どうしてここに、と千早が声を出す前に、会いたくなかった人物が伊織の後ろから現れた。その姿を目にした瞬間、いろはが千早の前に出る。
「……伊吹さん」
両親を喰らったからか、まだ日が沈んでいない夕方でも皮膚が焼けている様子はない。
人を、両親を喰らうことでこうも違うのか。そう思いながら伊吹を見ていると、何かを察したのか彼はにやりと口角を上げた。
「へえ、綺麗に片付けたんだな」
絶句した。よくそんなことが言えたものだと。
そうだ、いろはと共に綺麗にした。伊吹が喰ったとされる人間達の血肉の残骸も。その人間達の負の念から生み出された鬼も。瘴気も、すべて。
本当は、怒りをぶつけたい。何をしているのかと。だが、ここには何も知らない伊織がいる。このような形で知るのは良くないだろう。ぐっと奥歯を噛み締めていると、伊吹が首を傾げている伊織の肩を叩いた。
「伊織、今日は千早のところで世話になれ」
「え? どういうこと?」
「また、相応しいときに迎えに来る」
伊織が止めるのも聞かずに、伊吹はそのまま姿を消してしまった。
何も起きずに済んだ。そのことに肩を下ろしつつも、浴びせられた殺気でかいた汗がたらりと首筋を伝う。その汗を拭いつつ、深い溜息を吐く伊織におずおずと話しかけた。
「あの、伊織ちゃん。どうして、ここに?」
「今日、またお兄ちゃんから連絡があったんだよね。櫛名駅まで迎えに行くから、帰ってこいって」
千早といろはは目を合わせる。やはり、伊吹は伊織を喰おうとしていると、二人とも同じことを思ったようだ。
とりあえず、ずっとここにいるわけにもいかない。千早は「泊まっていってね」と伊織を連れて家へと向かった。その際、どうしても一七夜月家を通ることになる。立入禁止のテープが張り巡らされている一七夜月家を。
これはどうやっても避けて通ることができない。仕方がない、と思いながら歩いていると、やはり伊織は「何これ」と声をあげた。
再度、千早といろはは目を合わせる。どう説明したものかと。
これは隠すことはできないと、この家で起こったことだけを話すことにした。
「伊織ちゃん、一七夜月家の人達、その……鬼に、喰われたみたいなの」
「え!? お、鬼って……そんな冗談言うの、千早ちゃんらしくないよ。あ、お父さんと、お母さんは!?」
「ご両親は……」
喰われたと言うべきか。千早が口籠もっていると、いろはが代わりに口を開いた。
「親は行方不明だと聞いている。我々も所在がわからない」
嘘、と伊織は顔を俯けてしまったが、喰われたと言うよりはまだ心理的負担はまだいいほうだろう。隠しごとをしているようでモヤモヤとした感情に襲われるが、今は仕方がない。いろはには声を出さずに「ありがとうございます」と口を動かすと、慣れていないウインクを一生懸命しようと両目を瞑っていた。また少女漫画から何かを学んだようだ。
それには敢えて反応せず、千早はいまだ俯く伊織を抱きしめる。自分の親が行方不明だと言われ、平気な者はいない。問題はいつ真実を告げるかだが、この状態ではやはり酷だ。しばらくは行方不明で通し、時期を見て話すしかない。
家に入ると、出迎えてくれた祖父母が驚いた表情を見せた。事情を説明すると、優しく伊織を抱きしめる。伊織も千早の祖父母には懐いており、ぽろぽろと涙を溢した。
「伊織、ここはお前の家だ。ゆっくり休め」
「そうよ、今は夕飯までゆっくりしなさいな」
「ありがとう、千早ちゃんのおじいちゃん、おばあちゃん」
千早、とこっそりと名を呼ばれ、いろはに顔を近づける。
「伊織は翁と嫗に任せよう。我々は何を話すべきか考えた方がいい」
「そう……ですね……」
千早の祖父母に涙を流しながらも笑顔を向ける伊織に、ズキンと胸が痛んだ。
* * *
今日の夕食は肉じゃがだった。いただきます、と両手を合わせ、まずは味噌汁を口にする。あたたかい味噌汁が身体に沁み、どこかほっとする。その横でいろはが肉じゃがを食べ、感嘆の声をあげていた。
「この芋はとてもあたたかくて柔らかいだけではなく、しっかりと味が染みていてうまい! 肉も朱色の野菜も味が染みこんでいて、手間暇をかけていることが伝わる一品だな」
まるで食レポをしているかのようないろはの感想に、食卓を囲んでいた誰もが声を出して笑った。伊織も笑っており、落ち着いているようにみえる。よかった、と胸を撫で下ろした千早はじゃがいもを口に入れた。いろはの言うとおり、じゃがいもはほくほくとしており、数回噛めば消えてなくなってしまう。
やはり祖母の肉じゃがはおいしいと堪能していると、伊織が箸を置いて千早といろはを見た。
「あのさ、千早ちゃん。いろはさんって、何者? 彼氏?」
「ちっ、違うよ! ええっと、いろはさんは」
「私は天羽々斬で、千早の剣だ」
言い終えると、いろはは厚切り豆腐を口に入れ、またしても感嘆の声をあげた。
どういう意味だと言いたげな顔をしている伊織に、千早は「あのね」と説明を始める。あのあと、機会を窺いつつ伊吹のことは伏せながら話をする、といろはと決めていた。伊織がこうして話を振ってくれたのだから、今が話すタイミングとしてちょうどいいだろう。
「実は、八岐大蛇が蘇ったんだ」
「え!? 封印が解けちゃったの!?」
ゆるゆると首を横に振り、祠の封印が故意に壊されたことを話すと伊織の顔は青ざめていた。
「迷惑系ってやつだよね。あたしの学校でも見てる人多いよ。何が面白いのかはわからないけど」
「話すのが遅くなってごめんね。一七夜月家の人達が鬼に喰われたっていう話とかも、全部八岐大蛇が蘇ったのが関係していて……」
本当は、と千早は話を続けた。
「伊織ちゃんには、今は帰ってきちゃ駄目だよって、送るつもりだったの」
メールが来たことがわかっていたのだから、次の日に確認していれば。今日も、伊吹よりも先にメールを返信できていれば。慣れていないということもあるが、自分の連絡無精なところが悔やまれる。
伊吹に先を越されてしまった。魔の手はもう伸びていて、伊織は巻き込まれてしまっている。何とか逃さなければ。
一七夜月家で残っているのは、伊吹と伊織だけなのだ。
「……お兄ちゃんに、何かあった?」
「え?」
「あたしでも……ううん、妹のあたしだからわかるよ。気味悪いくらい優しいんだもん」
金色の瞳を持つ伊吹と、何も持たない伊織。一七夜月家で、差をつけられて育てられていたのは、千早も何となく気が付いていた。
伊吹も伊織には厳しく、兄妹仲良く遊んでいるところなど見たことがない。一緒にいることがあれば、それは伊吹から罵詈雑言を浴びせられ、当たられているときだ。
そんな伊吹が「櫛名駅まで迎えに行く」と言ってきたのだから、さすがの伊織も気が付いたのだろう。何かがおかしいと。
「千早ちゃん、あたしのこと気にしてくれてるんだよね。ありがとね」
「ごめんね、伊織ちゃん。……今はまだ、言えない。けど、いつか絶対に言うから」
そういえば、と伊織は何かを考え込む。少しして、腕を組むと首を傾げた。
「小さい頃なんだけど、お兄ちゃん、あたしにこう言ったんだよね。お前はいいよな、何も持ってなくてって」
「……何も、持ってなくて?」
「たぶんだけど、これじゃない?」
そう言って、伊織は自身の目を指した。
──何も、持ってない。
これが意味するのは、何だろうか。伊織は自身の目を指していた。その目は黒く、千早や伊吹のような金色の目ではない。
つまり、スサノオの力。
伊吹は、スサノオの力を継がなかった伊織が羨ましかったのだろうか。羨ましくて、罵詈雑言を浴びせ、当たっていた──。
もしも、千早の考えているとおりだとして。では、何故、伊吹は千早にも伊織と同じように当たり散らしていたのか。
はあ、と溜息を吐いた。
「全然わからないや」
「当然だ。疲れていては思考力は低下する。早く寝るぞ」
「そうです……ねって、何で当然のようにいるんですか」
布団に寝転び、千早が寝るスペースをポンポンと叩くいろは。自室を与えられているはずなのに、どうしてここで寝るのか。一度共に寝てからこうして寝るようになってしまった。
