「お前だけ剣を持ってるなんて不公平だろ? 見かねた八岐大蛇様が下さったんだよ、この草薙剣を!」
伊吹は容赦なく草薙剣をこちらに向けてくる。
ただ振り下ろすだけで凄まじい斬撃だ。突けば、銃弾のように圧が飛んでくる。一度左肩に掠ってしまったが、そこからの出血が止まらない。じわじわと制服が赤く染まっていく。
天羽々斬であれば受け止められるはずの攻撃。これまでだっていろんな攻撃を受け止めてきた。どれだけの攻撃を受け止めてもびくともしていなかったはずだ。こんなにも受け止めることが怖い攻撃があっただろうか。極力構えないようにと辛うじて攻撃を躱しつつも、やはり咄嗟に天羽々斬に頼ってしまいそうになる。
このままでは駄目だと、千早は隙を見つけて天羽々斬に話しかけた。
「お願いです、人の姿に戻ってください!」
≪戻ったとして、誰が戦えるのだ。私のことは気にせず、剣を振るえ≫
「だ、だって! もしそれで、それ、で」
折れてしまったら。
言葉にはできなかった。唇を噛み締め、伊吹の攻撃を頭の位置を下げて避ける。ぐっと力を込め斬撃を放つも、草薙剣によって難なく弾かれてしまった。千早が攻撃を当てるには、伊吹の身体に直接当たるようにしなければならないのかもしれない。
距離を取り、天羽々斬を構えようとしてやめる。人の姿に戻ってほしい。伊吹には勝てないが、この場から去ることはできるかもしれない。
伊吹に勝てないことよりも、天羽々斬が折れてしまうことのほうが心配だ。今も戦いよりもそちらに気を取られ、何とか躱してはいるものの小さな怪我が増えている。
「ほら、よそ見すんな!」
振り下ろされる剣を天羽々斬で受け止めてしまう。しまったと千早は振り払い距離を取るも、時すでに遅し。またしても刀身が欠けてしまう。
痛みはないのか。これは元の綺麗な刀身に戻るのだろうか。
天羽々斬に訊けば、おそらく「大丈夫だ」の一言しか返ってこないだろう。飛んでくる斬撃を、身体を地面に転がして躱す。力を込めながら体勢を整え、敢えて伊吹の懐に飛び込んでいく。
このままでは防戦一方。天羽々斬もあの夢が現実になってしまう。では、どうすればいいか。
伊吹に攻撃をお見舞いし、退いてもらうしかない。
近づけさせまいといくつもの斬撃が飛んでくるが、天羽々斬は使わずに自身の身体能力のみで躱していく。怪我は多少は負うものの、どれも致命傷ではない。血を流しつつ、伊吹の懐に入り込むと先程よりも力を込めた一撃を放つ。
その一撃は草薙剣で防ぐことが間に合わず、伊吹の身体に直撃した。勢いよく吹き飛んでいき、ドン、と大きな音を立てて大木にぶつかる。
立ち上がるな、退いてくれ、と千早は祈るが、その願いは虚しく、伊吹は口から血を流しながら立ち上がる。
にい、と口角が上がった次の瞬間、伊吹の姿が消えた。どこだと探す間もなく、千早の右側から気配を感じた。振り向く頃には剣が振られ、奇を衒ったその攻撃に、身体は無意識に天羽々斬を構えてしまう。
駄目だと気が付いたときには、伊吹の剣は天羽々斬の刀身に当たり、金属同士がぶつかる音が耳を劈く。幸い、欠けることはなかったが、このまま攻撃を受け続けるのはまずい。距離を取ろうと後ろに何度か飛ぶものの、伊吹が一瞬で詰めてきてしまう。
そして、剣が振り下ろされるのだ。天羽々斬で受け止めるように、わざと。
これでは、狙いが千早ではなく──。
「まさか、折ろうとしてますか」
「そのまさかだよ。戦力を削いでやろうと思って、ね!」
天羽々斬で受け止めたくないのに、伊吹の攻撃がそれを許してくれない。ガキン、と音がするたびに、千早の表情が歪む。
「ついでに、お前の心も折ってやるよ!」
「わたし、の心?」
「特別なんだろ? それ」
それ、と言いつつ伊吹は草薙剣を天羽々斬に向けて振り下ろす。
何を意味しているのか。それを察した千早は目を丸くし、息を呑んだ。だが、その表情すら見ていて楽しいと攻撃は止まない。
ははは、と笑いながら伊吹は何度も何度も振り下ろす。静かな山に似つかわしくない、金属がぶつかる音が響いた。
「特別を、折ってやるよ! ほら、ほらあ!」
「もう、やめて!」
先程から、声が聞こえない。声をかける暇すら与えてもらえない。
「お前がそれを手放せばいいんだよ! そうすればこの剣はお前の身体にめり込み、その血肉を俺が喰って取り込む! それで終いだ!」
そうすることで天羽々斬を守れるならそうしたい。
しかし、千早がいなくなったあとは誰が八岐大蛇を、伊吹を相手にするのか。金色の瞳を持つ者は、スサノオの力を継ぐ者は、もう千早しかいないのだ。
負けるわけにはいかない。けれど、天羽々斬でこれ以上受け止めるのは無理だ。
どうすれば、とぐっと奥歯を噛み締めたとき、伊吹がぴたりと動きを止めた。横目で空中を眺め、不満そうな顔をしている。
「どうしてですか。今なら折れる。折ればいい。こいつらは揃っているから脅威なんですよ」
今なら距離を取れると、千早は急いで伊吹から離れる。天羽々斬を見ると、至るところが欠けており、目に涙が滲む。
