蕎麦屋の店内を通り過ぎると、たまきは二階へと続く階段を足早に駆け上がった。

 父も母も、ただいまとも言わない娘に声をかけるしまもなく、互いに顔を見合した。

 関本と別れた後は、どこにも寄らず、まっすぐ家に帰ってきた。

 頭には、関本から言われた言葉がこびりついている。

 すすれるかどうかなんて関係ない、そんなことは気にせず、もっと食事を楽しもうよ。

 いまさら言われなくても、たまき自身これまで何度だって考えたことがある。

 麺がすすれなくても死にはしないし、そんなに困らない。外国ではそもそもすすらない。日本だけだ、すすることが粋な文化なんて。

 畳に寝転がると、沁みのある古い天井が見える。壁には、店から漂ってくる醤油が効いた鰹出汁の香りが染みついている。

 階段を誰かが上がってくる足音が聞こえた。建付けの悪い引き戸が開くと、母がおぼんの上に湯気の立つどんぶりを乗せて、顔を覗かしたので、たまきはとっさに畳に転がったまま片腕を顔に乗せ、顔を隠した。

「あんたの好きなとろろそばを持ってきたんだけど、食べるがね」

 顔を覆った真っ暗闇に、出汁ととろろの相まった芳醇な香りが漂っている。

「ここ、置いとくがね。食べ終わったら下げといてね」

 母はそれだけ言うと、引き戸を開けたところにどんぶりを置いて立ち去ろうとしたが、やはり物言わぬ娘が気になってしまい、もう一度振り返った。

「あんた、どうして家族の前みゃーでそば食べるのやめたん? 急に部屋で一人じゃにゃーと食べたくにゃーって言いだして。お母さん、できれば前みゃーみてゃーに、たまきと一緒にそば食べてゃーわ」

 それだけ言っても娘の反応はなく、母は仕方なく階段を下りていった。

 母がいなくなった後もたまきはしばらく同じ体勢を保っていたが、鼻孔をくすぐる醤油出汁の匂いには勝てず、畳の上から起き上がった。関本とパスタを食べてから、大分時間が経っていたので、お腹も空いていた。

 丸テーブルの前に胡坐をかき、どんぶりを見つめる。やわらかな湯気が立ち昇り、黒い出汁の中に白いみぞれのようなとろろがそばを覆うように浮かんでいる。

 たまきはそばを箸でほんの二、三本すくうと、しばらく麺を見つめ考え込んでいるようだったが、意を決したように、すするのではなく、箸でそばを口に運び入れ、ゆっくりと咀嚼した。それかられんげで醤油出汁をすくい、口に流し入れた。

 すすることが粋だと言っても、どのような食べ方をしたところでそばの味が変わるわけではない。

 ささやかなことに固執して、おいしいという感動をないがしろにしてきたのかもしれない。それどころか、麺食を苦行とすら捉えていたところがある。

 無駄な努力だったのだろうか。一粒の涙がたまきの頬を伝った。涙がどんぶりの中に落ちそうになったすんで、素早い動作で掌の上に涙を受け止めた。涙の塩気が足されて、味がしょっぱくなってしまっては、それこそそばに失礼だ。食べ方以前の問題だ。

 さっきから不思議な物体がたまきの目に止まっていた。おぼんの上、箸のとなりに、銀色に輝く存在感抜群のある物が添え置かれていたのだ。母が用意したのだろうが、このような衝撃的な物体を見たのは、たまきにとって生まれて初めてのことだった。