とは思いつつも、どれだけ言っても効果がないのはわかっている。ここはおとなしく横で眠るしかない。欠伸を右手で隠しながら、いろはの横に座る。もそもそと足を掛け布団と敷き布団の間に入れると、ほんのりあたたかい。
掛け布団を引っ張りながら寝転ぶと「電気を消すぞ」といろはがリモコンの消灯ボタンを押した。ゴソゴソとシーツが擦れる音が聞こえ、掛け布団がほんの少し動く。暗くてわからないが、いろはも千早と同じ体勢を取ったのだろう。
いつもなら、ここで「おやすみ」と声をかけられる。だが、今日は何もなかった。
気が付いているのだろうと思った。千早が何かを話したがっていることを。そして、敢えて黙っているのだろう。千早が話したくなるまで、と。
しばし、沈黙が流れる。聞こえてくるのは、お互いの息づかいのみ。この沈黙を破るかのように、千早が「あの」と話しかけた。なんとなく、話す気分になれたような、そんな気がしたのだ。
「今日はあんな感じでよかった……ですよね?」
「あれが最善だったと思うぞ。親が行方不明になったと聞いただけで酷い落ち込みようだった。伊吹が鬼となり、一七夜月家の者達全員を喰らったとなれば、落ち着きを取り戻すことはできなかっただろう」
食卓を囲んでいたときの伊織の笑顔を思い出す。ちく、と胸が痛んだ。
「伊吹さんは……伊織ちゃんがご先祖様の力を継いでいないことが、羨ましかったのでしょうか」
「それは本人に訊かなければ何とも。私には伊吹が何を考えているのかはわからない」
ただ、といろはは言葉を止めた。掛け布団が作っていた山が少し大きくなり、隙間が空いて涼しい風が入ってくる。いろはが寝返りを打ったのかと思ったとき、右頬に優しく触れられた。その手が優しく、千早もいろはの方へ少し顔を向ける。
「このような役目を担わせてしまい、申し訳ないという気持ちはある」
「いろはさん……」
「私は刀剣なのに、何故だろうな。先祖が託した望みを、後世の者達が叶える。それをおかしいと思ったことはなかったのだが」
自分でも不思議なのだろう。いろはから戸惑いが感じられた。
謝ることはない。先祖の望みをわかっていなかったとは言え、叶えられるものなら叶えたいと思う。力不足かもしれないが、いろはとならばできるのではないかと考えられるようになった。
けれど、不公平だと感じることもあったと言えばあった。
同じようにスサノオの血を継いでいるのに、力を継いでいなければ“柄を大事”にし“祠を見守る”だけでいいのだ。千早や伊吹のように金色の瞳を持てば、力を継いでいる者として先祖の望みを叶えなくてはならない。誰よりも八岐大蛇に命をかけなければならないのだ。
血を継いでいるのであれば、力も継いでいてほしかった。血は継いでいても、力を継ぐ者と継いでいない者に分かれることが、どうしても不公平に感じてしまっていた。
だからと言って、誰かに八つ当たりしようとは思ったことはないが。
(もしかして、伊吹さんも同じ考えだったのかな。考えすぎかな)
同じだったとしても、当たられる理由が皆目見当もつかない。
千早はいろはの手に自身の右手を添えた。
「力を継いで嫌だなって、思ったことはありませんよ」
「……そうか」
「わたしは、まだまだ未熟ですから……一緒に、いてくださいね」
「もちろんだ」
いろはの体温と声が心地良く、眠気がやってくる。
まだ訊きたいことはあったのだ。伊吹の言っていた「相応しいとき」とはどういう意味だと思うか。伊織から目を離すのはまずいのではないか、という疑問だ。
今度こそ忘れずに、明日訊こう。いろはの「おやすみ」という言葉に「おやすみなさい」と返し、千早は目を瞑った。
* * *
朝の支度を終え、仏壇に挨拶をする。昨日から伊織もいることを報告し、見守っていてほしいと願いを込めた。
「じゃあ、いってきます。そうだ、いろはさん」
「何だ?」
「あの、また帰ってきたらお話できますか? 昨日、眠っちゃって」
「わかった、また話そう」
伊織は疲れているのか、まだ眠っているようだ。いろはに見送られ、木目調の引き戸を開けたときだ。
目の前に、伊吹が立っていた。
やあ、と片手を上げ、口元には弧を描いている。
息を呑むよりも前に自然と手が動き、戸を閉めようとした。が、強引に片足を挟まれ、戸を閉めることができない。いろはがすぐ傍にやってきたため、右手で彼の身体に触れる。すう、と息を吸い、天羽々斬と名を呼ぼうとするが──伊吹の気配に違和感を覚えた。
「酷いな。まだ俺は何もしてないのに」
「千早、早く私を構えろ」
いろはに急かされる。早く構えたほうがいいことはわかっている。わかっているが、違和感がどうしても拭えない。
念のため、いろはの身体からは手を離さず、おそるおそる伊吹に話しかけた。
話しかけながら、この違和感の正体を掴もうと考えたのだ。
「……伊織ちゃんに用ですか?」
「そうだけど。わかってるならさっさと戸を開けてくれない?」
「わたしが誰かわかりますか?」
「千早でしょ? ほら、早く開けろって」
ごくりと唾を飲み込み、千早は息を吸った。
「伊吹さんは、わたしを相手にするときはずっと殺気を放ってるんですよ」
そう、この伊吹からは殺気を感じない。いろはも気付いていなかったようで、目を丸くして驚いていた。
「あなたは、誰ですか」
「……はははははっ! すごいなあ、千早チャン。ようわかってるやん!」
革靴からスニーカーへと変わる。口調も関西弁になっており、どうなっているのかと戸を開けると、そこには見知らぬコスプレ男性が立っていた。
ふわふわとした白い尻尾をブンブンと横に振り、頭から狐のような白い耳が生えた白い髪を切り揃えた男性。狐のようなコスプレだからか、赤でアイラインが引かれ、切れ長の黄色い目が強調されている。鼻はすらりと高く、顔自体はほっそりとしていて面長だ。衣服は白色のパーカーに黒色のスウェット。着こなし方のせいなのか、どこかだらしなく見える。
まじまじと見ていると、その男性は切れ長の目を更に細め、両手を口元に当てると恥ずかしいと言わんばかりに頬を赤く染めた。
「ボク、化かしは得意やったんやけどなあ。そっかあ、千早チャンは伊吹童子のことようわかってたんやなあ」
「伊吹童子……伊吹さんのこと? あなた、誰から頼まれてここに来たんですか?」
「八岐大蛇やで? 伊吹がたらたらしてるから、はよ行って伊織のこと殺して連れてこいって言われてん」
ほんまいらちやでなあ、とコロコロ笑う男性に、千早は一歩後ずさりながらいろはと目を合わせる。
何者なのだ、この人物は──そう思っていると、男性が家の中に入り、千早の両手を握った。
「ちょ、ちょっと!」
「貴様、千早に触れるな!」
いろはが千早と男性の手を引き剥がそうとするが、なかなか引き剥がれない。というよりも、いろはの力が極端に弱い。
「ボク、野弧って言うねん。伊織って子、殺してほしくなかったらさ、ボクを千早チャンの仲間にしてよ」
「別に、八岐大蛇を慕ってるわけちゃうんよなあ。今はもう野弧って珍しいからさあ、それで捕まえられてもて、いいように使われてるだけなんよ」
可哀想やろ、と泣き真似をしつつ野弧はずるるとうどんを啜る。油揚げも一口食べると、ぱあっと顔を輝かせた。ブンブンと尻尾を振り、小刻みに震える狐の耳が何とも言えない可愛さだ。
「え、めっちゃおいしいやんこれ! おばあちゃん、きつねうどん最高やで!」
「そうですか? それはよかったわあ」
悪い人ではなさそうだといろはを見るものの、彼は野弧が家の中に入ってきてから機嫌が悪い。眉間に皺を寄せ、目を細めている。このようないろはを見るのは初めてだ。
そんないろはを挑発するように、野弧は千早へすり寄ってくる。離そうとするが結局押し切られ、今は千早の頭の上に野弧の顔が乗せられている状態だ。それも気に入らないのか、いろはの貧乏揺すりが始まった。祖母の諫める声にぴたりと止めたが、しばらくするとまた膝を揺らす。
「私は貴様が気に入らない」
「ふーん? それってなんで? あれかな、運動神経がニブチンやってバレるから?」
ケタケタと笑う野弧に、顔を顰めるも言い返すことはしないいろは。図星というわけではないが、大きく外れているわけでもないのだろう。何より、野弧の手を引き剥がす力があまりにも弱かった。力の入れ方を知らないのか、それとも本当に力がないのか。
