たまきの唇の端が上がり、にやりと笑った。 

「そういうだろうと思って、ほら用意してるよ」

 いつのまにか、たまきの左手には、二本目のラーメンフォークスプーンが握られていた。

「騙されたと思って、試してごらん」

 関本はたまきから受け取った文明の利器を使って、さっそく先端にそばを絡め、くぼみに出汁をすくい取り、いっきに口に運んだ。ところがだ。口に運んでいるあいだに、出汁をテーブルの上にこぼしてしまい、関本は首を傾げた。

「めちゃくちゃ使いづらいんだけど」

 思いっきりしかめ面をしている関本を見て、たまきはおかしそうに笑いをかみ殺していた。立場が逆転したかのような、悪い顔だ。

「関本にも苦手なことがあったんだね!」

 悪い顔のたまきを前にして、関本の頬はいつしか綻んでいた。

 こんな風に、おかしそうに笑っているたまきを見るのは、いつ以来だろうか。たまきとは同じ幼稚園に通っていた頃からの仲だ。よく、たまきん家の蕎麦屋にお邪魔さしてもらい、子供用の小さな器に、はさみで切られた短いそばを、いつも並んで一緒に食べていた。あの頃のたまきは、そばが大好きで、いつもおいしそうに食べながら、笑っていたっけ。

「すぐに使いこなすのは無理だわ。たまきに負けないように特訓する。にしても、よくこんな物見つけたね?」 

 さっきからラーメンフォークスプーンとたまきは呼んでいるけど、先端がフォーク、奥側がスプーン。そんなおかしな形状のカラトリー、今まで見たことがない。

 どんぶりから顔を上げると、たまきは急に、真剣な顔つきになった。

「それがだね、どうやって見つけたと思う?」

「だから、それを聞いてるんだけど」

「これはね、なんと、うちにあったの」

「……たまきんちに?」 

 関本は驚きを隠せなかった。

 が、しばし思いを巡らしていると、昔の記憶が蘇ってきた。子供の頃、たまきん家のおばさんは、変わった話し方をするなあと思っていた。後になって、どこかの地方の方言だということがわかった。

「もしかして……おばさんの出身地と関係する?」

 聞いたことある。どこかに、ラーメンフォークスプーンを標準装備している地域があるって。

「関本、すごいね、勘がいいよ。どうやらお母さんが地元の名古屋から、東京に出て来るとき、わざわざ持ってきた物らしいんだよね。名古屋の人には馴染みのアイテムらしいよ」

「……ていうことは、おばさんも、麺をすすれない……ってこと?」

 そうなのだ。本来、関本に言われるまでもない。

 長いあいだ、たまきはすする系麺類を食べるところを家族に見せてこなかった代わりに、母が食べるところも、見てこなかったのだ。小さかった頃のことはすっかり忘れてしまっているが、そういえば、母が麺をすするところを見た記憶がない。

「どうやら、そうみたい。お母さんは麺をすすれないことをまったく気にしてないから、今までそんな話をしようと思ったこともないみたい。なんか、バカバカしくなってきた。すすれても、すすれなくても、文明の利器を使っておいしく食べられるなら、もうなんだっていい気がしてきた」

 たまきの母は、たまきが家族と一緒にそばを食べてくれない理由に、おそらく気づいたのだろう。麺をすすれないことくらい、どうってことないと伝えたがったが、娘は完全に心を閉ざしてしまって、聞く耳を持たない。

 だからあの日、母は初めて、ラーメンフォークスプーンをさりげなく娘に渡すことで、娘を苦しみから救おうとしたのだ。

「ほんと、それ」

 関本はたまきの言葉に心底同意しながらも、文明の利器を使ってふたたびそばと出汁を同時に口に運びこもうとすると、今度はさらにそば、出汁とも、テーブルの上に大量にぶちまけてしまった。

「あーあ、フキン持ってこないと。ちょっと取ってくるね」

 たまきは椅子から立ちあがると、小走りで行ってしまった。

 目の前に広がるは、見事なびしょびしょ。だけどその光景とは対照的に、関本の心は青く澄み渡っていた。

 



                         【了】