと告げたことに、秀宇は言葉を失っている。
「凛風を犠牲にし、皇太后を退けることができれば、俺が思い描いていた世を作ることができるだろう。だが俺は、その先を思い描くことができないのだ」
凛風がいなくなる。
想像するだけで、どす黒い感情が腹の中をぐるぐる回る。彼女がいなくなったその先に、この国がどのようになろうと知ったことかと、もうひとりの自分が言う。
握った拳が赤く光った。
鬼の力は危ういもの。怒りに支配されれば暴走し、どうなるか暁嵐にもわからない。
魑魅魍魎から人を守るという決まりごとがいつはじまったのかわからないが、それすらも馬鹿馬鹿しいと思うくらいだ。
凛風を救えなかった時、その怒りが皇太后のみならず人という存在自体に向かわないという自信がない。
赤く染まった目で、秀宇を見ると、彼は驚愕の表情で暁嵐を見ていた。
「暁嵐さま、それほどまでに郭凛風を……」
そして、床に手をついた。
「そうであるならば、私は全力をあげて郭凛風……いえ、凛風妃さまをお守りいたしましょう」
自分にもっとも忠実な側近からの言葉に、暁嵐はいくばくかの安堵を覚える。目を閉じて、漏れ出ていた鬼の力と荒ぶる心を落ち着かせる。
目を開いて秀宇に向かって口を開いた。
「ああ、頼んだ。まず彼女が皇太后になにを握られているのか、どうして刺客とならざるを得なかったかを詳しく調べてくれ」
「御意にございます」
秀宇が頭を下げた。
午後の明るい日差しのもと、案内役の役人について凛風が厩へ顔を出すと、気がついた黒翔が、嬉しそうにぶるんと鳴いた。
「黒翔!」
思わず凛風は駆け出して、黒翔の顔に抱きついた。
「久しぶり、元気だった?」
凛風の言葉に答えるように黒翔がふんと鼻を鳴らした。後ろで、厩の役人が心底驚いたというように声をあげる。
「驚きました。黒翔がこのように身を預ける者は陛下しかおりませんから」
「いや、今や俺よりも心許している。俺の手入れでは不満そうにしているからな」
楽しげな言葉に驚いて凛風は振り返る。
従者を従えた暁嵐が立っていた。
「暁嵐さま」
暁嵐が視線だけで合図すると、周りの役人たちは声が聞こえないくらいまで離れていった。警護を怠ることはできずとも皇帝と妃のひと時に配慮しているのだ。
「黒翔に会うことを許してくださり、ありがとうございます」
凛風が弾んだ声で礼を言うと、彼は首を横に振った。
「いや、そろそろ黒翔からもせっつかれていたからな。さっき言ったように、俺の手入れでは満足できないようだ」
凛風が百の妃として彼の寝所に呼ばれるようになって二十日が経った。
今の凛風の生活は、夜は彼から字を習い、昼は彼がくれた簡単な書物を読むというものだ。閨に召されながら使命を実行していないことについて皇太后がどう思っているのかという懸念はあるものの、おおむね平穏な日々である。
気がかりなのは、黒翔だった。
季節は春を迎え、毎夜湯に浸かる必要はなくなった。手入れは昼間に暁嵐がしていると聞いていても寂しい気持ちは収まらなかった。
黒翔は、今の凛風にとって心の支えといえる存在だ。元気にしているだろうかと思い出しては会いたくなる。それを暁嵐に話したら、手入れをする際に会わせてくれることになったのである。
暁嵐が櫛を手にして、さっそく手入れをはじめようとする。
「黒翔、こっちを向け」
でも黒翔はぶるんと不満そうに鳴いて従わない。濡れた瞳で凛風をじっと見つめている。
「私にやらせてくれるの?」
尋ねると彼は瞬きで答える。
「皇帝の手入れを拒否するとは、いい度胸だ」
苦笑する暁嵐から櫛を受け取り、凛風はさっそく手入れに取りかかる。久しぶりの黒翔との触れ合いに胸が弾んだ。
まずはすべての脚を指圧して蹄の汚れを取り払う。最後に毛並みを整えて、満足そうに鼻を寄せる黒翔の顔に抱きついた。
「おつかれさま。どこもかしこも健やかで安心した」
目を閉じて、心地よい艶々の毛並みを感じ取り幸せな気持ちになっていると。
「いつまでそうしているつもりだ?」
後ろから声をかけられる。振り返ると暁嵐は柱にもたれかかり腕を組んで、呆れたように凛風を見ていた。
「妃との逢瀬だと告げて俺は政務を抜けてきたのに、肝心の妃が黒翔に夢中では俺の面目は丸潰れだ」
「え? ……あ、申し訳ありません」
凛風は辺りを見回した。確かに、従者たちは声は聞こえないものの姿が見える場所にいる。凛風が暁嵐そっちのけで黒翔の手入れをしているのは一目瞭然だ。
「久しぶりだったので、その……」
もじもじしながらそう言うと、暁嵐が柱から身体を起こし、くっくっと笑いながら凛風のところへやってくる。そして凛風を囲むように黒翔の身体に両手をついた。
黒翔と彼の腕に挟まれて凛風の胸がどきんと跳ねた。
「俺の寵姫は、自分が誰の妃なのかをときどき忘れてしまうようだ」
楽しげに言って彼はじっと凛風を見つめる。その視線に、凛風の頬が熱くなった。
『寵姫』という言葉に、少し前の夜に彼に言われたことが頭に浮かんだからだ。