そういえば、いろはが走っているところなどは見たことがない。そう思っていると、野弧が千早の頭で頬ずりを始めた。
「あかんでえ、人に化けるってことに全振りしてたら。ボクみたいにちゃあんとしやんと。どうせ、戦いもぜーんぶ千早チャンに任せてるんやろ」
「それは当然だろう。私は天羽々斬だ。使ってもらうことで力を発揮するのだ。私だけでは戦えない」
「そうかあ? そうやって人の姿になれるんやったら、一緒に戦ってあげたらいいのに。なあ? 千早チャンもそう思わん?」
「……一緒に、戦ってくれてますよ」
ね、といろはに笑みを向けると、彼はほっとしたように肩をなでおろした。
傍から見れば戦っているのは千早だけに見えるが、天羽々斬であるいろはも一緒に戦ってくれているのだ。それはきっと、千早にしかわからないこと。ならば、しっかりと伝える必要がある。
面白くないと言いたげに野弧は深い溜息を吐き、千早の頭から顔を離す。
野弧は人に化けているのだとして、いろはも同じように化けているのだろうか。千早には化けているという感覚はなく、どちらかというと天羽々斬の人間の姿と捉えていた。これもまた後で訊いてみよう、と立ち上がると、スッと襖が開かれた。廊下にはピンク色のルームウェアを着た伊織が立っている。
「おはようって、誰かいる!?」
「おはよう、伊織ちゃん。この人は野弧さんって人……? 狐?」
「よろしゅうなあ、伊織ちゃん」
説明をいろはに頼み、千早は遅刻にはなるが学校へ向かうことにした。楽しいわけではないが、いろはも母もついてくれているのだと思うと気が楽になったのだ。
「じゃあ、いってきます」
いまだ不機嫌ないろはと野弧に見送られ、千早は家を出た。
* * *
ずるると冷めてしまったきつねうどんを野弧が食べているところで、いろはは伊織に彼のことを話した。自分で話せ、と思っていたのは言うまでもない。
ただ、野弧に話させると余計なことまで話してしまうだろう。たとえば、八岐大蛇の命で伊織を殺しにきたということ。このような話、伊織に話してしまっては大変なことになる。けれど、この男ならそれをわかっていて平気で話すだろう。そう思うほど、いろはは野弧のことをまったく信用していなかった。
「化け狐っているんですね。すごいなあ……ん? じゃあ、いろはさんも人に化けてるんですか?」
「そういえば、先程この馬鹿狐からも言われていたな。化ける、化けるか。どちらかというと、天羽々斬のもう一つの姿と言ったところか」
「なあ、馬鹿狐ってボクのこと? アホいろはに言われたくないんですけどお」
誰が阿呆だと思いつつ、いろはは壁に掛かった時計を見る。今頃千早は学校に着いた頃だろう。
「でも、不思議ですよねえ。いろはさん、元は刀剣っていうか天羽々斬なんでしょ? 昔からこうやって話したり、人の姿になれたんですか?」
伊織の問いに、いろはは言葉が出なかった。
確かに、いつからだろうか。こうして話をしたり、人の姿になれたのは。
思い返せば、誰とも話したことがない。人の姿になったこともない。もちろん、前の持ち主であるスサノオとも意思疎通などしたことがなかった。
いろはさん、アホいろは、と二人に呼びかけられる中、必死に古い記憶を辿る。スサノオの頃からは覚えているものの、いろはは何も話していない。何も思っていない。無論、人の姿にもなっていない。
では、いつからなのか。今度は古い記憶から今に至るまでを辿っていく。
そこで、初めて気が付いた。
何かを思ったのは、千早が三歳のとき。嫌がる千早を伊吹が無理矢理祠まで連れて行き、泣いて帰ってきた日だ。まだ幼いのに可哀想に、と思ったのを覚えている。あのときから、千早は何かあれば柄が置いてあった部屋に来て、泣いたり、話をしたりしていた。学校の話が増えたのは、赤い箱のようなものを背負うようになってからだ。
何かを話したのは、千早に呼びかけたとき。あの八岐大蛇が蘇った日だ。手を伸ばせばすぐそこにいろはがいるのに、千早が気付いていなかったから呼びかけた。ここにいるから、手を伸ばせと。
人の姿になったのも、そのときが初めてだった。
意識が自然と戻ってくる。心配そうに見る伊織と欠伸をしている野弧を見て、いろはは口を開いた。
「……すべて、千早が初めてだ」
「ええ!? 何それ、やばっ! 二人って運命だったりするんですかね!? ね、野弧さん!」
「運命かどうかは知らんけど、千早チャンはやっぱ特別やったってことちゃう? 知らんけど」
そうだ、特別だ。千早はいろはにとって特別な存在だ。千早がいろはを頼ってくれていたから、彼女の祖父母よりも彼女のことを知っていると自負している。自分ならきっと力になれると──。
ちら、と時計を見る。どうしてかはわからないが、今は千早に早く会いたい。
「でさあ、アホいろははやっぱり走ったりできやんの?」
「はしる? なんだそれは」
「知らんの!? だっさ! それはないわアホいろは。人の姿になってるんやったら、せめて何ができるんかわかっとけよ」
「厠へ行くこと、手を洗うこと、風呂へ入ること。これくらいはわかっている。あと、最近は飲み食いができるようになった。後片付けもできるぞ」
自信満々に答えるものの、そうちゃうねん、と野弧のツッコミが入り、伊織がケラケラと楽しそうに笑った。
楽しいとは思うものの、やはり時計を見てしまう。そうしてまた、千早に早く会いたいと焦がれるのだった。
授業を終え、休憩時間となった。千早はぼんやりと窓の外を見る。
昨日は大変だった。千早が学校から帰宅するといろはが傍から離れなくなり、伊織と野弧が冷やかしてきた。何があったのかと訊いても、伊織は「運命ってあるんだね」と言い、野弧は「特別ってええなあ」と言い、要領を得ない。
要するに、何があったのか。トイレ、風呂など、どこまでもどこまでも付き纏うため、祖父母から叱られてたいろは。それでも語ろうとはせず、わからないまま一日を終えてしまった。
もう一つ、驚くことがあった。伊織と野弧は気が合うのか、よく一緒に話すようになっていたのだ。仲間にしたつもりはないが、伊織も誰かと話すことで気が紛れているようで、野弧のしゃべりがちょうどいいようだ。
(悪い人じゃなさそうなんだよね)
八岐大蛇の命令で来た、狐、関西弁。ということもあり、どうしても疑われがちな部分はあるが、不思議と嫌いにはなれない。信用するには時間がかかるが、いろはと祖父母がいれば大丈夫だろう。
ふあ、と欠伸をし、机に顔を伏せる。昨日はいろいろあった、と思い出しながら目を瞑った。
傍から離れないいろはは、いつもの如く千早の部屋へやってきて布団へと潜り込んだ。どうやら与えられた部屋を野弧に明け渡したらしいのだが、その際に「千早の部屋があるから」と言っていたらしい。あるから、ではなく勝手に入ってきて占領しているだけなのだが。
文句を言いたいところだが、いろはの言うことを真に受けた祖父母が公認してしまったため言うことはできず。結局、これまで通り二人並んで眠った。
そのおかげ、とまでは言わないが、いろはと話しやすくなった気がする。
訊きたいことを話すだけではなく、他愛ないことも話せるようになった。どんな漫画が流行りなのか、いろはは今日どんな少女漫画を読んだか。傍を離れない理由を訊くと、口を真一文字に結んでしまい、話してはくれなかったが。
思わず笑ってしまいそうになる。いろはがまだ柄だけだった頃は、弱音を吐くことしかしなかったのにこうも話す内容が変わるとは。
ゆっくりと目を開け、ふう、と息を吐き出す。
伊吹が言っていた「相応しいとき」については、いろはもわからないと首を横に振っていた。何かを企んでいることに間違いはないだろうが、そこに答えを出せるほど情報を持ち得ていない。いろはからも伊織の護衛について話があったため、今できることは彼女を守ることだろう。
そして、野弧と同じようにいろはも化けているのかどうか。千早自身は、いろはが化けているようには思えなかったのだが、それは当たっていたようだ。いろはが言っていた「天羽々斬のもう一つの姿」はしっくりとくるものがある。
