6
エドは、数秒の硬直の後に、表情をわずかに暗くした。
「わかったよ。でも、もう練習だし、グラウンドに向かいながらで良いかな?」
絞り出すような声音は、苦渋を感じさせた。
「おう、んじゃ行くか」と抑えた調子で返した桐畑は、ベッドから抜け出した。
傍にいた看護士に復調を告げた桐畑は、エドと並んで病院の外へと向かう。人通りの少ない場所が良いと考える桐畑は、まだ黙ったままだった。
二人は無言のまま建物から出て、敷地を囲む柵の間の門へと歩いていく。
桐畑は、目の動きだけでエドを見た。前へと視線を遣り続けるエドは、一見無表情だが、眼差しは沈んでいる。
「以前に少し聞いたことだけど、昨日の練習後のダン校長の台詞の、『ポルトガルに因縁のある者』って、エドだよな。具体的に何があったんだ?」
興味本位と取られないよう、桐畑は淡々と端的に問うた。「以前に少し聞いた」の文言で、自らの知識量を曖昧にしていた。
「ん? 俺、ケントに話した記憶はないよ。……ああ、誰か他の人から聞いたって意味か。まあ、口止めしたわけじゃあないし、悪気はないんだろうから、怒りはしないけどさ」
エドの返事は丁寧だが、ロー・テンションだった。ケントは神妙な思いで、言葉の続きを待つ。
前方から桐畑のラテン語の教師が、ゆったりとした足取りで近づいてきていた。二人が帽子に手を当てて会釈すると、教師は寛大な笑顔で小さく頷いた。
「どっから話すかなー。俺が、アフロ・ブラジリアンだって話は、結社に入る時にみんなの前でしたよな」
教師を避けて数歩、行くと、エドが沈黙を破った。
「ああ、覚えてるよ」と、桐畑は即座に嘘を吐く。
「じゃあまず、歴史のお勉強から入るか。ケントは、あんま得意じゃあないかも、だけど」
一呼吸を置いたエドは、変らぬ語調で説明を続ける。
「一五〇〇年、ポルトガル人に発見されたブラジルは、ポルトガルの植民地になった。そんでポルトガルは、アフリカ大陸で黒人を捕まえて、ブラジルに輸出した。黒人たちは、せまーい船にぎゅうぎゅう詰めにされたから、ブラジルに着くまでにいっぱい死んだ」
エドの顔付きは静かで、声からは感情が読み取れなかった。しかし桐畑は、何を答えて良いかわからない。先祖が受けた惨い仕打ちに、エドが平静でいられるわけがなかった。
「俺のご先祖様は、奴隷貿易でブラジルに連れてかれたナウラ族なんだよ。ポルトガル人が作ったでっかい農園で、きっつい条件で労働をさせられてたんだ」
(──奴隷貿易かよ。中学の授業でちょっと触れたが、冗談抜きで非人道的だったんだな。まったく、イカれてやがんぜ)
エドの横顔を視界に入れる桐畑は、静かに憤る。
「時は流れて、今世紀の初め。フランスのナポレオンにやられそうになったポルトガルの王様は、植民地のブラジルに逃げてきた。だけど、イギリスがフランスをやっつけてくれて、一八二二年だったかな。王様は、ポルトガルに戻れたんだよ」
(良く覚えてんな。まあ、自分の国の歴史だから、当たり前か。俺みたいに母国の歩みに無関心な奴のが、世界的には珍しいんだよな。要反省、だ)
桐畑が神妙に思考する一方で、エドの語りは続く。
「ブラジルにいたポルトガル人には、王様と一緒に戻った人もいるわけ。俺のじいちゃんの所有者も、そうだった。ポルトガルで商いを始めて、連れ帰った爺ちゃんを召使い奉公人としてこき使ってた」
『こき使ってた』の部分は、吐き捨てるかのようにも聞こえた。初めて見えたエドの怒りに、桐畑は強く共感する。
「奴隷の子は奴隷だから、俺も生まれながらの奴隷だった。でも五年前。爺ちゃんの所有者が亡くなって、当主が所有者の子供になった。ああ、爺ちゃんはとっくに死んでるよ。で、この当主がすんごい良い人でさ。奴隷、反対だっつって、俺たちにお金をくれて、英葡永久同盟で仲の良いイギリスに送り出してくれたんだよ」