彼が凛風に親切にしてくれる理由……。
その先は自分で考えろと言われたその答えは、はっきりと出ていない。彼もあれ以来なにも言わなかった。
でもときおりこんな風に、核心をつくような言葉を口にして、熱のこもった視線で凛風を見る。そのたびに、それが答えのように思えて、凛風の心はふわふわと軽くなる。まるで天まで上る心地がするのだ。
自分はこのような気持ちになる立場にないとわかっていながら止められない。
「そ、そのようなことは……」
呟いて目を伏せると、彼は凛風の顎に手を添える。その手にぐいっと上を向かせられると、視線の先で彼が笑みを浮かべた。
「暁嵐さま」
「凛風……」
――そこで。
ふんっという鼻息が、ふたりの間を通り抜ける。驚いて黒翔を見ると、彼は不満そうにふたりを見ていた。
「黒翔、お前……」
暁嵐がじろりと黒翔を睨んだ。
「主人の邪魔をするとは、どういうつもりだ?」
暁嵐の言葉に、黒翔がヒヒンヒヒンといなないて暁嵐の身体を鼻で突く。
「こら、やめろ。お前は……ったく。いつからそんな聞き分けのない赤子のような真似をするようになったのだ!」
そんなやり取りをするふたりがおかしくて、お腹から笑いが込み上げる。思わず噴き出しくすくす笑う。
「黒翔、ダメよ。暁嵐さまにそのようなことをしては」
暁嵐が眩しそうに目を細めた。
「黒翔はすっかりお前に夢中のようだ。こいつは俺以外を乗せることはないが、お前なら喜んで乗せるだろう」
「黒翔に……乗る?」
「ああ、馬に乗ったことは?」
意外な問いかけに、凛風は首を横に振った。
「いいえ……世話をしていましたが、乗ったことはありません」
普通馬に乗るのは男性だ。女性は馬が引く籠に乗ることが多い。
「黒翔はこの国で一番の走り手だ。乗ると自分が風になったように思えるぞ」
「風に……」
凛風の頭に、草原を走る漆黒の馬の姿が浮かぶ。どんな美しいだろうと、胸が痛いくらいに高鳴った。
「すごい……」
黒翔に乗り草原を走れるなら、どんなに幸せだろう。きっと、夢のような心地がするに違いない。
ドキドキと高鳴る胸の鼓動を聞きながら黒翔に視線を送ると、綺麗な瞳がこちらを見つめていた。
その目が、暁嵐の言葉を肯定しているように思えて、凛風の胸は嬉しい気持ちでいっぱいになる。
この美しい駿馬が、自分を乗せてもいいと思ってくれているなんて……!
「乗りたいか?」
「はい、乗ってみたいです! ……あ」
考えるより先に素直な思いが口から出る。そのことに驚いて、凛風は慌てて口を押さえた。
「あ……いえ」
こんな風に、自分の希望を口にするなんて、記憶にある限りはじめてだ。凛風にとってはいけないことだったから。重い使命を負った今はなおさらだというのに。
「へ、変なことを言って申し訳ありません」
なにに対して謝るのか自分でもわからないままに、凛風がそう言うと暁嵐が微笑み首を横に振った。
「謝る必要はない」
「でも……」
うつむく凛風の身体を暁嵐が抱き寄せ、凛風を見つめた。すぐ近くに感じる彼の温もりに凛風の鼓動が速くなる。
「そうやって、やりたいことを声に出し、言葉にしろ。そしたらいつか叶うだろう」
「いつか……?」
「ああ、俺が叶えてやる」
力強く彼は言う。
現実を見ればそれは間違いだ。凛風の願いは実現しない。それでも彼が言うと本当にそうなるかもしれないと思えるから不思議だった。
「もう一度言ってくれ、凛風。お前の願いを、俺はもう一度聞きたい」
彼の命を狙う身で、彼になにかを願うなど分不相応であり間違ったことだ。もう言うべきではない。
――それでも。
声に出したいと、凛風は思う。たとえ叶わなくとも今この時にこの願いが凛風の胸に存在するということはまぎれもない事実なのだから。
すぐそばで自分を見つめる強い視線に導かれるような気持ちで、凛風はもう一度、自分の思いを口にした。
「暁嵐さま。私、黒翔に乗せてもらいたいです。風になってみたい」
痛いほど胸が鳴るのを聞きながら凛風が言い終えたその刹那、暁嵐の瞳がわずかに揺れる。国の頂点に君臨する皇帝である彼が、凛風の言葉に心動かされることなどないはずなのに。
彼の手が凛風の頬を包み込み、親指が瞼に優しく触れる。
「お前の目は、宝玉のようだ。いや、どんな宝玉よりも美しい」
そして次に唇を辿る。願いを口にした凛風を、よく言えたと褒めるように。
「暁嵐さま」
――もう一度。
唇に触れる彼の指の感触が、なにかを求めているように思えて、凛風の背中を甘い痺れが駆け抜ける。身体が熱くなってゆく。
彼の視線がゆっくりと下りて、互いの吐息がかかるところで一旦止まる。
「先日お前が俺に聞いたことを、自分の頭で考えたか? ……なぜ俺がお前にこうするのか」
低くて甘い囁きに、凛風の胸がじんと痺れる。
その刹那、優しく唇を奪われた。
唇に触れる柔らかな感触に、凛風の身体を強い衝撃が駆け抜けて、心の奥底にある本当の願いが目を覚ます。