授業開始のチャイムが鳴る。千早は気怠そうに身体を起こし、教科書とノートを取り出した。
帰ればまた、いつもの日常。そこに伊織がいて、今は野弧がいる。
随分と賑やかになった。くすりと小さな笑みを溢すと、千早は授業に集中した。
* * *
「千早ちゃん!」
授業を終え、帰宅しようと校門を出たところで声をかけられた。びくりと肩を震わせながら振り向くと、そこには伊織と野弧が立っていた。野弧は狐の耳も尻尾も、どうやってかはわからないが隠している。
「伊織ちゃん!? 野弧さんも、どうして!?」
「伊織がなあ、どおおおおおしても迎えに行きたいって駄々こねよって」
「はあ? 千早チャンにも訊いてみたいなあ、とか言ってたの野弧さんじゃん!」
似てない声真似すな、と野弧からチョップを頭に下ろされた伊織は、くぐもった声を出しながらしゃがみ込む。それにしてもこの二人、会ってまだそこまで日は経っていないが本当に仲が良い。伊織には野弧が来た目的は話していないため、知ればときっと怒り狂い、悲しむだろうが。
「ほな、帰りながら話そか。アホいろはには黙って出てきたから、遅なったら毛皮にされそうやねん」
「いいんじゃないですか? 冬はまだまだ先ですけど、狐の毛皮ってあったかそう」
「伊織、ほんまお前はやかましい奴やな」
帰りながらと言いつつ一歩も動かないため、千早が先に歩き出した。慌てて二人が後をついてきて、三人横並びで歩く。
「千早ちゃん、早速で悪いんだけどさ……いろはさんって、どんな人なの?」
どんな、と言われ、千早は腕を組み、首を傾げて空を見る。夕方になるにはまだ遠く感じるほど、空は明るい。
「よく、見てくれているなあって思うよ。わたし、いろはさんがまだ柄だった頃からたくさん話しかけてて。主に弱音だけど……だから、気にかけてくれてるのかなって」
「ほーん。それでそれで?」
「ええっと、そうですね。最初は、違和感があったんですけど、先程言ったように、ずっといろはさんには話しかけていたから。なんだろう、傍にいると安心感というか、落ち着くんですよね」
一緒に寝ることに若干の羞恥心はあるものの、あのぬくもりが嬉しかったりもする。
なんにせよ、千早の世界にいろはがいないというのはもう考えられない。
それほどにいろはの存在は大きく、千早の中でなくてはならないものになっていた。
ふと伊織と野弧を見ると、二人は目を楽しそうに細め、口角を上げている。ニヤニヤ、という表現がよく似合う顔だ。
「いいなあ、こういうのって憧れちゃうなあ」
「わかるわあ。ボクなんか存在があれやし、そういうのから程遠いもんなあ」
「っていうか、そもそも野弧さん無理でしょ。だって、一人でぺらぺらぺらぺらずうっと喋ってそうだもん」
またしても野弧からチョップを食らい、伊織はその場にしゃがみ込む。二人のやりとりがなんだかおかしくて、千早も肩を揺らして笑った。
「なあ、いろはって元々あった名前?」
「いえ、人の姿をしてるときの名前ということで、僭越ながらわたしがつけさせてもらいました」
「ボクにもつけてほしいなあ。野弧って名称でボクの名前ってわけじゃないからさ」
すると、伊織が勢いよく立ち上がり、腕を組み何かを考え始めた。
「玉藻ってどうですか?」
「ちょ、それはなんぼなんでも畏れ多いわ!」
「いいじゃないですか、将来そうなりたいという願いを込めて。どうです?」
玉藻とは、おそらく玉藻の前から取っている。野弧がいまいちどのような存在かもわかっていないが、この反応からすると玉藻の前は非常に上位の存在なのだろう。
畏れ多いとは言っているが、玉藻という名前は悪くないような気がする。千早も伊織の言葉を後押ししてみた。
「わたしも伊織ちゃんに賛成です。将来それくらいの存在になりたい……という願いを込めて、玉藻さん。どうですか?」
「……千早チャンに言われたから敵わんなあ」
じゃあ玉藻で、と照れくさそうに笑う野弧──あらため、玉藻。
そういえば、いろはも名前を告げたとき嬉しそうにしていた。そのときのことは、今でもはっきりと覚えている。
「ありがと、千早チャン。……ついでに、伊織も」
「なんであたしがついでなんですか!? 考えたのあたしなんですけど!?」
二人の言い合いに笑いながら、千早は家路につく。
その後、いろはからしっかりとお叱りを受けた三人だった。
その日は、朝起きたときからおかしかった。
自分でも理由はわかっていないが、いろはの傍にいるべきのような、学校へ行ってはいけないような、そんな気がしたのだ。これは家にいたほうがいいということなのかもしれないが、何故そう思うのかがわからない。
それが気になって朝食がなかなか進まない千早に、いろはが心配した様子で声をかけてくれた。口に入れていた少量の白米を飲み込み、朝から何だかおかしいという話をしてみる。
ふむ、と箸と味噌汁が入った椀を置き、腕を組むいろは。
「千早自身はわからなくとも、千早の中にあるスサノオの力が何かを訴えかけている可能性もあるな」
もしも、いろはの言うとおりであれば。
訴えかけてくれているのにもかかわらず、それを察することができていないということだ。自分の力のなさを実感してしまい、どんよりとしたものが心を重くする。
気にするな、といろはは眉尻を下げ、優しい笑みを浮かべた。頭に手が置かれ、ゆっくりと撫でられる。
「力の使い方を学び始めたところだろう?」
「……すみません。鍛錬、増やしたほうがいいかな」
毎朝五時に起きては、いろはと共に力の使い方を学んでいる。まずは、力をコントロールすること。少しずつ感覚は掴めつつあるからか、気だけが焦ってしまう。
何よりも、キスの回数が増えた。今のところ祖父母や伊織、玉藻には気付かれてはいないだろうが、いつ知られるかとヒヤヒヤしている。
「鍛錬については無茶をするな。自分のペース、というものがあるのだろう? ふふ、書物で学んだのだ。何より、千早にはその指輪がある」
「……そうですね。いろはさんを呼べますから」
胸元で輝く母の指輪を握る。いろはの手が離れ、彼は再び食事を始めた。千早も味噌汁が入った椀を手に取り、汁を口に入れる。
どんよりとしていたものは、いつの間にか取り除かれていた。やはり、いろはと話すと心が落ち着く。残っていた焼き鮭を一口で入れ、口を動かすもついつい口角が上がってしまいそうになる。
(なんだろう、これ)
落ち着いているはずなのに。安心しているはずなのに。
どこかふわふわとした気持ちが、千早の中にあった。
* * *
「千早」
授業中だと言うのに、今朝のことを思い出してそちらに気を取られていた千早。
突然聞こえたいろはの声に勢いよく立ち上がると、不本意ながら教室中の視線が集まった。
バクバクと心臓が早鐘を打っている。汗がたらりと流れ、ざわざわとした感情が千早を襲う。
嫌な予感しかない。
「朝日奈? どうした、授業中だが」
「お告げでもありましたかあ?」
「ねえ、聞こえるよ? ふふ」
何でもありませんと座るも、本当にこのまま授業を受けていていいのだろうか。そんな気持ちから、千早はそわそわと辺りを見渡した。
いろははここにいない。指輪も、千早がいろはを呼ぶためのもの。いろはが千早を呼ぶためのものではない。
では、何故いろはの声が聞こえたのか。あんなにも、緊迫したような声で。
そのとき、今朝言われた言葉を思い出した。
(わたし自身はわからなくても、わたしの中にあるご先祖様の力が何かを訴えかけている……)
千早は唇を噛み締め、そっと右手を挙げた。またしても視線が千早に集まる。クスクスと笑うような声も聞こえてくるが、どうでもいい。教師は呆れた表情で溜息を吐く。
「今度は何だ」
「すみません、帰ります」
机の上にあった教科書などを片付け、必要なものだけを鞄に詰め込む。教師が待つように声をかけてきたが、何を待つのか。制止を振り切り、鞄を肩にかけて教室を出た。
自分でも、何が起きているのかわからない。ただ、いろはのあの声が千早を急かしていた。早く、早く、と。
やはり、行くべきではなかったのかもしれない。今朝の違和感がそうだ。
千早に何かあれば、いろはを呼べる。しかし、いろはに何かがあっても千早を呼ぶことはできないのだ。