エドの口振りに、いつもの子供っぽさが戻った。
(よっぽど、その当主が好きなんだな。エドはやっぱり、こうでないとな)
桐畑は、微笑ましい思いだった。
「俺たちが移住したら、すぐにホワイトフォードが声を掛けてきた。『カポエィラの腕前からわかるように、エド君には運動の才能があります。お金は心配しなくて良いので、うちに来ませんんか』ってね。ソッコーで飛び付いた結果、俺は今、ここにいるってわけだよ」
誇らしげなエドは歩みを止めた。桐畑が向き直るとエドは、桐畑の目をじっと覗き込んできた。
「まだまだ色々不平等だけど、イギリスには奴隷制度廃止法がある。でもポルトガルではまだ奴隷が認められてるし、カポエィラだとか、アフリカの文化が抑え付けられてんだよ。だから、次の試合は心配なんだ。俺だけ、めっちゃくちゃなファールを食らったりしないか、ってね」
言葉を終えるなり、エドは力なく笑った。
(そういや二十一世紀でも、ブラジル出身の選手に「黒人、死ねよ」って暴言を吐いた奴がいた。その百年も前の植民地すら存在する時代じゃ、不安どころの騒ぎじゃねえか)
深刻に考えた桐畑は、エドを勇気付けるべく全力で頭を回転させる。
「大丈夫だって。俺、アルマ、ブラム、ダン校長。他の会員たちもだ。お前には、心強い味方がいるだろが。なんかされたら、すぐにチクってこいよ。俺が即刻、ぶっ飛ばしてやっから」
桐畑が自信満々に宣言すると、エドは「ケント」と、目に涙を浮かべ始めた。
「それ以前にな。ファールされるかもって話だけど、だーれもお前にゃ触れられないよ。お前のすばしっこさ、半端じゃねえし。動き回ること、鼠の如しってな」
「あったりまえじゃん! なんてったって俺は、ホワイトフォードのスピード・キングだからな!」
桐畑の勢い任せの励ましに、エドは瞳を煌めかせた。根拠はどこにもない。それでも桐畑には、準決勝に敗北するビジョンが浮かばなかった。
エドは、数秒の硬直の後に、表情をわずかに暗くした。
「わかったよ。でも、もう練習だし、グラウンドに向かいながらで良いかな?」
絞り出すような声音は、苦渋を感じさせた。
「おう、んじゃ行くか」と抑えた調子で返した桐畑は、ベッドから抜け出した。
傍にいた看護士に復調を告げた桐畑は、エドと並んで病院の外へと向かう。人通りの少ない場所が良いと考える桐畑は、まだ黙ったままだった。
二人は無言のまま建物から出て、敷地を囲む柵の間の門へと歩いていく。
桐畑は、目の動きだけでエドを見た。前へと視線を遣り続けるエドは、一見無表情だが、眼差しは沈んでいる。
「以前に少し聞いたことだけど、昨日の練習後のダン校長の台詞の、『ポルトガルに因縁のある者』って、エドだよな。具体的に何があったんだ?」
興味本位と取られないよう、桐畑は淡々と端的に問うた。「以前に少し聞いた」の文言で、自らの知識量を曖昧にしていた。
「ん? 俺、ケントに話した記憶はないよ。……ああ、誰か他の人から聞いたって意味か。まあ、口止めしたわけじゃあないし、悪気はないんだろうから、怒りはしないけどさ」
エドの返事は丁寧だが、ロー・テンションだった。ケントは神妙な思いで、言葉の続きを待つ。
前方から桐畑のラテン語の教師が、ゆったりとした足取りで近づいてきていた。二人が帽子に手を当てて会釈すると、教師は寛大な笑顔で小さく頷いた。
「どっから話すかなー。俺が、アフロ・ブラジリアンだって話は、結社に入る時にみんなの前でしたよな」
教師を避けて数歩、行くと、エドが沈黙を破った。
「ああ、覚えてるよ」と、桐畑は即座に嘘を吐く。
「じゃあまず、歴史のお勉強から入るか。ケントは、あんま得意じゃあないかも、だけど」
一呼吸を置いたエドは、変らぬ語調で説明を続ける。