きっと、痛いはずだ。ごめんなさい、ごめんなさい、と心の中で何度も呟いた。
距離を取り、天羽々斬を自身の後ろにやる。もう構えはしない。じっと伊吹を見ていると、彼はまだ何かと話していた。自身の思惑と違うようなことを言われ、苛立っているようだ。
「……はあ。わかりましたよ。そこまで脅威じゃないんですね、はいはい」
空いている手で頭を掻き、伊吹はこちらを見た。毒々しい赤色の瞳は殺気を放ちつつも、手に持っていた草薙剣を下ろす。
「お前らは、互いの目の前で殺してやるんだと。それがあの方の望みだ」
「あの方……?」
「はあ? 八岐大蛇様に決まってんだろ」
チッ、と舌打ちをし、千早を睨み付ける。今し方まで伊吹が話していたのは八岐大蛇だったようだ。ここで天羽々斬を折るべきだと言う伊吹に対し、八岐大蛇はいろはと千早の目の前でそれぞれを殺すことを望んだ。
その悪趣味のお陰で、これ以上はもう戦わなくて済む。ちらりと後ろに持っている天羽々斬に目をやり、千早は小さく息を吐き出す。
「伊吹山。俺達はそこにいる。どうぞ来てください、だとよ」
伊吹山。櫛名村にある、小さいながらに立派な山だ。伊吹の名はその山から取ったのだと彼の両親が話していた。
千早の返事を待たずに、伊吹は口の中にあった血を吐き出して背を向ける。今まで戦っていた相手に背を向けるなど、油断しすぎだ。そうは思っても、この状態の天羽々斬を振るう気力もない。
その背を静かに見送り、見えなくなってから千早は急いで山を下りた。途中、坂道で足がもつれ転がったが、膝の痛みなど気にせずに走り続ける。
何とか麓まで来ると、息を整えることなく一目散に家へと向かった。ボロボロになっている刀剣を持った千早を見て驚く者達もいたが、それどころではない。
疲れや痛みを気にせず走り続け、ようやく家へと辿り着く。されど、ここからどうすればいいかわからない。千早は「天羽々斬様」と返事があるまで何回も呼び続ける。
≪……千早≫
「天羽々斬様! よかった……」
≪む、何だかその呼び方はむず痒いな。いつもの呼び方が良い≫
そう言って、天羽々斬は人の姿へと形を変える。
その姿に、千早は言葉を失った。
「ふむ、やはりこうなるか。些か、ふらつきも……千早?」
「血、血が……怪我……!」
顔も身体も傷だらけで、血が流れていた。欠けた刀剣が人の姿になると、このような状態なのかと唇を噛み締める。いろはは自身の右手を開き、ゆっくりと力無く握り締めた。
「これほどやられたのは初めてだ。それも、同じ神剣に」
ふら、といろはが前に倒れそうになり、千早は慌てて身体を抱きしめる。千早の右肩に顔を乗せると、短い呼吸を繰り返すいろは。
このまま、治せずに欠けたままだったら。いろははずっと、このままなのだろうか。
いなくなって、しまうのだろうか。
カタカタと小刻みに震えているのがいろはに伝わったのか、ふ、と小さく笑うと千早の背中をポンポンと優しく撫でてくれた。
このようなときでも、自分のことではなく千早のことを考えている。それが今は申し訳なかった。
「すまない。少し、眠る……」
千早の背中を撫でる手が落ち、いろはから力が抜ける。
「いろはさん……!? いろはさん、いろはさん!」
呼びかけても、いろはから返事が返ってくることはなかった。
いろはが眠りにつき、一週間が経過した。
最初の頃の千早と同じく、ずっと眠り続けている。
「いろはさん……」
自分がしてもらっていたようにと、千早もいろはの右手を握っている。だが、力が回復しているようには到底思えない。
倒れるところまではいっていないものの、力を使いすぎているのかと食事を多めに摂ったりもしている。そのお陰か、千早の力は回復傾向にあった。祖父母は「きっとお目覚めになる」と励ましてくれるものの、こういうときに何もできない自分の力のなさが歯がゆくて仕方がない。
千早は窓の外の景色を見た。日が燦々と差し、鮮やかな緑の葉っぱが気持ちよさそうに揺れている。
ここは千早の部屋ではなく、玉藻の部屋となった元いろはの部屋だ。玉藻に事情を話し、今回はこの部屋でいろはを寝かせていた。代わりに、玉藻には千早の部屋を使ってもらっている。
「千早チャン」
襖を開け、玉藻が顔を覗かせた。ちらりといろはに視線をやり、千早を見る。言葉にはしないものの、彼なりに心配しているのだろう。
「今からおじいちゃんとおばあちゃんと伊織の見舞いに行ってくるわ。何かいるものある?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「ほな、行ってくるから。……無理したらあかんよ」
パタン、と襖を閉めると、ギシギシと廊下を歩く音が聞こえる。
「玉藻さんも、随分とこの生活に馴染みましたよね。今では欠かせない人です」
人ではなく狐でした、と笑うも、返事はない。
ぎゅっといろはの右手を両手で握る。視界が滲み、涙が目尻から溢れた。その涙は頬を伝い、ぽた、ぽたといろはの右手の上に落ちる。
「いろはさんも、欠かせないんです。わたしの日常にはいろはさんがいないと……寂しいんです」