凛風の心と身体は、ただ彼を求めている。今この時だけでなく将来にわたってずっと、彼のそばに在りたいと願っている。
「あ、暁嵐さま。見られて……」
わずかに離れた唇で、凛風は掠れた声を出す。頭が熱くて自分を保てなくなりそうだ。力の入らない両手を彼の胸にあてる。
「問題ない、黒翔の陰になっている」
低い声で暁嵐が囁き、もう一度深く口づける。
目を閉じると、温かなものが凛風の胸の中に広がっていく。それはおそらく今の自分には無縁のもの。遠い記憶の中にしかない、幸せな思いだ。
自分を包む腕の力強さと、自分に向けられる彼の想いを目のあたりにして、凛風は自分の中のなにかが変わろうとしているのをはっきりと感じていた。
女官に付き添われて後宮へ戻っていく凛風の後ろ姿を見送って、自身も政務へ戻ろうと振り返ると、従者とともに秀宇がいた。
その姿に暁嵐は眉を寄せる。
彼との間のわだかまりはなくなったが、凛風と一緒にいるところを見られていたのは気まずかった。
口づけを交わした場面は見られていなくとも厩で馬の身体の陰にて妃と話をしていたのだ。なにをしていたか、だいたいの想像はつくだろう。
「いつからいたのだ?」
来ているならば、合図せよという嫌みを込めて問いかける。
側近である彼は、暁嵐からの指示のみで動く。他の役人のように決められた役割はないから、神出鬼没なのだ。いつでも必要な時に話しかけてよいことになっているが、妃との逢瀬を覗いていいとは言っていない。
嫌みを言われていることに気がついているはずなのに、彼は普段と変わらぬ様子で答えた。
「暁嵐さまが厩にて凛風妃さまに話しかけられた時より、この場から見ておりました」
しれっとそんなことを言う秀宇に、暁嵐はため息をついた。
「お前、やっぱり悪趣味だな」
「これは大切なことにございますから。暁嵐さまは、凛風妃さまがこちらに寝返ると確信しておられるようですが、それで大丈夫とも限りません」
平然としてそんなことを言う彼を、暁嵐はじろりと睨み歩き出す。合図を送ると秀宇以外の従者は離れていった。
黄玉の間へ行く前に清和殿に寄ることにする。結界の中に入り、振り返った。
「俺の言うことが信用できないのだな?」
「そうではございません。ですがこう言ってはなんですが、暁嵐さまは男女のことにお詳しいとは言い難い。きちんとこの目で確認しておきたかったのでございます」
ではその目で確認してどうだったのか?と聞く気にもなれず沈黙する暁嵐に、秀宇は訳知り顔で納得したように言葉を続けた。
「確かに凛風妃さまは、暁嵐さまを心よりお慕いされているご様子でした。自らの秘密を打ち明けるのも時間の問題でございましょう。ですが、暁嵐さま、あれはいかがなものかと存じます」
秀宇が渋い表情になった。
「なにがだ?」
「逢瀬が厩というのはどうでしょう? 男女が会う場所としては、いまひとつ艶っぽさに欠けます。いいですか? 暁嵐さま。黒翔が暁嵐さまの大切な馬なのはわかりますが、自身が好きなものを女子に押し付けてはいけません。まずは相手の好きなものを知り、こちらから歩み寄るようしませんと。女子の心を掴みたいのであれば、東屋で甘い菓子と茶を用意するか、宝玉を贈るために商人に会わせるか……」
つい先日まで凛風を敵対視して追及せよと言っていたのも忘れて、くどくどと説教する秀宇を、暁嵐はじろりと睨む。
「黒翔と凛風を会わせたのは、彼女の希望だ。彼女は馬が好きなのだ。菓子はともかく宝玉は喜ばぬだろう」
朴(ぼく)念(ねん)仁(じん)のように言われたのが癪で言い返すと、秀宇が信じられないというように眉を寄せる。
「馬が好き……? 宝玉を喜ばない……?」
「用がそれだけなら俺は政務に戻る」
「いえ、それだけではございません。ご報告があります」
ならばくだらないことを言わずに早く言えと言いそうになるのをこらえて、暁嵐は頷いて続きを促した。
「凛風妃さまが皇太后に従う理由については引き続き探っておりますが、その中で気になる動きが。二日前に郭家の邸から出た馬車が、皇太后さまのご実家に入ったのを確認しました」
「馬車が? 郭家から誰かが皇太后の実家を訪れたということか」
「はい。しかも戻った形跡がありませんから、まだ滞在している模様」
「なるほど……」
暁嵐は頷いた。
「凛風妃さまは、郭凱雲から刺客として使命を果たせと言い含められているのでしょう。ですが、子は親に従うものだから……という理由では少し無理があるような。なにしろ郭凱雲は、娘が後妻からひどい仕打ちを受けているのを知っていながら、かばうことは一度もなかったそうですから。父と娘というよりは、主人と召使……ならまだいい方で、下僕のようだったと言う者もいたくらいです」
「やはりなにかを盾に脅されている……か」
暁嵐は黙り込み考えを巡らせた。
自分の希望を口にすることにすら罪悪感を抱く凛風。
黒翔の脚を心配する心優しい娘が、いったいなにを盾にされれば、皇帝の暗殺などという使命を果たそうとするのだろう?