ずっと、勘違いをしていた。何か起こるのは、千早だけだと。
天羽々斬が人の姿をしているということが知られた時点で、いろはも狙われる可能性があるというのに。
走って家まで向かう。普段は使わない近道を使い、無我夢中で走った。
誰もが千早を目で追うが、気にしてなどいられない。今はそれどころではないのだ。遊び半分で声をかけてくる者も無視し、ただただ走る。
日常が壊れていく音がする。祖父母、伊織、玉藻、そして──いろは。あの賑やかな時間がもう訪れないような、そんな気がする。
嫌だ。嫌だ。そう心で叫びつつも、八岐大蛇が蘇った今、あのような日常が過ごせていたのは奇跡のようなもの。いつかは壊れる、奪われるとわかっていたはずだ。
ようやく敷地に入り、肩で息をする千早の目の前にいたのは──。
「伊吹、さん」
「千早? なんだ、随分早いな」
伊吹の前には、伊織が倒れていた。いろはと玉藻も汚れており、伊吹に抗った様子が窺える。
「千早、何故帰ってきた!?」
「はあ!? ほんまアホいろはやな! ボク達の危機を察して帰ってきてくれたんやんか!」
「……いろはさんの声が、聞こえたような気がして」
「半分正解で半分間違ってるわ。ごめんな、アホいろは。ちゃっかりボクも含んでもたわ」
うるさい、と伊吹の声が響き渡る。
玉藻もそんな彼の声にピタリと静かになり、切れ長の目を更に細めた。睨み付けられていることは気にせず、伊吹は笑顔で殺気を千早に向ける。カチ、と奥歯が震えるような、ぞくりとしたものが全身に走った。
「お前が帰ってくる頃に合わせてやってたのに。全部台無しじゃん」
「ど、どういうことですか」
「伊織を迎えに来たんだよ」
倒れている伊織にコツンと足先を当てる。
迎えに来たと言う割には、この状況は何なのか。千早は鞄を放り投げ、伊吹を見つついろはに近付いた。何をしようとしているのかわかっているはずなのに、何もしてこない。余裕を見せつけているのか、本当に余裕なのか。どちらにせよ、腹立たしく、いい気分ではない。
いろはの左手を右手で握ると、横目でちらりと見る。彼は伊吹を真っ直ぐに見たまま、静かに頷いた。
「いつでもいいぞ」
「いきます……天羽々斬」
名を呼ぶと同時に、走り出す。右手で握っていたものは柄となり、両手に持ち替えて力を込めた。
以前より、伊吹の力は上がっているはず。だとしても、千早は力の使い方が上がっている。勝つことはできなくとも、伊織を助けてこの場から離れるくらいならできるはずだ。
そう思いながら振り下ろすも、千早が放った光の斬撃は伊吹に当たらない。寸でのところで避けられたようだ。真横からきつい蹴りを喰らい、防ぐことができなかった千早の脇腹にミシミシと食い込んでくる。
勢いよく吹き飛ばされ、一七夜月家に張り巡らされている立入禁止のテープに身体を預けることになった。
息はできる。身体は痛いものの動かすことはできる。ということは、骨は折れていない。千早は奥歯を噛み締め、ぐっと身体を起こして立ち上がる。
「伊吹童子、お前の目的はなんや? 八岐大蛇から伊織を殺して喰えって言われてたやろ」
怪我の程度を遠目から確認した玉藻が時間を稼ごうとしてくれているのか、伊吹に話しかける。
「裏切り者の野弧。お前に何を話す必要があるってんだよ」
「裏切り者? 元々、捕らえられていいように使われてただけのボクや。裏切るも何もないやろ。で、目的はなんや?」
「……ただ、殺して喰うだけならもうしただろ」
ひゅ、と千早は息を呑んだ。
それは、伊吹の両親のことを指しているのか。苦虫を潰したような顔に、伊吹がどのような感情を抱いているのかがわからない。
わかりきっていることを訊かれ不愉快なのか、それとも──辛いのか。
伊吹は倒れている伊織の元へ歩いて行き、彼女の髪の毛を掴んで頭を持ち上げる。今し方までの表情はどこへやら。口角を上げ、鋭く尖った犬歯が見える。額からは二本の赤黒い角が生えてきた。
「それだとつまらない。だから、こいつには俺の血を与えた。ああ、残念だよ千早。お前が帰って来る頃にはジジイもババアも食い散らかされ、天羽々斬と野弧がボロボロになっていたはずなのに」
起きろ、と伊織の頭を揺さぶると、どくん、と辺り一帯に鼓動のような音が響き渡った。伊織からは彼女のものとは思えない獣のような呻き声が聞こえ、千早は必死に彼女の名を呼ぶ。
駆け寄ろうとする身体は移動してきた玉藻に押さえられ、それでも名だけは必死に呼び続けた。
「伊織ちゃん、やだ、伊織ちゃん! 伊織ちゃん!」
≪千早、落ち着け! 行くな!≫
「千早チャン! もうあかんて! あれは……伊織は……」
空気が伊織を中心に吸い込まれていく。かと思えば、発散するかのように鋭い空気の塊が千早と玉藻に向けられて放たれた。二人は一七夜月家に身体を打ち付ける。
「これが一番千早に効くと思ってさあ。どう? 今どんな気分?」
伊吹の笑い声が聞こえる。玉藻に手伝ってもらいながら身体を起こし、砂埃が舞う向こう側にいる伊吹を見た。
「鬼の世界に迎えに来てやったよ、伊織」
これまでの世界に、さようなら。
伊吹が言い終えると、何かが正面からものすごい速度でやってきた。
≪千早! 構えろ!≫
「ひいい、千早チャン!」
いろはの声に天羽々斬を構えると、何者かによって打撃が繰り出され、刀身で何とか受け止める。
力は伊吹と比べると弱い。とは言っても、千早の力よりは断然強い。玉藻が支えてくれていなければ、またしても壁に身体を打ち付けてその辺で転がっていただろう。
玉藻に礼を言い、砂埃の中にいる人物を見る。次第に砂埃は薄れていき、その人物の姿が露わになると、千早はカチャン、と天羽々斬を地面に落とした。足からも力が抜け、ぺたりとその場に座り込む。
千早、といろはが呼ぶ声が聞こえるも、声が出ない。立ち上がって構えなければいけないこともわかっているが、力が入らない。
「紹介しよう。こいつは伊織。俺の妹で、鬼だ」
伊織だった者は、一本の赤黒い角が額の真ん中辺りに生えている。瞳はすべてが赤く染まっており、口からは鋭い牙が二本見えていた。たらりと口の端からは涎が垂れており、顎を伝って地面に零れ落ちる。
何よりもぞっとしたのは、皮膚が焼かれているのにまったく気にしていないことだ。
じゅう、と肉が焼けるような音。これは、太陽がまだ沈んでいないため、伊織の皮膚が焼かれている音だ。鼻をつまみたくなるほどの臭いがこちらにまで漂ってくる。だというのに、伊織本人は気にする様子がなく、まるで意志が剥奪されているようだった。
「ほら、行け! 殺す寸前まで追い詰めろ!」
「ガアアァァァアアアアァァァ!」
攻撃など、できるはずがない。倒すことなど、もっとできるはずがない。
あれは、伊織だ。鬼と成り果ててしまったのだとしても、伊織なのだ。
立ち上がることはせず、天羽々斬を構えることもせず。千早はただただ迫ってくる伊織を見つめる。玉藻が何とか立たせようとしてくれるが、そのまま座り込んだまま。玉藻だけでも逃げてほしいと思いつつも、それすら言葉にでなかった。
つう、っと目尻から涙が溢れ、頬を伝う。
伊織が右手を振り上げると、筋骨隆々な腕へと変わった。振り下ろされるその様は、スローモーションのよう。
この一撃で死ぬのだと、そう思った。
(ごめんね、伊織ちゃん)
また、間に合わなかった。
目を瞑ろうとした瞬間、千早の眼前に男性の背中が見えた。現実ではあまり見られない、銀髪の綺麗な男性。
いつの間に人の姿に戻ったのか。千早は目を大きく見開き彼の名を呼ぼうとしたが、伊織の一撃が繰り出される。
「いろはさん!」
「な、何してんねんお前!」
力加減をされていない一撃を、難なく受け止めたようには見えた。だが、実際はどうだろうか。心配にはなるものの、やはり身体が動かない。
すると、いろはがこちらを振り向いた。そこで目にした彼の様子に、千早の身体は振るえ、両手で口元を押さえる。
「無事か、千早」
血がぽたり、ぽたりといろはの頬や顎を伝って落ち、地面が赤く染まっていく。綺麗な銀髪も血に濡れてしまい、あの攻撃がどれだけのものだったかを物語っている。