いつものように、話しかけてほしい。いつものように、笑いかけてほしい。
涙は止め処なく溢れ、抑えようとしても声が漏れ出る。いろはの右手を抱え込むように蹲り、千早はとうとう声を出して泣いた。
助けてもらうばかりで、助けられない。与えられるばかりで、与えることができない。
いろはにしてあげられることが、何もない。
無力だとは思っていたが、ここまで無力だとは思わなかった。
そこでふと、あることを思いついた。ゆっくりと身体を起こし、いまだ眠り続けるいろはを見る。
何故、これまで思いつかなかったのか。握っていたいろはの右手を離すと、自分の手で涙を拭う。そして、少し前の方へ行き、身体を伸ばしておそるおそる彼の顔を両手で包んだ。
指輪のように、一方通行でなければ。
「いつも、してくれてましたよね。今度は、わたしから」
普段であれば、恥ずかしいと思うはずなのに。千早は小さく笑みを溢した。
早く目を覚ましてほしい。早く回復してほしい。早く、声を聞かせてほしい。今はそんなことばかり思っている。いろはも、いつもこんな気分だったのだろうか。
千早はいろはの顔に自身の顔を近づけていき、目を瞑って唇を重ねる。いつも、どうやってキスをされていたか。そんなことを考えながら、千早なりにキスを続け、力を流し込む。
息が続かなくなり、一度唇を離す。呼吸を整え、再び唇を重ねた。これを何度も繰り返す。心の中で、いろはの名を呼びながら、何度も、何度も。
少しして、そっと唇を離した。力は流し込めているのだろう、怠さが千早を襲うが、奥歯を噛み締め堪える。小さく息を吐き出すと、いろはと額を合わせるように自身の額を乗せ、目を瞑った。止まっていた涙が溢れ、その滴がいろはの瞼に落ちる。それはまるで、いろはの涙のように伝っていった。
「いろはさん、起きてください。いろはさん」
いろはの名を呼び続ける。その声は次第に震え、名を呼ぶことができなくなった。
千早の嗚咽を我慢した泣き声だけが、静かな部屋に残る。
短い呼吸を繰り返し、涙でいっぱいになった目を開いた。やはり、いろはの瞼は開かれていない。
「いろは、さ……寂しい、よお」
苦しくて堪らない。
いろはがいなくなってしまうのではないかという恐怖。もうずっと、胸が締め付けられている。
以前抱いた、名前がわからない感情。
嬉しいはずなのに、苦しくて。苦しいはずなのに、嬉しくて。
今ならわかる。この感情の名前が。
目に溜まった涙を流すように、瞼を閉じる。
「いろはさんのことが、好き。好きなんです。だから、いなくならないで」
「そうか、私のことを好いてくれているのか」
その声に目を開く。至近距離でアメジストの瞳と目が合い、あれほど流れていたはずの涙がぴたりと止まった。ぱち、ぱちと何回か瞬きをしたあと、今の状況を思い出して慌てて離れる。
瞬きを何回しても、目を擦ってみても。布団に寝転んでいるいろはが、目を開けてこちらを見ている。
「い、いろは、さん?」
「そうだ、私だ。目が赤いぞ、泣いていたのか」
そう言って、いろはは気怠そうに身体を起こす。まだ完全に回復には至っていないのだろう。いつもよりも動きが鈍い。
手伝わなければ。されど、千早はいろはが目を開けた衝撃から抜け出せずにいた。
身体よりも先に感情が走り出し、それを現すかのように涙が一気に流れ出す。いくつもの涙が頬を伝い、落ちていく。数滴ほど落ちたあと、ようやくいろはの元へと身体を動かした。
胸元へ飛び込み、背中へ手を回す。これでは、支えているのではなく抱きしめていることになるのだが、どうしても感情が先走る。
うまく感情がコントロールできていない。場面としても不正解だ。自分でもわかっているはずなのに、今はこうしていろはを抱きしめたかった。
「千早?」
頭上から、いろはが珍しく戸惑っている声が聞こえる。それでも、千早がいろはから離れることはない。強く抱きしめ、胸元に顔を埋める。
言葉にしたいことはたくさんあった。どこまで回復できているのか、欠けてしまった部分は元に戻っているのか、あのとき痛みはあったのか。それなのに、うまく言葉にできない。涙で呼吸が乱れているのもあるが、それ以上にただただいろはのぬくもりを感じていたかった。いなくなってなどいない、傍にいるのだと、実感したかった。
背中に手が置かれ、優しく撫でられる。すん、と鼻を啜ると、いろはが小さく笑みを溢した。
「千早のお陰で目を覚ますことができた。ありがとう」
「……っ、下手で、すみません」
やっと言葉が出たものの、いろはと会話ができたことでまたしても涙で息ができなくなりそうになる。落ち着かなければと、すう、と大きく息を吸って吐き出す。
「い、一応、どんな風にされてたかなって思い出しながらしてみたんですけど、本当によかった」
「ん? 手を繋ぐことに上手い下手があるのか?」
「それはさすがにないと……って、え?」
どうしてだろうか、会話が噛み合わない。顔を上げると、いろはも困惑しているようだった。
「千早が話をしているのは、手を繋ぐことではないのか。他に何かしてくれていたのだな、気が付かなくてすまない。何をしてくれていたのだろうか」