これまでの彼女の言動を思い出していた暁嵐はあることに思いあたり口を開いた。
「彼女には、確か弟がいるな? 彼を盾にされているのではないだろうか?」
暁嵐の意見に、秀宇が首を傾げた。
「弟……にございますか? 確かに凛風妃には同じ母親から生まれた弟がおりますが、後継ぎとして後妻に養育され、もう何年も口をきいていないという話でした」
「だが、大切に思っているのは確かだ。弟に文を書くため字を習いたいと願っていたくらいだから」
「字を習って……」
呟いて秀宇がなにかを思い出したような表情になる。
「そういえば、従者がここのところ頻繁に、暁嵐さまが筆と紙、小さな子が読むような絵付きの書物を所望されると言っていたような……」
ぶつぶつ言ってこちらをちらりと見る。暁嵐は咳払いをして目を逸らした。
「とにかく弟の件を確認せよ。それから皇太后の実家に滞在しているのが何者かも含めて引き続き調べるように。俺は政務に戻る」
少し強引に話を終わらせると、秀宇は「御意」と答えて下がっていった。
外廊下の手すりに手をつき、暁嵐はため息をつく。
秀宇と和解したのはよかったが、暁嵐を幼い頃から知っている分、やや遠慮なくものを言う。普段はそれでもかまわないのだが、凛風のことに関してはやはりやりにくくて仕方がない。
だが諜報活動に関してはこの国一信頼できるのは確かだから、彼が凛風を救う方向で動いてくれるのはありがたかった。
――あと少しだ。
暁嵐は先ほどの凛風を思い出す。自分の望みを口にした時の凛風は、この世で一番美しかった。
桃色に染まる頬と、希望の色に輝く瞳。
心が大きく揺さぶられ、不覚にも涙が出そうになったほどだ。
彼女の心が光の差す方へ向きはじめているのは確かだ。
自分のしたいことや叶えたい思いを口にするのは謝るべきことではなく、自然なことなのだと彼女が本心から理解すれば、暁嵐との道を選ぶ勇気が出るだろう。
彼女の心が決まるまであと少し……。
はじめて交わした口づけが、暁嵐の想いを加速させる。絶対に失うわけにはいかないと強く思う。もはやこの国の将来は彼女の選択にかかっていると思うくらいだ。
だが、あまり時間がないのも確かだった。
暁嵐が凛風と閨をともにしないまま、いたずらに時間が過ぎているのを皇太后が黙って見ているはずがない。近いうちに次の一手を仕掛けてくるだろう。その際、凛風に接触するかもしれない。
どうしてもそれまでに凛風の気持ちを手に入れなければ。
清和殿と外廊下で繋がる後宮の建物を睨み、暁嵐は考えを巡らせていた。
「この〝我〟という字が、自分という意味だ。〝食〟が食べる。書を読むだけなら、ひとつひとつの字を正しく書ける必要はない。まずは……」
机の隣に座る暁嵐が、凛風の前に広げられた教本を指差し説明する。夜の寝所での手習いである。
自分が教えるのだから、簡単な書物くらいすぐに読めるようになると言った通り、彼の教え方は上手だった。
読みたい書を広げながら、それに沿って進めるので飽きることなく頭に入る。
けれど今宵はさっぱりだった。
「ここを自分で読んでみろ」
そう言われて、凛風は彼の手元を見る。
「えーっと」
けれど、さっき教えてもらったばかりの字なのに、頭に浮かんでこなかった。
「その……」
言葉に詰まり、気まずい思いで彼を見る。
きちんと聞いていたのかと叱られるのを覚悟するけれど、凛風の予想に反して、彼はどこか楽しげな笑みを浮かべていた。
「どうやら今宵は、身が入らないようだな」
ずばりその通りのことを口にする彼に、凛風は「申し訳ありません……」と眉を下げた。
原因はもちろん、昼間の厩での口づけだ。
あの後、後宮へ戻ってからも、彼の唇の感触と熱い視線が頭から離れず、心はずっとふわふわしたままだった。そしてそれは今も続いている。
「どうした? なにか気になることでもあったか?」
そう尋ねる彼は、からかうような目で凛風を見ている。
凛風の気持ちなどお見通しで、その上であえて聞いているのだということに気がついて、凛風の頬は燃えるように熱くなった。
昼間のことをずっと考えていたのだということもバレてしまっているような気がして恥ずかしくてたまらない。
「もう……わかっているのではないですか?」
頬を膨らませてそう言うと、彼はくっくと笑い凛風の頭をぽんぽんと叩いた。
楽しげな様子がなんだか少し悔しかった。
凛風と違って、彼がこんなにも余裕なのは、きっと彼にとっては口づけくらいなんでもないことだからだろう。
彼はこの国の皇子として育ったのだ。今はまだ凛風以外の妃を閨に呼んでいないとはいえ、このくらい……。
とそこまで考えて、凛風の頭にある疑問が浮かんだ。
どうして彼は、妃を閨に呼ばないのだろう?
はじめてここへ来た時は気が動転していて聞き流してしまったけれど、皇帝の行動としては不自然だ。
「あの、暁嵐さま。……お尋ねしてもよろしいですか?」
問いかけると、暁嵐が頷いた。
「どうして暁嵐さまは、他のお妃さまを閨にお呼びにならないのですか?」
暁嵐が眉を上げる。その彼に、凛風はさらに問いかける。
「皆暁嵐さまのために後宮入りされましたのに、そのお妃さまを避けられるのはどうし……!?」
とそこで、暁嵐が突然立ち上がり凛風を抱き上げた。
「きゃっ……! 暁嵐さま!?」
目を白黒させ彼にしがみつく凛風を抱いたまま、部屋を横切り寝台へと歩いていく。そこへ優しく凛風を下ろし、両脇に手をつき不気味なくらいにっこりと笑った。
「俺はどうやら後宮長を罷免しなくてはならないようだ。まったく仕事ができていない」
「え!? ……後宮長さまを?」
彼が口にしたまったく予想外の言葉に凛風は目を丸くする。凛風の疑問と後宮長の役割がどう繋がるのかさっぱりわからなかった。
「どういうことですか?」
驚きながら首を傾げると、暁嵐がやや大袈裟にため息をついた。