「一五〇〇年、ポルトガル人に発見されたブラジルは、ポルトガルの植民地になった。そんでポルトガルは、アフリカ大陸で黒人を捕まえて、ブラジルに輸出した。黒人たちは、せまーい船にぎゅうぎゅう詰めにされたから、ブラジルに着くまでにいっぱい死んだ」
エドの顔付きは静かで、声からは感情が読み取れなかった。しかし桐畑は、何を答えて良いかわからない。先祖が受けた惨い仕打ちに、エドが平静でいられるわけがなかった。
「俺のご先祖様は、奴隷貿易でブラジルに連れてかれたナウラ族なんだよ。ポルトガル人が作ったでっかい農園で、きっつい条件で労働をさせられてたんだ」
(──奴隷貿易かよ。中学の授業でちょっと触れたが、冗談抜きで非人道的だったんだな。まったく、イカれてやがんぜ)
エドの横顔を視界に入れる桐畑は、静かに憤る。
「時は流れて、今世紀の初め。フランスのナポレオンにやられそうになったポルトガルの王様は、植民地のブラジルに逃げてきた。だけど、イギリスがフランスをやっつけてくれて、一八二二年だったかな。王様は、ポルトガルに戻れたんだよ」
(良く覚えてんな。まあ、自分の国の歴史だから、当たり前か。俺みたいに母国の歩みに無関心な奴のが、世界的には珍しいんだよな。要反省、だ)
桐畑が神妙に思考する一方で、エドの語りは続く。
「ブラジルにいたポルトガル人には、王様と一緒に戻った人もいるわけ。俺のじいちゃんの所有者も、そうだった。ポルトガルで商いを始めて、連れ帰った爺ちゃんを召使い奉公人としてこき使ってた」
『こき使ってた』の部分は、吐き捨てるかのようにも聞こえた。初めて見えたエドの怒りに、桐畑は強く共感する。
「奴隷の子は奴隷だから、俺も生まれながらの奴隷だった。でも五年前。爺ちゃんの所有者が亡くなって、当主が所有者の子供になった。ああ、爺ちゃんはとっくに死んでるよ。で、この当主がすんごい良い人でさ。奴隷、反対だっつって、俺たちにお金をくれて、英葡永久同盟で仲の良いイギリスに送り出してくれたんだよ」
エドの口振りに、いつもの子供っぽさが戻った。
(よっぽど、その当主が好きなんだな。エドはやっぱり、こうでないとな)
桐畑は、微笑ましい思いだった。
「俺たちが移住したら、すぐにホワイトフォードが声を掛けてきた。『カポエィラの腕前からわかるように、エド君には運動の才能があります。お金は心配しなくて良いので、うちに来ませんんか』ってね。ソッコーで飛び付いた結果、俺は今、ここにいるってわけだよ」
誇らしげなエドは歩みを止めた。桐畑が向き直るとエドは、桐畑の目をじっと覗き込んできた。
「まだまだ色々不平等だけど、イギリスには奴隷制度廃止法がある。でもポルトガルではまだ奴隷が認められてるし、カポエィラだとか、アフリカの文化が抑え付けられてんだよ。だから、次の試合は心配なんだ。俺だけ、めっちゃくちゃなファールを食らったりしないか、ってね」
言葉を終えるなり、エドは力なく笑った。
(そういや二十一世紀でも、ブラジル出身の選手に「黒人、死ねよ」って暴言を吐いた奴がいた。その百年も前の植民地すら存在する時代じゃ、不安どころの騒ぎじゃねえか)
深刻に考えた桐畑は、エドを勇気付けるべく全力で頭を回転させる。
「大丈夫だって。俺、アルマ、ブラム、ダン校長。他の会員たちもだ。お前には、心強い味方がいるだろが。なんかされたら、すぐにチクってこいよ。俺が即刻、ぶっ飛ばしてやっから」
桐畑が自信満々に宣言すると、エドは「ケント」と、目に涙を浮かべ始めた。
「それ以前にな。ファールされるかもって話だけど、だーれもお前にゃ触れられないよ。お前のすばしっこさ、半端じゃねえし。動き回ること、鼠の如しってな」
「あったりまえじゃん! なんてったって俺は、ホワイトフォードのスピード・キングだからな!」
桐畑の勢い任せの励ましに、エドは瞳を煌めかせた。根拠はどこにもない。それでも桐畑には、準決勝に敗北するビジョンが浮かばなかった。