これは意地悪を言っているわけではない。純粋に気にしているようだ。
だからと言って、自分の口から「キスしました」とは言えない。と考えていると、先程まで行っていたことを思い出してしまい、顔に熱が集中する。真っ赤になっているのが自分でもわかるほど熱く、千早は再び顔をいろはの胸元に埋めた。
「そういえば、私のことも好きだと言ってくれていたな。千早、好きとはむごご」
「わああぁぁぁぁああ!」
顔を上げ、ぱん、と音が鳴るほどの勢いでいろはの口を両手で塞ぐ。そのままの勢いでいろはが後ろに倒れてしまい、つられて千早も彼の上に覆い被さる形で倒れてしまった。急いで起き上がろうとするも、背中に手を当てられ起き上がることができない。
何とか離れなければと顔を真っ赤にして藻掻く千早に、いろはは口角を上げにやりと笑う。
「ここまで力が回復しているのも千早のお陰だな? もしや、千早自らキスとやらをしてくれたわけか」
「う、あ、あ……」
「ふむ、ありがたいが、できれば起きている間にしてもらいたかったな。あれは回復のためだが、何せ気持ちが良い。回復など関係なしにしたいものだ」
「ハレンチです! セクハラです! そ、それにですね、あ、ああ、あれは、力の回復のためであって、べっ、別にわたしはそういう気持ちとか、別に」
ではもう一度試そう、と顔を両手で包まれ、強引に顔が引き寄せられた。
いろはの唇が当てられ、舌が入ってくる。自らが入れている側のときは、まったく違う感覚。ぞくぞくとしたものが全身に走り、力の回復をしているはずなのに、身体の力が抜けそうになる。
(気持ちがいいとか。そういうのじゃ、ない。これは、仕方なく。そう、仕方なく)
そうは思いつつも、自分の感情に気が付いてしまったからだろうか。キスをされることに恥じらいはあれど、嬉しいという気持ちが芽生えていた。
ようやく離してもらえた千早は、一度部屋を出ていろはの飲み物を用意していた。リクエストは濃いめの緑茶。いろは専用の湯飲みに緑茶を注ぎ、それを盆の上に乗せて部屋へと戻る。
襖を開けて部屋に入ると、いろはは布団の上に座ったまま、窓から見える外の景色を眺めていた。
隣に座り、濃いめの緑茶が入った湯飲みを手渡す。
「ありがとう」
渡す際に、お互いの指がこつんと当たる。たったそれだけのことでも、千早の胸は高鳴った。盆を膝の上に置き、顔を俯ける。
好きだと自覚してから、何かがおかしい。
今し方のキスも、嬉しいと思っていた。こうして少しでも触れると、嬉しくなってしまう。
そして、何より──もっと触れたいと、思ってしまう。
いろはを見ると、彼は受け取った湯飲みに唇を当て、ふう、と息を当てている。緑茶を飲むために冷ましているようだ。
面と向かって告白をしたわけではないが、好きだと言ったことは聞かれていた。少女漫画が好きないろはだ、どんな意味を持っているか知らないわけがない。
けれど、と千早は再び顔を俯ける。
忘れていたわけではない。頭の中ではわかっていた。こうしていろはが人の姿をしていても、本来は刀剣。そもそもの在り方が違う。
だと言うのに、気が付けばその存在は千早の中で大きくなり、かけがえのないものとなった。好きという感情を抱くようになった。到底、叶わぬ恋だというのに。
馬鹿だ。何故あのとき口に出してしまったのか。胸の内に秘めておけばよかったものを。いや、そもそも好きだと気付くべきではなかった。
こんなにも、苦しい。
だが、好きだと口に出す前には、好きだと気付く前には、戻れない。
「千早」
いろはに名を呼ばれ、現実に引き戻される。顔を上げると、いろはは空になった湯飲みを両手に持ち、心配そうな表情でこちらを見ていた。
「私に力を与えて疲れているのではないか。休んだほうが」
「い、いえ、大丈夫ですよ」
湯飲みを受け取り、盆と共に畳の上に置く。早朝の鍛錬の成果だろうか、疲れていないことはないが、今すぐ休まなければならないほどでもない。今日、早めに眠れば何とかなるだろう。
それよりも心配すべきはいろはだ。目を覚まし、身体を起こすことまではできたが、まだ完全に回復しているとは言えない。
「あの、いろはさん、その……刀身は?」
「元に戻ったぞ。ただ、それは外見の話。今のままでは簡単に折られてしまうだろう」
もう少し休めば、身体も動かせるようにはなる。ただ、強度を取り戻すには時間がかかるようだ。いろはは小さく笑みを浮かべた。
「同じ神剣であれど、些か分が悪かったようだ。闇にも入り込まれた」
「え……!?」
「普段、私は夢というものを見ない。ただ、今回は暗い闇の中を歩いていた。きっと、あれが夢なのだろう」
眠っていたときの話だろうか。そして、その内容は以前に千早が見た夢そのもの。天羽々斬のいろはですらも、八岐大蛇は闇に取り込もうとしていたのか。
「歩けば歩くほど闇は濃くなり、私は少しずつ呑み込まれていく。わかっているのに、足を止められなかった。そのとき、後ろから手を引っ張られたのだ。後ろにいたのは、千早だった」
「わたし……?」