「閨に上がる妃の教育は後宮長の役割だ。それなのにお前は、皇帝の寝所にいるというのに他の妃の話を……、しかもまるで自分ではなく他の妃を呼んでほしいというような口ぶりだ」
「え!? そ、そういうわけでは……」
確かに、凛風が寝所にて伽をする本物の妃ならば、やや失礼な発言かもしれない。皇帝に他の妃を呼ばせて、自分は伽を逃れようとしているようにも取れる。
「そういう意味ではなくて……その」
本気で後宮長を罰するつもりなどまったくなさそうな彼に向かって、凛風は言い訳をする。
「そうではなくてただの疑問です。それにこれは私だけではなくて後宮でも皆が疑問に思っていることです。家臣の皆さまにもあれこれ言われるのでしょう? それをわざわざ私を寵愛するふりをしてまで……ん!」
唐突に唇を彼の唇で塞(ふさ)がれてしまう。
そしてはじまった口づけは、昼間よりも熱くて激しかった。あっという間に凛風の疑問は思考の彼方へ吹き飛んで、頭の中が彼への想いでいっぱいになっていく。
どうしてこうなったのか、自分はなにを疑問に思っていたのか、それすらわからなくなるくらいだった。
ぼんやりとする視線の先で、暁嵐の唇が囁いた。
「凛風、これは寵愛するふりか?」
自分を見つめる彼の瞳の奥に赤いなにかがちらついているのを見た気がして、凛風の背中がぞくりとする。胸がドキドキと痛いくらに高鳴った。
少し前から感じていた、まさかという思いがゆっくりと確信に変わろうとしている。けれどそれを知るのは怖かった。
彼の想いを知ってしまったその先、自分の気持ちがどうなってしまうのか、わからなくて怖かった。
「暁嵐さま……」
答えられない凛風を暁嵐はしばらくじっと見つめていたが、やがて息を吐いて目を閉じる。もう一度開いた時には、いつもの優しい眼差しに戻っていた。
「この後もしっかり考えろ」
凛風の頭を優しく撫でて、隣にごろんと横になる。自分の腕を枕にして天井を見つめて口を開いた。
「俺が後宮の妃を閨に呼ばないのは、もともと妃はひとりだけにすると決めているからだ」
先ほどの凛風の疑問に対する答えだろう。だがその内容は、凛風にとっては突拍子もないことに思えた。
皇帝の妃がひとりだなんて聞いたことがない。教養も知識もない凛風だが、そのくらいは知っている。
後宮長からは、閨に上がるのが自分だけなどと欲深いことを考えぬようにときつく言われた。古来より後宮では、たった一度皇帝の手がついただけで生涯を終える妃も珍しくないという話だ。
戸惑う凛風をちらりと見て、暁嵐は言葉を続けた。
「俺の母上は、もともと後宮女官だったんだが、前帝の目に留まり妃の身分に召し上げられた」
その話は、凛風も父から聞いたことがあった。
「ほどなくして子ができたのだから普通なら幸運だったと言えるだろうが、母上にとってはそうではなかった。本当は将来を言い交わした相手がいたようだ」
「将来を言い交わした相手が……」
凛風の胸は痛んだ。
皇帝の目に留まったなら妃になるのは避けられない。将来を言い交わした相手がいながら他の男性の妃になるしかなかったというのは、どれほどつらいことだろう。男性を愛おしく思う気持ちを知った今の凛風にはよくわかる。
「しかも女官の出ということで後宮での立場は弱く、原因不明の死を遂げるまで他の妃たちにいじめ抜かれていた。俺は母上の笑っている顔を覚えていない」
あまりにひどい話の内容に、凛風は言葉を失った。彼ははっきり言わないけれど、凛風の頭には皇太后の蛇のような目が浮んでいた。
原因不明の死と彼は言うけれど……。
暁嵐が長いため息をついて、凛風を見た。
「皇帝に複数の妃がいれば、いらぬ争いを生みつらい思いをする者が出る。だから俺は、同じことを自分の代で繰り返さないと決めている。信頼できる者ひとりだけを妃とし、大切に愛しむ」
凛風を見つめて、強く言い切る彼に、凛風は心が震えるのを感じていた。
皇帝に妃がひとりきりなど本当なら周りが許すはずがない。でも彼ならば自らの意思を貫くだろうと確信する。
はじめてここに来た夜の彼の言葉を思い出し、凛風は口を開く。
「暁嵐さまが己の心のままに生きられる世を作りたいとおっしゃったのはお母さまのことがあったからですね」
「そうだ。必ず実現してみせる。……そしてその時は、信頼できる妃に隣にいてほしいと思っている」
――そばにいたいと強く思う。
己の心のままに生きられる世。
はじめて耳にした時は、それが人にとってよい世なのかどうかすらわからなかった。
けれど今の凛風にははっきりとわかる。
自分の望みを口にできた時の高揚感と幸せな思いが胸に広がる。
そういう世を凛風は望んでいる。
彼ならば、実現できるだろう。そしてその時は自分がそばにいたいと思う。
もちろんそれは実現することのない望みだけれど……。
目を伏せると抱き寄せられ、暁嵐の腕の中にすっぽりと包まれる。
「暁嵐さま」
驚く凛風の耳に温かい声が囁いた。
「凛風、すべて俺の腕の中で考えるんだ。そうすれば、お前にとってよい答えに辿り着く」
自分にとってよい答え……。
心の中で呟いて、重なるふたりの胸の鼓動を聞きながら、凛風はゆっくりと目を閉じた。
「痛っ」
昼下がりの自室にて、衣装に腕を通した途端にちくっと鋭い痛みを感じて、凛風は声をあげる。手伝いをしていた女官が、焦ったように凛風を見た。
「凛風妃さま、いかがなさいました?」
「なんでもないわ。少し腕をひねっただけ」
そう言って凛風は、さりげなく自分の腕を刺したと思しき針を抜いた。なんでもなくはないが、騒ぎ立てれば彼女が罰を受けることになるからだ。
彼女は、以前露天の湯殿の使用を勧めてくれた女凛風付きの女官で、後宮では味方のいない凛風に親切にしてくれている唯一の存在だ。罰を受けるのは可哀想だ。