は、と息が乱れる。いろはの血が地面に落ちるように、千早の涙が地面に落ちた。
あの攻撃を難なく受け止められるわけがないのだ。
この出血量。放っておくと、死んでしまう。刀剣と言えど、今は人の姿。千早と同じように血が流れていて当然だ。
自分のせいで。自分が、動かなかったせいで。いろはが──。
「チ、ハヤ、チャン」
鬼に成り果てた伊織の声は、おぞましく、最早誰のものかわからなくなっている。けれど、千早の名を呼ぶ声に優しさが滲み、今は伊織が話しているのだと思った。
「伊織ちゃん、だよね。そうだよね?」
「チハ、ヤ、チャン、アタシ、ヲォ、コロシ、テェ」
「……え?」
「いやいや、伊織、お前……何を、言うてんねん」
今、伊織は何と言ったか。
殺して。そうだ、殺してと言っていた。殺すとは、命を奪うということ。やってはいけないこと。
何故、そのようなことを頼むのか。千早に、殺してほしいなど。
千早は乾いた笑い声を出しながら、何度も何度も首を横に振った。できるはずがない。できるはずもない。伊吹と伊織を救う手立てはあるはず。時間はかかるかもしれないが、いろはがいる。今なら玉藻もいる。
殺すしか救いがないなど、そんなはずがないのだ。
嫌だ、嫌だと首を横に振っていると、いろはが千早の右手を握った。ゆっくりといろはを見ると、彼は悲しげな表情を浮かべつつも、その目は真っ直ぐに千早を見ている。
いろはさん、と彼の名を呼んだ。
その瞬間、ぽろぽろと止め処なく涙が溢れる。優しく抱きしめられ、千早、と名を呼ばれた。頭上から、あたたかくぬめりとしたものが落ちてくる。これは、いろはが流している血だろう。涙のように、千早の頬を伝っていく。
「伊織は、抗っている」
いろはの言葉通り、伊織からは何かに苦しむような声が聞こえていた。自分の中にある鬼の意識に抗っているのだろう。
それでも、殺せない。そんなことはできない。
「で、でき、ない。伊織ちゃんを殺すなんて、できない!」
「では、伊織が他の者に殺されてもいいのだな」
「嫌! 何で!? 何で殺すしか選択肢がないんですか!? 知らないだけで、探せば救う方法は」
「では、その時間を誰が稼ぐ。あれを、誰が相手をする」
はっとした表情で、いろはを見る。そして、唇を噛んだ。
いろはは苦渋の表情を浮かべて、千早を見ていた。少し顔を横に向ければ、玉藻もやりきれない表情で視線を下げていた。
そうだ、今のこの状況が苦しいのは、辛いのは、千早だけではない。伊織と時間を共にした誰もが、彼女を殺したくない。死なせたくないと思っている。
されど、その手段を持ち得ていない。探す時間すら与えてもらえない。
わかっているから、もう伊織の言うとおりにしてやるしかないと考えている。
「チ、ハヤ、チャン、ハヤ、ク」
伊織の目から、赤い血が流れる。あれが、鬼の流す涙なのだろうか。
千早はいろはの胸元に顔を埋め、背中に手を回す。その手も身体もカタカタと震えていたが、何とか一度深呼吸をした。
深呼吸後、すう、と息を吸い──彼の名を口にする。
「天羽々斬」
千早を抱きしめてくれていた身体は光に包まれ消える。右手に柄が握られ、刀剣が現れた。
立ち上がり、伊織と向き合う。刀身を彼女に向けるも、やはり震えが止まらない。
「アリガ、ト」
「絶対に、助けるから。玉藻さん、おじいちゃんとおばあちゃんに救急車を呼ぶように伝えてください」
「わ、わかった」
玉藻には、家で身を潜めている祖父母に伝言を頼む。伊織を一瞥したあと、彼は走って家へと向かった。
「殺すのではなくて、救う」
ぽつりと呟くと、天羽々斬を強く握った。
伊織も苦しいのだ。鬼の意識に抗うことも、こうして殺してほしいと頼むことも。
だから、千早は伊織を救うために斬る。決して、殺したりはしない。そんな想いを力に込め──走った。
狙うは胸。伊織の方が身長がある。千早は刀剣を胸辺りまで上げ、唇を噛み締めながら走って行く。
伊織は、動こうとしない。最後の最後まで、彼女は鬼の意識に抗っていた。
「マタ、ネ」
刀身が伊織の身体にめり込んでいく。柄が伊織に当たる寸前で止まり、千早は彼女の右肩に顔を乗せた。
ごぽ、と音がする。千早の右肩があたたかくなり、伊織が口から血を吐いたのがわかった。
遠くから、救急車のサイレンの音が聞こえる。祖父母が玉藻の言うとおりに連絡をしてくれたのだろう。
「……夢が、あったんだあ」
「夢……?」
「いつか、お兄ちゃんと、千早ちゃんと三人で……遊び、に、行く夢。行き、たかった、なあ」
行けるよ、と言うと、伊織は小さく笑った。
ぐっと目を瞑り、千早は伊織の胸を刺している刀剣を引き抜く。伊織は千早に凭れかかるように倒れ、その身体をしっかりと支えた。そのまま二人で地面に座り込み、伊織は荒い息のまま千早の右肩に顔を乗せている。
天羽々斬を地面へ置くと、刀剣から人の姿へと戻ったいろはは千早達から数歩離れ、そこから静かに見守ってくれていた。嗾けた張本人である伊吹は、何故かこの状況を目を細め、口を真一文字に結んでこちらを見ている。
その姿が目に入った千早は、伊織の身体を抱きしめながら叫んだ。
「な……んで、何であなたがそんな顔をするんですか! あなたがこのような状況を招いたのでしょう! わたしは、絶対に……絶対にあなたを許さない!」
救急車が到着したため、千早は伊吹から視線を外した。救急隊員に伊織を頼み、再び伊吹を見たときにはもう彼の姿はどこにもなかった。
今ここにいない人物を気にしても仕方がない。千早は首を横に振ると、伊織に手を握った。まだ助かる。救える。そう願いながら。指先が冷たく、体温をこれ以上奪われないようにと両手で包む。
気になるのは、額に生えた一本角。まだこれは折れていない。
以前斬った鬼は、サラサラと砂のように消えていった。まだ、伊織の中に鬼の力があるということなのだろうか。
(救うんだって思いながら力を込めた。だから、絶対に伊織ちゃんは死なない。死なせない)
祈るように項垂れる千早に、いろはが後ろからそっと肩を抱きしめた。
ふと目を開けると、布団に寝転んでいた。部屋の中は電気がついていないため真っ暗だ。カーテンの隙間から日が差し込んでいないところを見ると、もう夜なのだろう。
伊織の付き添いのために救急車に乗り込む祖父を見送ったあと、倒れてしまった。腕なら何とか動かせると掛け布団を少し持ち上げると、千早がいつも着ているパジャマになっている。
「おばあちゃんかな……」
「そうだ、嫗がすべて綺麗にしてくれた」
真横から聞こえる声に顔だけを動かすと、いろはが寝転んでこちらを見ていた。
「おはよう、千早」
「おはようございます……あの、何でそこに?」
「わからない。なんとなく、千早の傍にいたくなった」
千早は小さく笑った。傍と言ってもいろいろあるだろうに、わざわざ一緒に寝転ばなくても。
と、それは口に出すことなく胸の内で終わり、自然と涙が溢れてくる。
自分でもわからない。これは何を感じて泣いているのか。ただ、いろはの顔を見てどこか安堵したのは確かだ。
それだけでこんなにも溢れてくるものなのだろうか。腕を持ち上げる気力もなく、ただただ涙を流し続ける。そんな千早の涙を、いろはが指で拭った。
「ふむ、あまり拭えないな」
「……また漫画から何か学習したんですか」
いろはらしいと笑うも、涙は止まらない。一体、この涙は何なのか。
「すばらしい書物だぞ。私の知らないことばかりだ。……そういえば、そこに薄い紙があったな」
薄い紙。おそらくティッシュのことだろう。いろはが起き上がり、ティッシュの箱を取りに行こうとする。
ただそれだけ。それだけのはずなのに、思わず彼の服の裾を引っ張ってしまった。
自分でもこの行動に驚いた。気怠い腕を上げて涙を拭うことはしなかったのに、何故いろはを引き留めたのか。いろはも目を丸くし、口を少し開けてぽかんとしている。
カチ、カチと時計の秒針の音が聞こえる。ただ、いろははティッシュの箱を取りに行くだけ。この手を離さなければ。わかっているのに、なかなか行動に移せない。たった少しの距離ですら、行ってほしくないと思う。
ふ、といろはが笑みを浮かべ、再び布団へ潜り込んだ。自身の袖を引っ張り、千早の涙を拭う。