「そうだ。私が向かうべき場所はこちらではないと、手を繋いで前を歩いてくれた」
いろはの夢の中に現れた千早は、そのあと一言も発さなかったそうだ。話しかけても振り向いて微笑むだけ。だが、不思議なことに不安は一つもなかったと、いろはは笑った。
手を繋ぐぬくもりが、本物だと思ったからだと。
確かに、いろはが眠っていた間、手を繋いでいた。特に力も込めず、ただただ握っていただけなのだが、それが功を成したのだろうか。
「歩いていくうちに光が見えた。そこに向かってずっと案内してくれていたのだろう。そうしてその光に飛び込めば……目の前に千早がいた」
そこから先は、いろはの記憶と同じ。千早が、いろはに好きだと話しかけていた。視線が合い、何故か目を逸らしてしまう。
きっと、返事が来る。そう思ったのだ。
指先から冷えていくのがわかる。告白した者も、このような気持ちなのだろうか。怖くて怖くて、不安でたまらない。想いを受け入れてもらえなかったら。応えてもらえなかったら──。
千早は顔を上げ、胸元を両手で押さえながら立ち上がった。急に立ち上がった千早に、いろはも目を丸くして驚いている。
「ごっ、ごめんなさい。ごめんなさい……わたし、その、用事ができたので」
「千早、まだ話が」
いろはの制止を振り切り、千早は盆と湯飲みを持って部屋を出た。足早に廊下を歩き、台所へと向かう。
台所に入るとキッチンにカシャン、と音を立てるようにして盆を置き、息を吐き出しながら座り込んだ。
ここまで自分が欲張りだとは思わなかった。
在り方が違うとわかっていて。叶わない恋だとわかっていて。それでも尚、想いを受け入れてほしいと思っている。応えてほしいと思っている。
だから、あの部屋から逃げた。
欲張りな自分から。いろはから。
(卑怯だ。自分の想いを受け入れてほしいと思いながら、わたしはいろはさんの想いから逃げている)
自分が傷つきたくないがために。
本当は、返事を聞かなければならなかった。いろはが千早の想いを聞いて、どんな想いを持ったのか。
逃げていてはならない。いろはと向き合わなければ。
これは、千早が始めてしまったことなのだから。
* * *
千早がいなくなった部屋で、いろはは一人景色を眺めていた。
今も頭の中がまとまっていない。千早と話すことで整理しようとしたが、何かを察した彼女は部屋を出て行ってしまった。
そもそも、まとまっていないことがおかしいことだ。千早の想いへの答えは、元より決まっているはずなのに。その答えを認められない自分がどこかにいる。
それもそうか、といろはは笑みを浮かべた。
初めて千早と出会ったのは、彼女が二歳の頃。祖父母に連れられ、倉へとやってきたのだ。まだ拙い話し方だったが、柄を見て「ここにいるのは可哀想だ」と泣きながらに訴えた。それがあって、柄は倉から出され、この景観のいい部屋に置いてもらえることになった。
あの頃から、千早を見てきた。千早の成長を見守り、悩みを聞いてきた。千早と共に景色を眺め、四季の移り変わりを楽しんできた。千早と過ごしてきた日々は、いろはの中で今でも色づいている。
そんな千早に、何の想いも抱いていないはずがない。
可能であれば、これからも共に過ごしたい。同じ時間を生きたい。千早の隣に、並んでいたい。
「私も、人間であればよかったのにな」
好きだと言われ、嬉しかった。
その気持ちに応える資格がないことだけが、悲しかった。
いつも以上に食べるいろはに、祖父母も食べる手を止め口をぽかんと開けて見ていた。祖母の隣に座っている玉藻も同様である。
「そんなに食べて、腹壊さんの? ってか、胃袋どうなってんの?」
「大丈夫だ。すべて力になる」
「いや、それはわかってるけど」
おかわりしてくる、といろはは茶碗を持って立ち上がり、白米をよそいに行った。こんもりと山のように盛ると、席に戻って黙々と食べる。もう五度目だ。祖母に「大量に用意してほしい」と願い出ていたのは知っているが、まさかこんなに食べるとは。この光景を見ているだけで腹が膨れてしまう。
今のままでは折れてしまうといろはは言っていた。戦える状態にするためにも、普段よりも食べているのだろう。玉藻は箸を置き、机の上に肘をついて頬杖をつく。
「何しても目ぇ覚まさんかったのに、驚きやなあ」
行儀が悪いと祖父に怒られ、玉藻は姿勢を正す。その様子を横目で見つつ口を動かすいろはは、噛んでいたものをごくりと飲み込んだあと机の上に箸と茶碗を置いた。腕を組み、にやりと口角を上げる。
「よくぞ訊いてくれた。なんと、千早が私にキ」
「わあぁあぁあぁぁぁぁぁ!」
食器を乱雑に置き、千早は膝立ちをしていろはの口を両手で塞ぐ。机がガタガタと揺れ、行儀が悪いと祖父から二度目のお怒りがあった。ごめんなさい、と謝りつつ、いろはの口から手を離し、彼の耳元に顔を近づける。
「絶対に言わないでください」
「何故だ? 本当のことだ」
千早の小さな声に、いろはも小さな声で返してくる。目の前で声を潜めて話し始める二人に、一体何があったのかと祖父母と玉藻は顔を見合わせて首を傾げていた。