そもそも妃用の衣装に針が残っているなど、本来はありえない。しかも今凛風が身につけているのは、普段着ではなく皇帝の御前にて舞を披露するためのものなのだ。仕立ててから後宮内に運ばれてくるまでに、何度も確認されている。
それなのに、針が残っているということは、後宮内に針を仕込んだ者がいるというわけだ。言うまでもなく、後宮でただひとり寵愛を受ける凛風を妬んだ妃のうちの誰かだろう。
二の妃の取り巻きたちの凛風への嫌がらせは、日に日にひどくなる一方だった。一の妃の目を気にしてか、以前のような乱暴で直接的なものはなくなったが、代わりにより陰湿なものになっていった。物がなくなったりダメにされたり、聞こえるように陰口を言われたりはしょっちゅうだ。
最下位だと馬鹿にされて、もともとのけ者だったのに急に寵愛を受けることになってしまったのだから、無理もない話だ。
暁嵐からは、後宮にてなにかあればすぐに言うようにと言われている。母親が後宮で嫌がらせを受けていたのを見て育った彼には、なんでもお見通しというわけだ。
でも凛風はいちいち報告していない。そこまでではないと思っているからだ。後宮での無視も嫌がらせも実家にいた頃と比べればすべて些細なこと。あの棘のある枝で叩かれる痛みに比べれば、針が刺さった痛みなど蚊に刺されたようなものだ。
それに今の凛風は、それどころではないのだ。
あの厩での口づけから三日。
相変わらず、凛風は毎夜暁嵐の寝所に召されている。彼から字を教わり、美しい絵が描かれた書物を読む。暁嵐が寝台の中で少し先を読んでくれることもあった。
そこまではそれまでと変わらないのだけれど……。
凛風は指で唇をつっと辿る。寝所での彼を思い出して少し甘い息を吐いた。
はじめて口づけを交わし、彼の母の話を聞いたあの日からふたりの関係は少し変わった。暁嵐は毎夜凛風に口づけをし、寝台で眠る時は、凛風を引き寄せ腕に抱く。
彼の香りに包まれて彼の体温を感じると凛風の胸はドキドキと鳴って落ち着かず、寝るどころの話ではない。ここのところ凛風は少々寝不足気味というわけだ。
昼間はあくびばかりしている。
今も、今夜大広間にて開かれる皇帝主催の宴に向けて衣装を身につけている最中だというのに、ふぁとあくびが漏れてしまっているありさまだ。
「凛風さま。ここのところお疲れのご様子ですね。陛下の毎夜のお召しでは仕方がないですが」
女官がにこやかに笑ってそう言った。
「あ……いえ」
『毎夜のお召し』という言葉に、凛風は頬を染める。彼女がどういう意味で言ったのかを理解したからだ。
「そうではなくて……」
慌てて凛風は首を横に振る。凛風の寝不足の理由は彼女が想像しているものではない。でも彼女は納得しなかった。
「あら、凛風妃さま。恥ずかしいことではありせんよ。むしろ後宮においては、よいことにございます。それだけご寵愛が深い証になりますから。先の皇帝陛下の後宮では、陛下のお召しの翌日はわざと疲れた様子を見せるお妃さまもいらっしゃったという話です」
凛風は彼女の話に面食らう。
普段はあまり口数の多くない彼女が、あからさまな言葉を使ったことに驚いたのだ。
「そうなんですね……」
話の内容を聞いているだけでも恥ずかしくて凛風はうつむいた。すると彼女は凛風を覗き込み、少し心配そうに眉を寄せた。
「ですが、顔色がよろしくないような……一度医師さまに診ていただきましょう」
大袈裟なことを言う女官に、凛風は慌てて声をあげた。
「医師さま!? いいえ、私は大丈夫です」
「ですが、ご寵愛を受けておられるお妃さまのお身体の変化は、しっかりと把握しておけと後宮長さまから言われていますし……」
『身体の変化』という言葉に、凛風はまたもやどきりとする。つまり彼女は、凛風の疲れを懐妊の兆しではないかと、思っているのだ。
「そうではないの。私……。寝所に召されてはいるけれど、その……まだ……」
閨をともにしていないとそれとなく告げる。ただの寝不足を大事にしてほしくないという一心だった。今この状況で凛風が医師の診察を受ければ、あらぬ憶測を呼び大騒ぎになってしまう。
女官が「まぁ」と言って目を見開いた。
「……そうなんですか」
「な、内密にお願いします……」
暁嵐との閨事情など本当は誰にも知られなくないが、きちんと話しておかないと今すぐにでも医師を呼ばれてしまう。
「だからこれは本当にただの寝不足です」
女官が物分かりよく頷いた。
「わかりました。ですが意外な話ですわね。陛下はあのような男ぶりの方ですし、毎夜凛風さまをお召しになられているほどのご寵愛の深さですのに……」
「わ、私が至らないから……」
曖(あい)昧(まい)に答えると、女官は優しく微笑んだ。
「きっと凛風妃さまを大切に思っておられるのでしょう。でも今宵の凛風妃さまの舞をご覧になられたら、もう先にお進みになられずにはいられないと思いますよ」
そう言って、凛風の衣装の紐をキュッと締めた。
「舞なんて、私、自信がありません」
彼女の言葉に凛風は眉尻を下げた。
今夜の宴で凛風は皇帝と妃たち、主だった家臣たちの前で舞を披露することになっている。なんでも皇帝主催の宴では恒例のことなのだという。
宴で舞を披露できるのは、皇帝の寵愛を受けている妃のみ。だからこれは後宮の妃にとって、自らの優位を他の妃に見せつける絶好の機会なのだという。
古来から妃たちは、この日のために幼少期から舞を習い、当日は最上級の衣装を身に纏う。
けれどそのようなことに興味がない凛風にとっては、ただただ人前に立つということに恐れを感じるだけだった。
舞などまったく習ったことない凛風は、宴が開かれると決まってから急ぎ習っている。決していい出来でないのが自分でもわかるから、なおさら憂鬱だった。
暁嵐からは気が進まないなら、舞はやらなくていい、なんなら出席しなくていいと言われたが、後宮長に反対されて断念した。
『陛下のお言葉に甘えて、そのような情けないことをおっしゃるものではありません。ご寵姫さまが出席なさらないなど聞いたことがありませんわ。陛下のご威光に傷がつきます』