「心細いのだな。そんな顔をしていた」
「……今、すごいしっくりきたかも。そうですね、そうなんだと思います」
両手に残る、人に刃を食い込ませる感触。伊織が血を吐く音。荒い息。何もかもが、鮮明に思い出せる。
「伊織は、何とかなりそうだと連絡があった」
「……っ、よ、よかった」
「心の臓につけた傷が、光によって塞がれていたらしい」
手術を始める頃には消えたそうだが、心臓についているはずの傷は消えていたそうだ。念のため隈無く見てくれたものの、何も問題はなく、胸についた傷の縫合のみで済んだとのこと。
救うという想いを込めて斬ったが、そんなこともできるのか。いろはもこれには驚いていた。
「千早の想いが伊織を救ったのだろうな。あとは意識が戻ることを祈るばかりだ」
「でも、角は……?」
「鬼の力が完全に消え失せていないのかもしれない。だが、すべての元凶である八岐大蛇を退治できれば……希望はあるかもしれない。伊織も、伊吹も」
救える可能性がある。では、あとはもうやるしかない。二人を救うために。
「うん、綺麗になった。さあ、千早。疲れを癒やすために眠ったほうがいい」
涙を拭ってくれていた手で頭を撫でられ、眠りに誘われそうになる。
けれど、まだ話は終わっていないのだ。千早はすう、と息を吸い、気怠い腕を上げていろはの頬に触れた。
突然のことに驚いたのか、珍しくいろはがびくりと身体を震わせる。
「いろはさん、怪我は?」
「……千早に渡すはずの力で治癒した。すまない、今日は夕食を大盛りにしてもらうつもりだ」
それで力を回復させ、明日キスをするつもりなのだろう。千早は口元に弧を描き、ゆるゆると枕の上で首を横に振った。綺麗にしてくれたばかりの顔に、再び涙が伝う。
「ごめんなさい。わたしが、動かなかったから。いろはさん、死んじゃうかと思って、だから……その力を、わたしなんかのためじゃなくて、自分のために使ってくれて、よかった」
「これくらいでは死ぬことはないが……千早は、私が死ぬことが嫌なのか?」
「嫌です。目が覚めてから、いろはさんの顔を見て、ホッとしたんです」
ああ、いてくれたと。
以前、伊織から訊かれたことを思い出す。いろはは、どんな人なのかと。
きっと、これは千早にとっていろははどんな人なのかという意味なのだろう。今ようやく理解した。
(安心感があって、一緒にいると落ち着いて。……いなくなってほしくない人)
千早は身体を動かし、いろはの胸元に顔を埋める。
いろはは少し戸惑ってはいたものの、優しく頭を撫でてくれた。それが心地良く、そっと目を瞑った。
静かな部屋に、ピ、ピ、と電子音が響く。点滴は一定間隔でぽた、ぽたと落ちていて、ベッドで眠る彼女の白く細い腕に繋がれていた。
呼吸はしている。心臓も動いている。ただ、意識が戻らない。呼びかけに反応することもなく、静かに眠り続けている。
「伊織ちゃん、お見舞いに来たよ」
「ぐ……暑い。伊織、早速で済まないが水分を取ってもいいか」
せめて、部屋だけは明るくと、飼ってきた季節感のある色とりどりの花を飾る。窓を開けると、爽やかな風が千早の頬に触れた。カーテンをしっかりと留め、千早は水分補給を終えたいろはと共に椅子へ腰掛ける。
伊吹が伊織を鬼へと変えてから。千早が伊織の心臓を刺してから、二週間程が経過した。季節はすっかり夏になり、毎日が暑く、早朝の鍛錬から汗が止まらない。ここへ来る間も何度汗を拭ったことか。
伊織の見舞いは、祖父母、玉藻と交代で来ている。今日は千早といろはの番だった。学校帰りに二人で病院へとやってきた。病院は櫛名村にある総合病院。小さな村に似つかわしくないが、これも朝日奈家と一七夜月家の力らしい。
だからだろう、医療従事者から畏怖の目で見られているのは。
いつも、祖父母や千早は個人医院に行っていた。総合病院を使っていたのは一七夜月家のみ。伊織が入院してから、見舞いで初めて訪れた。それもあり、初めて今の朝日奈家の者が来たと噂され、余計に見られているのだろう。
千早は伊織の手を握る。見舞いに来たときは、いつもこうしていた。一人じゃない、自分がいると伝えるために。
「角、早く消せるように頑張るからね」
千早は奥歯を噛み締める。
このような角は、伊織には似合わない。
「あれから伊吹も姿を見せない。彼奴なりに何か思うところがあったのだろう」
「……そうだと、いいんですけど」
短く息を吐き出し、千早は今日あった出来事を伊織に話し始めた。主に、いろはと玉藻の小競り合いなのだが。
いろはとクスクスと笑いながら他愛ない話をし、そうやって二時間ほど伊織の病室で過ごした。
* * *
帰り道。日も暮れ始めているということもあり、二人の影が伸びている。
「かげおくりって、知ってますか?」
「なんだそれは?」
「影をじっと見つめて、それから空を見上げるんです。すると、それまで見ていた影が空に数秒映るっていうものなんですけど」
十秒ほど、まばたきをせずに影を見続ける。まばたきをしてはならないと意識すると逆にしたくなってしまうのは、人間の性だろうか。十秒がとても長いように感じた記憶がある。
したことがないいろはが「やってみたい」と顔を輝かせたため、二人はそこで足を止め、じっと影を見つめた。
一、二、三と千早が数え、十秒が経過した頃に同時に空を見上げる。
いろはは失敗したようで、どこだと探している声が隣から聞こえた。千早の目には二人の影がしっかりと空に映っている。空に映る影がゆっくりと消えていく中、ぽつりと呟いた。
「おばあちゃんとよく遊んでたんですよね」
両親がいないため、遊び相手は祖父母と伊織のみ。伊吹は意地悪ばかりで、同じく意地悪ばかりされていた伊織とは気が合った。
千早は空を見上げていた顔をいろはへと向ける。
「わたし、おじいちゃんやおばあちゃん、伊織ちゃんを除けば、こうして誰かと歩いたり、話したりするの、いろはさんが初めてです」
「そうか、私と同じだな」
「え? いろはさんも?」
そうだ、といろはは眉尻を下げ、口元を綻ばせた。
「以前、玉藻や伊織に話していたのだ。私が何かを思うことも、話すことも。こうして人の姿になることも。すべて、千早が初めてだと」
「へ……え?」
まさかの告白に、何故か顔に熱が集中する。夏のせいだと言いたいところだが、心臓が高鳴っているあたり、これは暑さのせいではない。
この場合、なんと言葉を返すべきなのか。
何故自分なのかと、訊いてもいいのだろうか。そして、少しだけ自惚れてもいいのだろうか。
口から出そうになる心臓を深呼吸で何とか落ち着かせ、千早は意を決して訊いてみる。
「あ、あの、どうして、その、わたし」
意を決したはずなのに、言葉に詰まる。そんな千早を見て、いろはは小さく笑みを浮かべ、首を横に振った。
「わからない。昔から意識はあった。スサノオのこともしっかりと覚えている。ただ、こうして意思というものを持ち始めたのは千早がきっかけだ」
千早の何がきっかけとなったのだろう。弱音ばかりを吐きすぎて、心配させてしまったのだろうか。
いろはは言葉を続けた。話したのは、八岐大蛇が蘇った日が初めて。何とかして居場所を伝えなければと思っていたところ、声が出て話せたそうだ。人の姿になれたときの理由と同じだと、千早は笑みを溢した。
「意思疎通ができるというのは、すばらしいな。何もできず、ただ思うことしかできなかった頃は、己の不甲斐なさに辟易したよ。千早が話してくれているのにもかかわらず、私はただ聞くことしかできないのかと」
何もできないのかと。
千早の頬に触れると、顔を綻ばせる。
「いいな、話せるというのは」
本当に嬉しそうに微笑むため、千早の胸が締め付けられる。
嬉しいはずなのに、苦しい。苦しいはずなのに、嬉しい。何だろうか、この訳のわからない感情は。
きゅっと唇を噛み締め、千早は視線を地面に向けて自分の胸にある感情の名を必死に考える。だが、答えは出てこない。おそらく、千早がこれまで抱いたことのない感情なのだろう。
「思いを話すことは大事だと、最近読んだ書物には書いてあった。また、感情を吐露することも必要な場合がある、と」
「……感情を、吐露」