「その、キスしたとかそういうのは人に言わないんですよ。刺激的って、いうか」
「む。言ってはいけないのか。そうか、私は聞いてほしかったのだが」
適当な理由だが、いろはは口を尖らせつつも納得したようだ。はあ、と溜息を吐き、千早は自分の席に座る。落ち着こうと湯飲みを手に取り、中に入っているあたたかい緑茶を口に含んだ。
いろはも不服な様子で箸と味噌汁が入った椀を持つが、玉藻が尻尾をパタパタとさせ話しかけてくる。
「で、何があったん?」
「刺激的だから話しては駄目だそうだ」
そう言って、いろはは味噌汁を口にする。千早は飲んでいた緑茶を噴き出しそうになった。確かに言ったが、何をそのまま伝えているのか。慌てて飲み込んでしまったからか、変なところに入って咽せてしまう。注意しようにも咳が邪魔で何もできない。
心配した祖母が千早の背中をさする中、目をキラキラと輝かせた玉藻が前のめり気味で話を聞き始めた。いろははと言えば特に気にせず漬物に箸を伸ばす。
「刺激的って何!? めっちゃ気になるんやけど! いろは、何されたん? ボクもしてほしいなあ!」
「それは、駄目だ」
「はあ!? 自分だけおいしい思いしてずるいやんか!」
理由は話さず、駄目なものは駄目だといろはは白米を口に入れる。玉藻が駄々をこねるも、それには一切目もくれず。椀を置くととんかつを囓り、咀嚼する。表情は変わっていないものの、どこか機嫌が悪いようにも思えた。
さすがに玉藻も諦めたのか、つまらないと言いたげに息を吐き出す。ようやく咳が落ち着いた千早は祖母に礼を言い、いろはを見た。彼は黙々と目の前にある料理を口に運んでいる。
やはり、機嫌が悪い。玉藻が意味もわからずに自分もしてほしいと言ったことに苛立ったのだろうか。だとしても、いつもなら軽くいなしていただろう。
あとで話そうと思っていたが、そのときには機嫌は元通りになっているだろうか。小さく息を吐き出し、千早は残っている料理を食べてしまおうと箸を手に取った。
* * *
いろはが目覚め、元の千早の部屋に戻ることになった。部屋は掃除までしてくれたようで、綺麗に片付いている。玉藻らしいと思いつつ、千早は机へと向かう。いろはが眠りについていたとき、心配で学校を休んでいた。明日は久しぶりに登校するため、準備をしなければならない。すると、寝る準備ができたいろはが部屋に入ってきた。
「先にお布団に入っていてください」
「すまない。その言葉に甘えさせてもらおう」
シーツの擦れる音が聞こえる。いろはが布団に入ったのだろう。視線をそちらに向けると、両腕を頭の後ろに置き、仰向けになっていた。鞄に視線を戻し、一時限目から六時間目までの教科書とノートを入れて閉める。
机を離れようとしたとき、いろはに名を呼ばれた。はい、と返事をしつつ、布団へ向かう。
「話がしたい」
その言葉に、鼓動が速くなる。だが、もう逃げてはならない。千早は深呼吸をしたあと「もちろんです」と答え、部屋の電気を消すといろはの横に寝転んだ。
仰向けになり、天井を見る。あらかじめ暗くしておいてよかった。緊張と不安から小刻みに震える手を見られなくて済む。
「千早も知っているとおり、私は天羽々斬だ」
顔を動かしていろはを見ると、彼は身体をこちらに向けて話をしていた。千早も右側を向くために身体を動かす。部屋の暗さに目が慣れ、いろはと視線が交じる。
「人間ではない私には、千早の想いに応える資格がない」
返事については、何となく想像がついていた。それでも、胸が締め付けられる。
こうして向き合い、返事をしてくれただけでもありがたいことだ。その返事に傷つき、涙を流すのはいろはを困らせるだけ。そう言い聞かせても、涙は滲む。千早は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「あ……ありがとう、ございます。わたしが、一方的にお慕いしているだけです。なので、気にしないでください」
涙が溢れそうになり、千早は身体の向きを変えていろはに背中を向ける。その瞬間、涙が溢れた。胸が苦しくてたまらない。
わかっていたはずなのに、好きだという気持ちは走り出してしまった。こんなに近い距離にいて、どれだけ手を伸ばしても届かない、遠い存在に向けて。
そんな千早を、いろはは愚かだと笑うことなく返事をくれた。それだけでありがたいことなのに、こんなにも胸が締め付けられるのは何故なのだろうか。好きだという気持ちは拒絶されていない。ただ、応えられないというだけ。
漏れそうになる声を抑えるように両手で口元を押さえ、目を瞑る。
受け入れなければ。いろはの返事を。
「千早」
名を呼ばれるも、後ろを振り返る勇気は出ず。ただただ身体を震わせていると、後ろから優しく抱きしめられた。
「覚えているか、倉にいた私を出してくれた日を」
「……おじいちゃんとおばあちゃんから聞きました。わたしが駄々をこねて、倉から出すことになったって。部屋も、わたしが決めたって」
「ああ、そうだ。懐かしいな」
千早の後頭部に、こつんといろはの頭が当たる。