暁嵐に恥をかかせることになると言われては、わがままを言うわけにいかない。仕方なく凛風は舞の準備をしているというわけである。
「ですが本当なら、今宵舞を披露するのは凛風妃さまだけのはずですのに、他のお妃さままで舞われるのは口惜しいですわね」
女官が悔しそうに言う。
本来なら、舞を舞うのは一度でも寵愛を受けた妃だけなのだが、今夜は凛風の他に一の妃と二の妃も舞を披露することになっている。
凛風だけでは少し華やかさに欠けるからというのが公の理由だが、ここは後宮、裏の思惑がないわけがない。暁嵐が、最下位の妃だけを寵愛しているという状況を面白く思わない者たちの差し金だ。
暁嵐が、舞を舞う美しい妃に目を留めて、凛風以外の妃を寵愛することを期待しているのだろう。
そのことに想いを馳(は)せて、凛風の胸がキリリと締め付けられた。
暁嵐が自分ではない他の妃を寝所に呼ぶなど、想像するだけで胸が焼けるような心地がする。彼は妃はひとりだけと決めていると聞いていても、治らなかった。おそらくこれが嫉妬という感情なのだろう。
――そんなこと考える資格、私にはないのに……。
「凛風妃さま、ご心配なさらなくても大丈夫です。陛下は凛妃に夢中でいらっしゃるのですから」
女官が凛風を勇気づけるようにそう言って、服の中から甘い香りがする貝殻を取り出した。
「もしご不安なら、夜のお召しの際、この香料を耳の後ろにおつけになって、陛下のもとへお上りなさいませ」
「香料?」
「男性のお心を夢中にすると言われている香料にございます。凛風妃さまがこれをおつけになればきっと……」
意味深に言って女官はにっこりと笑う。
つまりは香料を使えば、暁嵐とより深い中になれるかもしれないと彼女は言っているのだ。
「お身体に障るものではありません。歴代のお妃さま方が使われてきたものにございますから」
「……わ、私は結構です」
凛風は手を振り、受け取らなかった。凛風を心配してくれる彼女の心遣いはありがたいが、凛風は暁嵐と深い仲になることを望んでいない。それはすなわち、ふたりの終わりを意味するからだ。
「そのような高価なものをつけるなど、私には分不相応で……」
すると女官は凛風の手を取って貝殻を握らせた。
「まぁそうおっしゃらずに。一度試してごらんなさい」
冷たい手と、ざらりとした貝殻の感触、少し強引な彼女の行動に、凛風は得体のしれない違和感を覚え、どきりとして彼女を見る。一点の曇りもないその笑みに、どうしてか胸が騒ぐのを感じながら、とりあえず香料を受け取った。
皇帝主催の宴は後宮の大広間で執り行われた。謁見の時とは打って変わって、華やかな飾りが施されている空間に、天井から下がるたくさんの灯籠(とうろう)が橙色の光を放ち、まるで昼間のような明るさだ。
緩やかな音楽が流れる中、皆の笑い声があちらこちらから聞こえてくる。目の前には国の各地から集められた馳走が並んでいた。
玉座と向かい合わせの部屋の中央には、舞台が設けられ、妃たちの舞を彼がよく見えるようになっている。
凛風の席は、いつもの末席ではなく、皇帝に一番近い場所だった。暁嵐の目が届かない後宮内では、女官長を含めて凛風への扱いはひどいもの。だがさすがに暁嵐の前では一番の寵姫として扱う必要があるのだろう。
はじめて見る光景に、凛風は居心地の悪い思いで視線を彷徨わせていた。
妃同士の茶会にも呼ばれたことがない凛風にとっては、華やかな場ははじめてだ。このような場で下手な舞を披露すると考えるだけで、緊張でどうにかなってしまいそうだった。
凛風は玉座の暁嵐を見る。
彼が皇帝としての正装でいるところを見るのははじめてだ。朝の謁見の際も寝所に召されるまで凛風は顔を上げなかったし、寝所に召されるようになってからは、欠席していたからだ。
公式な場所で玉座に座る暁嵐は、皇帝の風格を漂わせ、誰も寄せ付けない空気を纏っている。夜に凛風に手習いをしてくれる彼とは別人のようだった。
その彼が唯一、寝所にと望む妃が自分だけだなんて、後宮中の妃たち、いや宮廷のすべての者がおかしいと思うのも無理はない。
視線を送る凛風に暁嵐が気がつき、口元に笑みを浮かべる。控えている女官を呼びなにかを囁くと女官は心得たように頷いて、凛風のところへやってきた。
「凛風妃さま、気が進まないなら無理をしないようにと、陛下よりのご伝言です」
「陛下が?」
女官の言葉に凛風が彼を見ると、暁嵐が心配そうに見ていた。このような場に慣れていない凛風を心配してくれているのだ。
「大丈夫です、とお伝えください」
凛風が女官に囁いた時、その場に歓声があがる。
妃による舞がはじまるのだ。
楽師たちが奏でていた音楽が一旦止まると、まずは一の妃が舞台に上がった。舞の順は、一の妃、二の妃、最後に凛風と決まっている。
一の妃は紫色に金色の刺(し)繍(しゅう)が施された美しい衣装を身につけている。まるで天女の衣のようなその衣装からは腕や肩が見えていた。灯籠の光の中で真っ白な肌が艶めいている。
普段より露出が激しい衣装を身に着けているのは、皇帝の目を意識しているからだろう。ゆったりとした音楽に合わせて、一の妃が舞いはじめる。付け焼き刃でしかない凛風の舞など足元に及ばないほど洗練された舞だった。
「素敵ねぇ」
同じ妃たちの間からもため息が漏れた。
「ご寵姫さまが舞を披露するのは後宮の伝統行事ですもの。きっと小さな頃から習っておられたのよ」
一の妃の舞が終わると、今度は二の妃が舞台に上がる。彼女もまた肌が見える衣装を身につけていた。妃の中でもひときわ妖艶な身体つきの彼女には、女性である凛風でもドキドキするくらいだ。
彼女の舞は、一の妃の洗練されたものとは違い、どこか俗物的な魅惑的な動きをふんだんに取り入れたものだった。軽快な音楽に合わせて腰をくねらせる彼女に、またもや妃たちからため息が漏れる。