今、千早が抱いているこの感情は、いつか吐露するときが来るのだろうか。
もし、そのときがくれば。その相手は、いろはなのだろう。感情の名はわかっていないが、それだけはわかった。
千早、と名を呼ばれ、再び視線をいろはに向ける。すると、いろはの顔が近付いてきてそっと触れるだけのキスが降ってきた。
何が起きたのかと固まる千早に、いろははニコニコとどこか嬉しそうにしている。
「ふむ、やはり気持ちが良いな! これからは素直になっていこうと思うぞ!」
「……っ、一体、何の漫画を読んだんですか!」
少し感銘を受けていればこれだ。今はキスをするタイミングでも何でもなかった。千早は顔を赤らめ、わなわなと身体を震わせる。
「最近、お小遣いとやらを嫗からいただいたのだ。それで購入した書物の中にあったのだが」
知らない漫画が増えていると思っていたが、そういうことだったのか。確か、祖母もいろはにいろいろと教えてやりたいと買い物に連れて行ったりもしていた。本屋で漫画を買うようになってしまったのか、この刀剣は。
これは危ない。非常に危ない。訂正していかなければ。
とは言え、驚き、怒りはしたものの、嫌ではないのが不思議で仕方がない。いろはに「馬鹿」と怒鳴りつつも、高鳴る胸を両手でそっと押さえた。
パキン、と音を立てて、天羽々斬が折れた音がした──気がして、千早は慌てて飛び起きた。
空調は効いているはずだが、汗を大量にかいており、顎からぽたりと布団に落ちる。
話の前後は覚えていない。ただ、天羽々斬の刀身が折れた。それだけはしっかりと覚えている。
「どうした?」
いろはが目を開け、こちらを見ていた。千早は身体を寄せるとおそるおそるいろはの頬に触れ、その流れで手や身体に触れる。いきなり何をするのかと訝しまれているが、気にせず触りまくる。どこか怪我をしている様子はない。はあ、と大きく息を吐き出し、手で汗を拭った。
あれはただの夢。そうはわかっていても、生々しく、恐ろしいものだった。こうしていろはに何かないかと確認してしまうほどに。
今思い出しても寒気がする。身体を抱きしめると、いろはも身体を起こし、千早を抱きしめてきた。
「あ、あの」
「何か怖い夢でも見たのかと」
「それは……そう、なんですけど」
言えない。天羽々斬の刀身が折れた夢を見たなどと。あまりにも内容が不吉すぎる。
大丈夫です、と千早は作り笑顔を浮かべ、布団へと潜り込む。布団に残るぬくもりが汗で冷えた身体をあたためる。
千早が何かを隠していることに気付きつつも、いろははそれを口にすることなく再び寝転んだ。いつか話してくれるだろうと信じているからだ。千早もそれをわかっていつつ、ごめんなさいと心の中で謝る。
これは絶対に話せない。話したことでもしも現実になってしまったら。
そのとき、いろははどうなってしまうのか。
(いろはさんがいなくなるなんて、考えられない)
ぶるりと身体を震わせ、千早は目を瞑った。
* * *
目を瞑ったものの、結局眠ることができなかった。目の下に隈を作ってしまい、祖父母から心配される始末。怖い夢を見た、とは言ったものの、その内容までは話さなかった。
ただ、仏壇の両親にはこう願った。何もありませんように、と。
支度を終え、いってきます、と告げて家を出る。正直、あのような夢の後にいろはと離れるのは不安が残る。しかし、学校を休むには理由がいるため、仕方なく行くことにしたのだ。
いつもの通り道を歩いていると、横を歩行者や自転車が通り過ぎていく。胸元で光る指輪を握り締め、再び「何もありませんように」と願うが──ぽん、と左肩を叩かれた。声かけもなく叩かれたことに違和感があったのもそうだが、異様な殺気を感じ、誰が後ろに立っているのかすぐにわかった。
どうして、このような朝方から。それも、今日に限って。
目を瞑り、唇を噛み締めて鼻から息を吐き出す。そして、即座に覚悟を決めて千早は後ろを振り向いた。
「なんですか、伊吹さん」
「まずはおはようございますだろ?」
人を馬鹿にするような笑みを浮かべ、伊吹は千早の頬に触れようとする。その手を振り払い、距離を取った。だが、その距離はすぐに詰められてしまい、いろはの名を呼ぼうとした口を塞がれてしまう。
がぶりと噛み付こうとするが、そこで鬼と化してしまった伊吹の血を含んでしまったらどうなるのか。自分までもが鬼になるわけにはいかないと噛むことを諦める。その代わりに口を塞ぐ手を何とか離そうとするが、もとより力ではやはり敵わない。
「ん、んぐ!」
「静かにしろよ。いいものを見せてやるから」
どうせ千早にとっては悪いものなのだろう。いつもそうだ、そうやって千早に嫌がらせをしてきた。行きたくないと首を横に振ろうとするが、口を塞ぐ手が力強く、何もすることができない。踏ん張ろうとしても、ずる、ずると伊吹によって引き摺られていく。
通行人は千早と伊吹を見るものの、瞳の色で朝日奈家と一七夜月家の者だとわかれば嫌厭してすぐに視線を逸らしてしまう。これでは何も期待できない。
そのまま引き摺られ、山を登っていく。どこだと辺りを見渡せば、そこはあの祠があった山だった。
一体、ここに何があるというのか。壊れた祠しかないはずだが、と伊吹を見ると、彼も見られていることに気が付き千早を一瞥する。
その目にぞわりとした。
まるで、これから起こることを想像して胸を躍らせているような、無邪気な目。気味が悪く、気持ちが悪い。
壊れてしまった祠まで来ると、ようやく千早の口元から手が離された。ぷは、と息を吸い、急いで伊吹と距離を取る。今度は、距離を詰められることはなかった。
「別に、この祠に何かあるってわけじゃない。ただ、いいものをいただいたからさ。ここがちょうどいいと思って」
「いいものを、いただいた? 誰にですか?」
「はあ? 誰? わかるだろ、んなこと。八岐大蛇様だよ」
あの八岐大蛇に敬称を付けて呼ぶのか。そう思ったとき、びゅ、と風を切るような音ともに首筋に冷たい何かが当てられた。
伊吹が持っているのは、青銅色の剣。では、千早の首筋に当てられているのは──。
「大丈夫、今は殺さない。まずはこれを見てほしくてさ」
「……伊織ちゃんのことは、心配じゃないんですか」
「心配に決まってるだろ? ああ、めちゃくちゃ心配だよ。大丈夫かなあ、俺の可愛い鬼は」
ふざけているのか、と睨み付けると、伊吹は大きな声で笑い始め、そっと青銅色の剣を下ろした。
「ほら、呼べよ。いろはだっけ? 天羽々斬をよ。あいつにも見せてやりたいんだよ、この剣を」
これは誘いだ。
そうわかっていても、剣を持つ相手に何も持たない者ができることはない。ぎゅっと指輪を握り、考える。
呼びたくない。ここに、いろはは来てはいけない気がする。しかし、今は殺さないと言う言葉は、信用できない。このままでは何もできずに殺されてしまうだろう。
ぐっと奥歯を噛み締めたあと、千早は静かに口を開いた。
「……天羽々斬」
白い光と共に、いろはが姿を現す。千早を見たあと、すぐに伊吹の存在に気が付き、庇うようにして前に立った。
「よう、いろは。これ見ろよ」
「それは?」
「いいだろ? ほら、味わえ!」
「天羽々斬!」
いろはに青銅色の剣で斬りかかる伊吹に、千早は彼の名を呼び刀剣を手にした。振り下ろされる刀身を受け止めるものの、いつもと違う感覚に目を丸くした。その様子を見た伊吹が、ぷは、と噴き出すように笑い声を上げる。
ギリギリ、と金属が擦れる音が聞こえる中、伊吹だけが笑っていた。千早は何がおかしいのかまったくわからないが、天羽々斬が息を呑んだ音が聞こえた。
≪……っ、千早! 離れろ!≫
よくわからないまま伊吹を弾き、距離を取る。伊吹はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべたままだ。
「あの、何が……」
≪まさか、あのような剣があるとは……≫
「え、何……あ、あれ?」
「やあっと気が付いたか。どうだ、草薙剣の威力は」
草薙剣。あの青銅色の剣の名前だろうか。
それよりも、天羽々斬の刀身が、欠けている。
今日見た夢を思い出す。天羽々斬が、折れた夢を。
「な、いいものだろ? さあ、殺し合おうぜ」