「私はその頃から千早を見てきた。千早と共に、これまでの時を過ごしてきた。数多の時を過ごしてきたが、千早と過ごした時が何よりも楽しかった。今でも、私の中で鮮明に色づいている」
どうして、今そのようなことを話すのだろうか。
これではまるで──千早は期待しそうな自分に現実を見るよう唇を噛んだ。もう、返事はもらった。期待すればするほど、苦しくなるのは自分だ。しかし、抱きしめられる力が強くなり、千早の中にある期待は消えてくれない。
離れてほしいと伝えよう。これ以上は、もう耐えられそうにない。そう思ったとき、千早、と掠れた声で名を呼ばれた。
「私は、今ほど人間が羨ましいと思ったことがない。応える資格がほしい。これからも、千早と共に過ごしたいのだ。同じ時を、生きたいのだ」
その声はどこか悔しさを滲ませ、辛そうに絞り出していた。
いろはの腕に手を添え、ぽろぽろと涙を溢す。人間が羨ましいと言ったいろはの気持ちがわかる。
こうして想いが通じ合っても、なんて遠いのだろうか。
想いが通じ合っているとわかっても、胸は苦しいまま。
同じ時間を過ごしたい。これからも一緒にいたい。こんな小さな夢ですら──ふと、千早はあることが気になった。鼻を啜ると、小さく息を吐き出していろはに話しかける。
「もし、八岐大蛇が退治できたら……いろはさんは、どうなるんですか?」
柄を大事にするようにと言われていたが、それはいつか復活するであろう八岐大蛇を退治するため。では、退治できればどうなるのか。いろはは千早を抱きしめていた腕を離し、仰向けになる。背を向けていた千早も仰向けになり、顔だけを動かしていろはを見た。
「わからない。役目を果たしたということで柄に戻るのか、それともこのまま過ごせるのか」
ただ、といろはは言葉を続ける。
「退治するにしても、無事では済まないだろう。向こうには草薙剣がある」
伊吹が持っていた、青銅色の剣。八岐大蛇からもらったと言っていた。いろはは、あれは神剣だとも。ただの剣ではないだろうと思っていたが、これまでどのような攻撃にも耐えてきた天羽々斬の刀身が欠けるとは。
八岐大蛇と対峙するということは、伊吹が必ず出てくる。あの草薙剣はどうやっても避けられない。
「あのような剣を隠し持っていたとは。スサノオも驚くだろうな」
「……どうして、今になって」
「皮肉のつもりかもしれないな。スサノオの血と力を継ぐ者が八岐大蛇の眷属となった。神剣も与え、同じくスサノオの血と力を継ぐ者と天羽々斬と対峙させる」
溜飲を下げようとしているようだ。千早そんなことを思った。
かつて、八岐大蛇はスサノオに身体を切り刻まれ、心臓を封印された。恨んでいないはずがない。
そして、今。スサノオの血と力を継ぐ者を手中に収めることができた。その者を、伊吹を使い、争わせ、窮地に立たされそうになっている千早達の姿を見て楽しんでいるのかもしれない。
スサノオの血と力を継ぐ者同士が争っているぞ、と。
「今回、欠ける程度で済んだのは不幸中の幸いと言うものだ。次は折れるやもしれんな」
いろはの言葉を聞き、千早は勢いよく上半身を起こした。折れた夢を思い出したのだ。何も知らないいろはは目を大きく開いてこちらを見ている。
「も、もし、折れてしまったら。いろはさんは、どうなるんですか」
そうだな、といろははゆっくり起き上がり、胡坐を組む。項垂れるようにして顔を下げ、両手を膝の上で握り締めた。
「神剣同士とはいえ、草薙剣とは相性というものが悪い。最悪、神剣としての力を失うだろう」
「失えば、いろはさんは、消えてしまう……?」
「おそらく。現に、回復に時間がかかっているのがその証拠だ」
言葉が出なかった。
八岐大蛇を退治しないという選択はない。スサノオの血と力を継ぎ、戦えるのは千早のみ。このまま放っておけば、悪夢のような過去が再来するだろう。何としてでも退治しなければならない。
されど、あの草薙剣をどうすればいいのか。天羽々斬で戦うのは避けられない。欠けることは間違いないだろう。では、折れてしまったら──。
千早はぐっと奥歯を噛み締める。この戦い、こちら側の失うものが大きすぎる。戦わなければならないことはわかっていても、逃げようと口に出してしまいそうだ。逃げて、二人でひっそりと生きていこうと。
そんなことはできないと、わかっているのに。
「千早、私のことは気にせずに戦え」
「でも!」
「我々は、八岐大蛇を退治することが目的だ。その目的を果たすことができるのであれば、折れたとしても悔いはない」
俯けていた顔を上げ、いろはは目を細めて笑う。
どうして笑えるのだろうか。折れてしまえば、神剣としての力を失う。いろはが、いなくなってしまう。
千早はいろはの胸元に顔を埋め、目の前にある服を握る。
「千早」
「……さっき、一緒に過ごしたいって言ってくれたじゃないですか。同じ時を生きたいって、言ってくれたじゃないですか」
「そうだな。それは本心だ」
そこでいろはは言葉を止めるも、本心だけでは駄目だと続いているように思えた。