「さすがだわ」
「見た目では二のお妃さまには絶対に勝てないわね」
ふたりの妃の素晴らしい舞を目のあたりにして、凛風の心はこれ以上ないくらい沈んでいく。刺客である自分は、彼女たちに嫉妬する資格はないと思ったけれど、そのような使命を負っていなくとも比べものにならないと思う。
「凛風妃さま、ご準備くださいませ」
女官からの囁きに、凛風は浮かない気持ちのまま立ち上がった。
二の妃の舞が終わり、凛風が舞台に上がると、広間は異様な空気に包まれた。
凛風が身につけているのは、先ほどの妃たちのような肌が見えるものではなく、傷痕を隠せるよう手首まで覆われた袖の長いものだ。暁嵐が用意してくれた上質なものには違いないが、他の妃たちからは見劣りするのは間違いない。ましてや肉付きのよくない凛風が着ているのだからなおさらだ。
「ずいぶん不思議な衣装だこと」
「仕方がないわよ、あの身体じゃ」
笑い声と侮辱的な言葉、凛風に注がれる侮蔑の色を帯びた視線。
仮にも皇帝の御前だというのにお構いなしなのは、古来から後宮がそのような場だからだ。
歴代皇帝たちは、妃同士の鞘(さや)のあて合いには無関心。寵愛する妃がどれほどひどくいじめられても、決して助けることはなかったのだという。
緊張で右も左もわからない中、まだ心の準備ができていないというのに音楽が鳴りはじめる。凛風は慌てて、習った通りに身体を動かした。
先ほどの妃たちとは、比べものにならないほど拙(つたな)い動きに、くすくすという笑い声が大きくなりはじめた。
「やだ、あれなに?」
「仮にも寵愛を受けている妃が。恥ずかしくないの?」
あからさまに凛風を馬鹿にしはじめた彼女たちの言葉が、凛風の胸を刺した。
自分が馬鹿にされるのはかまわない。そんなことで今さら傷ついたりはしない。
でも今は、暁嵐の顔に泥を塗らないか心配だった。寵愛する妃がこのような不恰好な妃では、彼の威厳に傷がつく。
とにかく早く終わりたい。
そう願いながら、凛風がくるりと回った時、ツンと袖がひっぱられるような感じがする。途端に衣装の肩のあたりからピリッと裂けて、袖が外れてしまった。
凛風は驚いて振り返る。床までつく長い袖だからなにかに引っかかったのだろうかと見回したが、それらしいものはなかった。
最前列の妃ふたりが顔を見合わせてくすくすと笑っている。彼女たちのどちらが袖を踏んだのだろう。
とっさに凛風は露わになった肩をもう一方の手で覆う。
くすくすという笑い声がいっそう大きくなった。
「はじめて見たけど本当に汚いのね」
「あれじゃ隠したくもなるわ」
傷だらけの肩を皆の眼前に晒してしまっていることが申し訳なかった。舞が粗末だというだけでも暁嵐に恥をかかせてしまっている。それなのに醜い肌を晒してしまうなんて。
舞どころでなくなった凛風が立ち尽くしていると、突然音楽がやむ。
不思議に思って楽師たちの方を見ると、彼らは皆手を止め目を見開いている。意識はあれど身体を動かせないようだ。
尋常ではない状況にハッとして玉座を見ると、暁嵐が楽師たちの方に手を向けている。その頭には、黒い角が現れていた。
彼の角が現れる時は鬼の力を使う時。つまりこの状況は彼の力によるものだ。
皆が固唾を呑み静まり返る中、暁嵐がゆっくりと立ち上がる。表情には明らかに不快感が滲んでいた。
彼は皆を一瞥し、手を振り下ろす。楽師たちの強張りが解けた。
だが誰も再び音楽を奏でようとしなかった。それどころかこの場にいる誰も口開くことができない。妃同士のやり取りには無関心なはずの皇帝の突然の行動に驚いているのだ。
暁嵐は玉座を下りコツコツと靴音を響かせて舞台の上へやってきた。そして自らが身につけていた外衣を脱ぎ、凛風を包み抱き上げた。
皆が目を剥く中、彼は凛風の袖を踏んだと思しき妃に視線を送る。彼女の長い袖の裾にぼうっと赤い炎が上がった。
「ひいっ!」
妃が声にならない悲鳴をあげる。炎に焼かれる恐怖に彼女の目は恐怖の色に染まるが、火は彼女の肌を焼く前に消えた。
暁嵐が怒気をはらむ低い声で問いかけた。
「凛風の衣装は私が贈ったもの。寵姫の美しい肌を誰にも見せたくないゆえ袖の長いものを選んだのだ。その私の心を、そなたは踏みにじるのだな?」
「わ……わざとでは……」
あわあわと言い訳する彼女を無視して、暁嵐は、凛風を嘲笑っていた皆をぐるりと見回した。
「私の意向に逆らい、彼女の肌を目にした者にも、すべからく罰を与えなければならぬ」
彼の目尻が赤く光り、どこかから「ひっ!」という引きつれたような声があがった。
この場にいた者皆が、凛風の肩を見たのだ。罰を与えると言うなら、妃と家臣皆が残らず罰を受けることになる。
怒りを露わにする彼に、凛風も言葉を失い彼を見つめる。
「へ、陛下……お静まりくださいませ……!」
年嵩の家臣が意を決した様子で進み出て、彼を諌(いさ)めようと試みる。
「これは、事故にござ……」
「痴(し)れ者! 私がこの目で見たものを否定するつもりか?」
一喝する鋭い声に空気がビリッと引き裂かれる。皇帝の激しい怒りを目のあたりにして家臣は頭を抱えてうずくまった。
「も、申し訳ありませぬ……」
「暁嵐さま」
凛風は彼の服を掴み呼びかける。
はじめて見る彼の姿が怖くないと言ったら嘘になる。でも彼が怒りを露わにしているのは、凛風のためなのだ。黙っているわけにいかなかった。
自分のことで家臣たちと対立してほしくない。
「私は大丈夫です」
思いを込めてそう言うと、彼は訝しむように凛風を見つめる。凛風の言葉が本心か考えているのだろう。
「暁嵐さま」
凛風がもう一度呼びかけると、暁嵐は息を吐いて目を閉じる。次に開いた時は目尻の赤と角は消えていた。
そして皆に向かって口を開く。
「私と凛風妃はこれにて退出する」
足早に舞台を下り、清和殿に向かって歩き出した。