折れることを恐れていては、八岐大蛇に立ち向かえない。伊吹すら倒せない。そんなことは、千早もわかっている。
けれど、いろはを失いたくないのだ。いろはがいない日常が考えられない。いろはがいない未来を、考えたくない。
「千早、私は折れても悔いはないと言ったが、折られるつもりはない」
顔を上げると、いろはは口角を上げ、少年のような笑みを浮かべていた。
「草薙剣に折られるなど、負けたような気分になる」
負けず嫌いが移ったな、と笑ういろはに、千早もたまらず笑みを溢した。同時に、涙が頬を伝う。
八岐大蛇をこのままにしてはおけないが、いろはを失いたくない。その気持ちに整理はついておらず、これからもつくことはないだろうが、いろはは腹を括っている。ならば、千早も覚悟を決めなければならない。
「……わたしは、八岐大蛇は退治しなければいけないと思ってます。それ以上に、いろはさんを失いたくないって、思ってます」
袖で涙を拭い、いろはを見た。
「けど……全力で、戦います」
伊吹に負けたくないと微笑むと、いろはは小さく頷いた。
無事では済まないはず。それでなくとも、退治できたあともどうなるかわからない。いろはのことが気になるが、彼はそこで千早が立ち止まるとは思っていない。どんなときでも前を向くと、信じてくれている。
だからこそ、背中を押してくれた。
そんないろはに、応えないわけにはいかない。
「私と千早であれば、必ず退治できる。そう信じている」
二人で寝転び、天井を見る。こうして一緒に寝られるのも、あと何回だろうか。いろはの力が回復すれば、伊吹山へと向かうことになるだろう。退治できるかどうかの不安と、いろはを失うかもしれない不安がせめぎ合う。
戦うと決めたが、迷わずに戦えるだろうか。
伊吹はこう言っていた。千早の心も折ると。いろはを折ることが千早の心を折ることにも繋がるとわかっていたのだ。
絶対に、伊吹はいろはを、天羽々斬を狙ってくる。狙ってこないはずがない。
ちらりといろはを見ると、彼はすでにぐっすりと眠りについている。疲れていたところに話を長くさせてしまった。
「いろはさん、ごめんなさい。おやすみなさい」
いろはが回復するまでに、迷いを断ち切らなければ。迷いがあれば、戦いに響いてしまう。それこそ、いろはが折られるような事態になりかねない。
視線を天井に戻し、千早はゆっくりと目を瞑る。
退治できたとしても、その後いろはがどうなるかもわからない。なんて厳しいのだろうか。ふ、と小さく笑みを溢した。
「ご褒美的なものがあればいいのにな」
そうすれば、いろはのことを願うのに。
そんなことを思いながら、千早も眠りについた。
ふと目を覚ますと、隣で千早が涙を流しながら眠っていた。その涙を起こさずにそっと拭いながら、いろはは千早の頬を撫でる。
触れるだけで、胸があたたかくなる。優しい気持ちが溢れ、もっと、もっと触れていたいと思う。
きっと、これが愛おしいという感情なのだろう。
「千早」
これまで、触れたいと思ってきたが、触れることはできなかった。話したいと思ってきたが、話すことはできなかった。
それが今、こうして触れられ、話すことができるのだから不思議なものだ。
千早、と何度でもその名を呼びたくなる。呼べば、必ず千早は振り向いてこちらを見てくれるからだ。その視線がたまらなく愛おしい。今この瞬間、千早の視線を独占しているのだと嬉しくなる。
夕食時の玉藻には、自分らしくもない言動を取ってしまった。腹が立ったのだ。自分もしてほしいと言う玉藻に。
最初は、回復が目的だった口付け。意外にも気持ちが良いものだと思ったのが最初の感想だ。
それが、今では何度でもしたくなるのだから、やはり口付けというものはすごいものだ。あれを千早が玉藻にするなど、あってはならない。千早との口付けは、いろはだけのものであってほしい。
口付けしているときの千早の表情や息づかいなど、誰にも見せたくない。
(ああ、これは嫉妬というものだ)
書物にも書いてあるとおり、胸が苦しい。千早は自分だけのものだという気持ちが湧いてくる。千早が玉藻と仲良くしているところを見ると、何だかモヤモヤとしてしまう。随分と、人間らしくなったものだといろはは苦笑を漏らした。
だが、人間らしくなったところで、人間にはなれない。いろはは刀剣であり、それは変わらないのだ。
「……千早、私は」
少しだけ身体を寄せ、千早と額を合わせる。千早が呼吸をするたびに、吐息がいろはの顔に当たる距離だ。
「あのようなことを言っておきながら、本当は怖いのだ。千早と過ごす日々がとても楽しく、失いたくない」
だが、そうは言っていられない。八岐大蛇が蘇ってしまったのだから。いろはは、天羽々斬としての役目を果たさなければならない。
その役目を終えたあとは、どうなるのだろうか。千早にも問われたものだが、本当に役目を終えてみなければわからない。
「私は、千早と共に時を過ごしたい。人間になりたいとまでは言わない、せめてこれまでと同じように過ごしたいのだ。それは……私の我儘なのだろうか」
気が付けば、いろはの瞳から涙が溢れ、シーツを濡らしていた。